LOGIN婚約者の裏切りで結婚目前にすべてを失ったエレナは、その夜、世界的企業の冷徹なCEOエイドリアンから「一年だけ妻になれ」と契約結婚を持ちかけられる。報酬は一千万ドル。しかし彼女が求めたのは金ではなく、十二年前に横領犯の汚名を着せられ死んだ父の無実を証明するため、彼の会社の内部資料を見る権利だった。互いを利用するだけの夫婦。寝室は別、嫉妬も恋愛も禁止、365日後には必ず離婚する――そう決めたはずなのに、一族の陰謀と過去の秘密を追ううち、偽りの結婚は本物の愛へ変わっていく。そして契約最終日、離婚届を差し出すエレナに、夫は告げる。「離婚だけは、契約通りにできない」
View More婚約者の浮気現場を目撃したとき、人はもっと取り乱すものだと思っていた。
泣くとか、叫ぶとか、相手の頬を叩くとか。映画やドラマでは大抵そうなるし、私自身も、もしダニエルに裏切られることがあれば少しくらいは惨めに泣くだろうと想像していた。
ところが現実の私は、ホテルのラウンジへ続く廊下の角で足を止めたまま、妙に冷静だった。
目の前には、私の婚約者であるダニエル・ロスがいる。
そして彼の腕の中には、私ではない女性がいた。
女性は背中の大きく開いた赤いドレスを着ており、ダニエルの首に両腕を回して笑っている。彼もまた、その腰へ手を回し、誰かに見られることなど一度も考えたことがないような顔で彼女へ口づけていた。
今日は、私たちの結婚式場について最終確認をする日だった。
三か月後には、私はこの男の妻になる予定だった。
そのために仕事の予定を調整し、母と妹の都合まで確認し、ウェディングプランナーから渡された分厚い資料に目を通してきたというのに、当の花婿は私より先に別の女性との予定を入れていたらしい。
「なるほど」
口から出たのは、そんな言葉だった。
自分でも驚くほど感情がこもっていなかった。
怒りがないわけではない。ただ、怒りより先に頭が働いてしまうのは、たぶん職業病なのだと思う。
私は企業の不正会計や横領を調べる仕事をしている。数字の不自然さを見つけ、誰が何を隠しているのかを追い、証拠になる資料を一つずつ積み上げていく。
感情は証拠にならない。
怒鳴り声も、涙も、裁判では数字ほど役に立たない。
私はバッグから携帯電話を取り出すと、二人がこちらに気づく前に数枚撮影した。
一枚目は、ダニエルの横顔がはっきり写っている。
二枚目は女性の顔も確認できる。
三枚目には、彼の左手が彼女の腰へ回っているところまできれいに収まった。
証拠としては十分だった。
だから、そのまま帰ろうとも思った。
ところが踵を返した瞬間、ヒールの音が大理石の床に思った以上に大きく響いた。
ダニエルがこちらを見る。
「エレナ?」
その声を聞いた途端、胸の奥にようやく鈍い痛みが走った。
十二年間付き合ったわけではない。
一生を捧げたわけでもない。
それでも三年間一緒にいて、結婚すると決めた相手だった。仕事が忙しい彼のために夕食を作ったこともあれば、風邪を引いた夜に薬を届けたこともある。私が徹夜続きで倒れそうになったときには、彼がコーヒーを持って職場まで迎えに来てくれたこともあった。
すべてが嘘だったとは思わない。
だからこそ、余計に腹が立った。
人間というものは不思議で、完全な悪人に裏切られるより、優しかった思い出のある相手に裏切られるほうが、はるかに処理が面倒になるらしい。
「何をしてるんだ。今日は七時に待ち合わせだっただろう?」
ダニエルは赤いドレスの女性から慌てて身体を離した。
私は壁に掛かった時計へ目を向けた。
午後六時四十三分。
「ええ。だから少し早く来たの。時間に余裕を持って行動するのは悪い癖じゃないと思っていたけれど、今日ばかりは十五分ほど遅刻するべきだったかもしれないわね」
「違うんだ、これは――」
「その言葉、便利よね」
私は携帯電話をバッグへ戻した。
「浮気をしている人間の大半が最初に使う言葉じゃないかしら。『違うんだ』『誤解だ』『説明させてくれ』。残念だけど、私は仕事でそういう説明を聞き慣れているの。会社の金を個人口座へ移した経理責任者も、最初は必ず『事情がある』と言うものよ」
女性が不安そうにダニエルを見上げた。
「ダニー、この人……誰?」
ダニー。
私はその呼び方を聞いて、思わず小さく笑ってしまった。
三年付き合っていて、私は一度も彼をそんなふうに呼んだことがない。
「誰って、あなたは知らないの?」
私が尋ねると、女性の顔色が変わった。
どうやら彼女も事情を知らされていなかったらしい。
それなら、この女性を責める気にはなれなかった。
「私はエレナ・ハート。三か月後まで、この人の婚約者だった女よ」
「婚約者?」
女性はダニエルの胸を両手で押し返した。
「あなた、独身だって言ったじゃない!」
「落ち着いてくれ。ちゃんと説明するから」
「私には説明しなくていいわ」
私はそう言ってから、指輪を外した。
三年前なら、この小さな輪を外すだけでこんなにも指が軽くなるとは思わなかっただろう。
ダニエルへ差し出す。
「婚約は解消します」
「待てよ、エレナ。たったこれだけで三年間を終わらせるのか?」
その言い方に、今度こそ腹の底から怒りが湧いた。
たったこれだけ。
浮気した本人が、自分の行為をそう呼ぶことに驚く。
私は指輪を彼の手に押しつけた。
「三年間を終わらせたのは私じゃないでしょう。あなたが、この人をホテルへ連れてきた時点で終わらせたのよ。それから、もう一つだけ確認しておきたいことがあるの」
「なんだよ」
「共同口座から四万八千ドル引き出したでしょう?」
ダニエルの表情が固まった。
ほんのわずかだったが、十分だった。
私は職業柄、こういう瞬間を見逃さない。
人は図星を突かれると、言葉より先に身体が答える。
「……結婚式の費用だ」
「違うわ。式場にはまだ予約金しか払っていない。業者への支払い履歴も全部確認したけれど、四万八千ドルに一致する請求は存在しなかった。それに、あなたが引き出した翌日、投資会社の口座へ同額が入っている」
「俺の金でもあるだろう」
「共同口座のお金よ。しかも、そのうち三万ドルは私が入れたもの」
赤いドレスの女性が、今度は完全にダニエルから距離を取った。
「ダニー、どういうこと?」
「君は黙っていてくれないか」
「黙る必要はないわ」
私は女性へ向き直った。
「あなたが彼から何を聞かされていたのかは知らないし、今ここで責めるつもりもない。ただ、お金の話が出たら気をつけたほうがいいと思う」
「エレナ!」
ダニエルが声を荒らげたため、周囲の客がこちらへ目を向けた。
私はそれが少し可笑しかった。
浮気を見られることには平気だった男が、金の話を聞かれることには耐えられないらしい。
「来週、私の弁護士から連絡が行くわ。共同口座の件については記録も保存してあるから、今夜のうちに何か操作しようとしないほうがいい。あなたがそういうことをする人だとは思いたくないけれど、十五分前までは浮気する人だとも思っていなかったから」
「本気なのか?」
「ええ」
「俺たちは結婚するんだぞ」
「しないわ」
「一度の過ちだ。それだけで――」
「一度かどうか、どうして私に分かるの?」
その言葉には、ダニエルも答えられなかった。
私が一番聞きたくなかった沈黙だった。
一度だけなら許した、という意味ではない。ただ、彼が即座に「一度だけだ」と言えなかったことで、今日見つけたものが氷山の一角なのだろうと分かってしまった。
私は息を吐いた。
不思議なくらい、涙は出なかった。
悲しみがないのではなく、まだ身体がそこまで追いついていないだけなのだろう。
明日の朝になれば泣くかもしれないし、妹に電話して悪口を言い続けるかもしれない。それでも今は、この場所から離れたかった。
「さようなら、ダニエル。あなたの荷物は明日まとめて管理人に預けておくわ。私の部屋の鍵は返して」
「エレナ、そんな簡単に――」
「鍵を返して」
今度は余計な説明をせずに言った。
ダニエルはしばらく私を見ていたが、やがてポケットから鍵を取り出した。
私が受け取ると、彼は悔しそうに顔を歪めた。
「お前は昔からそうだよ。何でも正しいか間違ってるかで決めて、人の気持ちなんて見ようとしない」
最後にそんな言葉を投げつけられるとは思わなかった。
私にも悪いところはある。
仕事を優先しすぎたこともあったし、人に甘えるのが苦手なのも自覚している。結婚式の準備で意見が食い違ったとき、面倒だからと彼に任せてしまったことだってあった。
けれど、それと浮気は別の話だ。
そこを混ぜてしまえば、裏切られた側が永遠に自分を責めることになる。
「私にも欠点はあるわ。たぶん、あなたと別れたあとで嫌というほど反省する。でも、私の欠点があなたの浮気を正当化することはない。それだけは混同しないで」
それ以上は言わず、私はその場を離れた。
背後から名前を呼ばれたが、振り返らなかった。
ホテルのロビーへ戻ると、吹き抜けの天井から巨大なシャンデリアが下がっていた。磨き上げられた床には光が反射し、花瓶に生けられた白いユリから甘い香りが漂っている。
あまりにも完璧な空間だった。
人生の一部が壊れた人間が歩いていることなど、このホテルには何の関係もないらしい。
その事実が妙にありがたかった。
私はバーの前を通り過ぎようとして、足を止めた。
今日は車で来ていない。
一杯くらい飲んでもいい。
むしろ飲まなければ、帰宅してから四万八千ドルの送金記録をもう一度確認し始めてしまいそうだった。
それはさすがに、婚約破棄した夜の過ごし方としてどうなのだろう。
私はカウンターの端へ座り、バーテンダーにウイスキーを頼んだ。
「ストレートで?」
「……やっぱりソーダを入れてください。明日も仕事なので」
自分でも情けなくなり、少し笑ってしまう。
婚約者の浮気現場を見た直後ですら、翌日の仕事を心配している。
「賢明な判断だ」
突然、低い声が隣から聞こえた。
私は横を向いた。
一席空けた向こう側に、黒いスーツを着た男が座っていた。
三十代半ばくらいだろうか。背が高く、肩幅も広い。整った顔立ちではあるが、柔らかい印象とは程遠く、こちらを見る目には妙な冷静さがあった。
そして、どこかで見たことがある。
テレビだったか、経済誌だったか。
「盗み聞きですか?」
私が尋ねると、男はグラスへ目を落としたまま答えた。
「違う。あなたの声が大きかった」
「……それは失礼しました」
「気にしていない。退屈な会食よりは興味深かった」
「人の婚約破棄を娯楽にしないでください」
「娯楽にしたつもりはない」
淡々とした話し方だった。
謝る気があるのかないのか判断しづらい。
私は運ばれてきたグラスを受け取り、一口飲んだ。
炭酸が喉を通る。
そこでようやく、胸の奥に溜まっていたものが少し緩んだ。
「それにしても、ずいぶん冷静だったな」
男が言った。
「泣き叫ぶほうがよかったですか?」
「いや。ただ、婚約者の浮気を発見した女性が、相手を殴る前に共同口座の送金履歴について問いただすところは初めて見た」
「仕事柄です。感情的になるより、証拠を確保するほうが先なので」
「弁護士か?」
「違います」
「銀行?」
「どうして見ず知らずの人に職業まで話さなければならないんです?」
そう返すと、男の口元がほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
その程度の変化しかなかった。
「では質問を変えよう」
「まだ質問するんですか?」
「結婚する予定は?」
私は彼を見た。
さすがに意味が分からない。
「今なくなったところです」
「そうか」
男は腕時計へ目をやった。
高価そうな時計だったが、私はブランドには詳しくない。ただし、それを着けている男自身の仕立てのよいスーツや、ホテル側の人間が何度もこちらを気にしている様子を見る限り、相当な金持ちなのは間違いなさそうだった。
「それなら都合がいい」
「何がです?」
男はグラスを置いた。
その動きに迷いがない。
冗談を言う人間には見えなかった。
「私は四十八時間以内に結婚する必要がある」
私は数秒、言葉を失った。
「……それを、どうして私に話すんですか?」
「条件に合うからだ」
「何の条件です?」
「未婚。社会的に自立している。金銭感覚も悪くない。感情だけで判断しない。そして今日、婚約が解消されたばかりだから、新しい結婚相手を探している親族に邪魔される可能性も低い」
「最後だけ意味が分かりません」
「私には分かればいい」
失礼な男だった。
私はグラスを置き、立ち上がろうとした。
「待て」
「今度は何です?」
男もこちらを見た。
そこでようやく思い出した。
経済誌の表紙。
ニュース番組。
世界各地にホテル、物流、医療、IT企業を抱える巨大複合企業。
ヴァレンタイン・グループ。
その若きCEO。
エイドリアン・ヴァレンタイン。
私は無意識に指先を握り込んでいた。
ヴァレンタイン。
その名前だけは、忘れるはずがなかった。
十二年前、父を横領犯として告発し、私たち家族の人生を壊した企業と同じ名前なのだから。
男――エイドリアン・ヴァレンタインは、私の顔色が変わったことに気づいたらしい。
「私を知っているようだな」
「……名前くらいは」
「なら話が早い」
彼はスーツの内側から名刺を一枚取り出し、カウンターへ置いた。
黒地に銀色の文字。
そこには確かに、エイドリアン・ヴァレンタインという名前が記されていた。
私は名刺と彼の顔を交互に見る。
つい十五分前まで、私は結婚式の打ち合わせへ向かう女だった。
今は婚約者を失い、共同口座から金まで持ち出されていたことを突き止めたばかりだ。
これ以上おかしなことは起こらないと思っていた。
どうやら甘かったらしい。
エイドリアンは、まるで明日の会議予定でも確認するような口調で言った。
「なら、私と結婚しないか」
第26話 亡き秘書室長が残した一枚の業務メモに、父の名前がありました 証拠は逃げない。 昨日、私はそう自分に言い聞かせて仕事へ戻った。 その判断は正しかったと思う。 ただし、正しい判断をした人間が翌朝六時前に目を覚まし、まだ開示すらされていない一枚の業務メモについて考え続けることまで禁止してくれるわけではなかった。『M.C.緊急権限付与/会長確認待ち/R.H.異議』 マーティン・コール。 会長確認待ち。 リチャード・ハートの異議。 たったそれだけの記述なのに、読み方はいくつもある。 会長の確認を待ってから送金する予定だったのか。 送金そのものは別の人物が口頭で許可し、アレクサンダーの最終確認だけが後に残っていたのか。 父は何に異議を唱えたのか。資金移動そのものか、マーティンへの緊急権限付与か、それとも処理手順か。 一つの短いメモに、都合のいい意味を詰め込むのは簡単だった。 だからこそ、実物を見るまで決めてはいけない。 分かっている。 分かっているのに眠れなかった。「起きていたのか」 朝食の席へ行くと、先にいたエイドリアンが私を見て言った。「普通に起きました」「六時前から部屋の明かりがついていた」 私は椅子を引く手を止めた。「どうして知ってるんです?」「廊下を通った」「何時に?」「六時十分くらい」「その時間に私の部屋の前を?」「書斎へ行く途中だ」「本当に?」「何を疑っている」「監視」「していない」 返事が早い。 私は座りながらコーヒーへ手を伸ばした。「ヘレンさんのメモ、気になってるだけです」「知っている」「まだ中身見てないのに」「昨日から同じ顔をしている」「また顔」
第25話 十年ぶりに母が息子の家で朝食を食べました ミランダ・ヴァレンタインが、十年ぶりに息子の家へ来ることになった。 正確には、今の屋敷は十年前と同じ家ではない。 エイドリアンがCEO就任後に使い始めた邸宅で、ミランダ自身が暮らしたこともない。 それでも、彼女が朝食を一緒に食べたいと伝えてきたと聞いた瞬間、私は「家に帰ってくる」という言葉を連想した。 その言葉を口にしなかったのは、たぶん正解だったと思う。「七時半?」 前夜、書斎でマーカスから予定を聞いた私は思わず聞き返した。「はい。ミランダ様からのご希望です」「朝食だけ?」「現時点では」「現時点では、って何です」「話が長くなる可能性もございますので」 私は向かいに座っていたエイドリアンを見る。 彼は無表情だった。 無表情すぎて、逆に分かりやすい。「緊張してます?」「していない」「今の返事、速すぎました」「事実だ」「十年ぶりにお母様が来るのに?」「この前会った」「二人で、外ででしょう」「そうだ」「家に来るのは別じゃないですか」「何が違う」「全部」 私は即答した。「外の面談場所なら帰る時間を決められるし、話が重くなったら終わらせられる。でも家は生活の場所でしょう。朝食を食べるって、かなり私的です」「お前、妙に詳しいな」「一般論です」「経験は?」「家族と朝食くらい食べます」「母と十年ぶりに、という意味だ」「ありません」「なら一般論ではないな」「揚げ足取らないでください」 マーカスが話へ入るべきか迷っている顔をしている。 私は少し姿勢を戻した。「で、私も同席するんですよね」「母がそう言っ
第24話 父に三万八千ドルを送った会社は、消えた資金の通り道でした ブライトン・アドバイザリー。 その社名を、私は翌朝から何度も見ていた。 父の共同名義口座へ三万八千ドルを送った会社。 十二年前、父のユーザーIDで承認された四十二万ドルが、ホーソン・ビジネス・ソリューションズを経由して流れ込んだ会社。 そして、その四十二万ドルの取引は、父の支払承認権限が停止された三日後に、父のIDを使って処理されていた。 数字だけ並べれば、父を陥れるために誰かが不正資金の一部を父の口座へ送り込んだようにも見える。 一方で、父が以前からブライトンと関係を持ち、その会社を通して金を受け取っていたようにも見える。 都合のいい解釈なら、いくらでも作れた。 だから私は、どちらも採用しなかった。「また同じページ見てる」 向かいの席からノアが言った。「三回目?」「五回目」「数えてたの?」「午前九時から同じPDF開いたままだから」 私はモニターから顔を上げる。「仕事してください」「してるよ。君の監視も仕事の一部になりつつあるだけ」「誰から依頼されたんですか」「周囲全員?」「最悪」 今日は自分の事務所だった。 昨日の出張から戻ったあと、エイドリアンが何度も「今日は早く帰れ」と言うので、朝から会社へ来た私に対して、ノアまで似たような扱いをしている。 しかも私自身、以前ほど反発しなくなっている。 それが一番悔しい。「ブライトンの法人情報、出ました?」「今まとめてる」 ノアが画面を切り替える。「設立は十五年前。名目上は保険精算、事業継続支援、企業向け事務代行。社員数はピーク時でも二十人前後」「小さい」「その割に、十二年前の入出金だけ妙に大きい」「どのくらい」「今確認できた範囲で、九
第23話 父のIDで承認された取引は、父が会社にいない時間に処理されていました 翌朝、目が覚めて最初に考えたのは、父の十九件でもマーティン・コールでもなかった。 隣の寝室にエイドリアンがいる。 その事実だった。 目を開けたまま天井を見つめ、私は自分にがっかりした。 昨夜までは雨音のせいにできた。慣れないホテル、同じスイート、三百六十五日後の離婚という話までしたのだから、多少感傷的になるのも仕方がない。 けれど朝になって最初に確認したいことが「夫がまだ隣にいるか」なのは、少し事情が違う。 私は枕元のスマートフォンを見る。 午前六時十二分。 メッセージは来ていない。「……普通です」 誰に聞かせるでもなく言った。 同じ場所へ出張している人間が、朝も同じ場所にいる。 当たり前だ。 安心する必要はない。 私はベッドを出て、シャワーを浴び、仕事用のブラウスとパンツへ着替えた。 鏡の前で髪を整える頃には、かなりいつもの自分へ戻っていた。 少なくとも見た目は。 ◇ リビングへ出ると、エイドリアンはすでに起きていた。 窓際のテーブルでノートパソコンを開き、コーヒーを飲んでいる。「おはようございます」 彼が顔を上げる。「おはよう」 それだけだった。 それだけなのに、少し安心した。 非常に良くない。「早いですね」「いつもこの時間だ」「昨日遅かったのに?」「六時間は寝た」「短いです」「十分だ」「年を取ってから後悔しますよ」「まだ三十四だ」「もうすぐ三十五でしょう」「結婚期限を思い出させるな」「あ」 そうだった。 この結婚そのものが、三十