Chapter: 第5話 王弟殿下は、私の仕事を知っていた「君が王宮で何をしていたか、知っているからだ」 レオンハルト・ヴァレンティアは、そう言った。 応接室の空気が、ほんの少し変わった。 風が入ったわけではない。 茶器が鳴ったわけでもない。 ただ、クラリスの胸の奥で、長く閉じていた扉が不意に叩かれたような気がした。 知っている。 その言葉は、軽く使えるものではない。 王宮には、クラリスを褒める者ならいた。 優秀だ。 頼りになる。 さすが未来の王太子妃だ。 君に任せておけば安心だ。 けれど、そのほとんどは、彼女が何をしているのかを知らないまま発せられていた。 結果だけを見て、便利だと言っていたにすぎない。 失敗しなかった。 揉めなかった。 予定どおり終わった。 だから、クラリスは優秀。 それは評価のようで、評価ではなかった。 なぜ失敗しなかったのか。 誰が揉める前に止めたのか。 予定どおりに終わるため、いくつの予定外を潰したのか。 そこまで見ていた者は、ほとんどいない。「殿下は」 クラリスは、慎重に言葉を選んだ。「わたくしの何をご存じなのでしょうか」 レオンハルトは、茶にはまだ手をつけていない。 王族らしい優雅な姿勢で座っているが、その目だけは政務室の机に向かう時のように真剣だった。「では、具体的に話そう」 彼は、提案書の端に指を置いた。「三年前、ノルヴァルト公国の先代大使が初めて王宮晩餐会に出席した時、厨房は鹿肉を主菜にする予定だった」 クラリスの指先が、わずかに動いた。「その時、君は直前で主菜を鴨に変えさせた。理由は、先代大使の長男が狩猟事故で亡くなって
Last Updated: 2026-08-12
Chapter: 第4話 私は初めて、何もしない朝を迎えました朝になっても、誰もクラリスを起こしに来なかった。 それが、まずおかしかった。 クラリス・フォン・エルディアは、寝台の上で目を開けたまま、天蓋の刺繍をしばらく見つめていた。 白い絹地に、銀糸で月桂樹の葉が縫い取られている。幼い頃から見慣れた、自分の部屋の天蓋だった。 エルディア公爵家の別邸。 王宮ではない。 王太子の控え室でも、王妃執務院の仮眠室でも、慈善園遊会の準備部屋でもない。 だから当然、朝の報告は来ない。 王太子殿下の挨拶文を直してください、という書記官も来ない。 財務卿がまた寄付金配分を渋っています、という文官も来ない。 ローゼン侯爵夫人が本日の席次に不満を持っています、という女官も来ない。 大使夫人へ贈る花の色を確認してください、という侍従も来ない。 それなのに、クラリスは起き上がろうとしていた。 寝台から足を下ろし、反射的に卓上へ視線を向ける。 そこには、何も置かれていなかった。 書類もない。 封蝋もない。 緊急印の押された王宮封筒もない。 ただ、昨夜イリスが置いてくれた水差しと、まだ半分ほど水の残ったグラスがあるだけだった。 「……何もないのね」 呟いた声は、自分でも少し間が抜けて聞こえた。 その時、扉が控えめに叩かれた。 「お嬢様。お目覚めでございますか」 「ええ」 入ってきたのは、侍女のイリスだった。 淡い灰色の侍女服に身を包み、いつものように表情は薄い。けれど、手にしている盆の上には書類ではなく、温かい茶と焼きたての小さなパンが乗っていた。 クラリスはそれを見て、少しだけ目を瞬かせる。 「朝食?」 「はい」 「ここで?」 「はい」 「先に執務室へ行かなくても?」 「行かなくて結構でございます」 イリスは盆を置き、カーテンを開けた。 朝の光が、部屋の中へ柔らかく広がる。 王宮の朝日はいつも、硝子窓を通して硬く差し込んでいた。誰かの足音と鐘の音と、急ぎの用件が一緒に流れ込んでくる光だった。 けれど今朝の光は違う。 庭の葉を透かし、白い壁にゆっくりと揺れている。 まるで、急ぐ必要などないと言っているようだった。 「本日のご予定をお伝えいたします」 イリスが言った。 クラリスは反射的に姿勢を正した。 「お願い
Last Updated: 2026-08-11
Chapter: 第3話 隣国大使は甘い菓子がお嫌いです 王宮の茶会は、戦場である。 ただし、剣は抜かれない。 血も流れない。 代わりに、微笑みが交わされる。 扇の角度、椅子の位置、菓子皿の並び、紅茶を注ぐ順番、相手のドレスの色を褒めるか褒めないか。 それら一つ一つが、時に剣より深く人を傷つける。 クラリス・フォン・エルディアは、それを知っていた。 だから茶会の前には、必ず三種類の表を作っていた。 一つ目は、招待客の席次表。 二つ目は、食べ物や花、色に関する禁忌一覧。 三つ目は、絶対に隣席にしてはならない人物の組み合わせ。 その三つがあれば、茶会はまず大きく崩れない。 逆に言えば、その三つがなければ、王宮の茶会など花と砂糖で飾った罠の庭に等しい。「まあ、綺麗なお部屋ですこと」 ミレーヌ・フォン・エルディアは、王宮西棟の陽光の間に入るなり、明るい声を上げた。 高い窓から午後の光が差し込み、白い卓布の上で銀器が輝いている。壁際には淡い桃色の薔薇が飾られ、菓子台には焼き菓子、砂糖菓子、果実のコンポートが宝石のように並んでいた。 見た目だけなら、完璧な茶会である。 ミレーヌは少しだけ胸を撫で下ろした。 朝会は大変だった。 難しい言葉が多く、誰も彼もが険しい顔をして、何を決めたいのか分かりづらかった。 けれど、茶会なら違う。 笑顔で挨拶をする。 美しい花を褒める。 菓子を勧める。 楽しい話をする。 それなら、自分にもできる。 姉のように、難しい顔で書類を見つめなくてもいい。「ミレーヌ様」 背後から声がした。 振り返ると、女官長マルタ・リードが立っている。
Last Updated: 2026-08-10
Chapter: 第2話 王宮の朝会が始まりません アルヴィア王宮の朝は、鐘の音から始まる。 一の鐘で侍従が廊下を開け、二の鐘で女官たちが各室の燭台を消し、三の鐘で政務院の文官が東棟へ集まる。 そして四の鐘が鳴る頃、王族と重臣たちは朝会の間へ入る。 その流れは、十年近く乱れたことがなかった。 少なくとも、表向きは。「……進行表がない?」 朝会の間の端で、王宮書記官オスカー・ベルンは、眼鏡の奥の目を細めた。 目の前には、文官補佐の青年がいる。 顔色が悪い。「はい。いつもの机にも、控えの棚にも、書記官室にもございません」「昨日の夜、クラリス様が残された正式文書は?」「ございます。こちらに」 差し出された書類を受け取り、オスカーは一枚目に視線を走らせた。 招集者一覧。 出席予定者。 議題候補。 それだけだった。「……候補」 オスカーは、思わず呟いた。「候補、か」 文官補佐が不安そうに尋ねる。「あの、何か問題が?」「問題しかありません」 正式文書としては、これで正しい。 誰が来るか。 何を話すか。 どの案件が本日扱われる可能性があるか。 それは書いてある。 だが、朝会に必要なのは、それだけではない。 どの議題を先に出すか。 誰の発言を先に拾うか。 どの案件は国王の前で決め、どの案件は後日協議に回すか。 誰と誰を同時に発言させてはいけないか。 どの言葉を使うと財務卿が反発し、どの表現なら軍部が引くか。 そういう、正式文書に残らないものが必要だった。 クラリス・フォン・エルディアは、それを毎朝作っていた。 しかも、誰にも命じられずに。 オスカーは書類を閉じた。「胃薬を」「はい?」「いえ、何でもありません。財務卿は?」「すでにお着きです」「軍務局長は?」「お着きです」「大神殿の代理司祭は」「……お着きです」 終わった。 オスカーは心の中で、静かにそう思った。 今日の議題には、慈善事業の寄付金配分、北方街道の補修費、軍部の冬季備蓄、ノルヴァルト公国使節団への返礼品、王妃主催園遊会の人員配置が入っている。 財務卿は出費を嫌う。 軍務局長は冬支度を急いでいる。 神殿は孤児院への寄付を待っている。 ノルヴァルト公国は礼を欠けばすぐに冷える。 王妃執務院は人手が足りない。 本来なら、最初に軽い外交案件を置いて空気を整え、次に神殿
Last Updated: 2026-08-09
Chapter: 第1話 妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言った日 「お姉様の仕事くらい、私にもできますわ」 その言葉は、王宮南棟にある白薔薇の控えの間に、ひどく甘やかな声で落とされた。 夜会の開始まで、あと半刻。 窓の外では、招待客の馬車が次々と正門をくぐっていた。王宮楽団の調律の音が遠くから聞こえ、廊下を行き交う侍従や女官たちの靴音は、いつもより半拍だけ速い。 そんな中で、クラリス・フォン・エルディアは、銀灰色の睫毛を静かに伏せ、手元の書類から顔を上げた。 机の上には、今夜使う資料が整然と並べられている。 王妃主催慈善園遊会の招待客名簿。 ノルヴァルト公国大使夫妻の席次表。 神殿寄付金配分案。 王太子ジュリアス殿下の挨拶文の修正案。 そして、今夜の夜会で不用意に隣席にしてはならない貴族夫人たちの一覧。 どれも、表から見ればただの紙である。 けれど、そこに一つ線を引き間違えれば、侯爵家と伯爵家の十年来の確執が再燃する。菓子を一つ出し間違えれば、隣国大使に侮辱と受け取られる。王太子殿下の挨拶文に不用意な一語を残せば、神殿と軍部が同時に眉をひそめる。 王宮とは、絹と薔薇と音楽で飾られた、硝子細工のような場所だ。 美しく見えるのは、誰かが割れ目を毎朝、指先で押さえているからにすぎない。 そして、ここ十年近く、その指先の役を担ってきたのがクラリスだった。 彼女の前に立っているのは、妹のミレーヌ・フォン・エルディア。 淡い金髪を花冠のように結い上げ、薄桃色のドレスをまとった、誰が見ても愛らしい令嬢だった。青い瞳は潤みやすく、笑えば周囲の大人たちはすぐに頬を緩める。 その隣には、アルヴィア王国の王太子、ジュリアス・ヴァレンティアがいた。 金髪碧眼。 民衆の前に立てば、それだけで歓声が上がるほど、王子らしい王子である。 だが、クラリスは知っている。 彼が式典で柔らかな言葉を選べるのは、前夜にクラリスが三度、挨拶文を書き直しているからだ。 彼が貴族夫人の前で失言せずに済んでいるのは、会う前に「その夫人の次男は昨年落馬で亡くなっているので、狩猟の話題は避けること」と書き添えている者がいるからだ。 彼が国民から好かれる王太子でいられるのは、失敗しそうな場所に、あらかじめ柔らかな絨毯を敷いている者がいるからだ。 それを、ジュリアス本人はあまり知らない。 知らなくても済むようにしてきたのが、クラリス
Last Updated: 2026-08-09
Chapter: 第3話 夫は事故で死んでいない第3話 夫は事故で死んでいない 冬真の名前で送られてきた写真を見た瞬間、私は礼拝堂にいる誰かの目と目が合うことさえ恐ろしくなり、参列者の顔をまともに見られなくなったのに、相良は私の恐怖へ同調するような慰めを口にせず、画面に触れないよう私の手首を支えながら、声だけを一段低くして周囲の警察官へ指示を飛ばした。「礼拝堂のすべての出入口を閉めてください。ただし、犯人がこの中にいると決めつけて参列者を刺激しないようにしながら、携帯電話や鞄には勝手に触れさせず、体調の悪い方を外へ出す場合も必ず氏名と時刻を記録してください。それから鑑識は写真の画角を先に見て、澪さんの正面に置かれている物を、花一本、椅子一脚まで見落とさず調べてもらえますか」「でも、この写真は三秒前に撮られたものですし、私の正面には誰もいなかったんですから、撮った人間は、私たちと一緒にこの礼拝堂へ閉じ込められているんですよね」 自分の声がひどく頼りなく聞こえたことが悔しくて、私は冬真の携帯電話を抱えたまま言い直そうとしたが、相良は私を落ち着かせるための嘘だけは選ばなかった。「その可能性は否定しませんが、この写真だけで、そうだとは言えません。人間がカメラを構えなくても写真は撮れますし、送信した人間と撮影した機械が同じ場所にある必要もないので、いま確かなのは、犯人が私たちに『礼拝堂の中にいる誰かを疑え』と命令してきたことだけです。怖がるなとは申しませんが、怖がらされた方向に、そのまま走らないでください」 相良の言葉が終わるより先に、祭壇の右側を調べていた鑑識員が、供花の名札へ顔を寄せ、黒い喪章の結び目をピンセットで持ち上げた。百合と菊の白さを締めるための黒い布にしか見えなかったその中心から、縫い針の頭ほどのレンズが現れ、細い配線は花籠の底に隠された小型端末へつながっていた。「この位置なら、奥様のお顔をほぼ正面から撮れます。動体検知か、外部からの遠隔操作かは解析しないと分かりませんが、少なくとも、誰かがそこに立って撮った写真ではありません」 さらに二階の聖歌隊席の手すりからも、木目を模したシールで覆われた同型のカメラ
Last Updated: 2026-08-12
Chapter: 第2話 棺の中の携帯電話 私が二度目の命令を口にしても、棺の周りに立つ葬儀社の職員たちは、誰一人として動こうとしなかった。 無理もないのかもしれない。つい先ほどまで、ここで行われていたのは、久瀬グループの次期会長を送り出すための、あまりにも整いすぎた葬儀だった。祭壇を飾る花の種類も、弔辞を読む人間の順番も、報道陣へ公開する映像の長ささえも、久瀬家の広報部と顧問弁護士が細かく決めていたのだろう。そこへ、死者の兄を名乗る追放者が現れ、棺の中から死者の携帯電話が鳴り、挙げ句に喪主が棺を開けろと言い出したのだから、職員たちが、自分たちの判断で触れてよいものなのかと青ざめるのも当然だった。 けれど、今の私には、彼らの立場を思いやって待つだけの余裕がなかった。「聞こえなかったのなら、もう一度言います。棺を開けて、中で鳴っている携帯電話を取り出してください。私が冬真の妻で、今日の喪主であることに、異論のある方はいませんよね」 年配の葬儀責任者が、助けを求めるように高遠へ目を向けた。「奥様、棺はまだ完全には閉じておりませんので、物理的には開けられます。ただ、ご遺体の状態を考えますと、ご対面はお控えになったほうがよろしいかと存じますし、納棺後に私どもの判断だけで開けることも――」「あなた方の判断ではありません。私が責任を取ります」「澪さん、責任という言葉で片づけられる問題ではないんです」 高遠は声を荒らげず、それでも私と棺の間から退こうとはしなかった。「中にある携帯電話が冬真さんの物なら、なおさら素手で触れてはいけません。誰が、いつ、どのような目的で入れたのか、今の段階では何もわからないのですから、まず警察へ連絡し、鑑識の到着を待つべきです。あなたが取り乱すのは当然ですが、ここで急いで証拠を壊してしまえば、あとでいちばん後悔するのはあなたですよ」 言われていること自体は正しかった。だからこそ、私は、彼がどうして火葬を止めるという同じ結論を、先ほどまで一度も口にしなかったのかが気になった。「では、高遠さんから警察へ連絡してください。火葬は中止し、誰もこの礼拝堂から出さないようにお願いします」「誰も、というのは、参列者全員を疑うという意味ですか」「夫の携帯電話を棺へ入れた人が、この中にいるかもしれないのでしょう。久瀬家の体面を守るためなら、誰か一人を見逃しても構わないとおっしゃるなら
Last Updated: 2026-08-11
Chapter: 第1話 棺を開けてください「その棺を、今すぐ開けてください」 喪主である私が最後の花を手向けようとした、まさにそのときだった。 重い扉が開く音とともに男の声が礼拝堂を横切り、久瀬家の親族も、巨大企業グループの重役たちも、夫の死を嗅ぎつけて集まった報道陣も、一斉に後ろを振り返った。 六月の雨を黒い髪から滴らせながら立っていた男は、弔問客には見えなかった。黒いスーツこそ身につけているものの、ネクタイは緩み、濡れた革靴には泥が跳ね、なにより、死者を悼むために来た人間なら玄関に置いてくるはずの怒りを、隠そうともせずに目の中へ残していた。 私は、その顔を写真でしか知らなかった。「久瀬、朔也……さん」 私の夫、久瀬冬真の異母兄であり、八年前に久瀬家から追放された男。久瀬グループの医療部門で起きた情報漏洩事件の責任を問われ、取締役の地位も、保有していた株式も、家族と名乗る権利さえも奪われた人だった。 義母の雅世が、私のすぐ隣で息を呑んだ。けれど、その動揺はほんの一瞬で、彼女は葬儀の始まる前に私へ言ったときと同じ、背筋まで凍らせるような声を取り戻した。「警備は何をしているのです。この男を外へ出しなさい。冬真の葬儀を、これ以上汚させないで」「汚しているのは俺じゃない。棺の中にいるのが誰なのか確かめもせず、三十分後には焼こうとしている、あなたたちのほうだ」 朔也は歩き出した。警備員が二人、左右から腕をつかもうとしたが、彼は暴れることも怯むこともなく、濡れた上着の内側から一枚の紙を取り出した。「久瀬冬真は、この棺には入っていない」 礼拝堂に、ざわめきが走った。 最前列に並んでいた取締役たちは互いの顔をうかがい、後方ではカメラのシャッター音が雨粒のように重なった。誰かが配信を始めたらしく、広報担当者が青ざめて制止に向かったけれど、一度外へ流れた言葉は、もう久瀬家の力でも棺へ戻すことはできない。 私は白百合を握ったまま、朔也を見つめた。「どういう意味ですか」「言葉どおりの意味です。そこにいるのは弟じゃない」「冬真は四日前、久瀬グループ所有のクルーザーで事故に遭いました。海上保安当局が船内から遺体を収容し、歯の治療記録と所持品で本人だと確認したと、私は説明を受けています」「説明を受けた、ですか。あなた自身は確認していないんですね」 喉の奥が詰まった。 事故を起こしたクルーザーで
Last Updated: 2026-08-11
Chapter: 第7話 新人は、まだ遠い場所で頑張っている その夜、天瀬アルトとしての仕事を一通り終えたあと、久瀬湊人は珍しくすぐには配信アプリを閉じなかった。 デスクトップの右下に、小さく通知が出ている。 AstraLink内部共有サーバー。 新人支援チャンネル。 普段なら、必要な連絡だけを確認して終える。自分は事務所の中でも登録者二百万人を超える看板クラスのライバーで、ありがたいことに個別案件も多い。全体チャットや新人向けの共有に深く関わる余裕は、正直そこまでない。 けれど今日は、なんとなく目が止まった。 理由は分かっている。 小毬こはく、という名前だ。 まだ会ったことのない後輩。 同じ箱に所属している新人ライバー。 デビューからそこまで長くはないのに、登録者は二十万人を超えている。 数字として見ればかなり順調だ。だが、新人本人がその順調さをちゃんと“順調”として受け止められるかどうかは、また別の話だった。 湊人は通知を開く。 画面には、先輩ライバーたちの軽い雑談と、その合間に挟まる小毬こはくの短い発言が並んでいた。『本日の雑談枠、ありがとうございました。思っていたより緊張してしまって、言葉が飛んでしまいました』『いやいや、全然かわいかったよ〜』 緋月セレナだ。『
Last Updated: 2026-08-12
Chapter: 第6話 推しと似てるなんて、そんな都合のいい話あるわけない 翌朝、鳴海すばるはいつもより十五分早く教室へ来た。 本人いわく、たまたま目が覚めただけで、別に特定の誰かを待っていたわけではない。 ……という建前を、自分で自分に言い聞かせるために、教室へ入る直前までコンビニで買ったカフェオレを無駄に振っていたくらいには、少し落ち着きがなかった。「いや、待ってないし」 小声で呟く。「ただ確認したいだけだし」 何を確認したいのかと問われれば、答えは一つだった。 久瀬湊人の声が、どこまで“推し”に似ているのか。 昨日の昼休み、そして一昨日の何気ない会話、さらにその前の自己紹介。点と点だった違和感が、すばるの中で少しずつ線になり始めていた。 もちろん、理屈では分かっている。 人気VTuber《天瀬アルト》と、庶民派高校へ転校してきたちょっと変な地味男子が、同一人物であるわけがない。 そんな都合のいい話、あるはずがない。 あるはずがないのだが――。「似てるんだよなあ……」 机に鞄を置きながら、すばるは小さくため息をついた。 声質だけなら、世の中には似ている人もいるだろう。 喋り方だって、丁寧な人はいる。 返し方が綺麗な人も、きっと探せばいる。
Last Updated: 2026-08-11
Chapter: 第5話 優しくしただけなのに、ちょっと距離が近くないか その日の朝、教室の空気はどこか落ち着いていた。 転校して一週間にも満たないのに、久瀬湊人はすでに二年三組の景色の中へ、うっすらと溶け込み始めている。 もちろん、本人の理想からすればまだまだ目立ちすぎだ。 隣の席の柊坂真白にはことあるごとに“変”と言われるし、鳴海すばるには相変わらず推し布教の対象として狙われている。日野直純はもう最初から友達みたいな距離で話してくるし、クラスの何人かも「転校生」ではなく「久瀬」として話しかけるようになってきた。 それはたぶん、学校生活としては悪くない兆候なのだろう。 だが湊人の中では、まだ「目立たず、普通に」が最優先事項であることに変わりはない。 問題は、その“普通”が日に日に遠ざかっている気がすることだった。「おはよう、柊坂さん」 席に着きながら声をかけると、真白は机に突っ伏しかけた姿勢のまま、ゆっくりと顔を上げた。「……おはよう」 返事はあった。 けれど、いつもより少しだけ覇気がない。 湊人は何となくその顔を見る。いつものようにきつめの目元ではあるが、今日はそれに加えて、微妙な白さがあった。肌の色も、ほんの少し冴えない。髪も乱れてはいないけれど、朝の整え方に余裕がなかったような気配がある。「どうかしましたか」「なにが」
Last Updated: 2026-08-10
Chapter: 第4話 配信の僕は、学校の僕よりずっと上手に笑える 翌朝、久瀬湊人はスマホの通知欄を見た瞬間に、静かに目を閉じた。 昨夜のクラス連絡グループは、鳴海すばるの投下したアーカイブURLをきっかけに、思っていた以上に賑わっていたのである。『また鳴海の布教始まってる』『夜更かししたくなるからやめろ』『この人たしかに声いいな』『真白、見た?』『転校生にもおすすめでしょこれ』『王子様系ってやつ?』 王子様系、という言葉がやけに目に刺さる。 ベッドの上で上半身だけ起こした湊人は、そのログを無言で見つめたまま、しばらく動けなかった。自分の配信アーカイブが、自分の学校生活の会話材料になっている。しかも本人がそのグループの中にいる。 冷静に考えると、かなり妙な状況だ。 いや、妙どころではない。危うい。 鳴海すばるが勢いに任せて貼っただけならまだいい。問題は、それに何人かが実際に食いつき始めていることだった。クラスメイトたちにとっては、ただ“オタク女子がまた推しを共有してきた”程度の出来事なのだろう。けれど湊人にとっては、自分のもう一つの顔が教室の話題として浸透し始める前兆にしか見えない。「……これは、あまり良くないな」
Last Updated: 2026-08-09
Chapter: 第3話 推しの話になると、人は急に早口になる 柊坂真白による“購買チャレンジ予告”を受けた翌朝、久瀬湊人はいつもより少しだけ複雑な気分で登校していた。 別に約束をしたわけではない。 ただ、流れで「明日、購買チャレンジする?」と言われ、「ご指導いただけるなら」と返し、「その言い方ほんとやめて」と怒られただけだ。 ……改めて思い返すと、だいぶ妙な会話だった。 転校三日目にして、隣の席の女子と購買の攻略法を共有することになるとは予想していなかった。高校生活とはもっとこう、静かに、薄く、気配を消しながら進んでいくものではなかったか。 いや、たぶん普通の人にとってはそうなのだろう。問題は、自分が“普通の人として振る舞うこと”にあまり向いていないことだ。 校門をくぐりながら、湊人は小さく息を吐いた。「今日は、余計なことを言わない」「変に丁寧にしすぎない」「あと、なるべく目立たない」 いつものように心の中で三つほど目標を立てる。 しかし、この手の目標はだいたい午前中のうちに崩れる。自分でも学び始めていた。 教室に入ると、真白はまだ来ていなかった。窓際の席に鞄を置き、湊人は少しだけ肩の力を抜く。真白がいると落ち着かないわけではないのだが、あの鋭い観察眼を朝一番から浴びるのは、さすがに気疲れする。 そんなことを考えていると、教室の後ろの方から元気のいい声が飛んできた。「お、久瀬おはよー」 前の席の男子――日野直純が片手を上げる。明るくて、距離の詰め方が早いタイプだ。悪い人ではない。むしろかなり話しやすい部類だが、話しやすい相手ほど、うっかり素が出そうで怖い。「おはようございます」「また丁寧だなあ。もうちょい力抜いていいって」「努力はしているんですが」「努力でどうにかするもんなんだ、それ」 笑われた。 最近、笑われる機会が多い気がする。いや、配信でも笑われることはある。ただ、あちらは“そういう流れ”を自分で作っている時が多い。学校では、こっちにそのつもりがないのに笑いが起きる。そこが難しい。 真白が教室に入ってきたのは、その少しあとだった。 朝の光を背に、少し眠そうな顔で鞄を肩にかけている。こちらに気づくと、彼女はいつものように一瞬だけ目を細めた。「……おはよう」「おはようございます」「それ、先生にも同じテンションで言ってるでしょ」「挨拶は平等にと思いまして」「意味わ
Last Updated: 2026-08-09
Chapter: 第2話 地味な僕の隣席は、ぜんぜん優しくない 転校二日目の朝、久瀬湊人は目覚ましが鳴るより少し早く目を開けた。 窓の外は、まだ薄く青い。夜と朝のあいだにあるような静かな色だった。布団の中でしばらく天井を見つめ、それから小さく息を吐く。「……今日こそ、普通に」 昨日も言った気がする台詞だった。 しかも昨日は、その決意が見事なまでに空回りした。初日だから多少は仕方ないとはいえ、購買で立ち尽くし、隣の席の女子には何度も“変”と言われ、ついでに教室では“王子っぽい”などという、この上なく困る評価まで受けてしまった。 目立たない高校生活への道は、想像以上に険しい。 だが、まだ巻き返せるはずだ。二日目から地味に馴染んでいけばいい。昨日の転校生フィーバーさえ抜ければ、きっと周囲の熱も落ち着く。落ち着いてくれないと困る。 ベッドを出て、顔を洗い、制服に袖を通す。ネクタイを締める手は、意識しないとすぐ整いすぎる。少しだけ緩めようとしてみて、鏡の中の自分を見てやめた。似合わない。無理をしている感がすごい。「普通って難しいな……」 誰に聞かせるでもなく呟く。 朝食を簡単に済ませ、家を出る。春の朝の空気はまだ少し冷たく、吐く息が完全には白くならないくらいの温度だった。通学路には同じ制服の生徒が点々と見え、二日目の湊人は昨日よりも少しだけ、学校へ向かう実感があった。 校門前に差しかかったところで、またしても反射的に道を譲りかけて、寸前で踏みとどまる。 危ない危ない。 普通の高校生は、毎回そんな丁寧な動きをしない。多分しない。少なくとも、昨日の自分のように“なんか雰囲気ある”認定を受けるほどにはしない。 今日は気をつけようと決めて、教室へ向かう。 廊下を歩きながら、湊人は昨日の隣席――柊坂真白のことを思い出していた。 口が悪い。目つきが鋭い。妙に噛みついてくる。 でも、購買では助けてくれたし、完全に嫌っているわけでもなさそうだった。というより、あれは嫌っているというより“放っておけないから腹が立つ”に近い空気だった気がする。 そういう相手は正直、苦手だ。 何を考えているのか分からない人より、分かりやすすぎる人の方が、時として対処に困る。 教室へ入ると、昨日ほどではないが、やはり数人分の視線が向いた。転校生への興味はまだ完全には消えていないらしい。湊人はそれに気づかないふりをして席へ向かう。 真
Last Updated: 2026-08-01