冷酷夫、離婚宣言で愛を暴走

冷酷夫、離婚宣言で愛を暴走

By:  小円満Updated just now
Language: Japanese
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結婚して一年が過ぎたころ、黒澤時生(くろさわ ときお)は突然、私に触れようとしなくなった。別荘にはわざわざ仏間を作り、数珠も肌身離さず身につけるようになった。 私がどれほど誘っても、彼は冷たい態度のままで、心ひとつ動かす様子もなかった。 ある夜、浴室の前で、私は目を疑った。彼が別の女の写真に向かって、欲望をあらわにしている姿を見てしまったのだ。 その瞬間、悟った。禁欲を装っていた時生も、結局は欲に逆らえなかった。そして、その欲は私にではなく、別の女に向けられていたのだ。 私は彼を騙し、離婚協議書にサインさせると、彼の世界から跡形もなく消えた。 けれど後になって耳にしたのは――彼が狂ったように私を探し回っているという噂だった。 その後、やっとの思いで再会したが、それは彼の叔父の結婚式だった。 純白のウェディングドレスに身を包んだ私を目にした時生は、真っ赤な目をしながらも、どうしても言えなかった。「おばさん」という、その一言を。

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Chapter 1

第1話

今夜は、私――結城昭乃(ゆうき あきの)と夫・黒澤時生(くろさわ ときお)の、月に一度の夫婦の夜だった。

思わず、小さく声が漏れた。

けれど、時生の冷たい瞳には、もう何の温もりも宿っていない。

「昭乃、ルールを破ったな」

そう言うと、彼はあっさりと身を引き、バスローブを羽織って浴室へ向かった。

ベッドに取り残された私は、恥ずかしさと悔しさで目を閉じた。

すべてが変わったのは三年前、最初の子どもを亡くしてからだった。

そのとき時生は「子どもへの供養だ」と言い訳し、別荘に仏間を作り、香を絶やさず仏を祀るようになった。

彼の言い分はこうだ。信心深い者は欲に流されてはいけない。夫婦の営みは月に一度だけ。みだらな声を出すことも許されない、と。

私はまだ二十五歳。欲は人並みにあったが、逆らうことはできなかった。

……

深夜、時生は静かに家を出て行った。

ほどなくして親友・桜井紗奈(さくらい さな)から電話が入った。

切羽詰まった声だった。

「昭乃!今すぐトレンド見て!優子の『パトロン』って……あれ、時生に見えるんだけど!」

慌てて画面を開いた瞬間、頭が真っ白になった。

――【衝撃!人気女優・優子、パトロン依存で出世疑惑!パトロンの正体は現在調査中!】

載っていたのは、ぼやけた後ろ姿の写真一枚。

でも私にはすぐにわかった。あれは夫の時生だ。

右手には、いつも身につけている数珠。その手が、津賀優子(つが ゆうこ)の腰を抱き、二人はホテルへ入っていくところだった。

そのとき、匿名メールが二通届いた。

添付されていた高画質の写真が次々と目に飛び込んできた。

最初の写真では、時生が片膝をつき、小さな女の子を抱きしめている。ふんわりしたドレス姿のその子は、首に腕を回し、彼の頬にキスをしていた。

次の写真では、優子が彼の肩のほこりを払おうと手を伸ばしているところだ。時生は、私にするように冷たく払いのけることもなく、口元を少し緩めて受け入れていた。

……

何十枚もの写真を見て、ようやく悟った。

三年間、彼が冷たかった理由は信仰なんかじゃない。

――不倫していたのだ。

爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめ、深呼吸を繰り返しながら二通目のメールを開いた。

そこにはただ一行。

【奥様、世間に公表しますか?それとも二億円で買い取りますか?】

私は迷わず返信した。【二億円で買い取ります】

口座にある全財産を投げ打って、夫と愛人を破滅に追い込める証拠を買った。

皮肉なことに、その金は結婚のときに時生から渡された結納金だった。

まさか今、それが夫の裏切りの証拠を買い取るために消えていくとは。

私は何度も写真の中の女の子を見つめた。

もし私たちの子が生きていたら、今ごろ同じくらいだっただろう。

けれど私の子は灰となり、小さな箱に収められてしまった。

あのときの私は、生きる気力をすべて失っていた。そんな私に返ってきたのは、彼の「子どもならまたできるさ」という軽い一言だけだった。

しかし、今はもうわかっている。二度と叶わない望みだということを。

写真を買い取った私は、紗奈に電話をかけた。「知り合いの弁護士いる?離婚したいの」

――汚れた男なんて、もう要らない。

紗奈が紹介してくれた弁護士が、後日、離婚協議書を作ってくれた。

ただ、時生の資産が不明なため、財産分与の欄は空白のままだった。

「とりあえず協議書だけ送って。財産のことは、私が時生と直接話すから」

写真は二億円で買ったにすぎない。けれど黒澤グループの社長の肩書きと名誉は、その何倍もの価値があるのだ。

証拠を握っている限り、財産分与は私の思い通りにできるはずだ。

私は印刷した離婚協議書を茶の間のテーブルに置き、時生に電話をかけた。

聞こえて来たのは、女の声だった。

「昭乃さん?どうしたんですか?時生は今、子どもをあやしてるんです」

やわらかく気遣うような声。だがそれは、耳に突き刺さる針のようだった。

――優子は私の存在を知っている。

私は予想した。時生が独身を装って、彼女をだましているのかもしれないと。

けれど違った。彼女はすべて承知のうえで、私を踏みにじっていたのだ。

感情を抑え、冷たく言った。

「時生に代わって」

「ごめんなさい、子どもが彼から離れたがらなくて。今は無理なんです。用件なら私から伝えますね」

相変わらず、やわらかな口調。

直後、電話越しに幼い声が聞こえた。「パパ、明日の朝も会える?パパ、いつも急にいなくなるから」

時生は優しくあやすように答えた。「もちろんだよ。明日の朝も必ずそばにいるからね」

胸が強く締めつけられる。こんな優しい声を、最後に聞いたのはいつだっただろう。

「ご用件は何ですか?なければ切りますね。もう遅い時間ですから」

優子の丁寧な声の奥には、確かに棘があった。

私は言い放った。「あるわ。彼に今すぐ帰って、離婚協議書にサインするよう伝えて!」
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第1話
今夜は、私――結城昭乃(ゆうき あきの)と夫・黒澤時生(くろさわ ときお)の、月に一度の夫婦の夜だった。思わず、小さく声が漏れた。けれど、時生の冷たい瞳には、もう何の温もりも宿っていない。「昭乃、ルールを破ったな」そう言うと、彼はあっさりと身を引き、バスローブを羽織って浴室へ向かった。ベッドに取り残された私は、恥ずかしさと悔しさで目を閉じた。すべてが変わったのは三年前、最初の子どもを亡くしてからだった。そのとき時生は「子どもへの供養だ」と言い訳し、別荘に仏間を作り、香を絶やさず仏を祀るようになった。彼の言い分はこうだ。信心深い者は欲に流されてはいけない。夫婦の営みは月に一度だけ。みだらな声を出すことも許されない、と。私はまだ二十五歳。欲は人並みにあったが、逆らうことはできなかった。……深夜、時生は静かに家を出て行った。ほどなくして親友・桜井紗奈(さくらい さな)から電話が入った。切羽詰まった声だった。「昭乃!今すぐトレンド見て!優子の『パトロン』って……あれ、時生に見えるんだけど!」慌てて画面を開いた瞬間、頭が真っ白になった。――【衝撃!人気女優・優子、パトロン依存で出世疑惑!パトロンの正体は現在調査中!】載っていたのは、ぼやけた後ろ姿の写真一枚。でも私にはすぐにわかった。あれは夫の時生だ。右手には、いつも身につけている数珠。その手が、津賀優子(つが ゆうこ)の腰を抱き、二人はホテルへ入っていくところだった。そのとき、匿名メールが二通届いた。添付されていた高画質の写真が次々と目に飛び込んできた。最初の写真では、時生が片膝をつき、小さな女の子を抱きしめている。ふんわりしたドレス姿のその子は、首に腕を回し、彼の頬にキスをしていた。次の写真では、優子が彼の肩のほこりを払おうと手を伸ばしているところだ。時生は、私にするように冷たく払いのけることもなく、口元を少し緩めて受け入れていた。……何十枚もの写真を見て、ようやく悟った。三年間、彼が冷たかった理由は信仰なんかじゃない。――不倫していたのだ。爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめ、深呼吸を繰り返しながら二通目のメールを開いた。そこにはただ一行。【奥様、世間に公表しますか?それとも二億円で買い取りますか?】
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第2話
その向こうで、急に声が途絶えた。驚いたのか、喜びで言葉を失ったのか。――結局、私が離婚すれば、彼女は正式にその座につけるのだから。私は電話を切り、座ったまま、黙って時生の帰りを待った。けれど一晩中待っても彼は帰らず、現れたのは彼の秘書・新藤理子(しんどう りこ)だった。彼女が足を踏み入れた瞬間、私に向けられた敵意がすぐに伝わってきた。彼女が三年間も時生のそばに仕えていれば、彼に対する感情が単なる仕事だけではないことくらい、なんとなく分かる。徹夜で疲れきった私を見て、理子は勝ち誇ったように口を開いた。「時生様はあなたに四年近くも囲われてきたんです。なのに、これからは優子さんが奥様になります……今のあなた、さぞ惨めでしょうね?」……囲われてきた?「ふん!」と息が漏れた。確かに私と時生の「隠れた結婚」は、外にはほとんど知られていない。思い出した。四年前――黒澤家の誰もが、身分の低い私との結婚に猛反対した。結局私は折れて、婚姻届だけを提出し、式を挙げないことを受け入れた。ごく限られた人しか、私たちの結婚を知らなかったのだ。あのとき時生は、目を潤ませて私の髪を撫でながら「君を苦しめてごめん」と言った。そして誓った――「必ず黒澤家を継いだら、盛大な結婚式を挙げて君を迎える」と。けれど、彼が後継者になってからすでに何年も経ったのに、その約束は果たされなかった。だから今や秘書でさえ、私をただの愛人だと勘違いしている。理子は傲慢な笑みを浮かべ、さらに畳みかけた。「昨日の優子さんのスキャンダル、時生様に命じられて調べたんです。あれを流したのは、あなたの会社でした。芸能部の編集長なら、知らないわけがないでしょう?」――罪を着せようと思えば、理由などいくらでも作れる。彼は不倫の説明すらしないくせに、真っ先に私に濡れ衣を着せるのだ。「私じゃない」私は表情を崩さず、ただ一言そう返した。理子は鼻で笑った。「証拠はそろってるんです。素直に認めてきれいに別れた方がいいですよ。そうしないと追い出されるだけですから」その言葉が終わるか終わらないうちに、私は立ち上がり、思い切り彼女の頬を打った。理子は呆然とし、顔を押さえたまま信じられないように私を見つめる。私は離婚協議書を投げつけ、冷ややかに背を向けた。「時生との
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第3話
「旦那様の命令じゃないのですか?」春代がそう言い終えると、時生はすぐに電話をかけた。凍りつくような声で。「理子、明日財務に行って精算しろ。もう黒澤グループには来なくていい」支配者の口調は容赦がなかった。そう言うと、薬箱を手に私の部屋へ入ってきた。険しい顔のまま、真っ直ぐベッドのそばに腰を下ろした。彼は私の足首をつかみ、膝を自分の腿にのせた。「少し痛むが、我慢しろ」黒い瞳で乾いた血の跡を見つめ、ヨード液を含ませた綿棒でそっと傷口を消毒していく。もし、あの写真の数々が私の期待を完全に打ち砕いていなければ――この専念した横顔に、昔の「私を愛していた時生」を重ねてしまったかもしれない。だが、彼は昨夜あの女と過ごしていた。いや、この三年間、数え切れないほどの「出張」の夜を彼女と共にしてきたのだろう。込み上げる吐き気に耐えられず、私は慌てて脚を引いた。自分で綿棒を取り、無言で消毒した。鮮明で鋭い痛みが走り、もう時生と私には二度と戻れないと告げているようだった。彼の目を見ずに、膝にガーゼを貼りながら言った。「時生、私たち、離婚しよう」一晩中考え抜いて出した答え――骨を削がれ、筋を裂かれるような決断。けれど時生の顔には、一瞬の驚きさえ浮かばなかった。冷たく整った面立ちは微動だにしない。「離婚?君にできるのか」確かに、私は五歳のとき結城家に引き取られて以来、ずっと彼を見てきた。心のすべてを彼一人に捧げてきた。彼は軽蔑するように私を見下ろす。「駄々なら一度二度は聞き流す。だが次は?本当に俺が同意したら?」胸の奥に渦巻く悲しみを噛み殺し、皮肉を込めて笑った。「他の女との間に子どもまで作っておいて、どうして私がまだあなたに縛られなきゃいけないの」時生の目が細められる。「……知っていたのか」苦く唇を歪め、鼻にかかった声で問い返した。「あなたとあの人の娘、三歳くらいよね。つまり、私たちの子が亡くなってすぐに、あの子は生まれたってこと。違う?」彼の冷たい顔に、一瞬だけ異様な影が走った。肯定も否定もなく、空気が張り詰め、息が詰まるようだった。やがて、眉をひそめて口を開いた。「……そんなに心菜の存在が気になるのか」そう――あの小さな女の子の名前は、心菜(ここな)だった。私は力なく呟いた。「もしその存在が、ただ
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第4話
時生の到着で、奈央の話は途切れた。彼はいつも通り丁寧で礼儀正しくふるまっていたが、その奥底にはどこか高慢さが漂っていた。「お父さん、お母さん、遅くなってすみません」私は小さく息をついた。幸い、彼が両親に冷たい態度を取らず、気まずい思いをさせることはなかった。「いえいえ、私たちも来たばかりだし、昭乃と少し話したかっただけだから、待ってないよ」「まだ仕事が残ってるなら続けていいよ。私たちはここで少し話しているだけで大丈夫だから」私はうつむいて言った。「じゃあ、お母さん、先にご飯にしよ」食卓では、時生が当然のように上座に座り、両親と私は下座についた。孝之は言葉を探しながら、時生の顔色をうかがっていた。「時生……頼みたいことがあってな……」孝之の態度は、身を縮めるように卑屈だった。時生は淡々と答える。「分かっています。結城家も最近、資金繰りに少し苦労しているようですね。心配はいりません、契約書は持っていますよね?」孝之は慌てて「持ってる、持ってる」と答えた。時生は言った。「後で私が署名して、明日昭乃にお届けさせます。資金は遅くとも金曜までに振り込みます」その一言で、孝之も奈央もほっと肩の力を抜いた。二人は同時に安堵の笑みを浮かべ、何度も感謝の言葉を口にした。「昭乃は私の妻ですし、結城家が困っているなら助けるのも当然のことです」その言葉で、奈央の胸にあった疑念は完全に消えたようだった。奈央は思ったことをそのまま口にする性格で、遠回しな言い方をしない。笑顔で言った。「昭乃と仲が良いのを見て安心した!昨日ニュースで優子のパトロンを見てね、時生かと思って、一晩中心配で眠れなかったんだよ!」奈央の言葉が終わると、私も時生も一瞬だけ顔をこわばらせたが、すぐに話題を変えた。二人が帰った後、私は用意しておいた離婚協議書を契約書の最後のページに忍ばせ、書斎へと運んだ。……書斎では、時生がパソコンの前に座り、仕事のメールを処理していた。暖かな照明の下、彼の冷ややかな横顔が浮かび上がる。私はかつて、この真剣な横顔に夢中になっていたのだ。小さくため息をつき、契約書を差し出した。「これ、お父さんが署名してほしいと言っていた契約書。お願い」彼は一瞥し、私が言い争わないのを見て、口元をゆるめた。「なるほど
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第5話
時生は意外にも私を疑うことなく、契約書のページを一枚ずつめくり、署名欄に淡々と名前を書いていった。内容を確かめることすらしなかった。そして最後のページ――「離婚協議書」にサインをした瞬間、ようやく緊張感が解け、生きた心地がした。彼に気づかれる前に、私はさっと契約書を手元に引き寄せた。主寝室に戻り、時生の署名が入った離婚協議書を取り出して、本の隙間にそっと隠した。離婚を切り出すのは、ひと月後と決めていた。……その夜、私は主寝室を出る準備をしていた。時生が戻ってきて、私が足を引きずりながら荷物をまとめているのを見て、愛人と私生児に部屋を譲ろうとしていると察したのか、私を止めた。「こういうことは春代や家政婦にやらせればいい」その声は驚くほど穏やかで、さらに続けた。「少しの間のことだ。彼女たちが出ていったら、また戻ってくればいい。安心しろ。長くは居られないから」私は鼻で笑い、その真剣な顔を見つめた。「じゃあ、ありがたく『ご厚意』に感謝すればいいのかしら?」その一言で、時生の表情は一瞬にして冷えた。私は引っ越すわけではなく、ただゲストルームへ移るだけ。だから荷物は多くない。基礎化粧品と服を少し、それから一番大切なのは――寝室のクローゼットの上に置いてある、小さな木の箱。誰の手も借りず、自分で椅子に上り、その箱を慎重に抱き下ろした。写真の中の子どもが時生にとっての宝なら、この箱に眠るのは、私にとって何よりの宝だ。けれど、私の子は声を上げることも、笑うことも、走り回ることもできない。光の差さないこの箱の中で、永遠に眠り続けるしかないのだ。ちょうどその箱を手に取ったとき、時生はベランダで電話をしていた。優子とその娘を、どの道から迎え入れるのが安全か、秘書に細かく指示を出している。やがて戻ってきた時生は、私が箱を胸に抱えているのを見て、不快げに眉をひそめた。「それを持ってどうする」冷たい瞳の奥に、わずかな戸惑いがのぞいていた。――もし、あの子が生きていたら?彼は裏切ることなく、私たちの子を同じように宝物として愛してくれただろうか。そんな思いが胸をかすめたが、私はもう、この男のために心をすり減らすつもりはなかった。立ち去ろうとした瞬間、時生が私の手首を掴んだ。「聞いているんだ
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第6話
時生はいつだって高みから人を見下ろすようなところがあって、私に直接「精進料理を作れ」と命じることはなかった。けれど食の好みにはやたらとうるさく、食材への要求も細かい。だから、すぐに秘書へ電話をかけていた。「精進料理に通じた料理人を呼べ。報酬は構わん。明日には会わせろ」さっきからずっと控えめにしていた、気弱な優子が、口を開いた。「昭乃さん、あなたが私をよく思っていないのは分かってます。私が心菜を連れてここに住み込むなんて、確かに唐突ですよね……」私は顔色ひとつ変えずに言った。「唐突だと分かっていて、よくものうのうと居座れるわね。この世で私と時生の家以外、あなたが身を寄せる場所はないの?優子さん、あなたは、人の家庭を壊さなければ居場所が得られないの?」私の言葉に、優子の顔は青ざめた。反論しかけては飲み込み、涙を浮かべて時生を見上げる。けれど私だけが気づいていた。テーブルクロスの下で、彼女の指がぎゅっと握りしめられているのを。心菜は幼いながらも、私の声の険しさを感じ取ったらしい。おびえたように時生のもとへ駆け寄り、その膝の上に座って、小さな声で尋ねた。「パパ、このおばさんだれ?こわい……」「心菜、大丈夫だよ。おばさんは……悪い人じゃない」時生は私に警告の視線を送った。けれど、優子の前で声を荒らげることまではしなかった。たぶん、この母娘を家に迎え入れ、私の目の前で堂々と振る舞わせていることに、多少の後ろめたさがあるのだろう。さすがに、愛人を受け入れさせたうえで、さらに笑顔で迎えろとまでは言えなかったらしい。私と時生が揉めなかったぶん、優子の顔にはあからさまな不満が浮かんでいた。食卓に並ぶ精進料理は、余計に味気なく、まるで砂を噛むようだった。私は胸の中で皮肉をつぶやく。時生が仏に帰依して三年。肉を愛してやまなかった私も、三年間黙って菜食を続けてきた。けれど優子は、男を奪う気でいながら、その程度のことすら我慢できない。食事を終え、箸を置き、彼らの複雑な視線を背に席を立った。ゲストルームに戻り、深く息を吸い込んだ。ここにもう四年近く暮らしているのに、今では主寝室を追われ、ゲストルームに身を寄せている――まるで本当に客のようだ。昨夜は一睡もできなかった。昼に少し眠ろうとしたとき、扉を叩く音がした。開
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第7話
私ははっきり覚えている。一昨年の年末、実の母の容体が突然悪化した。もともと植物状態だった母の全身の臓器が次々と衰え、命が尽きかけていたのだ。専門医は言った――新しい医療機器で血液をすべて入れ替え、同時に心肺補助を行えば、病状が好転するかもしれない、と。その機器を開発したのは、よりによって時生の会社だった。だが当時はまだ市販されておらず、内部の人間を通さなければ手に入らない。時生なら簡単に手配できると思っていた。ところが、私が電話で「母の病状が悪化した」と告げた途端、彼はこう言った。「医者に伝えろ。全力で治療してくれとな。金はいくらかかってもいい……俺はいま急用があるから、じゃあな」私の言葉を最後まで聞くこともなく、通話は切られた。金など、時生にとって最も容易く手に入るものだ。そして私も――彼にとっては同じく簡単に手に入った存在だからこそ、今ではもう大切にされていないのだろう。あのときの私は絶望し、母の命より大切な「急用」とは何なのか、ただ茫然とするしかなかった。――そして今になって知った。その「急用」とは、心菜を連れて遊園地に行くことだったのだ。私が潮見市であてもなく母を救おうとしていたとき、彼は帝都最大の遊園地で、愛人と私生児と遊んでいた。結局、兄が必死に奔走してその機器を手に入れ、母は一命を取り留めた。しかし、あの日の絶望と、母を失うかもしれない恐怖は、一生消えることはない。込み上げる怒りと痛みに耐え、私は急いでノートパソコンを開き、優子の投稿をスクリーンショットし、画像を保存した。今日、彼女が私を挑発した証拠は、明日には時生を法廷で追及する武器となる。その写真を見て、ふと昨日の時生の秘書の言葉を思い出した。あの流出写真は、うちの会社から出たものだ、と。そんなはずがない。私は七星エンターテインメントの編集長。すべての記事は必ず私の審査を経て配信される。時生たちの勘違いか、あるいは部署の誰かが勝手に動いたのか。そのとき、ドアが叩かれた。「どうぞ」と言う間もなく、時生が扉を押し開けて入ってきた。彼は責め立てるような顔で、スマホをベッドに放り投げた。「君は一体、どれだけ騒ぎを起こせば気が済むんだ?」私は怪訝に思いながらスマホを手に取った。そこには、数日前に流出し
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第8話
月曜日には社内を徹底的に洗い出し、必ず内通者を突き止めてやろうと思っていた。ところが翌日、思いがけず会社の上層部から電話がかかってきた。「昭乃、あの件のせいで投資家が手を引き、資金が止まってしまった。給料も払えない状況なんだ。本当にすまないけど、今日からもう出社しなくていい」受話器を握ったまま、私はしばらく呆然と立ち尽くした。大学を卒業した年、私は時生のプロポーズを受け、すぐに妊娠した。本来なら内定していた報道機関には妊娠を理由に断られ、そのとき時生は私を抱きしめて言った。「昭乃、気にしなくていい。俺がその会社に投資する。そうすれば誰も君を拒めなくなる」けれど私は首を振った。コネで仕事を得るなんて、やりたくなかった。その代わり、玉石混交の芸能メディア業界に飛び込み、三年連続でトップの成績を収め、ついには編集長にまで昇り詰めた。かつては金で私の夢を叶えようとしたその人が、今では皮肉にも、その人のせいで私は職を失った。愛しているかどうか、その違いはこんなにもはっきりしている。人の心は、ここまで変わり果ててしまうものなのか。私は足早に部屋を出て、仏間へと向かった。時生はそこで修行に没頭していた。脚を特製の座布団の上で組み、数珠を手にして経を唱えている。かつて私は、この世俗を超えたような清廉で禁欲的な姿に心の底から惹かれていた。彼が仏教のために課した厳しい決まりごとさえ、何ひとつ不満を口にせず受け入れてきた。けれど、今は違う。私は彼の手から数珠を奪い取った。「仏さまは、妻をこんなふうに扱えと教えるの?どうして私の仕事に口を出すの?」経を遮られた時生は、淡々と眉を寄せる。「そんなくだらない仕事なんて、やめてしまえ。金が欲しいなら俺がやる」くだらない?私は記事を書くために徹夜を重ね、昇進のために奔走してきた。それを一言で踏みにじるなんて。拳を強く握りしめる。「情報の出所を、必ず突き止めて!私に濡れ衣を着せないで」時生は視線を落としたまま言った。「優子はもう追及しなくていいと言っている。やめておけ」私は吐き捨てるように言った。「追及しないんじゃなくて、できないのよ。自分で仕組んだ茶番だと知られるのが怖いだけ。時生、あなた、欲に目がくらんでるんじゃない?」時生は眉をひそめる。「昭乃、ここがどこか分か
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第9話
テーブルいっぱいに並んでいたのは、料理人が丸一日かけて用意した精進料理。だが、私が取り出した料理の前では、その存在感は薄れ、影に隠れるように見えた。この二日間、時生に付き合って精進料理を食べ続けてきた優子と心菜は、目を丸くして見入っている。優子はごくりと喉を鳴らし、心菜は今にもよだれを垂らしそうだった。けれど、時生だけは冷ややかに言い放った。「誰がこんなものを家に持ち込んでいいと許可した?」私は鼻で笑い、言い返した。「この別荘、あなたが結婚後に買ったんでしょ?夫婦の共同財産よ。なら半分は私のもの。自分の場所で、自分が食べたいものを食べて、どこが悪いの?」そう言うと、勝手にワインセラーへ向かい、去年彼が競り落とした高級ワインを開けてグラスに注いだ。時生の刺すような視線を受け流し、テーブルにつくと、ナイフとフォークを手にステーキを優雅に切った。一口食べて、ワインをひと口。――ああ、美味しい。結婚に縛られなくなった私には、ようやくすべてが戻ってきた気がした。だが、時生は挑発に耐えるような男ではない。すぐにボディーガードへ命じた。「彼女の料理は全部捨てろ」その言葉を遮ったのは心菜だった。彼女はおずおずと時生の服の裾を引き、今にも泣きそうな顔で言った。「パパ……わたしも……ステーキ食べたい……」小さな喉が何度もごくりと鳴り、水のように澄んだ瞳を輝かせて、聞いた。「どうして、私たちはお肉を食べちゃダメなの?」時生は答えに詰まった。幼い子に「修行」や「戒律」を説いたところで、通じるはずがない。代わりに優子が慌てて取り繕う。「心菜、パパは私たちのことを思ってなのよ。お肉ばかり食べると病気になるから。野菜だけのほうが健康にいいのよ」私はステーキを味わいながら頷いた。「そうね。苦しみは全部私が引き受けるから、あなたたちはどうぞ健康を満喫して」そして時生のしかめっ面を見つめ、唇に皮肉を浮かべる。「まさか……私がこんなのを目の前で食べてるから、あなたも食べたくなったんじゃないの?慌てて捨てさせようとしたのは、欲を抑えられなくて破戒しそうだから?」時生はちらりと私を見たが、表情を動かさず、自分の精進料理を黙々と口に運んだ。ボディーガードに命じることも、それ以上はしなかった。優子と心菜は仕方なく精進料理を食べていたが、
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第10話
「時生、助けて!私を助けて!」優子の絶叫が再び響き、ようやく時生の意識が現実に引き戻された。その叫び声で、心菜も駆けつけてきた。母が壁に押しつけられ、何度も叩かれているのを目にすると、飛び出して叫んだ。「この悪い女!ママを離して!この悪い女!」泣きながら、同じ言葉を何度も繰り返し、必死に私の服の裾を掴んで引っ張った。けれど、私はすでに理性を失っていた。すべての元凶を前にしては、一片の容赦もできず、心菜を乱暴に振り払うと、そのまま優子を叩きつけていた。彼女の顔がすでに腫れ上がり、口元から血がにじんでいても、怒りは収まらなかった。――我が子はいったい何をしたというの?どうしてこの母娘に踏みにじられなければならないの?そのとき、突き飛ばされた心菜が床に倒れ、大きな声で泣き出した。次の瞬間、強い力で身体をぐいと引き戻された。直後、乾いた音が響き、頬に鋭い痛みが走った。空気が一瞬にして凍りつき、呼吸の音すらはっきりと聞こえるほどの静寂に包まれる。呆然と見上げると、険しい表情の時生が立っていた。五歳のころから二十五歳になるまで、ずっと想い続けてきた男。その彼が、優子と心菜を守るために、自分を叩いたのだ。どうして。どうしていつだって罰を受けるのは、自分だけなの。「昭乃……」自分のしたことに気づいたのか、時生は声を和らげ、一歩近づいて手を伸ばしてきた。「悪かった……ただ、少し冷静になってほしくて」自分は数歩後ずさり、彼を見つめながら何度も問い詰めた。「どうして?どうして最後の拠り所まで壊すの?我が子を返して!あの子を返してくれ!」声は次第に枯れ、獣のように泣き叫んでいた。そして突然、あることを思い出し、よろめきながら小さな箱の前へ駆け寄る。膝をつき、散らばった遺灰を必死に掻き集めようとした。けれど、細かな粒はひとつも戻らず、自分の子は完全に失われてしまった。涙が遺灰に落ち、暗い染みを作る。それはそのまま、自分の心に刻まれた癒えることのない傷になった。一方で、時生は心菜を抱き上げ、怪我がないかを確かめている。……じゃあ、自分の子は?時生は目もくれない。この人は痛みを感じないの?だって、結婚を望んだのは時生の方だった。子どもを産むよう急かしたのも、彼と彼の母だった。なのに今、苦しんで
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