LOGIN結婚して一年が過ぎたころ、黒澤時生(くろさわ ときお)は突然、私に触れようとしなくなった。別荘にはわざわざ仏間を作り、数珠も肌身離さず身につけるようになった。 私がどれほど誘っても、彼は冷たい態度のままで、心ひとつ動かす様子もなかった。 ある夜、浴室の前で、私は目を疑った。彼が別の女の写真に向かって、欲望をあらわにしている姿を見てしまったのだ。 その瞬間、悟った。禁欲を装っていた時生も、結局は欲に逆らえなかった。そして、その欲は私にではなく、別の女に向けられていたのだ。 私は彼を騙し、離婚協議書にサインさせると、彼の世界から跡形もなく消えた。 けれど後になって耳にしたのは――彼が狂ったように私を探し回っているという噂だった。 その後、やっとの思いで再会したが、それは彼の叔父の結婚式だった。 純白のウェディングドレスに身を包んだ私を目にした時生は、真っ赤な目をしながらも、どうしても言えなかった。「おばさん」という、その一言を。
View More紗奈はそれを聞くと、ぱっと目を輝かせた。「高司さんに相談しようよ!前にあなたが南洋国に売られたときだって、あんなに複雑な状況から無事に助け出してくれたんだよ?それに比べたら、詩恩を一人探すくらいどうってことないでしょ!絶対に何とかしてくれるって!」今回は、私も迷わず頷いた。ただ不安を抱えながら「助け」を待つより、自分から動いたほうがいい。私はスマホを取り出し、すぐに高司へ電話をかけた。しばらく呼び出し音が鳴ってから、ようやく電話がつながった。「もしもし」低くて穏やかな声が耳に届いた瞬間、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んだ。私も自然と声を落とし、今日ショッピングモールで詩恩を見かけたことを、最初から最後まで話した。電話の向こうでしばらく沈黙したあと、高司が静かに口を開いた。「分かった。こっちでも調べてみる」少し間を置いて、さらに優しい声で続けた。「安心して、俺からの連絡を待ってて。たとえ今すぐ詩恩を見つけられなくても、君が心配しているようなことは絶対に起こさせない。昭乃、俺はいつだって君の味方だから」高司は普段、愛情を言葉にして伝えるような人じゃない。それでも、今の言葉だけで胸がいっぱいになって、鼻の奥がつんとした。私は強く「うん」と返した。「分かってる。私もちゃんと自分のことは気をつけるから。あなたも……無理しないでね」電話を切ったあとも、手のひらにはまだスマホの温もりが残っていた。胸の奥に引っかかっていた不安が、ようやく半分ほど消えていった。……一方その頃。銀色のベントレー・コンチネンタルの車内で、高司は無意識にスマホを握る手に力を込め、隣に座る女性へ目を向けていた。詩恩は、さっきの恐怖からまだ完全には抜け出せずにいた。つい先ほど、自分のあとをつけている人間がいることに気づいたのだ。それが時生側の人間なのか、それとも晴人側の人間なのか、彼女には分からなかった。もし、ちょうどこの場所で客と会っていた高司に出会えていなかったら、自分が今どうなっていたのか分からない。詩恩は険しい顔でバックミラーを確認した。幸い、そこにはもうさっきの尾行者の姿はなかった。「高司さん、今日は本当にありがとうございました」ほっと息を吐き、体を横に向けてドアを開けようとする。「待って」
時生が店を出てから、私と紗奈もすぐに後を追った。足早に歩きながら、私たちも詩恩の行方を探そうとしていた。私の頭の中には、ずっと同じことが浮かんでいた。時生の忘れられない女、詩恩は本当に戻ってきた。今回、時生に姿を見られたのも、決して偶然じゃない。おそらく、わざと姿を見せたのだ。もし時生が本当に詩恩と一緒になったら、私とあんな馬鹿げた結婚式を挙げるはずがない。時生と詩恩がどこへ行ったのか知るために、私たちも監視カメラを確認することにした。紗奈はこのショッピングモールのVIP会員だったから、一本電話をかけると、すぐに責任者と連絡がついた。ところが、監視カメラの担当者から「今日の映像はハッキングされて、全部消えてしまった」と聞いた瞬間、足元から背筋を這い上がるような寒気を感じ、全身が一気に冷えた。これで何度目だろう?詩恩が絡むたびに、重要な手がかりが決まって何かしらの理由で消えてしまう。まるで、見えない誰かが裏で一連の出来事を操っているみたいだ。紗奈も、以前私が話したことを思い出したらしい。途端に焦ったように声を張り上げ、問い詰めた。「じゃあ、時生は今どこにいるの?まさか、あいつまで突然消えたわけじゃないよね!」担当者は少し言葉に詰まり、確信のなさそうな口調で答えた。「時生社長は……もうショッピングモールを出られたようです。十分ちょっと前に出ていかれました」私たちは監視室を出た。結局何の手がかりも得られなかった。紗奈は悔しそうに舌打ちして、吐き捨てるように言った。「ほんっと最低。何かあるたびに、あなたを一人置いていくんだから。昔もそうだったし、今だってそう!いつも何かあれば、置いていかれるのはあなたなんだから!」紗奈はずっと、私と時生がこの結婚式を挙げることには反対していた。それでも、この数年間、私と時生の間で繰り返されてきた苦しさも、私がどれだけ傷ついてきたかも、ずっとそばで見てきた。だから彼女が怒っているのは、ただ私が何度も無視され、置き去りにされてきたことが、悔しくてたまらないからだった。そんなふうに私の代わりに怒ってくれる紗奈を見ていると、胸の奥に苦しさと温かさが入り混じった。私は逆に彼女をなだめるように言った。「もう怒らないで。私はむしろ、いいことだと思ってる。時生が詩恩を見つけ
優子は指先を手のひらに食い込ませながらも、平静を装っていた。時生が何度も電話をかけ、助手に指示を出したり、探偵を雇ったり、さらには警察にも人脈を使って連絡を取ったりするのを、ただ見ているしかなかった。怒りと恐怖が入り混じり、胸の中は煮え立つようにざわついていた。時生が書斎に戻ると、優子も自分の部屋へ戻り、ドアと窓を閉め切ってから電話をかけた。景也は、優子からの電話に大喜び、電話に出るなり嬉しそうに言った。「優子、やっと連絡してくれたな。今日は会えるか?」「あなたに頼みたいことがあるの」優子は声を抑えたが、それでも震えが隠せなかった。「詩恩が戻ってきたの。時生に見つかる前に、何としても先に見つけて。できれば……誰かに頼んで、誰にも知られないように始末してほしい」景也は一瞬、言葉に詰まった。それから尋ねた。「なんで戻ってきたんだ?前に、もう二度と戻ってこないって言ってただろ?」優子は苛立ちを押し殺すように言った。「私にも分からない。でも、今は潮見市にいるだけじゃなくて、時生の前にまで現れたの。わざとやってるのかどうかも分からないけど……たぶん、わざとよ。あのとき、彼女は私とお母さんがしたことを全部知ってた。もし時生に見つかったら、私は終わりよ!」景也は迷った。詩恩は自分には何の関係もない女だ。そんな女を探すために、時間も労力も使いたくはなかった。「優子、詩恩が時生のところに戻ってきたなら、それでいいんじゃないか?そうすれば昭乃も時生に付きまとわれなくて済むし、君も自由になれる。そのときになれば、俺たちも堂々と一緒にいられるだろ」それを聞いた優子は、歯を食いしばって言った。「景也、昭乃のせいで私がこんな目に遭ってるのに、まだ昭乃のことを心配するの?私たちの計画を忘れたの?私は今もまだ、時生のパソコンに入っている情報を手に入れられてないのよ。あの客たちの好みも秘密も、全部時生のパソコンに入ってる。それさえあなたが手に入れれば、結城家をもっと大きくしていけると思わない?」景也は理性と感情の間で、何度も心を引き裂かれるような思いをしていた。理性は告げていた。時生がこれほど多くの情報を握り、国内でも最大手クラスの取引先をいくつもほぼ独占できているのは、相手の弱みや秘密を押さえているからだ。それこそが、時生が黒澤グループを
かつて、詩恩は本当に優子たちを大切な家族だと思っていた。時生の前でも、優子はしっかりしている、雅代は優しい人だと、何度も褒めていた。当時、雅代が詩恩を実の娘のように育てていたのは、忠平がごく普通の家庭の出身で、何の後ろ盾もない人間だと分かっていたからだ。詩恩を一人前に育て上げたあと、津賀家より何段も格上の名家に嫁がせ、その家とのつながりを得ようと考えていたのだ。雅代はよく分かっていた。身分違いの家に嫁げば、肩身の狭い思いをすることになる。だからこそ、実の娘をそんな家に嫁がせるのは惜しくて、優子には好き勝手に生きさせ、やりたいことを何でもさせていた。その一方で、詩恩には名家の令嬢として生きられるよう、雅代なりに「手をかけて」育てていた。忠平が昭乃の母親と別れた当時、詩恩はまだ何も分からない年頃だった。物心ついた頃から、雅代を実の母親だと思っていた。詩恩が大学に通っていた頃、雅代はある名家に目をつけた。その家の、四十歳で妻を亡くしたばかりの男に詩恩を嫁がせようと考えた。ところが、その話を切り出すより先に、詩恩は恋人ができたことを告げた。心から愛してくれる人に出会ったのだという。相手は潮見市の黒澤家で、誰もが知る名家だった。そこから先は、もう雅代の思い通りにはならなかった。そして、詩恩が精神病院に入院して三年目を迎えた頃、雅代と優子はついに本性を現した。そして、二人は詩恩に、時生が彼女にしてきたこともすべて話した。そのときになって初めて、詩恩は知ったのだ。自分が時生にここまでひどく騙されていたことを。時生は自分の病気を治そうとしていたわけではない。ただの「軟禁」にすぎなかった。もはや異常なほどの独占欲に支配された行為だった。……時生は、涙で顔を濡らした優子を見つめた。そして、以前、詩恩がこの母娘の話をするときの穏やかな口調を思い出した。胸の奥にあった疑念が、少しずつ揺らいでいく。詩恩は何度も言っていた。優子と雅代は、自分にとって何より大切な人たちだ、と。時生はゆっくりと手を離した。優子はよろめきながら二歩後ずさり、手首を押さえて、声を殺して泣いた。一方の時生は、魂が抜け落ちたようにぼんやりと宙を見つめ、呆然と呟いた。「もしかして……本当に、俺が見間違えていたのか?いや、そんなはずは……」次の瞬間、
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