婚約者の浮気現場を目撃したとき、人はもっと取り乱すものだと思っていた。泣くとか、叫ぶとか、相手の頬を叩くとか。映画やドラマでは大抵そうなるし、私自身も、もしダニエルに裏切られることがあれば少しくらいは惨めに泣くだろうと想像していた。ところが現実の私は、ホテルのラウンジへ続く廊下の角で足を止めたまま、妙に冷静だった。目の前には、私の婚約者であるダニエル・ロスがいる。そして彼の腕の中には、私ではない女性がいた。女性は背中の大きく開いた赤いドレスを着ており、ダニエルの首に両腕を回して笑っている。彼もまた、その腰へ手を回し、誰かに見られることなど一度も考えたことがないような顔で彼女へ口づけていた。今日は、私たちの結婚式場について最終確認をする日だった。三か月後には、私はこの男の妻になる予定だった。そのために仕事の予定を調整し、母と妹の都合まで確認し、ウェディングプランナーから渡された分厚い資料に目を通してきたというのに、当の花婿は私より先に別の女性との予定を入れていたらしい。「なるほど」口から出たのは、そんな言葉だった。自分でも驚くほど感情がこもっていなかった。怒りがないわけではない。ただ、怒りより先に頭が働いてしまうのは、たぶん職業病なのだと思う。私は企業の不正会計や横領を調べる仕事をしている。数字の不自然さを見つけ、誰が何を隠しているのかを追い、証拠になる資料を一つずつ積み上げていく。感情は証拠にならない。怒鳴り声も、涙も、裁判では数字ほど役に立たない。私はバッグから携帯電話を取り出すと、二人がこちらに気づく前に数枚撮影した。一枚目は、ダニエルの横顔がはっきり写っている。二枚目は女性の顔も確認できる。三枚目には、彼の左手が彼女の腰へ回っているところまできれいに収まった。証拠としては十分だった。だから、そのまま帰ろうとも思った。ところが踵を返した瞬間、ヒールの音が大理石の床に思った以上に大きく響いた。ダニエルがこちらを見る。「エレナ?」その声を聞いた途端、胸の奥にようやく鈍い痛みが走った。十二年間付き合ったわけではない。一生を捧げたわけでもない。それでも三年間一緒にいて、結婚すると決めた相手だった。仕事が忙しい彼のために夕食を作ったこともあれば、風邪を引いた夜に薬を届けたこともある。私が徹夜続きで倒れそうになったと
最終更新日 : 2026-09-19 続きを読む