ログイン三十歳を過ぎ、これまで真面目一筋だった夫が突如としてピンク色に狂い始めた。十数年も変わらなかったダークトーンの家具はピンクに塗り替えられ、食器までピンク色に染まった。 ベランダに翻るピンク色のパジャマ、ピンク色の蝶ネクタイ、そしてピンク色のブリーフを見上げ、私は奇妙な違和感を覚えた。 「ピンクなんて女の子っぽい色で、大嫌いだって言ってなかった?」 夫の加藤達也(かとう たつや)は私に背を向けたまま、届いたばかりのピンク色のシーツをいそいそと広げていた。 「ああ、剛志(つよし)と賭けをしたんだよ。『家中の物を全部ピンクに変えられたら、海辺の別荘をタダでやる』ってな。 それに、見慣れれば案外悪くないだろう?」 私は肯定も否定もせず、剛志に電話をかけた。受話器の向こうで、彼は即座にこう答えた。 「海辺の別荘?俺、そんなもん買った覚えねえぞ?」
もっと見る「私はあなたが傷つくのを見るのは耐えられない。でも、あなたと一緒に解決策を探すことならできたはず。たとえ一生そのままでも、受け入れることはできたはずよ。だからあなたおぞましいだけでなく、滑稽なの。あらゆる理屈をつけて私に責任転嫁しようとするその姿は……最低だわ」最後の言葉が放たれた瞬間、達也の顔色は惨めなどという言葉では表現できないほど変貌した。彼はまるで晩秋の枯れ葉のように脆く、踏みつければ容易く粉々になってしまいそうだった。かつて愛した達也という男は、ただの精巧に作られた皮でしかなかったのだ。今、私の手の中にあるその皮の感触は爬虫類のようにぬらりと冷たく……そこには嫌悪だけでなく、決して拭い去れない恐怖がこびりついていた。私は背を向け、スーツケースを引いて宴会場を後にした。達也は慌てて追いかけてきたが、足元のテーブルクロスに足を取られて、派手に転倒した。その衝撃で、テーブルの上にそびえ立っていたシャンパンタワーがガラガラと音を立て、雪崩のように崩れ落ちてきた。大量のグラスと液体が達也の全身に降り注いだ。彼はシャンパンまみれになり、散乱したガラスの破片の中で、濡れ鼠のように蹲った。鋭利な破片が彼の高級スーツを裂き、肌を切り、頬を無数に傷つけていった。それは本来、彼がマゾヒストとして夢にまで見、渇望していた痛みのはずだった。だが今、そこに快楽の欠片などなかった。あるのはただ、身を引き裂かれるような絶望の激痛だけだった。私はアシスタントに離婚協議書を達也に渡すよう指示し、車に乗って空港へ向かった。保安検査を通過し、飛行機が離陸する直前まで、達也からメッセージが届き続けた。【杏奈、俺が悪かった。離婚はしたくない。君と離婚するなんて考えたこともない。愛梨はもう二度と現れない。今回だけ許してくれないか?杏奈、頼むよ!本当に後悔してる。これからは何でも君の言う通りにする。二度とこんな過ちは犯さない。殴っても罵ってもいい、だから離婚だけはやめてくれ!本当に離婚したくないんだ!】私は画面を一瞥しただけで、返信はしなかった。彼との連絡手段をすべてブロックすると、静かに目を閉じた。脳裏にふと、二十歳の頃の記憶がよぎった。高層ビルが立ち並ぶ街を見下ろし、いつか私たちもここに自分のビルを持つんだと夢見ていた頃。あの時、私は達也の
それは、二人が付き合い始めてから、達也が愛梨に言った最もキツイ言葉だっただろう。普段、愛梨の足元に傅き、その蹂躙すら喜んで受け入れる達也の姿が彼女に、達也は自分の意のままになる従順な子羊だという致命的な錯覚を与えていたのだ。だからこそ、愛梨は逆上した。彼女は衆人環視も構わず、達也の頬を思い切り引っぱたくと、彼よりもさらに冷たい声で言った。「忘れたの?あなたは私の犬よ。ご主人様に偉そうな口を利くなんて、お仕置きが足りないんじゃない!」私を含め、その場にいた全員が絶句した。まさかこの緊迫した局面で、彼女が「調教師」としての性を露呈するとは。会場は水を打ったように静まり返った。達也の面目は完全に潰れ、そのプライドは剥ぎ取られて地面で踏み躙られたも同然だった。愛梨は普段のように達也が跪き、「手が痛くないか」と気遣うのを待っていた。だが待っていたのは、彼女の一撃の三倍はあろうかという渾身の平手打ちだった。愛梨はその一撃で床に転がった。頭の可愛い髪飾りは無惨に飛び散り、ピンク色のウィッグは大きくズレて、滑稽な姿を晒していた。そして、その白く柔らかい頬にはまるで焼き印でも押されたかのように、どす黒い手形がくっきりと浮かび上がった。愛梨は信じられないという目で顔を上げ、涙を流しながら、痛みに顔を歪めて達也を問い詰めた。「私をぶったわね……達也、よくも私を!私はご主人様なのよ!私に捨てられたいの?今すぐ鞭でひっぱたいてやるわ!泣いて土下座して『許してください』って言うまで、打ち据えてやるんだから!」ここまで来ると、愛梨のそれは単なる愚かという次元を通り越していた。彼女は完全に狂気の世界に没入しており、達也の顔色が怒りと屈辱でどす黒く染まっていることさえ目に入っていなかった。私が掻き回したこの茶番劇もようやく幕引きだった。もっと見ていたかったが、飛行機の時間が迫っていた。これ以上、達也のために人生の一分一秒たりとも無駄にする気はなかった。私はステージを降り、隅に置いていた二十インチのスーツケースを持って逃げ出そうとした。達也が後ろから追いかけてきた。だが、私の手にあるスーツケースを目にした瞬間、彼の瞳は衝撃で激しく揺れ動き、その声は恐怖にも似た不安で小刻みに震えていた。「杏奈、スーツケースなんて持ってどこへ行くんだ
愛梨は幾重にも重なるドレスの重い裾を鷲掴みにすると、なりふり構わずステージへ駆け上がってきた。そして、まるで雛を守る親鳥さながらに達也の前に立ちはだかり、私を殺さんばかりに睨みつけた。「杏奈さん、文句があるなら私に言って!達也をいじめないで!私は普段、彼を叩くことすら惜しんでるのに!」彼女の所有権を主張するような言葉は極めて幼稚で、滑稽だった。愛梨は目に痛々しさを湛え、振り返って達也の顔を撫でた。「大丈夫?ごめんね達也、全部私のせいよ。辛い思いをさせて」達也は無意識に私を見た。彼は私の瞳の底にある嘲笑を見て取ると、瞳孔が収縮し、冷たい顔で愛梨を突き放した。愛梨は達也が自分に服従することに慣れきっており、彼を完全に支配していると思い込んでいた。だから拒絶されても怒るどころか、再び私に向き直り、涙を絞り出して決然と言い放った。「杏奈さん、気が済むまで殴っても罵ってもいい。でも、私と達也のことは、最初から最後まで私の独りよがりなの。私が彼に死ぬほどしつこく付きまとって、やっとの思いで振り向いてもらえただけなんだから。杏奈さん、私がしたことが悪いのは分かってる。でも私、本当に達也を愛してるの。誰よりも彼を愛して、大切にして、彼の全てを理解してる。彼のためなら命だって捧げられる。私は彼の魂を愛してるの!」まるで悲劇のヒロインを気取る愛梨の言葉は、愛人という生き物の厚顔無恥の極みを私に見せつけた。彼女の脳内では、あろうことか私こそが二人の愛を邪魔する部外者なのだろう。私が潔く身を引き、彼女の手を達也の掌に重ねて、「真実の愛が見つかってよかったわね」と祝福して去るのが、彼女にとってのハッピーエンドなのだ。達也もまさか愛梨がここまで開き直るとは思わなかったようで、眉をひそめて彼女の腕を引っ張った。「いい加減にしろ、もう喋るな」愛梨は構わずに、自分の愛の陶酔に浸り続けた。私に運と愛を奪われた悲劇のヒロインを演じているのだ。「嫌よ、言わせて!どうして本当のことを言っちゃいけないの?私と達也こそが真実の愛で結ばれてるのよ。愛に出会った順番なんて関係ないわ。愛されていない人間こそが悪いなのよ!ええ、認めるわ。杏奈さんは私より優秀だし、運も良かった。私より先に達也と出会えたものね。でも、だからって達也が一生あなたに縛られなきゃいけな
ステージの下で全てを目撃したゲストたちはスマホを高く掲げ、口々に噂し始めた。「おい待て、聞き間違いじゃねえよな? 今、ステージの女、愛梨の彼氏のこと『私の旦那』って呼んだぞ。愛梨のやつ、彼氏は独身貴族で、自分と会うまで女っ気がなかったって言ってなかったか?」「うわ、これヤバすぎだろう。親戚中に拡散してやる。あの男、見た目は真面目そうなのに、裏ではこんな激しいプレイしてたのかよ。蝋燭に鞭まで使ってるぞ、エグいな!」「金持ちの世界って乱れてるな、やっぱり。私、愛梨と地元が一緒なんだけど、なんで急に羽振りが良くなったのか不思議だったのよ。金持ちの愛人やってたわけね?ステージの奥さんあんなに知的で綺麗なのに、あの男、目が腐ってんのか?」愛梨は次々と浴びせられる言葉に顔面蒼白になり、唇を震わせた。「違うの、聞いて、みんな聞いて!動画は偽物よ!合成よ!」だが必死になればなるほど、やましさが露呈するだけだった。達也がステージに駆け上がり、私からマイクを奪い取ると、羞恥と怒りに満ちた顔で客席を睨んだ。「撮るな!見るな!動画は偽物だ、全部デタラメだ!」続いて彼が私に向けた視線はまるで猛毒を含んでいるかのように鋭く、禍々しいものだった。そこには煮えたぎる憎悪と、あろうことか「酷い仕打ちだ」と訴えるような理不尽な色が充満していた。「渡辺杏奈(わたなべ あんな)、俺が浮気したのは悪かった。でも、こんな手段で報復する必要はないだろう?これが俺や会社にどれだけの損害を与えるか分かってるのか。少しは頭を使って行動しろよ!」やはり彼も恥を知っていたのだ。愛梨との関係が人に見せられないものだと分かっていたのだ。ずっと自覚がないのかと思っていた。私は眉を上げ、口角を吊り上げた。「達也、私がチャンスを与えなかったと言える?何度もチャンスをあげたわ。ただあなたが大切にしなかっただけ。あなたが大切にしなかったのに、どうして私があなたの顔を立ててあげなきゃいけないの?」達也は言葉に詰まり、しばらく答えられなかった。彼も思い出したのだろう。私が確かに何度もチャンスを与えていたことを。一度目は、家にピンク色の物が増え始め、私が違和感を覚えて剛志に電話した時。彼は剛志と結託して私を騙し、言いくるめることを選んだ。二度目は、私が初めて家中