Mag-log in星来は電子パッドに素早くペンを走らせ、さらなる推測を画面に浮かび上がらせた。【ダミーじゃない本物のバンが最後に姿を消したのは、第三化学工業団地付近だ。黒幕の息がかかった連中は、絶対にあの場所に何らかの痕跡を残しているはず。奴らが拉致の実行犯と接触した決定的な証拠か、悠斗が別の場所へ移送された記録を見つけ出さない限り、本当の悪者は追い詰められない】ペンを置いた星来の眼差しは、ただ真っ直ぐに瑛優を見据えていた。あどけない顔立ちでありながら、その瞳の奥には年齢に似つかわしくない、冷ややかで底知れぬ凄みが宿っている。瑛優は、星来の綺麗な顔を数秒間じっと見つめ返していたが、やがて小さな両手で乱暴に目元の涙を拭った。「……私、本当のことを突き止めに行く」ぎゅっと拳を握り、決意に満ちた声を上げる。「悠斗のやつ、いっつも憎たらしいし、すぐ私を怒らせるし……ママのことだって、いっぱい悲しませてる。けどさ、あいつがこのまま消えちゃうなんて、そんなの絶対に許さないんだから!」言い切ると、瑛優は人差し指を小さな唇の前に立て、「しーっ」と息を吹きかけた。「私が悠斗を探しに行くこと、大人たちには絶対ナイショだよ!」そう言い残し、背負ったリュックの紐をぐっと握り直して、くるりと扉の方へ背を向ける。星来は椅子に座ったまま、ドアへ向かって駆け出していく瑛優の背中を静かに見つめていた。書斎のドア。他人に心を閉ざして生きてきた星来にとって、この空間を区切る一枚の板は、決して越えられない巨大な城壁のようなものだった。かつて、この部屋から一歩外へ踏み出す勇気を持つだけでも、気の遠くなるような時間を費やしたのだ。だが今、瑛優はただこのドアを出ていこうとしているわけではない。悠斗が消え失せた場所。大人の悪意と、得体の知れない危険が渦巻く真っ暗な泥沼に向かって、その小さな足で飛び込もうとしているのだ。ならば、自分も。星来は音もなく椅子から滑り降りた。血が滲むほど強く下唇を噛み締め、瑛優の背中を追う。「……ん?」背後からの気配に気づき、瑛優が不思議そうに振り返った。星来は一歩、また一歩と距離を縮めていく。靴の裏に鉛の錘でも張り付いているのかと思うほど、ずっしりと重たい足取り。その一歩ずつに、幼い心が振り絞った
星来の指先がトラックパッドを軽く弾く。赤い丸印のついた映像の一つが拡大され、画面いっぱいに鮮明な画質で立ち上がった。桜井幼稚園の裏手を通る路地の監視カメラ映像だ。タイムスタンプは、昨日の午後三時十七分を示している。画面の隅、木陰に一台の真っ黒なミニバンがひっそりと停まっていた。窓ガラスには分厚いスモークフィルムが貼られ、車内の様子は全く窺えない。不気味なことに、そこに丸七分間も駐停車しているにもかかわらず、誰も車から降りてくる気配がなかった。続いて星来が別の映像データを呼び出し、二つのウィンドウを並べて表示させる。二つ目の動画は、幼稚園から東へ三百メートル離れた交差点を捉えたものだ。時刻は三時十八分。先ほどの映像と、わずか一分しか違わない。映っていたのは、またしても黒のミニバン。車種も、ボディカラーも完全に一致している。それどころか、スモークフィルムの反射の具合や、車体に付着した細かな埃のつき方までもが、まるで不気味な双子のようにそっくりそのまま複製されているのだ。しかし、この二台目の車は幼稚園には近づかない。あえて逆方向へと走り去り、三つ先の交差点でわざと速度を落とすや、交番の目の前をいかにも見せつけるように堂々と通り過ぎていった。「えっ……車が二台?まったくおんなじ形じゃん!」瑛優は驚きのあまり目をまん丸にして画面に齧り付いた。星来は無言のままタブレットを掲げてみせた。真っ白な液晶画面に浮かび上がった文字は、どこまでも冷静で冷徹だ。【替え玉車両。一台は監視役、もう一台は囮】さらに星来の指が、残像が見えるほどの目にも止まらぬ速さで画面を叩き続ける。【一台目は本物。現場の観察と指示出しを担当してる。二台目は偽造ナンバーをつけたクローン車で、警察の目を逸らすためのダミー。警察が防犯カメラを追えば、目立つ動きをしている二台目に真っ先に食いつく。でも、それが空っぽの車だと気づいた頃には、一台目はすでに完全に姿を消してる仕組みだ】タブレットの文字を読み終えると、瑛優の小さな両手がぎゅっと硬い拳を握りしめた。「じゃあ、この本物の車が悠斗を連れ去ったの……?悪いやつら、すっごくズルい!」星来の指の動きは止まらない。悠斗の失踪は、単発の行き当たりばったりな事件などではなかった。裏で糸を
「早く……引いて!」歯の隙間から絞り出すような声は、力が入りすぎているせいでぷるぷると震えていた。不意打ちを食らった凌一は、思わず動きを止めた。反射的に振り返ると、幼い子供がどういう理屈か力任せに車椅子の前輪を浮かせ、そのまま自分ごと十数センチも宙に持ち上げているではないか。思わず口元を引きつらせ、注意しようと開きかけた唇を慌てて結ぶ。「大叔父さま、がんばれっ!」奥歯をギリリと噛み締めた瑛優が、小さな腕から信じられないほどの火事場の馬鹿力を発揮し、さらに数センチ車椅子を押し上げた。促された凌一はすぐさま前を向き直り、届くようになった一番高い位置へと素早くチョークを走らせた。カツッ、と軽快な音が鳴り、線は淀みのない一筆書きで完璧な軌道を描いて繋がった。「もういい。降ろしてくれ」努めていつも通りの、冷たく落ち着いた平坦な声を出す。言われた瞬間、瑛優がぱっと手を離したため、車椅子がドンッという鈍い音を立てて床へ着地した。その想定外の衝撃で凌一の体が大きく前へ揺れたが、咄嗟に黒板の縁を掴んでなんとか姿勢を保った。「はぁ、はぁ、はぁ……」瑛優は大きく肩で息をしており、その額には玉の汗が浮かんでいる。パンパンに張った小さな腕をごしごしとさすりながらも、その顔は「やってやったぞ」という誇らしげな笑顔に満ちていた。「大叔父さま、すっごく重かったよぉ!」悪びれもせず、幼子らしくすっぱりと事実を指摘だ。凌一はじっと目の前の小さな女の子を見つめた。しばらくの沈黙のあと、その涼しげな瞳の奥にほんの一瞬だけ、微かな動揺のようなものが光ったが、それは捉えきれないほどの速さで消え去った。粉受けに短いチョークをコトリと置き、車椅子のハンドリムを回して向きを変える。「星来なら隣の部屋だ。待っているぞ」頼む、今起きた出来事は、このままさっさと無かったことにしてくれ――涼しい顔をした凌一の背中からは、そんな声なき本音が切実なグラデーションとなって透けて見えるようだった。瑛優がこくりと頷き、扉へ向かって駆け出そうとしたとき、背後から再び名前を呼ばれた。「瑛優」ピタリと足を止め、振り返る。凌一は少しだけ唇を動かした。昨夜の恐ろしい拉致騒動の後、夕月はちゃんと眠れたのか。食事は喉を通ったのか。今朝の様子はどうだ
瑛優の小さな体が、ほんのわずかにこわばった。それでも何でもないような顔を必死に取り繕おうとしている。「いかないよ。星来お兄ちゃんのおうちで宿題するだけだもん。それにね、私がお兄ちゃんに折り紙を教えてあげる約束なんだ! 動物の折り方、いーっぱい知ってるから」夕月はゆっくりと歩み寄り、玄関で娘と同じ目線になるようにしゃがみ込んだ。「瑛優」その声は柔らかかったが、決して誤魔化しを許さない真剣な響きがこもっていた。「悠斗のことが心配なのは、ママにもよく分かっているわ。でもね、あなたも星来くんもまだ小さな子どもでしょう? 危ないことは、全部大人たちに任せてくれないかな」瑛優は目を瞬かせ、下唇をぎゅっと噛んで黙り込んだ。「もしも何か手がかりを思いついたとしても、絶対に自分たちだけで動いたりしないで。必ず一番に大人に相談してちょうだい」夕月は娘の小さな両手を包み込み、優しく、しかしはっきりと言い聞かせた。「約束できるわね?」瑛優は力強く何度も頷いた。夕月に心配をかけるようなことだけは、絶対にしたくなかったからだ。「……うん。ママ、約束する」夕月はその丸い額に優しいキスを落とした。「いい子ね。それじゃあ行ってらっしゃい。気をつけてね」ドアが閉まり、廊下に一人残された瑛優は、母親の唇が触れた額に手を当てていた。胸の奥に、ちくりとした罪悪感が走る。実は、彼女と星来の二人で独自に周辺の捜索マップを書き上げていたのだ。そして今日の午後、例の廃工場エリアの周辺へ自分たちの足で探索に行こうと計画していることを、夕月には内緒にしていた。「ママ、ごめんなさい」瑛優は誰にも聞こえないような声で小さく呟く。「だけど……私にも、もうちょっとだけ、できることがあるから!」小さな決意を胸に秘めたまま、リュックを揺らしてタタタッとエレベーターへ向かって走っていった。*瑛優は小さなリュックを背負ったまま、慣れた足取りで凌一の暮らす邸宅の玄関を抜け、室内へと上がり込んだ。家中はひっそりとしていて、廊下の突き当たりからわずかな物音が微かに漏れ聞こえてくるだけだ。音を頼りに進んでいくと、書斎のドアがほんの少しだけ開いている。そっと顔を覗き込ませた瑛優の視界に真っ先に飛び込んできたのは、壁一面を覆い尽くす巨大な黒板だった。
瑛優は悪戦苦闘の末にようやく卵の殻を拾い上げ、「ふう」と大きく息を吐き出してから、二つ目の卵に挑戦し始めた。今度は少しマシだった。殻は落ちなかったものの、中身がコンロに少し飛び散ってしまった。慌てて布巾を取って拭こうとした拍子に、うっかり脇に置いてあった小皿にぶつかってしまい、真っ白な塩が調理台の上にぶちまけられる。「ああっ!ど、どうしよう!どうしよう!」パニックになりながら両手で塩を集めようとするが、やればやるほど散らかるばかりで、ついにはパジャマの袖にまで生卵の黄色い液体がべったりとついてしまった。その様子があまりにもおかしくて、夕月はたまらず小さく吹き出した。キッチンに響いたその笑い声に、瑛優がびくっと肩を揺らして振り返る。入り口に母親が立っているのを見つけると一瞬目を丸くし、それから「やばい」と言わんばかりにきまずそうな顔を浮かべた。自分が盛大に汚したコンロを隠すように、咄嗟に両手を背中の後ろに回す。「マ、ママ……どうしてこんな早くに起きちゃったのよ……!」見つかってしまった気恥ずかしさが、その小さな声ににじみ出ていた。夕月はゆっくりと歩み寄り、踏み台の上から娘を抱え下ろした。そのまま目線を合わせるようにしゃがみ込み、鼻の頭に浮かんだ汗の粒を親指でそっとぬぐう。「何してたの?」その声は驚くほど優しく、自分でも気づかないうちに微かに震えていた。瑛優はうつむいたまま、エプロンの端をぎゅっと握りしめた。「……ママに、朝ごはん、作ろうと思って。昨日の夜、ママすっごく疲れてたから……少しでも長く寝かせてあげたくて」瑛優がそろりと顔を上げる。その澄んだ瞳は、まっすぐで真剣だった。「涼おじさんが、パンとスープを準備してくれてたんだけど。私、ママに『目玉焼き』を作りたかったの。ママ、前に作ってくれたでしょ?『これを食べたら元気になるよ』って。だから、ママにも食べてもらって……少しでも、元気になってもらいたかったの」夕月は、一瞬にして目の前が涙で滲むのを感じた。コンロの上に目をやると、そこにはいびつな目玉焼きが二つ並んでいた。一つは火が通っておらず黄身がだらしなく流れ出し、もう一つは縁が真っ黒に焦げて鍋底にへばりついている。その横には、大きさのバラバラなフルーツが盛られた小さなボウルが置かれていた
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、寝室のフローリングの床に細い線を引いている。部屋全体はまだ薄暗く、微かに埃が舞っていた。夕月はひどく長い夢を見ていた。深い霧の中で、誰かが「ママ」「ママ」と叫んでいる。しかし、いくら声のする方へ手を伸ばしても、濃い霧に阻まれて姿を見つけることができなかった。ゆっくりと目を開く。覚醒した直後の数秒間、ひどい目眩のような感覚に襲われ、自分が今どこにいるのかまったく分からなかった。ただ、朝の光が暖かく、枕の表面に見知らぬ清潔な香りが微かに残っていることだけが感じ取れる。夕月は無意識のうちに、その枕にそっと頬をすり寄せた。シダーウッドにミントを少し混ぜたような、冷たくて淡い香り。それが引き金となり、昨夜の記憶が冷水のように一気に脳裏へなだれ込んできた。悠斗が消えた。楓が警察に連行された。橘家で監禁されたこと。吹き荒れる夜風の中で、警察からの知らせを待ち続けたこと。極限まで張り詰めた精神と疲労の限界が重なり、帰りの車中で泥のように眠りに落ちてしまったのだ。夕月は弾かれたように上体を起こし、部屋の中を見回した。そこにいるのは自分一人だけだった。ふと視線を動かすと、ナイトテーブルの上に保温ポットが置かれている。中には、すぐに飲めるように温度が調整された白湯が入っていた。そしてポットの横には、ボールペンで重石をされたレモンイエローの付箋が横たわっている。付箋を取り上げると、見覚えのある文字が目に飛び込んできた。力強い筆圧でありながら決して主張しすぎず、払いの部分に独特の丸みを帯びるその筆跡は、間違いなく涼のものだった。『パンとスープはキッチンに置いてある。温めるだけで食べられるから。今日は冷え込むから、外に出る時は必ず一枚多く羽織ること』昨夜、意識を手放す直前の最後の光景が鮮明に蘇る。ソファの横の低いスツールに腰を下ろした涼の姿。オレンジ色の間接照明が、普段は鋭い彼の横顔をひどく柔らかく照らし出していた。彼は一言も発さず、ただ静かな瞳でこちらを見つめていた。あの時、すでに睡魔に抗えずにまぶたが落ちかけていたが、ずり落ちたブランケットを彼が丁寧に掛け直してくれたことだけはぼんやりと覚えている。その時、顎の輪郭をかすめていった涼の指先は、少しだけ冷たかった。夕月はその小さな付箋を見つ
「悠斗くん、どうしたの?」クラスメイトたちが心配そうに声をかける。でも悠斗は答えない。衣服を抱きしめたまま、ただひたすら泣き続けた。橘邸に帰った悠斗は、まるで魂が抜けたようにぐったりしていた。佐藤さんでさえ、悠斗の様子がおかしいことに気づいた。「坊ちゃま、どうなさいました?先生から伺ったのですが、今日は休み時間に泣いていらしたとか……瑛優お嬢様に何かされたのですか?」橘家の使用人たちは皆、悠斗の一挙手一投足を注視している。佐藤さんが把握しているのは、悠斗が瑛優と何か話した後、突然泣き出したということだけだった。悠斗は首を振る。「瑛優は僕を叩いてない……もう、一人にして」
彼女が薬を飲ませると、ようやく北斗の容態は落ち着いてきた。北斗は夕月に打ち明けた。この家では、盛樹に殴られたことのない者など一人もいないのだと。楓は幼い頃から盛樹に虐待され、次第に暴力を崇拝するようになった。女性という枠を捨て、男社会に溶け込もうとした。まるで自分も加害者になれば、被害者にはならないと信じているかのように。「心音さんが可愛がられてるように見えるだろ?でも俺は見たんだ。あいつの顔が腫れ上がるまで殴られてるのを。あの人の頭がおかしいのは、殴られすぎたからだと思ってる」「昨夜は、何があったの?」北斗はベッドに横たわったまま、虚ろな目で天井を見つめた。「俺の本当の親
足元から底冷えするような感覚に襲われながら、夕月は言い放った。「橘冬真……あんた、子供だけじゃなくて、自分の脳味噌までどこかに落としてきたの?」予想外の罵倒に、冬真が目を見開いて絶句する。その隙を与えず、夕月は畳み掛けた。「よく思い出してみたら?今日、幼稚園で大勢の前にもかかわらず悠斗を怒鳴りつけたのは、どこの誰?悠斗を置き去りにしてさっさと帰ったのは誰よ?あの子はね、あんたを追いかけて外に出たの。あんたの目は節穴なの?まだ治ってないわけ?」「いい加減にしろ!」頭に血が上るのを感じながら、冬真は怒鳴り声を上げて夕月の言葉を遮った。彼はズボンのポケットに両手を突っ込み、凍りつくよ
夕月は瑛優の手を引き、蓬や色とりどりの瓢箪で飾られた幼稚園の活動室に足を踏み入れた。ふわりと、ちまきの笹の葉の清々しい香りが鼻を掠める。彼女はすぐに、窓辺に立つ凌一の姿を見つけた。今日の彼は、薄い亜麻色のスタンドカラーシャツを身に纏っている。すっと佇むその姿は清らかで気高く、周囲の喧騒とは見えない壁一枚で隔てられているかのようだった。その隣には、星来が静かに立っている。手には肌身離さず持ち歩いている電子書籍リーダーを固く抱え、大きな瞳で警戒するように周囲を観察していた。「大叔父さま!星来くん!」瑛優は楽しそうな小鳥のように、ぱたぱたと駆け寄った。凌一は軽く頷くと、その視線は瑛優を通