LOGIN結婚して五年、江原素羽(えばら そわ)は須藤家の嫁として、慎ましくも誠実に役目を果たしてきた。だが、その努力は人前で一度も認められたことはない。 それなのに、須藤司野(すどう つかや)の初恋の女は、ただ少し甘えただけで、すべての「須藤夫人」の特権と優しさを当然のように受け取っていた。 あの日の交通事故で、彼は迷わずその女を救い、素羽を置き去りにした。 命さえ顧みられなかったあの瞬間、素羽の心は完全に凍りついた。 偽装死に成功し、ついに須藤夫人の座を降りることにした。 そして再び顔を合わせた時、あのいつも冷静で完璧主義だった司野が、まるで捨てられた子供のように不安げで、震える声を押し殺し、赤い目で縋りつく。 「素羽、俺と一緒に帰ろう、な?」
View Moreあの二人なんて、この先一生離れず、共倒れになればいいのよ。互いに地獄へと道連れにしてしまえばいいわ!「……出て行って!素羽はもうあなたと離婚したのよ。今の二人には、これっぽっちの関係もないわ!これ以上彼女に無理強いするつもりなら、こっちだって命がけでやり返す。みんなまとめて道連れにして、終わりにしてやるわよ!」楓華はそう言い放つと、司野の体を力任せに突き飛ばし、病室の外へと叩き出した。さらに、室内で呆然と立ち尽くしていた亘にも、鋭い声を向ける。「……あなたも、出て行って!」今の彼女を敵に回すのは得策ではないと悟り、亘は尻尾を巻くように大人しく部屋を後にした。扉が閉まると、楓華はベッドの上で傷だらけのまま横たわる素羽を見つめた。胸が締めつけられるような痛みに、思わず涙を拭う。それでも、無理やり気持ちを奮い立たせた。――しっかりしなきゃ。私が、この子を支えないと……病室の外では、司野が魂の抜けたように立ち尽くしていた。「子宮外妊娠」という言葉が、頭の中で何度も何度も反響している。楓華の言葉を、すべて否定したかった。自分と美宜の間には何もない。彼女を愛してなどいない。亡き友との約束を守るため、人一倍気にかけていただけだ。それ以上の意味など、なかったはずだ。亘は、抜け殻のようになった親友を見て、胸の内で深くため息をついた。何を言えばいい。何も言えやしない。ただ一つ言えるのは……自業自得だ、ということだけだ。この破滅的な状況は、すべて司野自身が招いた結果であり、誰のせいでもない。亘は彼を現実へ引き戻すように、低く告げた。「祖母の死は、素羽にとって一生解けない呪いになる。今のところ、美宜が関わっているという決定的な証拠はない。だがな……俺の知る限り、素羽は理由もなく発狂するような女じゃない」美宜を殺そうとするほど追い詰められていたのだ。あの女が潔白なはずがない。「この一大事に、もう二度と判断を誤るな。美宜であろうとなかろうと、拉致を実行した犯人を必ず引きずり出せ。そして、素羽のためにケジメをつけろ」その言葉を受け、ようやく司野の意識が一点に収束した。美宜が黒幕なら、容赦はしない。たとえ違ったとしても、芳枝を死に追いやった真犯人を必ず突き止め、相応の代償を払わせる。---死者は、決して戻らない。どれほ
司野の顔は、失血のためすでに蒼白だったが、その言葉を聞いた瞬間、完全に血の気を失った。奥歯を強く噛み締め、静かに目を閉じる。やがて再び瞼を開いたとき、その瞳には滲む湿り気と、赤く浮き出た血走りが入り混じっていた。亘は彼の肩を軽く叩き、無言のまま慰める。――この状況で、「子供ならまた授かる」などという言葉は、口が裂けても言えない。そもそも、二人の関係に「次」があるかどうかさえ危ういのだから。司野は布団を跳ね除けると、亘の制止も振り切り、よろめく足取りで素羽のもとへ向かった。病室の前では、楓華が般若のような形相で立ち塞がっていた。もし人を殺しても罪に問われないのなら、素羽が手を下すまでもなく、彼女が真っ先にこの男へ「天罰」を下していただろう。ベッドに横たわる素羽は、先ほどまでの狂乱が嘘のように静まり返っていた。胸のかすかな上下がなければ、息絶えているのではないかと錯覚するほど、その存在は薄い。司野は震える手を伸ばし、痩せ細った頬に触れようとする。だが、指先が届く直前、楓華の鋭い平手がその手を弾き飛ばした。楓華は司野を突き飛ばし、二人の間に割って入ると、雛を守る親鳥のように彼を睨み据えた。そして、積もりに積もった怒りを言葉の刃へと変え、叩きつける。「触らないで!!」その声は、憎悪に震えていた。「素羽に、あなたの今さらの偽善なんていらないの!彼女があなたを必要としていたとき、あなたはどこで何をしていたのよ!」司野の蒼白な唇がかすかに動く。だが言葉は出てこない。胸を刺す罪悪感が、彼の声を奪っていた。楓華は目を真っ赤に腫らし、嘲りを含んだ声で吐き捨てる。「素羽が冷たい霊安室でおばあちゃんに付き添っていたとき、あなたは美宜とキャンドルランチを楽しんでいたんですってね!どれほど甘くて幸せな時間だったのかしら!」「……違う、そんなつもりじゃ……」司野はかろうじて弁明しようとする。それはただの送別の食事だったのだと。だが楓華にとって、その言い訳は汚物にも等しかった。「そんなに愛し合っているなら、どうして素羽に執着するの?自分が惨めなのは勝手だけど、なぜ彼女まで巻き込んで地獄に落とすのよ!知ってる!?素羽の人生は、あなたに壊されたのよ!好きでもないなら、どうして手放してあげなかったの!?彼女の意思なんて無
司野はその言葉を耳にした瞬間、全身を硬直させた。信じ難いという表情のまま、耳の奥では激しい耳鳴りが鳴り響いている。「……何と言った?今、何と……」彼は再び、狂気に取り憑かれたような素羽を見つめた。心臓を力任せに握り潰されたかのような痛みが走り、息をすることさえままならない。「誰だ……誰がやったんだ!なぜ誰も俺に教えなかった!」楓華は憎しみを込めて美宜を睨み据えた。「あなたの隣にいる、その卑劣な女よ!」司野の視線が美宜へと向けられる。彼女は両目に涙を溜め、必死に首を横に振った。「司野さん、私じゃないわ。何が起きたのかさえ知らないの。分かっているでしょう?私は昨日ずっと病院にいたの。私じゃない、私は何もしていないわ!」司野は喉を鳴らし、苦しげに声を絞り出した。「……何かの誤解じゃないのか?」――美宜は昨日、俺が自ら病院へ送り届けたんだ。彼女が人を殺めるなど、そんなことが……素羽の掠れた声が、静かに響く。「……離して」楓華は手を緩めない。素羽は続けた。「もう刃物はない。誰も殺せないわ」その言葉に、楓華は震える手をゆっくりと解いた。素羽の漆黒の瞳が司野を射抜く。そこには一片の温もりもなく、ただ凍てつく冷気だけが宿っていた。「いっそ今ここで私を殺して、二度と逆らえないようにすればいい。私が生きている限り、美宜の命は必ず奪ってやる」司野は息を呑んだ。その冷酷な眼差しに、胸の奥が締め付けられる。そのとき、警察が到着した。警官たちの鋭い視線が一同に注がれる。血なまぐさい惨状は、誰の目にも明らかな事件現場だった。店員の証言により、素羽は犯人として指名され、警察は法に則って彼女を連行しようとする。素羽は抵抗しなかった。だが、それを司野が許さなかった。周囲がどれほど言葉を交わそうと、素羽は何一つ関心を示さない。やがて遮る者がいなくなると、彼女はふらつきながら外へと歩み出した。一歩進むごとに、足元には血の足跡が刻まれていく。異変に気づいたのは楓華だった。視線を足元からゆっくりと上へ辿ると、素羽の茶色のワイドパンツがどす黒く染まっているのが目に入る。血の出所は――彼女の股間だった。「……素羽、血が出てる……っ!」素羽は無表情のまま視線を落とした。湿った感触が、この血がどこから流れて
血に濡れたナイフが、再び司野の腹部を貫いた。遅れて襲いかかる激痛が、ようやく彼の思考を現実へと引き戻す。だが、彼には理解できなかった。なぜ素羽が、これほどまでに自分を憎み、殺そうとするのか。「司野さん!」美宜は、刃を突き立てられた司野の姿を目にすると、迷わずテーブルの花瓶を掴み上げた。そして、それを素羽の頭部めがけて叩きつける。花瓶は凄まじい音を立てて粉々に砕け散った。素羽の頭を濡らした水滴は、透明から淡い桃色へ、そしてやがて鮮血へと変わっていく。左目は流れ落ちる血に染まり、視界は真紅に塗り潰された。彼女はゆっくりと首を巡らせ、まるで地獄の亡者のような形相で美宜を睨み据えた。その悪鬼のごとき眼光に、美宜は息を呑み、恐怖に身を震わせる。「……素羽、司野さんはあんたの夫なのよ!それなのに殺そうとするなんて、正気じゃないわ!あんた、狂ってる!」素羽は何も答えない。ただ司野の体からナイフを引き抜くと、今度はその切っ先を美宜へと向けた。いまの彼女は、目に映るすべてを屠ろうとする殺人鬼そのものであり、凄まじい殺気をまとっていた。岩治と楓華たちが駆けつけたのは、ほぼ同時だった。車を止めるや否や、彼らの目に飛び込んできたのは、パニックに陥りレストランから逃げ出してくる客たちの姿だった。事情を掴めないまま、楓華の胸に言いようのない不安が渦巻く。群衆の中から「人殺しだ!」という叫び声が響き、彼女は人波をかき分けて中へと突進した。そこで目にしたのは、素羽が司野の腹部に刃を突き立てている光景だった。楓華はその場で凍りついた。亘も、そして何も知らない岩治も同様だった。岩治は、目の前の非現実的な光景に思考を完全に奪われていた。――奥様が……正気か!?美宜は迫り来る刃に怯え、後ずさった拍子に自分の足に躓き、無様に床へと倒れ込んだ。だが、素羽は逃がさない。ナイフを振り上げ、そのまま彼女の心臓めがけて一気に突き下ろす――その場にいた全員が、絶望の中で息を呑んだ。「素羽、やめろ――っ!」司野の声が響き渡る。刃先が美宜の胸元まで数センチに迫ったその瞬間、司野は素手でナイフの刃を掴み取った。鋭利な刃が彼の掌を裂き、拳を伝って滴り落ちる血が、美宜の服を赤く染めていく。美宜は瞳孔を見開き、呼吸を忘れ、死
幸雄と七恵の誕生日は、須藤家にとってきわめて重要な行事である。今月末、七恵が八十歳の傘寿を迎えるにあたり、須藤家では盛大な祝宴の準備が着々と進められていた。気づけば、宴を三日後に控える時期になっていた。食事中、司野のスマートフォンが何度も鳴り響いたが、彼はすべてを拒否した。しかし、最後に届いた一通のメッセージが、彼の表情を一変させる。「二日ほど出張に行ってくる」そう告げられても、素羽はとくに反応を示さなかった。無言のままの彼女を見つめ、司野は思わず問いかける。「……何か言うことはないのか?」素羽は顔を上げ、冷ややかな視線を向けた。そして次の瞬間、事務的に口を開く。
素羽ははっと目を見開き、彼をきつく睨みつけた。「ここはあなたの出る幕じゃない。病気があるなら、医者にでも診てもらったら?」司野は素羽をじっと見つめ、口の端に笑みを浮かべた。しかし、その瞳には一片の温度もなかった。「随分と、あいつのことが心配らしいな」素羽は彼の手をぱしんと振り払った。「あなたの人間関係なんて知らないわ。私の人間関係に、あなたまで口出ししないで」「お前は俺とは違う」司野は素羽を見据え、一言一言を刻むように言った。「お前は、俺が金で買ってきた妻だからな」その言葉が耳に届いた瞬間、素羽の顔からさっと血の気が引いた。薄情で冷酷な言葉が、再び司野の
二人とも格闘技の心得があることは一目で分かったが、司野の腕前は明らかに清人を上回っていた。数度の攻防で清人は次第に劣勢に追い込まれ、ついには司野の一撃が真正面から彼の顔にめり込んだ。清人の口元から血が滲むのを見て、素羽はさっと顔色を変え、居ても立ってもいられなくなった。清人が司野にこれ以上何かされるのを、ただ見ているわけにはいかなかった。彼女は岩治に訴えるように言った。「清人先輩は普通の人じゃないの。もし本当に何かあったら、須藤家にとっても何の得にもならないよ」岩治がそれを知らないはずがなかった。司野のこの猛々しい勢いを見る限り、どう考えても本気で叩きのめすつもりだ。妻を慰
ホテルにチェックインすると、清人は部屋で母・真紀の到着を待っていた。本来なら空港まで迎えに行くはずだったのだが、途中で真紀から「ホテルで待っていて」と連絡が入り、清人は深く考えることもなく、そのままホテルへ向かった。部屋に入ってしばらくしてから、清人は口を開いた。「母さん、どうして急に北町に?」真紀は昔から北方の気候が苦手で、普段はほとんど北の土地に足を運ぶことがなかった。真紀は彼を咎めるようにちらりと見やり、言った。「あなたに会いたかったのよ。でも、あなたは全然家に帰ってこないでしょう?それじゃ、どうしようもないじゃない」清人は母の肩を支えてソファに座らせると、そ
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