LOGIN結婚して五年、江原素羽(えばら そわ)は須藤家の嫁として、慎ましくも誠実に役目を果たしてきた。だが、その努力は人前で一度も認められたことはない。 それなのに、須藤司野(すどう つかや)の初恋の女は、ただ少し甘えただけで、すべての「須藤夫人」の特権と優しさを当然のように受け取っていた。 あの日の交通事故で、彼は迷わずその女を救い、素羽を置き去りにした。 命さえ顧みられなかったあの瞬間、素羽の心は完全に凍りついた。 偽装死に成功し、ついに須藤夫人の座を降りることにした。 そして再び顔を合わせた時、あのいつも冷静で完璧主義だった司野が、まるで捨てられた子供のように不安げで、震える声を押し殺し、赤い目で縋りつく。 「素羽、俺と一緒に帰ろう、な?」
View More好奇心に抗えず、素羽はつい司野のスマートフォンの位置情報を開いてしまった。地図を見ただけでは、司野がどの国へ出張しているのか正確には分からない。そこで彼女は、楓華の知り合いである探偵に頼み、ピンポイントで所在を特定してもらうことにした。やがて、相手から調査結果が届く。「セイント・バーツ島だ。そこはほとんどがプライベートアイランドだよ」衛星写真を見つめる素羽の表情に変化はなかったが、内心では滑稽で仕方がなかった。その島の風景が、美宜から送られてきた写真と見事に一致していたからだ。わざわざ出張という嘘の口実まで用意して――司野も、ご苦労なことだ。親友の様子を見れば、何かを察しているのは一目瞭然だった。楓華は単刀直入に尋ねる。「その場所に、何か問題でもあるの?」素羽は隠すことなく答えた。「美宜が司野に囲われている場所よ。その島は」それを聞いた楓華は、泥でも食わされたかのような忌々しい表情を浮かべた。世間では「籠の鳥」というが、司野の場合は「島の鳥」か。恐ろしいほどの羽振りの良さである。だが、素羽の関心はすでに司野と美宜から離れていた。彼女は話題を切り替える。「司野から譲り受けた一画の店舗だけど、私の個人資産として処理するのを手伝って」かつて司野が、一度与えた婚姻中の財産を奪い返そうとした、あの男らしくない振る舞いを思い出し、素羽は今のうちに婚姻関係を利用して私腹を肥やし、正当に個人資産へ組み替えておこうと考えたのだ。楓華はその意図を察し、二つ返事で承諾した。「いいわよ、任せて。死ぬほど溜め込んで、死ぬほど使ってやりなさい。あんたが使わなきゃ、どうせ外の女に流れるだけなんだから」翌日、七恵の祝宴当日。司野は結局戻らなかったが、素羽は気にかける風もなく、一人で会場へ向かった。会場は多くの人々が行き交い、華やかな賑わいを見せている。そこへ琴子がやって来て素羽の腕を掴むと、歯噛みせんばかりの勢いで問い詰めた。「どうして一人なの?司野はどこ?今日が何の日か分かっているの!」今日は七恵の八十歳の誕生日だ。長孫である司野が出席しないなど、あってはならない。素羽はそっと腕を振り払った。「分かっています。おばあさんの祝宴ですよね。でも司野がそれを分かっているかどうかは、彼に聞いてください。おばあさんが大事な
幸雄と七恵の誕生日は、須藤家にとってきわめて重要な行事である。今月末、七恵が八十歳の傘寿を迎えるにあたり、須藤家では盛大な祝宴の準備が着々と進められていた。気づけば、宴を三日後に控える時期になっていた。食事中、司野のスマートフォンが何度も鳴り響いたが、彼はすべてを拒否した。しかし、最後に届いた一通のメッセージが、彼の表情を一変させる。「二日ほど出張に行ってくる」そう告げられても、素羽はとくに反応を示さなかった。無言のままの彼女を見つめ、司野は思わず問いかける。「……何か言うことはないのか?」素羽は顔を上げ、冷ややかな視線を向けた。そして次の瞬間、事務的に口を開く。「森山さん」呼ばれて、森山が台所から顔を出した。「はい、奥様」「旦那様の出張の準備をしてあげて」「承知いたしました」森山は静かに頷いた。「準備はいらない」司野は素羽を凝視したまま、瞳に不快感をにじませた。「いいか。お前は俺が妻として迎えた女だ。置物になるために、ここにいるわけじゃない」素羽は何も言わず、ただ静かに司野を見つめ返した。司野はさらに続ける。「俺の衣食住に関わることは、お前が責任を持つべきだ」それは妻として扱うというより、家政婦として命じているに等しかった。素羽は箸を置き、立ち上がる。抑揚のない、機械的な声で言った。「出張先はどこ?服を詰めてくるわ」言葉どおり従ってはいるが、かつてとは天地ほども違うその態度に、司野の苛立ちは募る。「……もういい」吐き捨てるように言い残し、司野はスマートフォンを手に、そのまま家を出て行った。彼が去ると、素羽は何事もなかったかのように席へ戻り、食事を再開した。傍らで見ていた森山は、何か言いたげに彼女を見つめていたが、結局何も口にせず、視線を伏せた。――あれほど仲の良かった夫婦が、どうしてこんなことになってしまったのかしら……祝宴の前日になっても司野は戻らなかったが、素羽は気に留める様子もない。淡々と食事をし、やるべきことをこなし、自分の時間を過ごしていた。琴子が素羽のもとを訪ねてきた。「司野はどうしたの?」「知りません」琴子は眉をひそめる。「妻でありながら、知らないなんてことがあるの?」素羽は琴子を見つめ、静かな口調で言い返した。「あ
「素羽、君にはもっと別の、まともな人生があるはずだ」清人は、素羽が表向きに受け入れている妥協の奥にある本心を、すでに見抜いていた。彼女は離婚したくないのではない。できないのだ。司野によって、すべての退路を断たれているから。ちょうどそのとき、一台の車が路肩に滑り込むように停まった。「奥様、社長がお迎えに上がるよう仰せです」現れたのは岩治だった。素羽は微笑みを浮かべた。「清人先輩、お先に失礼します」車に乗り込み、エンジンがかかる。街の景色と清人の姿が、窓の外で同時に遠ざかっていく。それと引き換えに、素羽の顔から笑みはすっと消え失せた。表情をこわばらせたまま、冷ややかな声で問う。「司野は、どうして私がここにいるって分かったの?」岩治はその言葉に、わずかな違和感を覚えた。奥様は、司野に行き先を伝えていなかったのだ。「司野は……私を尾行させているの?」問い詰める素羽に、岩治は即座に首を振った。「滅相もございません」もし尾行をつけるつもりなら、司野は必ず自分に命じる。岩治には、その確信があった。素羽は何かに思い当たったように、慌ただしく自分の体を探ったが、不審な追跡器は見つからない。一通り確認したあと、最後に視線が止まったのは、膝の上に置いたスマートフォンだった。尾行がないのなら、この持ち物以外に、司野が自分の居場所を把握する方法は思い当たらない。素羽は苦々しい表情を浮かべると、迷うことなく窓の外へスマートフォンを投げ捨てた。バックミラー越しにその様子を見ていた岩治も、同じ結論に至っていた。彼は心の中で、小さくため息をついた。同時刻、瑞基グループ本社。司野はタブレットに目を落としていた。画面上の赤い点が、突然点滅したまま動かなくなる。彼はわずかに眉をひそめた。数分経っても、赤い点はその場から動かない。司野はスマートフォンを取り、岩治に電話をかけた。「今、どこだ」岩治はバックミラー越しに、黙り込んだ素羽を一瞥し、事実だけを告げた。「景苑別荘へ向かう途中です」その言葉に、司野の瞳が鋭く光った。状況を察したのだ。「送り届けたら、会社に戻れ」このやり取りを聞き、素羽は確信した。やはり追跡器は、スマートフォンの中にあったのだ。肌に粟が立つのを感じる。司野は関係を修復
「わしはまだ生きとるのに、いつもそんな悲壮な顔をしてどうしたんだ?」雅史にからかわれ、素羽は苦笑を浮かべて答えた。「……冗談はよしてくださいよ。縁起でもない」雅史の毒舌は他人に向けられるだけのものではなく、ときに自分自身さえも容赦なく巻き込む。「それはこっちのセリフだ。毎日毎日、まるでわしが明日にも死ぬみたいな顔をされちゃ、たまったもんじゃない」素羽はすぐに言い返した。「そんな顔、してません」雅史は横目で彼女を睨む。「鏡でも見てみたらどうだ?」最近気分が沈んでいる自覚はあったが、雅史の言うほどひどいはずはない――素羽はそう思った。核心には触れず、彼女は言った。「ただ、最近あまり休めてないだけです」雅史の毒舌はさらに勢いを増す。「毎日ゴミ溜めで寝てるようなもんだろ。最近どころか、この先ずっとまともに眠れるわけねえ。五感が全部ぶっ壊れない限りな」「……」素羽は言葉を失った。さすがにそこまでこき下ろす必要はないだろう。「さっさと帰って、自分の専門分野を腰据えて研究しろ。結婚しただけで才能を使い果たしたなんて……お前の今の実力で賞を取りたい?夢のまた夢だな」厳師は高弟を育てるというが、それでもここまで罵倒されて、傷つかずにいられる人間がいるはずがなかった。雅史のもとを出たあと、素羽は久しぶりに清人と顔を合わせた。視線が交わった瞬間、あまりの時間の隔たりに、素羽は少し目を瞬かせた。素羽は彼の顔に目を走らせた。傷はほとんど癒え、よほど注意して見なければ分からない程度だ。彼女は微笑み、自分から声をかけた。「最近、元気にしてる?」清人は直球で返す。「僕を避けてる?」「そんなことないよ」清人は一歩踏み込む。「じゃあ、どうして仕事を辞めたの?」「コンペのことに専念したくて」穏やかなはずの清人の目元に、ふっと影が差した。「素羽、僕たちはまだ友達だよね?」「ええ、友達よ」「だったら、職場に戻ってきてほしい」それは、清人が初めて素羽に向けて見せた、はっきりとした積極性だった。素羽は口元をわずかに引きつらせ、困ったように笑った。「先輩……」清人は声の調子を和らげる。「言っただろ。必ず助けるって。諦めるなって」素羽も本音を口にした。「清人先輩に迷惑をかけたくないし、巻き込むわけにも
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