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第10話

Auteur: 癒し猫
「健太!」

千尋は怒りに燃え、大声で問い詰めた。

「私と社長が寝たのは、あなたが仕向けたからじゃないの!?」

健太も逆上した。

あるいは、もう取り繕う気も失せたのかもしれない。

「俺が仕向けたとしても、君は断れたはずだ!それでも君は行ったじゃないか!今更俺を問い詰めて、何の意味がある?」

健太は千尋を睨みつけ、その視線は嫌悪感に満ちていた。

「嫌がってたみたいな顔をするなよ。むしろ感謝すべきだ。俺がいなかったら、君が金持ちに近づけると思うか?」

「頭がおかしいんじゃないの!?」

千尋も理性を失い、目を充血させて罵倒した。

「自分の妻を社長に差し出して、感謝しろですって?最低のクズよ!」

健太は眉をひそめて手を振った。

「もういい、やめろ。さっさとサインしろ。サインしたら、役所に行って手続きを済ませるぞ」

もうここまで来てしまった。

もし千尋がまだサインを渋るなら、あまりにも滑稽に見えるだろう。

二人が役所に着くと、征司の弁護士である伊藤徹(いとう とおる)もすでに到着していた。

なぜか、健太は彼とかなり親しい様子で、自分から挨拶していた。

彼の助けを借りて、手続きが始まった。

婚姻期間中の共有財産は、マンション一戸と中古車一台以外に、貯金はほとんどなかった。

マンションは三十五年ローンで、頭金は二人の共有預金と親戚からの借金で支払い、その後のローンも二人で返済していた。

中古車は健太が就職して二年目に買ったもので、千尋とは関係ない。

そうなると、争点となるのはマンションだけだった。

健太は、千尋が征司と一緒になったのだから、これっぽっちの金にはこだわらないだろうと思っていた。

しかし、千尋が頭金とローン返済分の自分の持ち分を返済するよう強く主張したため、話し合いは行き詰まった。

健太は千尋をけちだと罵り、徹に千尋と話すように頼んだ。

しかし、千尋の態度は断固としており、徹も健太にその旨を伝えた。

徹が一本の電話を受けた後、健太はすぐに千尋の持ち分額を振り込んできた。

千尋は、やはり征司が裏で動いたのだろうと疑った。

届け出の後、三十日間待てば、離婚が正式に成立することになっていた。

役所の門を出る前に、千尋は健太に尋ねた。

「健太」

健太は立ち止まった。

千尋は尋ねた。

「離婚は、あなたが言い出したの?それとも彼が?」

徹が平然とした目で健太を見ているのに、千尋は気づいた。

一方、健太はまるで後ろめたい様子で視線をそらし、その罪悪感はあまりにも明らかだった。

すべてがあまりにも明白で、もう答えを聞くまでもなかった。

千尋は背を向けて歩き出した。

背後から健太の声が聞こえた。

「もう離婚したんだ。そんなことにいつまでも拘ってどうするんだ。社長と仲良くやっていけよ」

仲良く?

千尋は突然立ち止まり、振り返ると大股で健太の方へ歩み寄り、健太が反応する間もなく、思い切り平手打ちを食らわせた。

パァン――乾いた音が役所のロビーに響き渡った。

健太は顔を横に向け、頬には赤い指の跡がくっきりとついていた。

「健太、本当に最低よ!」

ロビーにいる人々の視線がこちらに集まっているのが千尋は分かった。

以前の千尋なら、こんなことは絶対にできなかった。

しかし、健太がこともあろうに、征司と「仲良くやっていけ」と言ったのだ。

征司がバツイチの女と本気で結婚するとでも思ったのだろうか?

健太の頭はどうかしている。

千尋は徹の驚愕の視線の中でその場を去った。

徹が今の出来事を征司に報告するだろうことは分かっていたが、もう何もかもどうでもよかった。

今、千尋は未来の生活に向き合わなければならない。

運転手は再び千尋を蘭泉邸へ送った。

家に入ると征司の姿はなく、静江がリビングを片付けていた。

今朝、静江は千尋を「橘さん」と呼んでいたが、千尋から頼まれて、もっと親しく「千尋ちゃん」と呼ぶようになっていた。

「千尋ちゃん、征司は会社に行ったわよ。今日は一日家で休むようにって言ってたわ」

「はい、姉さん」

千尋は寝室へ向かい、ドアを開けようとした手を止め、振り返って言った。

「姉さん、少し気分が悪いので、昼飯は結構です」

静江は心配そうに近づいてきた。

「どこか具合でも悪いの?」

千尋は無理に笑顔を作った。

「頭が痛いだけです。大丈夫ですよ」

静江は安心できない様子だった。

「どうしても辛いなら、病院で見てもらった方がいいわよ」

「いえ、大丈夫です。少し寝れば治りますから」

千尋はドアを閉め、ベッドにうつ伏せになった。

ここ数日の出来事を思い返すと、まるで夢のようだった。

どうして、人生はこんなにも訳の分からないうちに、めちゃくちゃになってしまったのだろう。

どれくらい眠ったのか、朦朧としながらスマホの着信音を聞き、番号も見ずに電話に出た。

「もしもし?」

「千尋?僕だよ、白石だ」

白石哲也(しらいし てつや)は大学の同級生だが、千尋よりずっと活躍していた。

「あら、哲也君?どうしたの?」

哲也は言った。

「友達の投稿を見たんだけど、君、もしかして大鷹航空技術にいるのか?」

千尋はベッドから降りて窓辺へ行った。

空はすでに暗く、街には無数の灯りが灯っていた。

「ええ、そうよ」

「実は僕、海星航空ショーの展示会場を担当してるんだ。君の会社も今年、出展するだろう?」

「それ?まだよく知らないわ」

哲也は残念そうに言った。

「なんだ、がっかりだな。君も来るかと思って、同級生で集まれるかと思ったのに」

その時、千尋はドアの外で征司が帰ってきた音を聞いた。

「会社が参加するとしても、私が参加するとは限らないわ」

哲也は言った。

「まあ、いいさ。機会はまたいくらでもあるだろう。何かあったら、いつでも電話してくれよ」

外から、静江が征司に「千尋は具合が悪い」と話す声が聞こえた。

千尋は、征司が入ってくる前に慌てて電話を切った。

征司がドアを開けた時、千尋はまだ窓の前に立っていた。

部屋の電気はつけていなかった。

征司は千尋の後ろに歩み寄り、抱きしめた。

「姉さんが、具合が悪いと言っていたが?」

千尋は言った。

「大丈夫です」

征司は尋ねた。

「手続きはうまく済んだか?」

千尋は顔を向けた。

「ご存知のはずでしょう」

征司はただ淡く微笑んだ。

「その口ぶりだと、俺を責めているようだな?」

千尋は首を振った。

「いえ。責めるべきは、私自身です」

征司は言った。

「だが、俺には君が俺を責めているようにしか聞こえないがな」

千尋は言った。

「離婚を言い出したのがあなたではないことは分かっています」

征司は興味深そうに尋ねた。

「……それで?」

千尋は言った。

「伊藤さんを役所に行かせて、助けてくださってありがとうございました。

彼がいなかったら、私の持ち分の財産を取り戻せなかったかもしれません」

征司は千尋をさらに強く抱きしめた。

「実は、あんなわずかな金で争う必要はなかったんだ」

「私にとっては争う必要がありました。あれが、私の最後の尊厳でしたから」

言い終えると、千尋は征司の腕に頭をもたせかけた。

征司は再び言った。

「俺はビジネスマンだ。口先だけの感謝は受け付けんと言ったはずだが」

千尋は征司に尋ねた。

「海星航空ショーには、大鷹航空技術は出展するのですか?」

征司は答えた。

「当然だ。だが、少し問題がある」

「どんな問題です?」

「もういい。夕食に出かけるぞ」

征司は千尋の手を引いて外へ向かった。

千尋が役に立てるとは思っておらず、話しても無駄だと考えているようだった。

「海星航空ショーは、大学の同級生が責任者なんです。

彼を通して、会社のために良い展示ブースを手配できます」

案の定、征司は興味を示した。

振り返って征司は尋ねた。

「本当か?」

「本当です。口先だけの感謝は受け付けないのでしょう?これは私からのお礼です」

征司は目を細めて千尋の言葉の信憑性を探るように見た。

「もし俺を騙していたら、ただじゃ済まさないぞ」

「同級生とはついさっき話したばかりです。信じられないなら、もう一度電話しましょうか?」

征司は千尋を信じた。

「いいだろう。海星航空ショーの件は君に任せる。成功したらボーナスを出す。失敗したら、後悔させてやる」

千尋は確信に満ちた口調で言った。

「必ず成功させます。でもボーナスは要りません。

その代わりに、家の借金を返済したことにしてくれませんか?」

征司は面白そうに笑い、大きな手のひらで千尋の頭を優しくポンポンと叩いた。

「寝言は寝て言え」

その夜、征司は激しく千尋を求めた。

千尋がどんなに痛いと叫んでも、征司は止まらなかった。

興奮が最高潮に達した時、征司は千尋の体を反転させた。

こんな情熱的で野性的な男は、本当に抗いがたい魅力がある。

……

千尋は佳乃が宿泊するホテルを予約し、その部屋番号を征司に送った。

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    寝る前、蓉子が二人分のスープを運んできた。一杯は征司に渡すと、彼はそれをサイドテーブルに置き、「冷ましてから飲む」と言った。もう一杯は千尋に手渡されると、蓉子は優しい眼差しで千尋を見つめて言った。「これは滋養スープよ。千尋ちゃんの顔色が悪いみたいだから、特別に田中さんに作ってもらったの」子供の頃から、家で誰かにこれほど優しくしてもらった記憶はない。千尋は受け取ってお礼を言うと、スープを一滴残らず飲み干した。蓉子が去ると、征司は腕を枕にしてベッドのヘッドボードにもたれかかり、意味深な口調で千尋に尋ねた。「スープはおいしかったか?」千尋は彼の言葉に裏があると感じた。「少し苦味というか、独特の後味がありましたでも、せっかくのおば様のお気持ちですから、無下にはできません」「ふふ……」征司は笑った。「あれはお母さんが、俺たち二人に早く子供ができるようにと用意したものだ」それを聞いて、千尋は一瞬、頭が真っ白になった。子供なんて、絶対にあり得ない!だって彼との関係は偽りなのだから。それなのに、どうして子供の話なんか出てくるの?しかし、あのスープの効果は、千尋が抗えるものではなかった。その夜、千尋はいつも以上に情熱的で、彼にしがみつくようにまとわりついた。そのため、征司も何度か理性を失いかけた。翌朝早く、二人は朝食を済ませるとすぐに鷹宮家を後にした。去り際、蓉子は千尋の顔が赤らんでいるのを見て、ちらりと征司に目をやり、意味ありげな笑みを浮かべた。征司は蓉子に近づき、声を潜めて言った。「お母さん、これからは寝る前にそういうのは用意しないでほしい。たくさん食べるとよく眠れないんだ」蓉子は千尋に視線を移し、唇を結んで微笑み、「分かった」と言った。千尋は恥ずかしそうに頷いて別れの挨拶をしたが、ドアが閉まった途端、征司の表情から優しさが一瞬で消え、千尋を見る眼差しも冷たく無関心なものに変わった。会社に着くと、征司は千尋をオフィスへ呼んできた。ドアをノックして入ると、彼は亮介に仕事の指示を与えているところだった。千尋が入ってきたのを見て、亮介にまず席を外すよう合図した。「昨夜は危なかった。時間を見つけて、必ず薬を飲んでおけ」千尋は彼の意図を汲み取った。妊娠を恐れる気持ちは

  • 囚われの蜜夜   第38話

    結衣は尋ねた。「じゃあ、彼女と社長は……?」「言うまでもないでしょ」玲奈は呆れたように言った。「あなたね、これから彼女と話す時は気をつけたほうがいいよ。何でもかんでも話して、うっかり墓穴を掘ることのないようにねね。はぁ……そんなこと蒸し返さないでくれる?前のあのアシスタントたちのことを思い出すと、本当にゾッとするわ。どんなに離れていても、あのあざとい色気が漂ってくる感じがするのよ」結衣は言った。「注意してくれてよかったわ。とにかく、これから彼女と接する時は、気をつけないと。私みたいに思ったことがすぐ口に出るタイプは、本当に彼女を怒らせやすいものね」玲奈は鼻で笑った。「そんなに緊張する必要もないわよ。どうせ彼女もすぐいなくなるだろうから」結衣は好奇心から尋ねた。「橘さんは、どのくらい社長に気に入られてると思う?」玲奈は軽蔑するように笑った。「三ヶ月、ってとこかしらね」結衣の口ぶりは同意していないようだった。彼女は言った。「半年だと思うわ」玲奈は笑った。「じゃあ、賭けてみる?負けた方が、一週間分のミルクティーをおごるってのはどう?」千尋は化粧室の個室の中に立ち、彼女たちが自分のことをあれこれ品定めし、最後には賭けまで始めるのを黙って聞いていた。もし以前の自分だったら、きっと情けなく個室に隠れて、悔しさを我慢して出て行けなかっただろう。でも今は、自分には一年間の契約がある。何も気にする必要はない。彼女たちの驚愕の視線の中、千尋はドアを押し開けて外へ出ると、何食わぬ顔で洗面台の前に立ち、蛇口をひねった。「その賭け、私も乗りましたわ。私は一年、に賭けます」千尋はペーパータオルを引き抜き、ゆっくりと落ち着いた様子で指先一つ一つを拭いた。「約束ですよ。後でごまかさないでね。私はミルクティーを楽しみに待ってるんですから」言い終えると、千尋は化粧室を出た。彼女たちの視界から離れた後、千尋は気づいた。面と向かってやり返すのは、こんなにも気持ちのいいことだったなんて。過去の、我慢ばかりしていた時を思い返すと、本当に多くの楽しみを経験し損ねていたのだ。会議は午後いっぱい続いた。千尋は定時で退社し、車で鷹宮家の邸宅へ向かった。病気のお祖父様を

  • 囚われの蜜夜   第37話

    こんな不平等な契約にサインしたら、正気とは思えない。千尋は契約書をテーブルの上に戻した。征司の顔色が目に見えて暗く、険しくなった。「この契約はあまりにも不公平です。罠だと分かっていて、なぜ飛び込む必要があるんですか?」どうせここまで話したのだから、いっそ腹を割って話そう。「これまでの会社への貢献度からしても、自分の努力であなたからお借りしたお金を返済できる自信があります。あなたが仰った恩義についても、当然お返しするべきです。困っている時に助けてくださった恩は忘れません。私は約束を守る人間です。一年間あなたのお相手をすると約束した以上、絶対に約束を破ったり、裏切ったりはしません。ですが、違約金の条項は受け入れられません」千尋ははっきり告げた。征司はソファにだるそうにもたれかかり、あくまで軽い口調で言った。「本当に君が言うように約束を守るなら、違約金が一円だろうと一億円だろうと、気にする必要はないだろう?どうせ君は契約違反などしないのだから、恐れることはないだろう。そんなに心配するということは、何か後ろめたいことでもあるのか?」征司が譲のことをほのめかしているのだ。千尋は分かったが、譲とは本当に何もなく、会ったことさえないのだ。「はっきり申し上げます。今の私には、あなた以外の男性とはいかなる関係もありません」それを聞いて、征司は姿勢を正し、指で契約書を軽く叩きながら言った。「俺に君を信じさせたいなら、サインしろ。これ以上分かりやすい話はないだろう?」「……」どうであれ、彼女が進退窮まった時、征司は助けてくれた。彼には恩がある。この恩は、この一件できっちり清算しよう。千尋は決めた。ペンを取り、署名欄にサインし、印鑑で捺印した。「これでよろしいでしょうか?」征司は契約書を手に取ってざっと目を通し、千尋の目の前でそれを金庫にしまった。契約上、二人の関係は征司の家で恋人役を演じることに限定された。しかし、家の外では、千尋は依然として征司の日陰の愛人のままなのだ。契約書にサインした後も、実際のところ千尋の生活に大きな変化はなく、仕事も生活もすべて普段通りだった。しかし、千尋の心には、未来に対するわずかな期待が芽生え始めていた。毎日、征司の身の回りの世話を甲斐甲斐しく焼い

  • 囚われの蜜夜   第36話

    「はぁ、もう、それがね……お祖父様が雪を見たいって言うものだから、お父さんと私で庭に連れ出して少し座らせてあげたのよ。そしたら、風邪をひいてしまって」征司は言った。「何でも言うことを聞くべきじゃない。年を取ると、判断力も鈍るんだから」「お父さんにも言ったのよ。これからは何でも言うことを聞いて、好きにさせてはだめだって。お祖父様をもう長年世話してきたんだから。万が一、うちで何かあったりしたら、私が責められでもしたら嫌だわ」征司は「お母さん」と制するように言い、ちらりと千尋を見た。征司の視線を受け、千尋は部外者の自分が聞くべき話ではないと即座に察した。その時、看護師が祖父の点滴を交換していた。蓉子は言った。「お祖父様の様子を見てきてちょうだい。あなたが呼びかけて、目を覚ませるかどうか見てきて」千尋と征司はベッドのそばへ行った。征司は腰を下ろし、布団の中に手を入れて祖父の手を取り、優しく呼びかけた。「爺さん、しっかりして。帰ってきたぞ」征司が数回呼びかけると、康夫のまつ毛が動いた。征司は続けて呼びかけた。「爺さん、起きてくれ。帰ってきたぞ」康夫は目を開け、濁った瞳が征司を見るとぱっと輝きを増し、か細い声で言った。「おお、わしの可愛い孫が帰ってきたか」征司は千尋の手を引いた。「爺さん、俺だけじゃないぞ。彼女も連れてきたんだ」千尋は緊張した面持ちで呼びかけた。「あ……お祖父様、初めまして。あの、千尋とお呼びください」康夫の視線がゆっくりと千尋の顔に移り、頷いた。「ああ……ああ……征司の、恋人かね?」「あ、はい。お祖父様、どうぞお大事になさってください。早く良くなってくださいね」康夫はかすかに笑った。「良い子、良い子」気の持ちようなのかどうかは分からないが、康夫は千尋に会った後、容態が上向き、体を起こして少し食べられるようになった。征司は父親の正輝と一緒に部屋で康夫に食事を手伝い、千尋は蓉子にリビングへ連れて行かれて話をすることになった。蓉子は微笑んで千尋に尋ねた。「あなたと征司は、付き合ってどのくらいになるの?」千尋は征司に教えられた通りに答えた。「半年です、おば様」その後の質問も、すべて征司が予想していた範囲内のもので、千尋はすらすらと答え

  • 囚われの蜜夜   第35話

    千尋は征司について階段を上ったが、心は不安でいっぱいだった。彼女の足取りがためらっているのに気づき、征司は振り返って小声で言った。「緊張しなくていいよ」千尋は頷き、心を落ち着かせた。二階に着くと、千尋ははっと目を奪われた。内装は洗練された和の様式だった。このような静謐な趣のある内装スタイルを知っていたのは、かつて健太との新居を準備した時のデザイナーのおかげだ。デザイナーは多くのスタイルを紹介してくれたが、千尋が最も惹かれたのが、この凛とした和の美しさを持つ様式だった。しかし、あの新居は狭く、たとえこの様式で内装したとしても、このような静かで風格のある雰囲気は出せなかっただろう。遠くの壁にある違い棚には、年代物の花瓶やその他の置物が飾られており、控えめながらも上質な贅沢さが漂っていた。そのとき、中年の男性が部屋から出てきた。征司は自分から呼びかけた。「お父さん」鷹宮正輝(たかみや まさき)は振り返り、千尋と征司を見ると、まず静かにドアを閉めてから応えた。「帰ったか」征司は歩み寄った。「ああ、着いたばかりだ。爺さんの容態はどうだ?」正輝は首を振った。「あまり良くない。一昨日、医者が診に来て、熱が続いていて感染の疑いがあるということで、点滴をしたんだ。今は意識がはっきりせず、目を覚ましてもあまり話したがらない。さっき、お母さんが薬を飲ませたら、また眠ってしまった」正輝の視線が千尋の顔に移った。征司が紹介した。「お父さん、こちらは橘千尋、俺の恋人だ」千尋は恭しく挨拶した。「おじ様、初めまして」正輝は千尋を値踏みするようにじろじろと見た。千尋の服装から人となりを見定めようとしているかのようだ。だが、おそらく満足したのだろう、その目には優しい笑みが浮かんでいた。「橘さん、ようこそ。ゆっくりしていってくれ」「ありがとうございます、おじ様」正輝は言った。「お母さんと看護師さんは中にいる。私は下へ行って、田中さんに爺さんのために何か食べるものを作ってもらうように頼んでこよう。さっき魚が食べたいと言っていたからな。橘さん、楽にしていてくれ」「はい、おじ様。どうぞおかまいなく」正輝が階下へ降りると、征司は上着を脱ぎ、千尋のものも受け取ってソファの上に置いた。

  • 囚われの蜜夜   第34話

    千尋は硬い笑顔を浮かべた。「静江姉さん、実は征司さんは私のことなど好きではないんです。今日はただ、彼の恋人役を演じるために来ただけなんです」静江は目を細め、優しく微笑んだ。「まあ、そうなの?そう思っているのね?」静江は征司のことをあまり理解していない。親戚だから、征司の善良で謙虚な一面しか見ていないのだ。しかし、自分と征司は割り切った関係なのだ。だからこそ、彼の冷酷さや非情さも目の当たりにしてきた。千尋はそう思い、そして言った。 「静江姉さんが今でも私とこうして会えるのは、私が自分の立場をちゃんと弁えているからです」千尋のその言葉を聞いて、静江の目には残念そうな色がよぎったが、それ以上は何も言わず、また仕事に戻った。千尋は時間が近づいたのを見て、五分前に住宅地の入口へ出て待った。一月の臨海市は、身を切るように寒かった。家を出る前に念のため気温を確認したが、現在の屋外気温は氷点下十八度ほどだ。千尋はロングのダウンコートを着てカシミヤのマフラーを巻いていた。しかし、それでも足元から這い上がってくる冷気がふくらはぎまで染み通ってくる。あまりの寒さに耐えかね、その場で足踏みせずにはいられなかった。さらに十分以上待って、ようやく征司の車が車が混み合う中についに見えた。車が完全に停まると、千尋は助手席のドアを開けて乗り込んだ。征司は車を発進させ、無表情で言った。「待たせて悪かったな。さっき渋滞に巻き込まれたんだ。二台の車が事故を起こして、道が完全に詰まってた」「ああ、今来たところです」征司がバックミラーで千尋を見た。千尋は自分のまつ毛に霜がついているのに気づき、慌てて手で拭った。これは「今来たところ」でできるはずがない。千尋の下手な嘘は、いつも一瞬で見抜かれてしまう。征司はエアコンの設定温度をさらに上げた。暖かい風が体に当たるとずいぶん心地よく、こわばっていたふくらはぎにも徐々に感覚が戻ってきた。「今から俺が言うことを、よく覚えておけ。家に着いたら、俺が言った通りに答えろ。答えに窮するような質問は俺がフォローする」「はい」征司は言った。「俺の両親が祖父の世話をしていて、一緒に住んでいる。祖母は一昨年亡くなった。俺たちは付き合って半年だ。プロジェ

  • 囚われの蜜夜   第33話

    部屋は静まり返り、一瞬、千尋は彼に向かって怒りをぶつけたい衝動に駆られた。しかし、理性が勝った。彼に逆らうことはできないのだ。征司は千尋にとって強力な後ろ盾であり、今の千尋は彼の庇護なしにはやっていけない。しかし同時に、彼を敵に回せば、その力で容赦なく潰されるであろうことも分かっていた。千尋は弱みを見せて、彼の同情を引こうと決めた。彼女は目を赤くし、唇を震わせながら言った。「怒らないでください。さっきは私が至りませんでした」征司は千尋の魂胆を一目で見抜いた。「急に殊勝な態度だな?俺がお人好しに見えるか?」千尋は唇を引き結んだ。「あなたを評価する資格はありません。私が分かっているのは、私が最も困難な時に、助けてくださったということだけです」征司は楽しげに笑った。「少しは良心が残っているようだな。だが、改めて言っておく。我々の関係をいつ終わらせるかは、君が決めることではなく、俺が決めることだ。下手な小細工をして俺から逃れようなどと考えるな。一度泥沼に足を踏み入れて、まともな女性に戻れるとでも思っているのか?笑わせる」二人の会話は、気まずい空気の中で終わった。臨海市に戻ってから、征司は千尋に対してよそよそしい態度をとった。昼間、会社では千尋を見て見ぬふりをし、夜、帰ってきては事を終えるとすぐに眠ってしまう。千尋はまるで、彼の性欲のはけ口にされたかのようだった。冴子が出張から戻り、二人は夜に一緒に食事をする約束をした。千尋は静江に電話をかけ、夕食は家で食べないと伝えた。五分と経たないうちに、内線電話が鳴った。征司が千尋を呼んでいる。その声からは感情が読み取れなかった。千尋はドアをノックして中に入った。征司は電話中だったが、千尋を見ると、手早く二言三言応対して電話を切った。「社長、何か御用でしょうか?」征司は言った。「今夜、俺の実家へ付き合ってもらう。普段着に着替えてこい」実家へ行くというのは、おそらく家族に会うということだろう。しかし、千尋の立場で、そんなことが許されるのだろうか?征司は千尋の戸惑いを見て取り、説明した。「祖父の病状が思わしくないんだ。孫の嫁に一目会いたがっている。今夜、その役を演じてもらう」「っ!」まさか、そんなこ

  • 囚われの蜜夜   第32話

    千尋が部屋に戻っても、征司はまだいなかった。しかし、それほど時間は経たないうちにドアがノックされ、千尋は応対に出た。「どなたですか?」「橘さん、井上です」ドアを開けると、亮介が書類袋を手に立っていた。「橘さん、これを社長にお渡しください」「社長はまだ戻っていません。お急ぎでしたら、お電話なさいますか?」亮介は少し黙ってから言った。「いえ、急ぎではありません。社長は今、金森部長のところで打ち合わせ中とのことです。お戻りになりましたら、こちらをお渡しいただけますでしょうか」「了解しました。お預かりします」ドアを閉めると、千尋は心の中で毒づいた。あんなに目端の利く人が、どうして征司が信行の部屋にいるなんて信じるのかしら。さっき、あの二人がエレベーターに乗り込んで、佳乃が泊まっているフロアで降りたのを、確かにこの目で見たなのに。千尋が眠りに落ちそうになった時、ドアがカードキーで開けられた。征司が戻ってきたのだと分かったが、ひどく眠くて、朦朧としながら目を開け、つぶやいた。「お帰りなさい……?」「ん」征司はまっすぐバスルームへシャワーを浴びに行った。温かい湿気を帯びて近づいてきた時、千尋は軽く押し返した。「すごく眠いんです。先に寝ますね……」千尋は彼がキスするのをされるがままにしていたが、次第に息が苦しくなってきた。「んん……」千尋は目を開け、弱々しく彼の背中を叩いた。「目が覚めたか?」征司は千尋の上にのしかかり、深い瞳で千尋を見つめて尋ねた。千尋は眠い目をこすった。「寝ましょうよ。明日は朝早い飛行機で帰るんですから」征司は千尋の顎を持ち上げて顔を覗き込み、意味ありげに言った。「君を甘く見ていたよ。離婚もしていないのに、もう次の相手を探そうとしているとはな。そういう男なしではいられないタイプらしい」「っ!」千尋は、あの電話を彼が聞いていたのだと悟った。「説明させてください!」征司は言った。「どう言うかよく考えろ。嘘が一つでもあれば、お前を臨海市で二度と顔を上げられないようにしてやる。試してみるがいい。どうなっても知らないぞ」「……」彼には絶対にそれができる。昔、会社の技術部門の役員が、社内の重要資料を持って競合他社のド

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