「見た感じ、桜井さんと藤沢さんもよくお似合いですね。長い付き合いなんですか?」と西也が尋ねた。 「ええ」雅子は微笑みながら答えた。「修とは長い付き合いよ」 「10年くらいですか?」西也は首を傾げながら疑問を口にした。「俺の若子と藤沢さんは10年の付き合いですよね?」 その場の空気が一瞬固まり、若子はそっと西也の手を引き、もうこの話題をやめるよう示した。 修は明らかに不快そうな視線を西也に送っていたが、西也の目的はすでに達成されていた。彼の心の中には妙な満足感が広がっていた。 「すみません、ウェイターさん」西也が声を上げると、マネージャーがスタッフを連れてきた。 若子はそのスタッフの顔を見て、少し驚いた表情を浮かべた。「あなたは......」 美咲も同じように驚いた顔を見せた。「松本さん、遠藤さん、こんにちは」 彼女もここで二人に会うとは思っていなかった。 修は美咲に目を向けて、「どうして、お前たち知り合いなのか?」と尋ねた。 若子は西也をちらりと見て、何かを言おうと口を開いたが、修と雅子がいることを考えて結局黙り込んだ。 その様子を見て、西也は不思議そうに尋ねた。「どうしたんだ?」 西也は美咲の顔をじっと見つめたが、どこかで見たような気がするものの、その記憶を思い出すことができなかった。いや、彼女は記憶に残すほどの相手ではないとすら思った。 美咲も困惑しながら、西也に記憶がない様子を見て納得した。彼のような人物が自分を覚えていなくても不思議ではないし、前回の出会いも少し気まずいものだったからだ。 確か、彼は「好きな女の子」がいると偽り、その名前が偶然にも美咲だったため、彼女に芝居を頼んだ。実際に彼が好きだったのは、目の前の若子なのだろう。 若子は少し笑みを浮かべて言った。「特に何もないわ。高橋さんとは以前少し会ったことがあるだけ。ここでまた会えるなんて思わなかった」 「なるほど」マネージャーが口を挟んだ。「彼女はうちの優秀なスタッフなんです。ぜひお席を担当させていただきますね」 若子は軽く頷いた。「ええ、お願いします」 四人はそれぞれメニューを手に取り、料理を選び始めた。 「西也、何を食べたい?」若子が尋ねた。 「お前は何を食べたいんだ?」西也は逆に問いかけた。 若子はメニューを見な
若子の冷たい視線はまたしても修の胸を刺した。彼は口元を引きつらせ、少し力なく言った。「そうか。本当に羊肉を食べるつもりか?」 「別にいいじゃない。羊肉は美味しいわ。西也が好きなら、私も好きになる」若子は顔を西也に向け、「じゃあ、羊肉を注文しましょう」と続けた。 若子のその様子は、明らかに意地を張っているように見えた。西也もそれに気づき、少し迷った。彼女が本当に羊肉を好きになったのかは分からなかったが、以前嫌いだったものを無理に食べさせるのは気が引けた。 「若子、やっぱり羊肉はやめよう。別のものを食べよう。何か食べたいものを頼んでくれ」 若子も羊肉を食べたくはなかった。さっきの発言はただの意地だった。しかし冷静に考えれば、無理に食べて反応を見せてしまえば、修の思う壺になりかねない。 彼女はメニューをじっと見つめたが、なかなか何を選ぶべきか決められなかった。 「赤ワイン煮込みのビーフシチューにしろ」突然、修が口を開いた。「それが一番好きだっただろう」 修はそのままスタッフに向き直り、「俺は赤ワイン煮込みのビーフシチューを頼む。お前もこれでいいはずだ」と言った。 若子は眉間にわずかな皺を寄せ、明らかに不機嫌そうだった。「この男、いつも挑発ばかりしてくる」 「赤ワイン煮込みなんて、もう飽きてる」若子は冷たく言い放ち、「トロピカルシーフードグラタンを二つお願いします」と美咲にメニューを返した。 修は眉をひそめた。「そうか、飽きたんだ。じゃあ、何なら飽きないんだ?」 若子は冷ややかに笑みを浮かべ、「どうしてあなたに言う必要があるの?あなたが何か関係ある人なの?」と返した。「藤沢さん、まずは隣の彼女を気遣ったらどう?」 雅子はぎこちなく笑いながら、「じゃあ私も赤ワイン煮込みにする。それと赤ワインを一本お願いね」とスタッフに注文した。そして四人に向けて問いかけた。「皆さんも何かお酒を飲みますか?」 「いりません」若子と修が同時に答えた。 二人の言葉が重なり、目が合った。お互い数秒間、そのまま硬直した。 雅子の笑顔が一瞬硬くなった。「どうして?お酒は飲まないの?」 修はふと笑みを浮かべ、若子をじっと見つめた。その目には、先ほどの冷たさが消え、どこか柔らかな光が差していた。 その様子を見た西也は何かがおかしいと感じた。
この四人、一体何をしているんだろう? 修は冷たい表情のまま、何も言わなかった。 美咲は彼が口を開かないのを見て、メニューを片付けながら「かしこまりました。少々お待ちください」と言い、その場を離れた。 美咲が去ると、場の空気は一層重たくなった。 四人は互いに見つめ合い、誰も口を開こうとしない。 この緊張感を破る何かが切実に必要な状態だった。 そんな中、雅子が口を開いた。「そういえば、松本さん、今日が私の退院の日だって知ってた?」 若子は薄く微笑みながら、あっさりと答えた。「そうなの。おめでとう。元気そうでよかったわね」 「ええ、これも修のおかげよ。私を救うために全力を尽くしてくれたの。本当にいろいろしてくれたから、私も一生懸命生きないとって思うの。そして、もう一つお知らせがあるの。後日、修と結婚するのよ」 最後の一言を口にするとき、雅子の顔は誇らしげだった。 若子はその言葉を聞いて一瞬動きを止めた。修が雅子と結婚するという話は何度も耳にしていたし、彼が雅子にそう約束しているのも知っていた。それでも、この穏やかそうな場で改めて具体的な結婚の日取りを聞かされると、これまで以上に現実味を感じた。 まるで「狼が来るぞ」の話のように、ついに狼が本当に現れたのだと理解した。 「おめでとう」西也が柔らかく微笑んで言った。「何かプレゼントを用意しないとね」 西也はその話を聞いて、意外と嬉しそうだった。 「プレゼントは結構よ」雅子は言った。「ただ、お式には出席してくれるかしら?」 「結婚式は遠慮しておくわ」若子は即座に答えた。「西也と用事があるから後日改めて贈り物を送るわ」 「そう......それは残念ね」雅子は表情に失望を浮かべたが、内心では安堵していた。若子が来なければ、修がその場で結婚を後悔することもないだろう。 その後も四人はとりとめのない話を続けたが、修の目は時折若子に向けられ、また西也を見たときには冷たさを増していた。 修は静かに口を開いた。「遠藤さん、記憶喪失で全部忘れたって聞いたけど、若子のことだけは忘れてないみたいだな」 西也は若子に優しい目を向け、微笑みながら答えた。「この世で誰を忘れても、若子だけは忘れることができない」 「そうか」修は目を細め、疑念の色を浮かべながら言った。「不思議だ
彼女のために、修は西也と争うわけにはいかなかった。若子がそれを見て苦しむことになるからだ。 修は淡々と、「そうだな」とだけ言った。 たったそれだけの言葉を残し、彼はそれ以上何も言わなかった。 西也は修が何か反論してくると思っていた。しかし、まさか「そうだな」とあっさり認めるとは思わなかった。 記憶がないとはいえ、修について抱いている漠然とした不快感は拭えなかった。 修が簡単に他人の言葉を認める人間だとは思えない。それも、恋敵である自分に対してなおさらだ。 修が西也に口論を仕掛けなかったことに、若子はわずかに安堵した。 少なくとも、修が一歩引いてくれたのは事実だった。 しかし、その様子に雅子は眉をひそめた。「修、どういうこと?」 西也が明らかに修を挑発しているのに、修が全然怒らない。それどころか認めてしまうなんて、どうかしているのでは?もしかして若子のために我慢しているのか? 雅子は悔しさで奥歯を噛みしめた。 若子は、この昼食を味わう余裕もなく過ごした。偶然修と雅子に遭遇するだけでなく、まさか同じテーブルで一緒に食事をすることになるとは夢にも思わなかったからだ。 その後、四人の会話はほとんど途切れがちになった。 食事を終えると、修が口を開いた。「この後、どこに行く予定なんだ?」 若子は答えた。「西也と一緒に、少し出かけてみるつもり」 「一緒にどうだ?四人で......」 「結構よ」若子は修の言葉を遮り、「私は四人で出かけるのは好きじゃないの」と言った。 昼食に付き合ったこと自体が、彼女なりの妥協だった。それ以上の時間を修と過ごす気はなかった。 西也が若子の手を取り、「そうだな。午後は俺と若子の時間だからな」と付け加えた。 修は冷たく鼻で笑った。「俺が彼女を奪うのが怖いのか?」 西也は目を細めながら、静かに言った。「できるもんならやってみろ」 再び緊張感が高まり始めたが、若子はすぐに口を挟み、「二人とも、やめて。あなたたちはそれなりの立場のある人でしょ?こんな冗談はやめてよ」と言った。 その言葉に雅子は内心疑問を抱いた。「立場のある人物」と言えるのは修だけで、西也には何の肩書もないはずだ。西也はただのウェイターにすぎないのに、どうして若子はこんな風に持ち上げるのか?現夫に花を持たせよ
「遠藤総裁」という言葉を聞いた雅子は、思わず戸惑った表情を浮かべた。 遠藤総裁? 遠藤が総裁?一体どういうこと? 雅子は美咲に何か尋ねようとしたが、美咲はすでに振り返り、立ち去っていた。 若子は美咲の去っていく姿を一瞥し、何かを思いついたように立ち上がった。「ちょっとお手洗いに行ってくる」 彼女は西也に向き直り、「西也、少し待ってて」と声をかけた。 西也は頷き、「ああ、俺も一緒に行こうか?」と言った。 若子は軽く首を振り、「いいえ、大丈夫。ここで待ってて」と言い残し、その場を後にした。 途中で不安を覚えた若子は、スマホを取り出し、修にメッセージを送った。 「西也をいじめないで。お願い」 すぐに修から返事が来た。 「分かった」 若子はほっとしながらもう一度返信した。 「ありがとう」 美咲が西也のカードで会計を済ませているところに、若子が近づいた。 「高橋さん」若子は声をかけた。 美咲が振り返り、「松本さん、どうしましたか?」と答えた。 「少しだけ、お話しできる時間をいただけますか?」と若子が尋ねると、美咲は頷いた。 「はい、もちろんです」 「できれば、誰もいない静かな場所で話したいのですが」 「分かりました。こちらへどうぞ」 美咲は若子を人気のない場所に案内し、改めて尋ねた。「松本さん、一体どうされましたか?何か問題でも?」 「はい、少しだけ気になることがあって」 「私の接客に問題がありましたか?それとも、レストランに対して何かご意見がございますか?何でもおっしゃってください。私からマネージャーに報告いたします」 「いえ、レストランの問題ではありません。実は、高橋さんと西也に関することなんです」 「私と遠藤さんのことですか?」美咲は困惑した表情を浮かべた。「私と遠藤さんに何かありましたっけ?確か以前、一度だけお会いしましたよね。松本さんもその場にいらっしゃいました。でも、どうやら彼は私のことを忘れているようですが」 若子は深呼吸しながら説明を続けた。「高橋さん、実は西也は事故で記憶を一部失っています」 「そうだったんですか。それはお気の毒に......でも、彼は元に戻れるんでしょうか?」美咲は少し心配そうに尋ねた。 若子は力強く頷いた。「ええ、きっと良くなり
美咲は口を開きかけたが、何を言えばいいのかわからず、困惑した表情を浮かべた。そんな彼女の様子を見て、若子が続けた。 「高橋さん、大丈夫です。無理にお願いするわけではありません。どうするかは高橋さん自身のご判断ですし、西也を受け入れる必要なんて全然ありません。ただ、少しだけお手伝いしていただけると助かることがあるんです。だって、彼が好きなのは高橋さんなんですから」 美咲は少し口元を引きつらせながら言った。 「彼が私を好きだって?じゃあどうして彼は私を忘れたんですか?それに、どう見ても彼は松本さんのことを忘れていないみたいですけど」 若子は静かに答えた。 「忘れたからといって、大切じゃないというわけではないんです。彼は妹やお父さん、ご家族のことさえも忘れてしまいました。でも、ご家族は彼にとって大切な存在です。ただ、たまたま私のことを覚えていただけ。それに、彼は本当にあなたのことが好きだったんです。あなたのお話をするとき、すごく悲しそうな顔をしていました。あなたが彼を愛さなかったことが彼を傷つけたのは確かですが、それがあなたのせいだとは思っていません」 美咲はかすかに微笑みながら言った。 「松本さん、結局何が言いたいんですか?私に何をしてほしいんですか?」 若子は少し躊躇いながら答えた。 「今夜、一緒に食事をしませんか?その後で、西也と二人きりでお話しする時間を作れたらと思っています」 美咲の心が大きく揺れた。 「何を言っているんですか?」 「高橋さん、誤解しないでください。変な意図があるわけではありません。ただ、西也はあなたが好きですし、あなたと二人きりでお話しすることで、もしかしたら何か思い出すきっかけになるかもしれません。それだけです。一回の食事でいいんです。誰もあなたを傷つけたりしませんよ。私が保証します」 美咲は少し考えた後、答えた。 「松本さんのおっしゃりたいことはわかりました。それに、あなたたちが私を傷つけるつもりがないことも。ただ、たぶん誤解されていると思います。私と遠藤さんの関係は、松本さんが想像されているようなものではありません。私たちは......」 そこまで言ったところで、美咲は一瞬言葉を詰まらせた。 若子が静かに尋ねる。 「どうされたんですか?何かありましたか?」 美咲は若子
西也の心の中には、確かに好きな女性がいた。しかし、本当に好きだったのは若子だった。ただ、それを彼女に正直に伝える勇気がなく、嘘をついてしまったのだ。 美咲は何かを思い出したように、少し困惑した表情を浮かべながら尋ねた。 「松本さん、あなたは私が彼の好きな人だと言いましたけど、あなたたちは夫婦ですよね。それなのに、嫉妬とかしないんですか?」 若子は少しばつが悪そうに微笑んで答えた。 「高橋さん、実は私と西也の結婚って、すごく複雑なんです。私たち、愛し合って結婚したわけじゃないんです。だから......」 若子は少し言葉を詰まらせた後、続けた。 「でも、高橋さん、信じてください。私と西也の関係は、あなたが想像しているようなものではありません。結婚した理由も、その......」 若子は自分が話をまとめきれないことに気づき、ため息をついた。 「もういいです、正直に言いますね」 そう言って、若子は事情を美咲にざっくりと説明した。 それを聞いた美咲は、一瞬その場に座り込みたくなるほどの衝撃を受けた。 「つまり、彼を助けるために結婚したんですか?」 若子は静かに頷いた。 「そうです。本当は、西也が高橋さんのことを好きだって聞いて、彼が高橋さんを追いかけて、結婚できたら一番いいと思っていました。でも、彼が言ったんです。『美咲に断られた』って。だから、私も仕方がなかったんです」 美咲は困ったように微笑んだ。 「なるほど、そういうことだったんですね」 どうやら西也は若子に対して多くの嘘をついていたようだ。そして、そんな彼が一体何を考えているのか、さっぱりわからない。好きなら正直に告白すればいいのに、なぜわざわざ好きでもない女性の名前を挙げて嘘をつくのだろう。 けれど、結局のところ、彼は好きな女性と結婚しているのだから、この話はなんとも複雑だった。 若子は真剣な表情で言った。 「高橋さん、お願いです。この話は、他の誰にも言わないでいただけますか?」 美咲は軽く頷いた。 「安心してください。誰にも言いません。松本さんが私に話してくれたのは、私を信じてくれているからですよね」 「ええ、そうです」と若子は微笑んで言った。 「だって、西也が好きになった女性が悪い人なわけがないと思うんです。彼が選ぶ相手なら
雅子は辺りを一巡し、角から若子がサービススタッフと一緒に歩いてくるのを目にした。 慌てて近くの柱の陰に身を隠し、二人の様子を伺う。どうやら何か話しているようだが、会話はすでに終わったところだった。 若子はそのまま別の方向へ歩き去り、代わりに美咲がこちらに向かってくる。 雅子はその場を動かず、直接美咲に声をかけた。 「ちょっと、あなたたち二人で何をこそこそ話してたの?」 美咲は冷静に答えた。 「何かご用ですか?」 雅子は美咲を上から下まで値踏みするように見た。 「あんたと松本ってどういう知り合いなの?」 美咲は落ち着いた声で答える。 「失礼ですが、あなたは......?」 「私、桜井雅子。あと二日でSKグループの総裁夫人になる予定のね」 雅子は得意げに自分の肩書きを宣言した。 美咲は丁寧に微笑みながら言った。 「桜井さん、松本さんとは以前食事をご一緒したことがあるだけで、それほど親しいわけではありません」 「本当に?それで、どうして彼女の夫を『遠藤総裁』なんて呼ぶの?あの人、ただのサービススタッフでしょう」 「遠藤総裁」という言葉に、雅子は嫌悪感を露わにした。 美咲は軽く首を傾げて答えた。 「サービススタッフ?桜井さん、それは誤解されていますよ。彼は雲天グループの総裁です」 「雲天グループの総裁?」 雅子の頭にまるで雷が落ちたようだった。 「それって、あの国際的なグループのこと?」 雅子は震える声で聞いた。 美咲は静かに頷いた。 「ええ、そうです」 雅子の心臓は激しく高鳴り、パニック寸前だった。 そんな馬鹿な!若子が雲天グループの総裁と結婚しているなんて、ありえない! いや、絶対に間違いだ。だって以前、山荘で西也を見かけた時、彼は確かにサービススタッフの制服を着ていた。それが総裁だなんて、信じられるわけがない。 でも......もし本当に彼が雲天グループの総裁だとしたら?つまり、若子は修と別れた後、すぐにまた巨額の資産家を捕まえたということ? 「桜井さん、大丈夫ですか?」 美咲は雅子の顔が真っ青になっているのを見て、少し愉快な気分になっていた。 「あんた、本当に松本と親しくないの?」 雅子は疑いの目で問い詰めた。 「桜井さん、それはあなた
若子はその場を追いかけたくてたまらなかった。けれど、足はまるで鉛を詰められたように重くて、動くことができなかった。 ―ダメだ。私はもう、修を追いかけちゃいけない。 彼との関係は、もう終わったんだから。 彼には山田さんがいる。もう自分とは終わっている。だったら、いっそ嫌われて、憎まれたままでもいい。 その方が、きっと彼のためになる。 そんな思いで立ち尽くしていた若子の背後から、ふわりと誰かが彼女を抱きしめた。 「若子......信じてくれてありがとう。俺を信じてくれて、本当に......ありがとう」 西也の声だった。 最終的に、若子は彼の言葉を選んだ。それだけで彼の中に、確かな勝利の実感が湧いてきた。 その口元には、ふっと得意げな笑みが浮かんでいた。 ―藤沢、お前は俺に勝てない。 俺は若子を傷つけたりしなかった。ずっと彼女のそばにいて、支えてきたんだ。暗闇の中で手を差し伸べてきたのは、この俺だ。 それに比べて、お前はずっと彼女を泣かせてきたじゃないか。 だが― 若子はその腕を、ギュッと掴んで無理やりほどいた。 「西也......本当に......本当にボディーガードを連れて、銃まで持って修のところに行ったの?本当に......傷つけるつもりだったの?正直に話して」 さっき、修にあんなふうに言ったのも、完全に信じてなかったわけじゃない。 もう修を信じるか信じないかは、正直どうでもよくなっていた。彼には侑子がいて、子どもまでいる。今さら自分が何を言ったところで、どうにもならない。 西也の呼吸が乱れた。肩がわずかに震え、若子の肩を強く掴む。 「若子、俺のこと信じてないのか?......まさか、あいつの方を信じてるのか?」 さっきまで自分を選んでくれたと思っていたのに、まるで手のひらを返されたような気がして、胸の奥がずきりと痛んだ。 「西也......お願いだから、本当のことを言って。本当に銃を持って行ったの?」 二人のうち、どちらかが嘘をついている。でも、どっちなのか、若子にはもうわからなかった。考えれば考えるほど、混乱するだけだった。 「......銃は、持って行った。けど、それは俺のボディーガードが持ってたやつで、護身用なんだ。アメリカじゃ銃の携帯は普通だし、もし危険な目に遭った
若子はしばらく黙って考え込んだ。そして、ゆっくり顔を上げて修を見つめた。 「でも......あのとき、あなたは本気で西也が死ねばいいって思ってた。私に、西也の心臓を桜井さんにあげるようにって、同意を求めたよね」 西也の口元がぐいっと吊り上がる。得意げな笑みを浮かべて、ほっと息をついた。 ―若子は俺のことを信じてくれたんだ。 藤沢修、お前なんかに勝ち目あると思った? 前には桜井雅子、今度は山田侑子。お前がこれまでやってきたこと、どれを取っても正当化できないし、言い逃れもできない。 その一方で、俺は若子にとっての理想の男だ。お前が俺に勝てる要素、どこにある? 若子の言葉は、修の胸を鋭く突き刺した。 「若子......それは......昔のことだ。もう何年も前の話だよ。それと今は別だ。あれはあれ、これはこれなんだ」 「でも、あなたは確かにそうした。確かに―あのとき、あなたは西也に死んでほしいと思ってた。これは事実でしょ?」 修は口をつぐむ。否定できるはずもなかった。あの頃、西也のことを心の底から憎んでいた。そして、雅子が心臓移植を必要としていたタイミングで、西也が倒れた。 これは「チャンス」だと思ってしまった。雅子を助けるには、西也の心臓を......その考えが頭をよぎったことを、否定なんてできない。 ―自分の中の醜い部分。もし誰もがそれを晒されたら、きっと誰も「人間らしく」なんて言えなくなる。 「若子......あれは、あのときの話だ。彼の命が消えかけてたから、俺は......ああ言った。けど、俺は手を下してない。殺してもないし、傷つけてもない。常識的に、そうするのが正しいと思っただけなんだ」 「常識、ね......」 若子はその言葉を聞いて、吐き気がしそうになった。 「修......あなたにとって、西也の治療を諦めることが『常識』なの? だったらもう、これ以上言わなくていいよ。きっと、あなたの心のどこかが後ろめたかったんでしょ?だから西也があなたの元を訪ねてきたとき、勝手に『殺しに来た』って思ったんじゃない?」 「......」 修はふらりと数歩、後ろに下がった。 何もかもが空っぽになったようだった。胸の中から、心臓ごと引き抜かれたかのように。 若子からの言葉。何度も、何度も突き刺さっ
若子のその言葉は、どちらにも肩入れしない「中立」なものだった。 誰が正しいのか、彼女にはわからなかった。だって、その場にいなかったから。修の言い分も、西也の言い分も、どちらも聞いてみれば筋が通っているように思える。 ただ、どちらも誤解していただけだったら―そう願わずにはいられなかった。 西也は修のことを誤解していて、修も西也の護衛が武器を持っていたことで、逆に西也を疑った。ふたりの関係はもともと悪くて、敵意に満ちていた。だから、極端な判断をしてしまったとしても不思議じゃない。 「こいつは本当にやったんだ。侑子まで捕まえて、あと少しで殺されるところだったんだぞ」 修の声には怒りと悔しさが滲んでいた。 だけど、若子の中でその言葉は、ただの「誤解」に聞こえてしまった。 彼女にとっては、現場にいなかった以上、どちらかを一方的に信じることはできなかった。 それでも―自分の命をかけてくれた修の言葉を、疑ってしまっている自分に、彼はきっと傷ついている。 離婚してしまった今、彼女はもう修の味方ではない。 かつてなら、迷わず彼を信じていたはずなのに。 「濡れ衣だ!」西也が激しく声を上げた。「若子、こいつの言うこと信じるな!こいつは嘘をついてる!それに、もし俺が本当に殺すつもりだったら、こいつなんて今こうして立ってられないだろ?あの時、屋敷に彼は一人だった。俺が殺そうと思えば、簡単にできた。でも、やらなかった!」 「それは、お前が油断してたからだ。俺が隙を見て銃を奪い返して、逆転したから助かっただけだ。あのままじゃ、俺も侑子も、確実に殺されてた。お前が死体を処理してしまえば、誰にもバレなかったはずだ」 「お前、よくもそんなでたらめ言いやがって!」 西也は怒りを抑えきれず、若子に向き直った。「若子、お願いだ、信じてくれ。俺がどんな人間か、お前ならわかってるだろ?こいつこそ、俺を殺そうとした張本人だ!」 「お前、忘れたのか?前に俺が事故に遭った時、こいつも含めて全員が、お前に俺の臓器を提供しろって迫ったんだぞ?こいつなんて、俺に早く死ねって言ってたようなもんじゃないか!」 西也は、思い出という武器で切り込んできた。 彼の言葉は、若子の心に鋭く突き刺さる。 あの時―病院で、全員が彼女に迫っていた。西也の命を見捨てて、誰か
修の声は驚くほど冷静だった。西也のように感情をむき出しにすることもなく、彼の言葉には一分の隙もなかった。 どこか、堂々として見えた。 その落ち着いた姿を見て、若子はふと、疲れを覚えた。 修と西也の喧嘩なんて、これが初めてじゃない。もう何度もあった。前なんて、レストランで暴れて警察沙汰になったことすらある。 どちらの肩を持とうと、結局ふたりの間の確執は終わらない。今回の乱闘だって、どうせこれが最後にはならない。 「修、西也、あなたたちもう大人でしょ?自分の行動には自分で責任持ちなよ」 若子の声には、明らかに苛立ちが混じっていた。 「また喧嘩して、これで何回目?私はもう知らない。どっちが先に手を出したとか、正直もうどうでもいい。やりたきゃ好きに殴り合えば?先に殴った方が、もう一発食らう。それでチャラにしなよ。私はあなたたちの母親じゃないの。毎回毎回、警察に駆けつけて後始末して......そんなの、もうごめんだから!」 西也は口を開けかけたが、若子の鋭い一言でぐっと黙り込んだ。 なにか言いたそうな顔をしていたけれど、その勢いはすっかり削がれてしまった。 彼の視線は自然と修に向き、そこに溜まった怒りの矛先をぶつけるように、じろりとにらみつけた。 ―でも、今回、若子は西也をかばわなかった。 修はそれを見逃さなかった。彼にとっては、これが逃せないチャンスだった。 「若子」 修が一歩前に出て、静かに言った。 「なんで俺の話は聞かない?どうして俺が西也を殴ったのか、その理由を考えてくれたことある?」 「藤沢、また話を捏造するつもりか?」 西也がすかさず口を挟んだ。 「捏造?お前、ビビってるのか?若子に話されるのが、そんなに怖いか?」 修は口元だけで笑って、続けた。 「お前、若子には言わないつもりだったんだろ?......あの夜、お前がどんな風に俺の家に乗り込んできたか。銃を持った連中を引き連れて、俺のこめかみに銃口突きつけたよな」 「な―」 若子が目を見開いた。 「西也......それ、本当なの?」 西也は眉をひそめて、必死に否定する。 「若子、違う!誤解だ、そんなことするわけない。確かに何人か連れて行ったけど、それは俺のボディーガードだよ。あくまで護衛で、武力を使うつもりなんてなか
修にとって、若子が西也を責める姿を見るのは、これが初めてだった。 彼は腕を組みながら二人を見つめ、目の奥に一瞬だけ安堵の色を浮かべた。 ―もしこれが昔だったら、若子は絶対に真っ先に西也をかばってた。 でも、今は違う。彼女は西也を守らなかった。 それだけで、少しだけ救われた気がした。 だけど同時に、不安の方が大きかった。 若子が西也をかばわなかったのは、ヴィンセントの存在があったからだ。 11年も一緒に過ごしてきた自分との関係すら壊して、西也をかばった若子が―たった数日で、ヴィンセントのために西也すら突き放すようになった。 それが、何より恐ろしかった。 ヴィンセントはまるで強引に入り込んでくる侵略者のように、既存の人間関係を簡単に壊してしまう。 「若子、お前......俺のこと、責めてるのか?」 西也の声は震え、目を見開いて彼女を見た。 「責めてるかって?ええ、そうよ。責めてるわ」 若子は疲れた表情で言った。ほんとは、こんなこと言いたくなかった。 でも、どうしても感情を抑えきれなかった。 物事がここまでぐちゃぐちゃになって、それでも「全部お前のためだ」なんて顔して、どんどん余計なことをして、混乱ばかりで、結局一番迷惑を被るのは若子だった。 「若子、あのときはお前が危ないって思って......電話で問い詰めるわけにはいかないだろ?もしそばに誰かいたらって思ったら......だから俺は、こっそり探しに行っただけで......俺だって、お前が心配だったんだ。理解してくれよ......それに、お前が夜に出かけたとき、俺には行き先がわからなかった。考えられるのは藤沢だけだった。そして実際、お前は彼に会ってた。お前の失踪は直接彼のせいじゃないかもしれないけど、彼と会ってなければ、そんなことにはならなかったんだ!」 「あなたが心配してくれてたのはわかってる。でも、自分のミスを正当化しないでよ!」 若子の声が一段と強くなった。 「西也......あなたといると、ほんと疲れる」 「......っ」 その一言が、西也の胸に深く突き刺さった。 「ミス」とか「疲れる」なんて―若子の口から、そんな言葉が自分に向けて出てくるなんて、思ってもいなかった。 彼は信じられないような表情で、ただ彼女を見つめるしか
若子の眉がピクリと動く。 「......彼が殴ったの?」 彼女はゆっくりと修に視線を向けた。 「またやったのね?」 「また」―その一言が、なんとも言えない絶妙な皮肉だった。 正直、ふたりの喧嘩なんて何度目か分からない。もう若子自身も慣れてしまっていた。修が西也を殴って顔を腫らしたとしても、正直、そんなに驚きはなかった。 修は、黙って若子の目を見つめ返す。彼女が自分を責めるつもりだと、わかっていた。 「......ああ、殴ったよ。でも、理由がある」 「理由?」 と、割り込むように西也が口を開いた。 「若子、俺はただ......お前が心配だったんだ。電話はもらってたけど、どうしても不安で......それで、こいつが何かしたんじゃないかって疑って、会いに行った。そしたら、いきなり殴られたんだ」 彼は言葉巧みに語る―が、もちろん真相は違う。 武装した連中を引き連れて、銃を突きつけながら修の家に押し入ったのは、まぎれもなく西也の方だった。 だが、それを言うはずもない。 たとえ修が暴露したところで、「証拠は?」としらを切れば済む話だ。 修は黙ってその顔を見ていた。黒を白と言いくるめるその口ぶりに、内心では呆れていた。 若子は黙ってそのやり取りを聞いていたが、眉間に深いしわを刻みながら、口を開いた。 「......西也。私、電話で『無事だから』ってちゃんと言ったわよね?どうして修のところに行ったの?」 西也の胸に、ひやりと冷たいものが走った。 ......若子、どうしたんだ? これはおかしい。こんなの、彼女らしくない。 本来なら、修に殴られたと聞いて真っ先に怒るはずだ。 「なんでそんなことするのよ!」って修に怒鳴って、もしかしたらビンタの一つも飛ばしてたかもしれない。 なのに―どうして、こんなにも冷静に俺を問い詰める? 修もまた、想定外の反応に言葉を失っていた。 まさか、若子の第一声がそれだなんて、思ってもみなかったのだ。 若子はじっと西也を見つめながら、続けた。 「電話で、ちゃんと伝えたよね?一週間後には帰るって。はっきりそう言ったはずなのに、口では『わかった』って言っておいて、その足で修に連絡して、修まで私が何かあったって思い込んで......それでふたりしてヴィンセン
「若子......もし、もし俺が言いたいことが―」 「若子!」 そのとき、西也が風のように走ってきた。まるで矢のような勢いで。 「若子、大丈夫か!?怪我は!?無事か!?」 修はぐっと息を飲み込み、握りしめた拳に力が入った。 また―またか。なぜこいつは、どこにでも現れるんだ。まるで悪夢のように。 「私は平気よ、心配しないで」 若子はそう言うと、ふたりの男を順番に見つめた。 「ちょうどよかった。ふたりとも揃ったところで、はっきり言っておくわ。ヴィンセントさんは、私の命の恩人よ。だから、どちらも彼を傷つけることは絶対に許さない。もし彼に何かしたら、私は......絶対に許さない」 その声には、これまでにないほどの強さが宿っていた。 ふたりの男は、一瞬言葉を失った。 今までは、何をしても若子は怒らなかった。なのに、いま彼女は、明確に「NO」を突きつけてきた。それも、他の男のために― 修と西也がいがみ合っている間に、彼女の心には、冴島千景という新たな存在が入り込んでいた。 こんなこと―あり得るのか? だが、西也はすぐに切り替えた。彼は、こういうとき、反射的に「正解」を選べる男だ。 「わかった、若子。俺はもう絶対に彼を傷つけたりしない。彼がお前の命を救ってくれたなら、それは俺の恩人でもある。だってお前は、俺の妻であり、俺の子の母親なんだから」 その言葉を聞いて、若子の視線が修の方へと移る。 修は静かに息を吐いて言った。 「......もし俺が彼を殺したかったなら、あの手術は成功してなかったさ。そこは信じてくれ」 ふたりの男が、揃って約束を口にする。 その場に、不思議な静寂が流れた。 若子は修と西也の顔を順に見つめた。 ......昨夜のあの怒りが、ふと胸に蘇る。 このふたりには、本当に怒り狂いそうだった。彼らが無理やりに踏み込んできて、ヴィンセントに銃を向けたあの瞬間を思い出すだけで、胸がギュッと締めつけられる。 あのときは―文句のひとつやふたつじゃ済まさないって、本気で思った。 手術が終わったら、きっちり叱り飛ばしてやろうと。 ......でも。 今こうして、目の前にいるふたりの男は、どちらも申し訳なさそうに頭を垂れていた。 昨夜のことが嘘のように、静かに彼女の前で
若子は、ついにうんざりしたようにため息をついた。 修は視線を落とし、どこか寂しげに呟く。 「......わかった。じゃあ、言ってみて。お前の言葉、ちゃんと聞くよ」 あいつがまともな男だとは思えない。でも、若子がそこまで言うなら―せめて聞いてみたくなった。 「彼は......一週間だけ一緒にいてほしいって言ったの。ただ、ご飯を作ったり、掃除をしたり......それだけ。それ以上のことは何もなかったの。彼は私に何もしてない。傷つけたりなんて、絶対に......ただ、すごく寂しかっただけ。誰かに、そばにいてほしかったんだと思う」 若子はゆっくりとガラスの向こう―病室の冴島千景に目を向けて、静かに続けた。 「彼、昔......妹さんがいたの。でも、その子を亡くしてしまって......だから私を、妹のように見てた。それだけ。あなたが考えてるようなことじゃないの」 その言葉を聞いた修は、ようやく少し肩の力を抜いた。 ―少なくとも、若子が傷つけられたわけじゃない。それだけで、少しだけ安心できた。 「......じゃあ、あいつが目を覚ましたら?お前はどうするつもりなんだ」 「当然、看病するわ。命を救ってくれた人だもん。絶対に回復させてあげたい。どんな形であれ、私は......彼に恩を返したい」 その言葉に、修の胸にチクリとした痛みが走る。 「彼をそんなに心配して......じゃあ俺はどうなんだよ、若子」 思わず、彼女の腕を掴む。 「この前、お前が誘拐されたとき、俺だって命懸けで助けに行った。死にかけたんだ。それなのに、お前は遠藤を選んだ。あの時、俺がどんな思いで―!」 「......あなたが私に、その選択の余地を与えたの?」 若子の声が鋭く割り込む。 「確かに、私は西也を選んだ。でもそれは、選ばなければ誰も助からなかったから。あの時、どっちかを選べって言われたの。選ばなきゃ、ふたりとも死ぬって言われたのよ。 私は、何度も言ったよ。どっちを選んでも苦しかったって。本当は、私が死ねればよかった。でもそれは許されなかった。だから、あなたを傷つけたこと......謝りたかった。だから、あなたを探して、何度も会おうとした。 だけど、あなた......絶対に会おうとしなかったじゃない。私がどれだけ探しても、避け続けた。
若子は慌てて自分の体を見下ろした。 服は―ちゃんと着ていた。乱れもなく、整っている。修の方も、ちゃんと服を着ていた。 「......昨日の夜、私に......何かあった?」 「倒れたからさ、ここで休ませたんだ。すごくぐっすり眠ってたよ」 修は、彼女が不安がらないように、穏やかに説明した。 若子は自分の服を見つめた。どこもおかしくない。きちんとしてる。 「この服......着替えさせたの、あなた?」 修の表情が一瞬止まる。昨夜、自分がしてしまいかけたことが脳裏に浮かび、胸がきしんだ。あの時のことを思い出すだけで、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになる。 彼は若子の目をまっすぐに見られず、少し目をそらして答えた。 「......女の看護師に頼んだ」 若子はほっと息をついた。 やっぱり昨夜感じたあの感覚―誰かがキスしてきたような、全身が包まれたような、あれは......夢だったのかもしれない。 「......昨日の夜、ずっと一緒にいたの?」 「うん。お前の様子が心配だったから、ここにいた」 修の返事は短く、でもどこか優しかった。 若子は少し不思議そうな顔をした。何か聞こうとした瞬間、ふと思い出す。 「―そうだ、ヴィンセントさん!彼は無事なの?!」 「......一命は取り留めた。今はICUにいる」 その言葉を聞いた瞬間、若子は深く息を吐き、すぐにベッドから降りようとシーツをめくった。 「会いに行く。今すぐ」 彼女が部屋を出ようとすると、修もすぐに追いかけてきて、手を伸ばす。 「若子!」 彼女の腕を掴んだ。 振り向いた若子が問う。 「......なに?」 「今の状態じゃ、会えるわけない」 「外から見るだけでもいいの」 そのまま修の手を振りほどき、若子は病室を出ていった。 ICUに着いた若子は、硝子越しに千景の姿を見つけた。 彼はベッドに横たわり、身体中に医療機器が繋がれていた。心電図のモニターが、規則正しく音を立てている。 若子はそっと硝子に手を当て、ため息を漏らした。 「......ごめんね。私のせいで、こんなひどいケガをさせちゃって。ちゃんと治ってね......まだ、1万ドル返してないんだから......」 その呟きに反応したのか、後ろから修の声