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第126話

Author: 三佐咲美
思わず口をついて出た一言に、私はすぐ後悔した。

慎一の顔に浮かんだ、まだ消えきらないあの笑みを見て、私は自分に問いかけた。どうしてこんなにも自分を抑えられないのかと。

でも、慎一は、私に後悔する余地など与えてくれなかった。

彼は首を傾げ、親指で首筋のキスマークを隠す。その手の甲に浮かぶ血管さえも、抑え込んだ感情を物語っている。

冷たい声で彼は言い放った。「もしお前がいなきゃ、俺と妹の関係は今みたいにギクシャクしていなかった」

「それって、私が余計な存在だってこと?」

胸が、まるで誰かに思い切り殴られたように痛くて、自分の意思とは無関係にぎゅっと縮こまる。

ほんの数秒前まで私に愛を囁いていた男が、次の瞬間には、まるで私を疎ましく思っているかのような瞳で見つめてくる。

……

私はぎこちない手を伸ばして彼の手を取ろうとした。今ここで、彼と決定的に険悪になんてなりたくなかった。すぐそこにいるはずの彼なのに、私の手は空を切る。

彼は自分のネクタイを直しながら、深い目で冷静に私を見つめ、「違う」と淡々と言った。

「じゃあ、何なの?」

彼のその言葉が、ただの不満以外に、どんな意味を持つのか、私には分からなかった。

彼は細めた目で、ふっと笑った。「ヤキモチ焼いてるお前、バカみたい」

……

私は安堵すると同時に、なんだか気が抜けてしまった。やっぱり、やっぱり慎一はこうでなくちゃ。

彼がもし、本気で私に「雲香とは何もない」とか、「お前の方が好きだ」なんて薄っぺらいセリフを言ったりしたら、それこそおかしいと思ってしまう。

私は小さく笑って立ち上がった。「そんなこと言うくらいなら、いっそ穎子とご飯でも食べてこようかな。少なくとも、あの子は歓迎してくれるだろうし。好意が空回りするより、よっぽどマシだわ」

「行くのか?」

慎一は歯の隙間から、やっとのことで絞り出すように言った。

「うん、からかわれるに来たわけじゃないから」

「お前、本当に我がままだな。ちょっと言っただけじゃないか」

私は振り返りもせず、ただ手だけを後ろにひらひら振って、彼の方を一瞥もしなかった。

背後からは、押し殺したような息遣い以外、何も聞こえてこない。

オフィスのドアの前まで来たところで、突然視界が真っ暗になった。

さっき立ち上がった勢いが強すぎて、体がふらつく。ほとんどド
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