愛も縁も切れました。お元気でどうぞ

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By:  歩々花咲Updated just now
Language: Japanese
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朝倉蓮が初恋の人と結婚する―― 七年も彼のそばにいた白石苑は、泣くことも怒ることもせず、自ら彼のために盛大な結婚式を準備した。 彼の晴れの日、苑もまた、純白のドレスに身を包んだ。 長く続く大通り、向かい合うように進む二台のウェディングカーがすれ違う。 その瞬間、新婦同士がブーケを交換する。 その時だった。蓮は、苑が彼に向けて言った言葉を確かに聞いた。 「お幸せに」 蓮は驚愕し、そして走った。5キロもの距離を全力で追いかけて、ついに苑のウェディングカーに追いついた。 息を荒げ、彼女の手を掴んだその瞬間、彼の目からは涙が止めどなく溢れた。 「苑、お前は俺のものだ」 だが、車から降りてきた一人の男が、そっと苑をその腕の中に抱きしめた。 「彼女が君のものだって?じゃあ、俺のものは誰なんだ?」

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Chapter 1

第1話

白石苑(しらいし その)が辞表を書き終えたとき、ふと顔を上げて窓の外を見やった。

ビルの巨大スクリーンには、朝倉蓮(あさくら れん)と芹沢琴音(せりざわ ことね)の婚約ニュースが、もう七日間も繰り返し流されていた。

誰もが言う――朝倉蓮は芹沢琴音を心から愛している、と。

でも誰も知らない。苑が七年間も彼のそばにいたことを。

十八歳から二十五歳。彼女の人生で最も輝いていた時間を、全て彼に捧げた。

けれど、彼は別の人と結婚することを選んだ。

だったら、自分はこの舞台から静かに退場すべきなのだろう。

彼の結婚式の日から、蓮の世界には、もう「白石苑」という名前は存在しなくなる。

視線を戻した苑は、辞表をきちんと折りたたみ、白い封筒にしまった。

そのタイミングで、オフィスのドアが外から開かれる。

入ってきたのは――彼だった。

黒のシャツの襟元はラフに開かれ、同じ色のスラックスが長い脚を包んでいる。

歩くたびに風が吹くような雰囲気で、その存在感はまるで王者のように堂々としていた。

苑の脳裏に、彼と初めて出会った日のことがよみがえる。

あの時も、彼は同じ黒いシャツを着ていた。

バーの隅で一人酒を飲んでいた彼は、見るも哀れな捨て犬のようだった。

彼の家は破産し、飲み代すら腕時計を質に入れて作った。

苑はその時計を買い戻した――そして彼の心まで奪ってしまった。

だが、泥に落ちた蛟は、いつか再び空を舞う。

彼は再起を果たし、いまや帝都で名を馳せる男になったのだ。

「メッセージ送ったのに、返事がなかったな?」

静かな声が、彼女の手にある封筒に向けられた。

苑は封筒を握りしめながら、窓の外を指さした。

「社長と芹沢さんの結婚プロモを見ています」

彼の目元がすっと陰を帯びた。

「プロモって……あれ、お前が編集したやつだろ。まだ見る意味あるのか?」

――そう、あのプロモーション映像は、彼女が作ったものだった。

そこに映る写真、甘い瞬間、そしてすべての「愛の言葉」。

それらは全部、苑が自分の手で選び、綴ったものだった。

あの時、蓮が苑にこう言ったのを、彼女は今でも忘れていない。

「この件はお前に任せる。琴音が他の人間だと不安がるからな」

彼と琴音が再会したのは三ヶ月前――

だけど、彼らの関係はもっと昔、学生時代から始まっていた。

七年前、琴音が海外へ旅立ち、同時に朝倉家は破産した。

そうして、ふたりは離れ離れになったのだ。

だが三ヶ月前、芹沢家が帰国。

蓮はすぐに琴音とよりを戻し、堂々とプロポーズをした。

苑は彼の傍に七年もいた。

誰もが当然のように、彼が彼女を選ぶと信じていた――彼女自身も、そう思っていた。

三ヶ月前、蓮が「好きな指輪を選んでこい」と言ったとき、彼女は当然、自分のサイズで選んだ。

……なのに。

その夜、花火が空を埋め尽くした瞬間。

彼は苑に言った。

「その指輪、ちょうだい」

彼女が時間をかけて選んだその指輪を受け取った彼は、次の瞬間――琴音の前で片膝をつき、それを彼女の薬指にはめたのだった。

きらめく夜空に負けないほどの華やかな花火の中、蓮は琴音に囁いた。

「俺は七年、二千五百日以上待ってた。ひと時も、君を忘れた日はなかった」

その瞬間、苑の心は、空に咲いた花火のように派手に散っていった。

そして、もう二度と元には戻らなかった。

彼が言った「二千五百日」は、琴音のための日々だったのか。

でも、その間ずっと、彼のそばにいたのは苑だった。

仕事の支えも、酒に酔ったとき名前を呼んだ相手も、眠るとき抱いていた相手も――全部、彼女だったじゃないか。

……だけどその問いは、彼女の中だけに留められた。

彼と琴音の結婚式、それが全ての答えだから。

七年も一緒にいたって、たった一度の初恋には敵わない。

それに、彼は一度も「愛してる」とは言ってくれなかった。

全部、自分で信じて、勝手に期待して、そして……ひとりで終わらせた。

だから、もう責めるつもりはない。

苑は混乱した想いをすっと胸の奥にしまい込み、静かに、けれど毅然と顔を上げた。

「朝倉社長、何かご指示でも?」

「今夜、芹沢家に一緒に行ってくれ。贈り物の用意、何が必要かはわかってるな」

それは、まるで仕事の指示みたいな無機質な言葉だった。

「了解しました」

苑は彼の秘書。頼まれれば断る理由なんてない。

蓮の深い眼差しがふいに彼女の顔を撫でるように流れた。

何かが、違う――けれど、それが何なのか、彼にも言葉にできなかった。

「白石、お前……」

口を開いたが、四文字言っただけで言葉が途切れる。

結局、彼が続けたのは――

「最近、あまり笑わないな」

琴音のことで頭がいっぱいなはずの彼が、そんな変化に気づいていたことに苑は少し驚いた。

そしてすぐに、プロの笑顔を浮かべる。

「今後は気をつけます、朝倉社長」

「白石」

彼女の名前を、彼はやや優しく呼んだ。

「お前の今のポジションは、何があっても動かさない。来年には副社長として正式に昇進させるつもりだ」

――小さな秘書から、社長の専属秘書、そして副社長へ。

それは、彼がこの七年間で彼女に与えてきた「立場」だった。

だが彼は、気づいていなかった。

彼女が欲しかったものは、最初からそんな肩書きではなかったことに。

――ただ、「奥さん」として彼のそばに立つこと。それだけだった。

けれど、それは叶わぬ夢。

水の上に描いた月のように、手を伸ばしても掴めない幻想だった。

「ありがとうございます」

苑は微笑んで、その「昇進」を受け入れた。

七年間、彼が与えたものは全て受け取った。

彼がくれなかったものに、彼女は一度も手を伸ばさなかった。

なのに、蓮の胸には拭えない不快感が残った。

だからこそ、彼は視線を鋭くして言った。

「前提として、何ひとつミスをするな。特に、婚礼に関しては絶対に」

「ご心配なく。社長と芹沢さんの結婚式、完璧に仕上げてみせます」

苑は微塵の感情も表に出さず、プロとして言い切った。

彼は彼女の言葉に目を細めてしばらく見つめると、くるりと背を向けた。

だがその視線の端で、彼女の手元にある白い封筒がふと目に入る。

そして、ぴたりと足を止めた。

「その封筒……何だ?」
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第1話
白石苑(しらいし その)が辞表を書き終えたとき、ふと顔を上げて窓の外を見やった。 ビルの巨大スクリーンには、朝倉蓮(あさくら れん)と芹沢琴音(せりざわ ことね)の婚約ニュースが、もう七日間も繰り返し流されていた。 誰もが言う――朝倉蓮は芹沢琴音を心から愛している、と。 でも誰も知らない。苑が七年間も彼のそばにいたことを。 十八歳から二十五歳。彼女の人生で最も輝いていた時間を、全て彼に捧げた。 けれど、彼は別の人と結婚することを選んだ。 だったら、自分はこの舞台から静かに退場すべきなのだろう。 彼の結婚式の日から、蓮の世界には、もう「白石苑」という名前は存在しなくなる。 視線を戻した苑は、辞表をきちんと折りたたみ、白い封筒にしまった。 そのタイミングで、オフィスのドアが外から開かれる。 入ってきたのは――彼だった。 黒のシャツの襟元はラフに開かれ、同じ色のスラックスが長い脚を包んでいる。 歩くたびに風が吹くような雰囲気で、その存在感はまるで王者のように堂々としていた。 苑の脳裏に、彼と初めて出会った日のことがよみがえる。 あの時も、彼は同じ黒いシャツを着ていた。 バーの隅で一人酒を飲んでいた彼は、見るも哀れな捨て犬のようだった。 彼の家は破産し、飲み代すら腕時計を質に入れて作った。 苑はその時計を買い戻した――そして彼の心まで奪ってしまった。 だが、泥に落ちた蛟は、いつか再び空を舞う。 彼は再起を果たし、いまや帝都で名を馳せる男になったのだ。 「メッセージ送ったのに、返事がなかったな?」 静かな声が、彼女の手にある封筒に向けられた。 苑は封筒を握りしめながら、窓の外を指さした。 「社長と芹沢さんの結婚プロモを見ています」 彼の目元がすっと陰を帯びた。 「プロモって……あれ、お前が編集したやつだろ。まだ見る意味あるのか?」 ――そう、あのプロモーション映像は、彼女が作ったものだった。 そこに映る写真、甘い瞬間、そしてすべての「愛の言葉」。 それらは全部、苑が自分の手で選び、綴ったものだった。 あの時、蓮が苑にこう言ったのを、彼女は今でも忘れていない。 「この件はお前に任せる。琴音が他の人間だと不安がるからな」 彼と琴音が再会したのは三ヶ月前――
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第2話
「辞表です」 苑は淡々と告げた。彼女は、彼にだけは嘘をつかない。 ――だって彼は、たとえ善意の嘘でも嫌う人だから。 蓮の表情がさらに険しくなる。 「これからは辞表は直接人事部に出せ。お前がやることじゃない……暇なら、お前の祖母の相手でもしてやれ」 バタン―― 重たいドアの音がオフィスに響いたと同時に、苑の顔から笑みが音もなく消えていった。 「朝倉……それ、私の辞表なんだけど」 夕方六時。 苑は蓮に付き添って芹沢家を訪れた。 車が止まった瞬間、琴音が白い犬を抱えて飛び出してきた。 彼女の瞳には、蓮への嬉しさと照れがあふれている。 ただ、腕に抱かれた犬だけは、まるで敵を見るように蓮へと吠え立てていた。 「Qたん、ダメよ。パパでしょ?」 その一言に、苑は思わず口元を引きつらせる。 蓮は犬や猫などの動物が苦手だ。いや――アレルギーを持っているからだ。 けれど次の瞬間、彼は手を伸ばし、犬の頭を軽くぽんと叩いた。 「Qたんか。俺に吠えたら、お前のママに出荷してもらうからな?」 その姿に、苑の胸がギュッと締めつけられる。 以前、彼女が飼っていた猫。 ずっとケージの中で育てていたのに、蓮が「毛が無理」と言って、手放させた。 あの時は「仕方ない」と自分に言い聞かせたけれど―― 今、彼は琴音の犬にまで優しい声をかけている。 ……そうか。 本当に好きな人のためなら、アレルギーさえも忘れるんだね。 「蓮、お父さんとお母さんが中で待ってるよ」 琴音は舞踊の道を歩んできた女の子。 スラリとした体にしなやかな声、その視線には自然な柔らかさがある。 女の自分ですら、彼女に見惚れてしまいそうになる。 ふたりはまるで恋人のようにぴたりと寄り添いながら、玄関へと入っていく。 その後ろで、苑は運転手と一緒に山ほどの贈り物を抱えてついていった。 今日のこの場は――婚礼に向けての打ち合わせ。 苑はソファの隅に座り、ノートを開いて淡々とメモを取っていた。 まるで、感情なんてどこにもないかのように。 だけど、心の奥ではちゃんと泣いていることなんて、誰も気づかないんだ。 完璧なまでに、職務に忠実。 「こちらで思いつくことは、すべてお伝えしましたよ」 琴音の父親がそう言っ
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第3話
「お医者さんを呼んだ方がいいと思います」 苑はきっぱりと言った。 それは――彼女が、彼に「NO」を突きつけた、初めての瞬間だった。 蓮の眉間に、深く皺が刻まれる。 そのまま、言葉も許さず彼女の手首をぐっと掴むと、強引に邸宅の中へと引っ張り込んだ。 バタン――! 扉が重く閉まる音が、静寂を切り裂いた。 「お前がふてくされてるなんて、俺にバレてないとでも思ってるのか?」 冷えた瞳が、まっすぐ彼女を射抜いた。 ……そうか、気づいてたんだ。 それでも、なお――彼は彼女を蔑ろにした。 胸の中で絞り出されたような苦味が、絞られたレモンの汁みたいに全身を駆けめぐる。 それはやがて、鼻の奥をツンと刺すような痛みに変わっていった。 「……七年、私の体だけは好きにして、いざ結婚するってなったら、何の言葉もなく終わりなの?……私、傷つくことすら許されないの?」 ただの「女」だったとしても。 もう要らないなら、せめて――一言、欲しかった。 それなのに彼は、何の説明もなく琴音との仲を世間に見せつけた。 まるで苑が、ただの秘書にすぎないかのように。 「……誰が『終わり』だって言った?」 蓮の声が低く響いた。 その手が荒々しくシャツの襟を引き裂く。 ボタンが飛び、シャツがはだけると、赤く腫れたアレルギーの跡が胸元に浮かび上がる。 その光景は、苑にとっては見慣れたものだった。 何度も彼の発作に対応してきた―― そのたびに、苦しそうな彼の体を冷やし、薬を塗り、支えてきた。 ……もう関係ない。 心の奥ではそう叫んでいるのに。 それでも、苦しむ彼の姿を見ていられなくて。 苑は、何も言わずに薬の入った引き出しを開けた。 苑の手――そして薬を持っていたその手は、次の瞬間、熱を帯びた蓮の掌に包み込まれた。 「お前を要らないなんて、一度だって言ったことない。 お前だって、俺から離れないって、そう言ってくれただろ? ……その言葉、忘れちゃいけないんだよ」 彼の声は低くて、まるで懇願のように優しかった。 ……覚えていたんだ。 あの時の、ふたりだけの約束を。 もう、彼の中では消えてしまったと思っていた。 だけど――そうじゃなかった。 昔、彼女が蓮を拾った夜。 彼の
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第4話
「苑、これはね、ばあさんがずっとあんたの嫁入りのために貯めてたお金よ。 蓮とついに結婚するんだから、これで必要なものを揃えなさい」 祖母は苑の手を握り、その手を蓮の手の中へと導いた。 そして、ふたりの手のひらの間に一枚のカードをそっと押し込んだ。 苑の瞳からは、とめどなく涙がこぼれ落ちる。 怖くて、祖母の顔をまともに見ることができなかった。 蓮の結婚の報道があちこちで流れているのだから、きっと祖母の目にも入っているはず。 けれど、物忘れが進んだ彼女は、当然のように「新婦」を苑だと信じて疑っていなかった。 「朝倉くん……ばあさんとの約束よ。苑を……大切にしてやって」 細い手で蓮の手をぎゅっと握りしめながら、祖母はそう願うように言った。 「ご心配なく。この一生、俺は苑を守ります。 俺たちは、生死を誓い合ったんです――この命尽きるまで、決して離れません」 蓮の言葉に、苑の心はまたズキリと痛んだ。 四年前―― 彼に連れられて出張したとき、ふたりは万仏山に立ち寄り、縁結びの石の前で「来世までの誓い」を交わした。 「俺は、お前の今生も来世も、すべてを欲しいんだ。 生まれ変わってもまた、お前と一緒になる――何度でも」 ――あのときは、本気だった。信じてた。 でも今、今世ですら、ふたりは終わってしまった。 やっぱり、誓いなんて破られるためにあるんだ。 約束なんて、簡単に裏切られるものだった。 「苑、朝倉くん……ふたりが結婚する日には、必ず私を迎えに来てちょうだいね。 この目で、ちゃんと見届けたいのよ」 「もちろんですよ、おばあさん。ちゃんとお迎えに行きます。 それに、式のときには、最初におばあちゃんにお辞儀してご挨拶しますから」 蓮の声は柔らかく、祖母の前ではもう「冷徹な社長」の面影などひとかけらもなかった。 ただの、「苑の恋人」だった。 療養院を出たあと、苑の胸はまるでスポンジが詰まっているように重苦しかった。 心の奥が、張り裂けそうに痛む。 「……朝倉。できないくせに、どうして約束なんてするの?」 結婚できないなら、なぜ「結婚する」と言うの? ばあさんを迎えに行く気もないくせに、なぜ「行く」と笑って言えたの? その問いかけに、蓮はスマホを見つめながら答
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第5話
「ねぇねぇ、聞いた?天城蒼真(あまぎ そうま)が結婚するんだって!」 「うそでしょ!?帝都のNo.1セレブが!?夜中にいきなり婚約発表とか、興奮して寝られなかったわ……一体誰と結婚するのか、めちゃくちゃ気になるんだけど!」 ――休憩タイム。 苑はコーヒーを淹れに行く途中、給湯室から聞こえてきた数人の同僚たちのテンション高めな噂話に、足を止めた。 ……天城蒼真。彼の名前を聞いて、苑の胸がふと揺れる。 何度か顔を合わせたことがあった。 けれど、そのどれもが偶然とは思えない「助けられた」場面ばかりだった。 たとえば、車のタイヤが途中でパンクしたとき、通りがかった彼がさっと手を貸してくれた。 あるいは、取引先との会食で相手が酒に酔って嫌らしい態度を取ってきたとき――彼は何も言わず、自然に彼女を連れ出してくれた。 おかげで商談もうまくまとまり、彼女の面目も守られた。 他にもいくつかあったけれど……もう全部は覚えていない。 ただ――彼女が彼に借りた「恩」は、確かにいくつもあった。 ――天城さんが結婚するのなら、お祝いを贈らなきゃ。 きっと彼は、苑のことなんて覚えていないかもしれないけれど。 「結婚って、いつなの?」 苑は何気ないふりでコーヒーを淹れながら、訊ねた。 「来週だよ。うちの朝倉社長と同じ日!」 カップを持った手が、ビクリと震えた。 熱いコーヒーが跳ねて、手の甲をじわりと焼いた。 「ごめん……話、続けてて」 苑はそれだけ言って、その場を離れた。 背後で、誰かがため息まじりにつぶやくのが聞こえた。 「なんで天城様の話してて朝倉社長出すかなあ……白石さんが可哀想でしょ」 「ほんとだよ、白石さんってあれだけ尽くしたのに、最後は他人の結婚式の裏方って……切なすぎる」 「はあ……男って薄情よね……でも天城様は違うよ?彼が結婚するのは、十年間片思いしてた女性なんだって」 その日の午後、苑のスマホが鳴った。 「今から、ちょっと付き合ってくれ」 蓮のその一言に、苑はすぐに答えた。 「……はい」 どこへ行くのかなんて、訊くまでもない。 どうせ訊いても、行くしかないのなら――もう、無駄な言葉は使いたくなかった。 進めていた引き継ぎのファイルを保存し、整えてから荷物をま
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第6話
「白石さん、自分の立場、分かってるよね?」 試着室でウェディングドレスに袖を通した琴音は、ようやく仮面を脱いで、本性をさらけ出した。 苑の心は、もうずっと前に麻痺していた。 「芹沢さん、朝倉が落ちぶれた時にあなたは離れて、今になって戻ってきた。あなたこそ、何様のつもりです?」 「だから何?蓮は私を愛してるの。だから私と結婚する。それに比べてあなたは?ベッドを共にして、一番どん底の時を支えたのに、それでも選ばれなかった」 得意げに、琴音は唇をつり上げた。 でも、それが事実だった。 苑は、張り合うつもりなんてなかった。男を巡って争うつもりもない。ただ、静かに問いかけた。 「……で?それをわざわざ私に言う意味、なんですか?」 「結婚式の後、あんたの顔は見たくないわ」 琴音は、あくまでもストレートだった。 苑はふっと笑った。まぶしいくらいに。 彼女は、去るつもりだった。でも、誰かに追い出される形ではなく、自分の意志で。 だからその「未来の奥さま」の期待は裏切って、挑発するように言った。 「その言葉、蓮から直接聞きたいですね」 「まさか……まだ蓮が自分を愛してるって思ってるわけ?」 琴音の目が鋭く光る。 いいえ―― あの人が、彼女の指からリングを引き抜き、それを琴音の指にはめたあの日。苑の中で、すべてが終わった。 「芹沢さん、そのドレスすごく素敵です。式当日、きっとお似合いですよ」 そう言い残して、更衣室をあとにした。 外に出ると、蓮がもう着替えを終えていた。濃い色のタキシード姿は、一段と凛々しさを際立たせて、無縁メガネの奥のまなざしは、あの日のまま――初めて出会った時と同じだった。 ――どうして、こんなに綺麗な人が存在するんだろう。 そんなことを思った、あの頃の自分が懐かしい。 今の蓮は、昔よりもっと洗練されてて、相変わらず目の保養だった。 でも、もし時を巻き戻せるなら。絶対に関わらなかった。近づきもしなかった。 過去は変えられないけど――未来なら、彼のいない未来にすればいい。 「気に入ったのがあれば、選べ」 蓮はそう言って、彼女の目の前に並んだウェディングドレスを指差した。 ――何のために?当日、結婚式をぶち壊すつもり? ……そんな幼稚な真似、するわけな
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第7話
苑は運が良かったのかもしれない。あんな風に転んだのに、脳震盪すらなかった。 けれど、後頭部にはしっかりと大きなたんこぶ。触れればすぐわかるくらい、ぷくっと膨れている。 そのたんこぶを抑えながら、足元も見ずに歩いていたら――ガツン、と誰かとぶつかった。 「すみま……」 反射的に謝ろうとして、顔を上げた苑は、どこか見覚えのある顔に目を見開いた。 「……天城さん」 深いグレーのシルクシャツは軽やかで、身体にぴったりと沿った仕立てのパンツは、無駄のないラインを描いていた。肩から胸、腰にかけてのシルエットは洗練されていて、見る者を自然と圧倒する。 「ケガした?」 蒼真の視線は高い位置から、苑の頭を捉えていた。 彼は背が高い。苑の頭は、ちょうど彼のあごのあたりに届くかどうかという高さだった。 「大したことないです」 苑は一歩下がり、彼の手からそっと身を引いた。 蒼真は自然な動きでポケットに手を入れ、深くて底の見えないような瞳で彼女をじっと見つめる。 「手を貸そうか」 「平気です」 苑は再度きっぱりと否定した。その直後、ふと思い出したように口を開く。 「天城さん、ご結婚おめでとうございます」 蒼真の視線が、彼女の頭からゆっくりと顔に落ちた。ほんの一瞬、何かを押し隠すような光が、その瞳にきらめいた。 「そちらこそ」 ……そちらこそ? 何を祝ってるの。七年愛した男に捨てられて、他の女と結婚されること? でもまあ、彼女も結婚する予定はある。しかも同じ日だ。 そう考えると、確かに「そちらこそ」かもしれない。 苑は一瞬だけ蒼真を見上げて、軽く「では」とだけ言い、歩き出した。 今回の転倒事故のおかげで、休暇の許可が出た。 ちょうどよかった。この機会に、自分の持ち物を整理しようと思った。 今、苑が住んでいる家は――かつて、蓮と一緒に暮らしていた場所だった。 三ヶ月前までは、ふたりでここにいた。けれど蓮が琴音と付き合い始めてからは、彼は楓林園に引っ越してしまった。 ここは苑ひとりの小さな棲み処になった。 けれど、どこを見ても蓮の痕跡が残っている。 靴箱には彼の革靴が並び、ハンガーには彼のスーツがかかっている。 酒棚には、彼のお気に入りのグラスとボトル。 ソファには、彼が
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第8話
蓮は苑に「休め」と言った。 けれど、苑は休まなかった。 まだ、終わらせなければならないことがたくさんあった。 彼女は会社に行き、ひとつひとつの業務を片づけていった。 引き継ぎの資料、契約書の整理、蓮の重要案件のログ――すべてをきっちり分類して、完璧に整えた。 その日の昼、社内の給湯室で、同僚たちの噂話が耳に入ってきた。 「聞いた?朝倉社長、結婚式のために帝都中の電子広告スクリーンを買い取ったんだって。全部で生中継するらしいよ!」 次の日。苑は、蓮の住んでいた部屋に置いていた自分の持ち物をすべて荷造りした。 そして、それらをボランティア団体に預けて、必要な人に届けてもらうよう依頼した。 その現場で、ボランティアたちの会話がふと聞こえてきた。 「天城家、すごいよね。天城様の結婚祝いで、帝都全体に宴を振る舞うって。しかも、ご祝儀は一切不要なんだって!」 三日目。苑はひとり、万仏山を訪れた。 そこにある縁結びの石には、かつて苑と蓮が刻んだふたりの名前があった。 彼女は六時間かけて、その文字をひとつずつ、指の力だけで削り取っていった。 削り終えたとき、指先には血が滲んでいた。 帰宅後、テレビをつけると、蓮と琴音の合同インタビューが流れていた。 蓮は、カメラの前でこう言った。 「きっと、みなさんの記憶に残るような、斬新な式にします」 そして、四日目――婚礼の前日。 苑は式のリハーサルを見に、会場まで足を運んだ。 華やかな会場には、琴音と蓮が並び立っていた。 琴音は、苑を見つけると、満面の笑みで、彼女をステージに上げるよう招いた。 「白石さん、明日、私のすぐ後ろに立っててくださいね、ブーケを投げるから、後ろでちゃんと受け取ってね。 そうすれば、私の幸せがあなたにも届くわ。きっと素敵な人に出会えるから」 苑は、言われた通りにステージの後ろに立った。 彼らのリハーサルを、黙って見届ける。 蓮が琴音に愛の誓いを捧げ、指輪をその指にそっとはめるのを見た。 琴音が目を閉じ、顔を上げてキスを待つのも見た。 でも――蓮はキスをしなかった。 代わりに、苑の方を見た。 そこには、穏やかで落ち着いた表情の苑がいた。 感情を押し隠すのではなく、心から静かな瞳で、彼らを見ていた。
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第9話
【明日の結婚式、まだやるつもり?】 深夜、苑のもとに一通のメッセージが届いた。 苑は、隣で眠る祖母をそっと見守りながら、返信を打った。 【住所を送る。明日、私とおばあさんを迎えに来て。でも、もし後悔したなら来なくていい】 【明日、必ず迎えに行く。俺の花嫁さん!】 画面に浮かぶその言葉を見て、苑の胸がひりひりと痛んだ。 自分も、明日――新婦になる。 ただし、迎えに来るのは、顔も知らないネットの知り合い。 愛に狂ったわけじゃない。 ただ、祖母を悲しませたくなかった。心配させたくなかった。 それに、十年―― 画面越しに支え合い続けた十年の歳月は、何よりも重かった。 人生において、十年を一緒に過ごしてくれる人が何人いるだろう。 それだけで、苑には十分だった。 そんなとき、蓮からの電話が鳴った。 時刻はすでに、夜中の十二時をまわっていた。 苑は祖母を起こさないよう、外へ出て電話に出た。 「社長、何かご指示でも?」 事務的な口調で応じながら、苑は内心苦笑した。 最近、彼に対して発する言葉はこればかりだった。 電話口の蓮は、重く息を吐いた。 「……どうして家にいないんだ」 今日は、なぜか無性に落ち着かなくて。 車を飛ばして、苑と六年以上も過ごしたあの家に戻ってきた。 けれど――そこには、苑の気配がなかった。 ベッドはきちんと整えられ、まるで誰も使っていないみたいに冷たかった。 苑は、彼のいる場所を察しながら、静かに答えた。 「おばあさんのところに来ています」 蓮は、真っ暗な部屋を見つめていた。 さっき入ってきたとき、彼はあえて灯りをつけなかった。 彼女を起こしたくなかったから。 でも今は――違った。 灯りをつけたくなかったのは、自分のためだった。 限りないこの暗闇の中にいるほうが、 かろうじて心が落ち着く気がしたのだ。 「……どうして向こうに?」 その問いに、苑はすぐに答えなかった。 けれど、彼の問いかけだけで、すぐに分かった。 ――蓮は、彼女の荷物がもうここにないことに、気づいていなかった。 結局、彼は最後の最後まで、彼女を本気で気に留めることはなかったのだ。 もし――もし蓮が、少しでも彼女に心を向けていたら。 クロ
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第10話
昨晩の星空があんなに綺麗だった分、今朝の太陽も負けないくらいキラキラしていた。 苑は、陽光のまぶしさに目を覚ました。 目を開けると、窓辺に座る祖母が微笑んでいた。 「苑、肝が据わってるねぇ。今日結婚するっていうのに、よくそんなにぐっすり寝られるもんだ」 苑はふにゃっと笑い、祖母の掌に顔を埋めた。 「……だって、眠かったんだもん」 「もう眠ってる場合じゃないよ。ほら、迎えの車が来てる!」 祖母に促され、苑は顔を上げた。 指さされた窓の外を見ると、ずらりと並んだ黒塗りの高級車たちが、療養院の前を埋め尽くしていた。 まさか、本当に―― あの、顔も知らないネットの知り合いが、迎えに来たの? まだ実感が湧かないまま部屋を出た苑は、外の光の海に立つ男性を見た。 深い色のオーダースーツは完璧に体にフィットし、カフリンクスはダイヤモンドのような輝きを放っている。 頭の先から足元まで、纏う空気がまるで違った。 圧倒的な、王者のような存在感。 「……何してるんだい、早く行きな!」 祖母の声に押されるように、男性がゆっくり振り返る。 その顔を見た瞬間、苑の胸はドクンと跳ねた。 「……あなた、なの?」 心臓が、二拍、いや、それ以上に大きく跳ねた。 ――そして、時計は9時59分。 帝都の中心、中央大通り。 東西に伸びる二本の超広幅道路に、二列の豪華な婚礼車列が走り出した。 ひとつは、天城家――蒼真のもの。 もうひとつは、朝倉家――蓮のもの。 帝都で最も尊いふたり。 ひとりは権力の頂点に立つ男、ひとりは財力で頂点に君臨する男。 そんなふたりが、同じ日に結婚式を挙げるとあって、数えきれないほどのメディアが徹夜でカメラを構え、 全国民に向けてライブ配信を開始していた。 どちらの車列もまるで龍のように連なり、遠目には先も後ろも見えないほど。 見た目だけでも、車の数は百台を超えていた。 一台一台がリボンと飾りを纏い、陽光すらも鮮やかく染め上げていた。 やがて、東西から走ってきた二つの婚礼の列は、中央広場で交差する。 そこで、花嫁たちはそれぞれブーケを交換するのだ。 ――お互いの幸せを祈るために。 だが、天城家の婚礼については急な発表だったため、誰も新婦の顔を知らな
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