朝倉蓮が初恋の人と結婚する―― 七年も彼のそばにいた白石苑は、泣くことも怒ることもせず、自ら彼のために盛大な結婚式を準備した。 彼の晴れの日、苑もまた、純白のドレスに身を包んだ。 長く続く大通り、向かい合うように進む二台のウェディングカーがすれ違う。 その瞬間、新婦同士がブーケを交換する。 その時だった。蓮は、苑が彼に向けて言った言葉を確かに聞いた。 「お幸せに」 蓮は驚愕し、そして走った。5キロもの距離を全力で追いかけて、ついに苑のウェディングカーに追いついた。 息を荒げ、彼女の手を掴んだその瞬間、彼の目からは涙が止めどなく溢れた。 「苑、お前は俺のものだ」 だが、車から降りてきた一人の男が、そっと苑をその腕の中に抱きしめた。 「彼女が君のものだって?じゃあ、俺のものは誰なんだ?」
View More苑がバスルームから出てきたとき。 蒼真はベッドに半身を預けながら、本を読んでいた。 彼の鼻梁には、無骨な顔立ちを和らげるような、縁なしの眼鏡が掛かっている。 けれど、それでも苑の心臓は暴走していた。 心の準備はしてきた。 それでも、覚悟と実際に行動に移すのは、まったくの別物だ。 しかも、こんなこと――自分から仕掛けるわけにもいかない。 「――そこに一晩立ってるつもりか?」 蒼真は、ぱらりと視線を上げた。 深い黒の瞳が、静かに苑を捉える。 苑が身に着けているのは、この部屋に用意されていたナイトウェアだった。 決して露骨なデザインではない。 それでも、シルク地の肩紐が細く、背中もすっと開いている。 そんな格好で彼に見られていると。 肌に触れる空気まで熱を帯びていく気がした。 苑は、視線を下に落とし。 慌てて彼を避けるようにして、ベッドの向こう側へ回り込んだ。 そっとベッドに腰を下ろすと。 たとえ彼女がどんなに軽やかでも、ふわりとマットレスが沈み込む。 蒼真の持っていた本も、わずかに揺れた。 苑は、できるだけ端っこに寄って。 毛布の、まさにギリギリのところをそっと引き寄せた。 ベッドが広いせいで。 ふたりの間には、まるで半分地球を挟んでいるかのような距離が生まれた。 蒼真は、何も言わず。 ただ静かに、本に視線を落とし続けていた。 苑も、どうしたらいいかわからない。 横になるべきか。 それとも彼の真似をして、本でも読むべきか―― けれど、彼女の枕元には何もなかった。 仕方なく、シーツの端を指先でいじりながら。 ひたすら、時間が過ぎるのを待った。 空気は重く。 呼吸さえ苦しく感じる。 「――どうした、今日は疲れてないのか?」 蒼真の低く心地よい声が、不意に落ちてきた。 苑は、びくっと肩を揺らしながら答えた。 「……疲れました」 そう口にすると、まるで逃げるようにパッと横になった。 けれど、勢いが強すぎて。 ゴツン、と頭をベッドヘッドにぶつけてしまう。 幸いクッションが効いていたから、怪我にはならなかったけれど。 蒼真が、ふっと笑った。 その笑い声に、苑はさらに顔が熱くなったけれど。 同時に、変な安心感も
――来るべきものは、いずれ来る。 苑は、腹を括った。 胸の奥がどきどきと騒いでいたけれど。 それでも、自分を無理やり落ち着かせた。 蒼真が自分を迎え入れてくれた。 そのおかげで、祖母との約束を果たし、そして、世間に誇れる立場も得た。 それだけでも、苑にとっては、彼にすべてを差し出しても惜しくなかった。 かつて彼女は、友情こそすべてだと信じていた。 けれど、他人の勝手な憶測は、善意も、優しさも、すぐに歪めてしまう。 蓮が教えてくれた。 ――この世に幽霊がいるかもしれないとしても、男の愛だけは信じるな、と。 いまの苑には、友も、愛もない。 あるのは、目の前の現実だけ。 だから、今この一日――いや、一分一秒を。 ちゃんと生きるだけでいい。 七年前の、あの事故が教えてくれた。 未来なんて、どう転ぶか誰にもわからない。 だから、先を案じても仕方ない。 焦ることもない。 もし蒼真が、自分を求めるというのなら。 それも、受け入れるつもりだった。 浴室のドアが開く。 ちょうどその頃、苑は最後の一口まで麺を食べきり。 わずかなスープさえ残さず、空にしていた。 「――嫁に来た初日に、腹空かせてるなんて。俺、ダメな旦那だな」 蒼真は、髪を濡らしたまま現れた。 黒いバスローブを羽織り。 露出した肌は、雪のように白い。 黒と白、その強烈なコントラストに。 彼はただ立っているだけで、まるでドラマの主人公みたいだった。 荒々しくて。 野性味があって。 どこか、圧倒的だった。 祝いの赤で飾られたこの部屋に。 彼だけが黒一色で、まるで異物のように浮いている。 けれど、それすらも。 支配するかのような存在感を放っていた。 苑は、息が苦しくなった気がした。 ――別に。 これから何かが起こるからじゃない。 ただ。 そこに立つ蒼真が、あまりにも別人のようで。 知らない誰かのようで。 そして、怖かった。 まるで。 目の前の彼は、自分の命を奪いに来た暗殺者のようにさえ、思えた。 苑は、蒼真を直視することができなかった。 心の中では、すでに恐怖に近い感情が湧き上がっていたけれど。 それでも、努めて自然に言葉を返した。 「
昼間の喧騒がすっかり消え去り、夜はどこか寂しさを纏っていた。 苑は、目を赤くしながら立ち尽くしていた。 耳には、さっき祖母が療養院へ戻るときに言った言葉が、まだ残っている。 「苑、幸せになるんだよ。おばあさん、あの子にも顔向けできるから」 祖母は、自分の死後、苑の母に何の心残りもないように―― 苑は、祖母に後悔させたくなかった。 苑には、父親の記憶がなかった。 幼い頃、一度だけ祖母に尋ねたことがある。 そのとき祖母は、たった四文字で答えたのだ。 「死んだよ」 でも、その声色から、苑にはわかってしまった。 本当は、死んだわけじゃないんだ、と。 それきり、もう聞くことはなかった。 父親は「死んだこと」にして。 苑の世界には、覚えていない母親と、そして祖母――たった二人だけがいた。 「奥様」 ノックの音がして、苑は慌てて目元をぬぐいながら「どうぞ」と返事をした。 入ってきたのは、使用人だった。 赤いお盆を手にして、その上には一杯の麺と、二膳の赤い箸が乗っていた。 「奥様、こちらは夫婦円満を願うお祝いの麺でございます」 それは、古くから伝わる風習だった。 夫婦がこの麺を一緒に食べることで、心を一つにし、末永く添い遂げると願いを込めるのだ。 「ありがとう」 苑はそう言いながら、用意していた祝儀をお盆にそっと置いた。 使用人が下がったあと、蒼真が部屋に入ってきた。 彼の澄んだ瞳が、苑の目元を一瞥する。 ――何もかも、すぐに察してしまう目だった。 「俺と一緒に、麺を食べるのを待ってた?」 そんなふうに、何でもないことみたいに言う。 ほんとにこの人は、自意識過剰だ。 だって、私たちは「本当の夫婦」じゃない。 一緒に食べるなんて、意味がない。 「ちょうどお腹が空いてただけです」 苑は話をそらすように、テーブルの一角にちょこんと座った。 蒼真は上着を脱ぎ、ハンガーにかけ。 シャツの襟元を緩めながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。 空気の中に、ふわりと淡い酒の香りが漂っていた。 蒼真は、少し酒を飲んでいるらしい。 苑は箸を手に取り、麺に手を伸ばそうとした。 そのときだった。 蒼真が手を伸ばし、ふたりの指先が触れ合った。 昼間の結婚
琴音は精緻なネイルを施した指で、ぎゅっと自分の掌を掴んだ。 「後でお義母さんに、お祝いのお小遣いもらわなきゃね」 その一言には、はっきりとした釘刺しの意味が込められていた。 ――蓮、私をあんまりみじめにしないでね、って。 この結婚式は、彼女が欲しがったもの。 それに伴う体面だって、絶対に手放したくなかった。 たとえ苑にはもう敵わないとしても、これ以上、みっともなく負けたくなかった。 だって、天城蒼真という男は、目の前の彼よりはるかに勝っているのだから。 蒼真は、女に興味がないとか、一生独身を貫くつもりだとか、外ではそんな噂ばかりだった。 けれど、彼はまさかの行動に出た――琴音が一番許せない女を、妻に選んだのだ。 蓮は、目の前で最も愛らしい顔をして、最も辛辣な言葉を吐く女を見つめていた。 かつて彼女を純粋無垢だと信じた自分を、心底呪った。 そして、復讐のためとはいえ、こんな最低な手段を選んでしまったことを。 ――最愛の苑を、手放してしまったことを、何より後悔していた。 「わかった」 蓮は琴音の意図をしっかりと理解しながら、静かに頷いた。 この結婚は、彼女が望んだもの。 ならば、結ばれるまでは簡単にしてやる。 その代わり――離れるのは、難しくしてやる。 二人はぴったりと寄り添い、誰にも聞かれないようにささやき合っていた。 賓客たちの好奇心は最高潮に達していたけれど、誰一人、何が話されていたかは分からなかった。 進行を任されていた朝陽も、次に何を言えばいいのか迷っていた。 だが、蓮が一つ、目線を送ったことで、ようやく口を開いた。 朝陽はさすがと言うべきだった。 場を荒らしかねなかったこの空気を、まるで奇跡のように和らげたのだ。 まるで魔法でも使うかのように、ポケットから取り出したのは、奇妙な形の指輪だった。 「この指輪は、金でも銀でも、ましてやダイヤでもありません。 ただの素焼きの泥でできた、ありふれた指輪です――ですが、この指輪こそ、男が女に捧げた、最も純粋で、最も誠実な愛の証なんです」 朝陽は即興で、物語を語り始めた。 七年前、蓮が自ら焼き上げた指輪だという。 それは琴音への誓いであり、今日再び彼女に捧げるために、慌てて苑を追いかけていた――と。
朝倉家のウエディング会場では、あちこちでざわめきが広がっていた。 誰かがヒソヒソ話し、誰かがスマホで天城と苑の結婚式の様子を見ていた。 「天城家ってほんと豪快よね、結納金や贈り物だけでも、軽く百億円は超えてるだろう」 「それだけじゃないぞ。天城家が与えた『格』こそが、本当に価値がある。 章一さんが『彼女が天城家に嫁いでくれること自体が、最高の誇りだ』って明言したんだぞ。 この十年間を見ても、どの財閥の令嬢が天城家に嫁いだとき、そんなふうに讃えられたことがあったか? たとえ天城家の長男が世界一の富豪の娘を迎えたときでも、ここまでの待遇はなかった」 「白石さんって、どれだけ前世で徳を積んだんだろうね。こんな幸運、そうそうないよ」 「でも、結局は彼女自身の努力だよ。天城家みたいな名門にとって、金はどうでもいい。大事なのは名誉。 オリンピックの世界チャンピオンなんて、金じゃ買えない名声だからね。そんな嫁、家の誇りそのものだよ」 「それにしても、白石さんって本当に隠し上手だったなあ。 あの天城蒼真さんとつながってたなんて、まったく気づかなかったよ。てっきり朝倉さんの好みかと思ってたのに」 「……朝倉さんはきっと、花嫁を奪いに行ったんだろうね。 芹沢家の娘とは、もう結婚しないかも」 「しっ!」 誰かが慌てて話している人の腕をつつき、目配せする。 視線の先には、険しい顔つきの芹沢家の人々がいた。 芹沢正蔵(せりざわ しょうぞう)は、陰鬱な表情のまま、娘の琴音を睨んだ。 「……お前な。あいつがどこに行くか分かってたんだろ? それでも行かせたって、どういうつもりだ。もしあいつが戻らなかったら、うちの顔はどうなる?」 琴音は顔色を失いながらも、どこか不思議なほど落ち着いていた。 「……蓮は、きっと来るよ。 それに、天城家の婚礼はもう終った」 言葉にしなくても、答えは明らかだった。 ――蓮は、花嫁を奪わなかった。 ――あるいは、奪えなかった。 ただ、贈られた栄誉も、祝福も、すべて苑のものだった。 たとえ今日、琴音が蓮と結婚できたとしても、結局は――苑と比べられるだけ。 ――白石苑……あんたのこと、甘く見てた。 琴音は悔しそうに唇をかみしめた。 「もう、何時だと思ってるの
「白石が初めてお前を家に連れてきたの、覚えてるか?」 朝陽の声が、蓮の横でぽつりと落ちた。 蓮は顔を上げなかった。 そんな彼に向かって、朝陽はさらに声を重ねる。 「じゃあ、もっとざっくり聞くけど……何年だったか、覚えてる?」 その一言に、蓮はゆっくり顔を上げた。 血に濡れた顔、真っ赤な瞳。 全身から怒りがにじみ出ている。 彼は、知らなかった。 そして、聞こうともしなかった。 苑も、何も言わなかった。 長年の友である朝陽でさえ、こんな蓮を見るのは初めてだった。 「……先に、病院行かないか?」 それでも、蓮はかすれた声で問い詰めた。 「……何があったんだ」 数秒間、朝陽はまっすぐ彼の目を見つめ、それから静かに口を開いた。 「……お前、彼女がオリンピックの金メダリストってことは知ってるよな。でも、同時にそれが彼女の競技人生の終わりでもあったってこと、知らなかっただろ?」 低く響く朝陽の声は、司会者らしい落ち着いたトーンを持ちながらも、胸に突き刺さるような重みがあった。 蓮の瞳が、ぐっと細まる。 瞬間、彼は朝陽の胸ぐらを掴み上げた。 「くだらない前置きはいい……はっきり言え」 朝陽はその手を無理やり引きはがした。 「蓮、お前が本当に彼女を愛してたなら……俺がこんなふうに説明しなくたって、気づけたはずだろ」 ――本当に、愛していなかったのか? ――いや、そんなはずはない。 「お前に、俺を責める資格はない……苑が、何を経験したんだ」 蓮の脳裏に、ふいに浮かんだ。 ――天城家が彼女のオリンピックの功績を発表したとき、驚愕していた苑の顔。 彼女が驚いていたのは、あの誇り高い栄誉ではなかった。 彼女の胸に、誰にも言えなかった過去があったのだ。 「……わかった、血だらけのお前に免じて、話してやるよ」 そう言って、朝陽は重い口を開いた。 「――あの年、彼女はオリンピックの飛び込みで金メダルを取った。 そして銀メダルを取ったのは、彼女の一番の親友だった。 インタビューで、彼女はこう答えたんだ。 『……あんまり嬉しくない。だって、どうして金メダルが二つじゃいけないんだろう』って。 ――それから、普通に練習に戻ったんだ。何事もなかったかのように」
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