泉川咲月は就活を終えたばかりの大学4年生。春からはバイト先のケーキ屋にそのまま社員として働くことになっていたが、内定を貰ったはずの会社が経営不振による破産宣告を受け、実質の倒産。咲月はまた一から就活のやり直し。落ち込んでいた咲月は弁護士である叔母から事務所の15周年パーティーに誘われて顔を出す。そこで出会ったのは新進気鋭の若手デザイナー羽柴智樹。彼のオフィスで働くことが決まった咲月は、そこで癖のあるスタッフ達と出会う。羽柴からは子ども扱いされてばかりだが、同世代とは違う余裕のある態度にトキメキ始める咲月。羽柴の方も弁護士である敦子を上手く利用する為に咲月のことを引き受けたつもりでいたが……
View More最寄り駅前の銀行ATMで、泉川咲月は通帳を片手に茫然と立ち尽くしていた。今まさに記帳したばかりの自分名義の銀行口座。その残高の数字が、予定していたよりも全然少ないのだ。
――え、え、えっ?! なんで、なんでぇ……?!
後ろに並ぶ老婦人から急かすように咳き込まれて、慌ててATMの機械前から離れる。人の列の邪魔にならないよう壁際に移動して、もう一度通帳をこっそり開いて確認する。
――バイト代が、振り込まれてないっ?! え、今日って26日だよね……?!
毎月25日に支払われるはずのアルバイト料。今月は日曜だったから、前倒しで23日の金曜には振り込まれているはずだった。確認する為にスマホのホーム画面を覗いてみるが、間違いなく今日の日付は26日の月曜日と表示されている。
週末は手持ちがまだあったからと、余裕を見たつもりで銀行を訪れてきた。なのにまだ、バイト代が入っていないのは何故だ?
入っていると思っていたはずのものは無いけれど、光熱費もスマホ料金もちゃっかりと引き落としは済んでいる。出る一方で入金はゼロだ。おかげで口座内に残されている預金残高は完全にスズメの涙。これから飲みに行くなんて調子に乗ったことをしたら、来月には消費者金融のお世話になってもおかしくはない。
大学生活4年目。去年まではそれなりにバイトを頑張って貯金していたつもりだった。別にブランド物には興味は無いし、旅行も海外よりも国内のパワースポット巡りの方が性に合う。
自他共に認める安上がりな女。なのに、どうしてここまでギリギリでやっているのかは、いつまで経っても終わらなかった就職活動のせい。おかげでシフトに入れる日数が極端に減ってしまっていた。この一年は少ない稼ぎと貯金を切り崩して頑張ってきたつもりだった。
勿論、実家からの仕送りはあるにはあるけれど、それは家賃と光熱費できれいさっぱり消えてしまう。それ以外の生活費くらい自分で何とかするよと啖呵切ってしまった過去の自分が恨めしい。半ば諦めモードになりつつも、銀行の建物の外に出てから、咲月はスマホに登録しているバイト先の電話番号を呼び出す。
「お電話ありがとうございます、パテル東町店です」
咲月も聞き慣れている、おっとりとした中年女性の声。古参のパート勤務の中谷で、小学生の男の子二人のママだ。平日のバイトリーダー的存在でもあり、入ったばかりの咲月に仕事を教えてくれたのが彼女だ。
「お疲れ様です。泉川です」
「あ、泉川さん、お疲れ様ー」 「……中谷さん、あの……今月のバイト代が振り込まれてなかったんですけど――」 「あー……そうらしいのよね。今月のは少し遅れるって本社から連絡あったんだけど、これってどうなるのかしらね? 振込はちゃんとされるとは思うんだけど……」 「えー、それってヤバくないですか?」 「うん、ねぇ……」電話の向こうで中谷が呆れ笑いを浮かべているのが容易に想像できる。でも、穏やかな雰囲気を持つ彼女だけれど、意外と言う時ははっきりと言うタイプだ。
「泉川さん、最近は入ってなかったから知らないかもだけど、ここんとこ売上金は閉店後に営業さんが回収に来てたのよ。配送も業者さんじゃなく、工場の人が直接運んで来てたりね」
工場での一括製造により、この辺りの店の中では断トツの安さが売りのケーキ屋”パテル”。種類によってはコンビニスイーツよりもお手頃価格だと、それなりにリピーターも多いチェーン店。味はまあ、値段相応。
咲月が働いている東町店は駅前ということもあり、一年を通してそれなりに売上もあったから、まさか会社全体ではそんな危うい状況になっているとは思いもしなかった。従来は口座へと入金しに行っていた売上金を銀行を通さず回収しているということは、相当ヤバイんじゃないだろうか。
「まさか、潰れたりはしないですよね……?」
「んー、どうだろう?」 「ええーっ、私、4月から社員にしてもらえるって――」「あぁ……」と中谷も困り切った声を漏らしている。あまりにも悲惨過ぎて、同情の言葉も思いつかないのか、電話の向こうからも深い溜め息が返ってくる。
「今月の振り込みは遅くても一週間以内には何とかするって店長も言ってたし、もう少しだけ待ってあげて。さすがに未払いとかは無いだろうけど」
中谷自身もパート代が支払われていない状態なはずだが、咲月ほど焦っているようには思えない。きっと、会社員の夫の給与で生活には不自由していないのだろう。
咲月と話している内に店に来客があったらしく、中谷が慌て気味に「きっと大丈夫よ」とだけ言い残して通話を切る。その大丈夫はバイト代の振り込みのことだけを指すのか、それとも咲月の4月からの就職のことなのかは分からない。
「また、かなぁ……?」
働いていたバイト先の倒産は、実は今回が初めてではない。これまで短期のものも含めていろんなところでアルバイトを経験してきたが、なぜか咲月と関わった店は全て潰れて無くなってしまっている。別に売り上げの悪そうなところを選んでいるつもりもないし、働いている内はそれなりに仕事量もあって忙しかった記憶がある。なのに不思議なことに、咲月が辞めてかかわりが無くなった後、風の便りで潰れたことを聞く羽目になる。
ただ、今までは辞めて縁が無くなった後ばかりだったし、今回みたいに業績の悪化の影響をモロに受けたのは初めてだ。
「それって、咲月の倒産パワーが増したってことなんじゃない? 完全にパワーアップだね!」
「勘弁してよー。こっちは就活のやり直しの危機なんだから……」先週末に入っているはずのバイト料をアテにして飲みに行くはずが、ファストフード店の二階席でハンバーガーセットを頬張る羽目になった。急に予定変更をお願いしてきた咲月のことを、同じゼミの藤岡美奈は大笑いしながら揶揄ってくる。
倒産パワー、そんな縁起でもない力は冗談でも要らない。辞めた後とは言っても、一度でも働いたことがある場所が無くなっているのを見るのは寂しい。久しぶりに顔を出そうと訪れて、全く別の店の看板が上がっているのに気付くのは辛いものがある。
さすがに美奈も今回の深刻さは分かってくれているのか、それ以上は言っては来ない。二人揃って、二階席の窓から駅前の景色を無言で眺める。既に冷え切ったポテトにナゲットのソースを付けて口の中へ放り込んでから、咲月はタクシー乗り場の方に視線を送る。取引相手でも見送っているのか、タクシーのドアに向かって頭を下げているスーツ姿の男性。車が動き出した後もしばらくは頭を下げ続け、完全にロータリーから離れたのを見送った後、ふぅっと肩で息をしているのが見えた。
「就活、もう一回やり直しかぁ……」
「ふぁいと」人並みに頑張ってこなしたつもりの就職活動。3年生の後半には情報収集を始めて、それなりの数の説明会にも参加した。中には最終に近いところまで残れた会社もあったが、結局は全てからお断りされてしまった。そんな愚痴をケーキ屋のバイト中に店長へ聞いて貰っていたら、「本社の事務を募集してるし、推薦してあげるよ」と。その後はとんとん拍子に本社で社長と面接してもらい、「現場の経験があると助かるよ」という言葉と共に内定をもらった。 ――はずだった。
事務とは言っても、隣でシェイクを啜っている美奈のように、外資系の証券会社みたいな華やかさも無ければ、給料だってバイトよりもちょっとマシくらいだろう。それでも何とか縁があり正社員として雇って貰えると安堵していた。だけど、今日の店との電話からすると、先行きには不安しかない。
本格的に営業業務が中心となり始めた笠井のファッションは、以前のふんわり綺麗系オフィスカジュアルはほぼ封印されて、キャリアウーマン風スタイルへ変わっていていた。いわゆる形から入るタイプだったらしい。緩く巻かれていた髪はすっきりとアップにし、ウエストラインを強調したパンツスーツ率が高い。でも、スーツはどちらかというとベージュやライトグレーといった明るい色合いの物が多いところは着こなし上手な笠井らしく華やかで、いまだにスーツというと黒のリクルートスーツしか持っていない咲月にはとても参考になる。参考にはなるが、咲月にはさっぱり似合わない自信もある。 事務スペースの壁面棚から必要なファイルを探して抱えると、咲月は誰もいない静かなオフィス内を改めて見回していた。笠井と川上の二人は昼過ぎから取引先のところへ出掛けているし、平沼は今日は在宅ワークで出勤して来ていない。羽柴も別の商談で出ているし、今日の午後は夕方まで完全に一人きりの予定だ。誰もいないのに照明が点けっぱなしなオフィスには空調と冷蔵庫が唸る音くらいしか聞こえない。 と、普段と違う状況に少し寂しさを覚えていた咲月だったが、いきなり入口から聞こえてきた「いらっしゃいませ」という電子音に、思わず身体をビクつかせた。 これだけ人の気配が無い時は入口のドアが開く音で先に気付きそうなものだが、考え事をしていたせいか全く聞こえていなかった。普段はそうでもなかったはずなんだけど、今日はやけにセンサー音が大きく聞こえて、かなりビックリしてしまった。振り返って見ると、長髪を無造作に後ろで束ねた銀縁の丸眼鏡の男性が立っていた。四月の飲み会以来全く顔を見せていなかったデザイナーの原田だ。 彼は今日もデニムに黒色のジャケットを羽織っていたから、初めて会った面接の日のことを思い出す。飲み会は一瞬だけ顔を出して、速攻で帰って行ったから一言も喋ることはなかった。だから、咲月の彼への印象は面接の時で完全に止まってしまっている。「あ、原田さん、お久しぶりです」「ええっと……、お久しぶり、です」 少し困惑した表情の原田の反応から、きっと咲月の名前が思い出せないのだろうということはすぐに察した。けれど、それにはあえて触れなかった。よく考えたら、そんなことを弄り合うほど彼とは親しくはない。もし相手が平沼だったら速攻で突っ込んでいたかもしれないが
前月分のスタッフ全員の交通費や立て替え経費の集計に追われる月初。咲月はメールで送られてきた清算書と手元にある領収書の金額をひたすら目で追って確認していた。 最近は笠井から引き継いだ事務仕事が中心になってしまっていて、社長である羽柴の補佐業務はほとんど何もしていない状態だった。慣れればどちらもこなせるようになるのかもしれないが、今のところはそんな余裕はない。これまで事務と営業の仕事を掛け持ちしていた笠井のすごさが身に染みてよく分かった。 ――あれ? だったら私、デスクが社長室にある意味がないんじゃ……。 頻繁に使うファイル類はデスクスペースの後ろの棚に並んでいる。だったら他のスタッフと一緒にフロアでデスクを並べていた方が、仕事の効率は良いはずだ。あちらなら分からないことが出てきたら笠井にすぐに聞くことだってできる。さらには事務作業中に何度も部屋から出て必要な書類を取りに行くという手間も省けるのではと、さすがの咲月も頭のどこかで思い始めてはいたが、それはなかなか言い出せずにいた。 ――でもそうすると、デザイン中の社長が見れなくなるんだよね。 普段はどこか余裕のある表情で何事も達観している風に見える羽柴が、子供みたいに楽し気にペンを走らせていることもあれば、真剣な目をしてデザイン画に向かっていることもある。そんな彼に対して、咲月は仕事中に何度もパソコンモニターに隠れながら視線を送ってしまう。つい目が離せなくなってしまう理由は自分でもまだあまりよく分からないけれど。 何にせよそれは、今のデスク位置からでしか眺めることができない光景なのだ。 もしかしたら、紗英がデザイン部の先輩について言っていた「ギャップに惚れた」ってやつだろうか? イヤイヤ、自分の場合はそういうんじゃないし、と心の中で否定する。紗英も何だかんだ言って、先輩には恋愛感情はないっていってたし、推しとか眼福とかそういう感覚なんだろう。そもそも羽柴との年齢差を考えたら、咲月なんて子供過ぎて眼中にも入れて貰えてないはずなのだ。ちゃん付けで名前を呼ばれている時点で、それは決定的だ。 同じ室内の窓際のデスク。部下から送られてきた資料に目を通して、眉を寄せて何か難しい表情をしていた羽柴が、咲月から
「私、ずっと思ってたんだけどさぁ」 紗英が目元を赤らめながら、少し呂律の怪しい口調で咲月に向かって人差し指を突きつけてくる。美奈は途中からソフトドリンクへと切り替えていたけれど、ずっと酎ハイばかりを頼み続けていた紗英はそろそろ限界に近付いているのかもしれない。「ん、何?」 店に来てまだ一度もアルコールを口にしていない咲月は、この場で唯一のシラフだ。明日は休日だしお腹も満たされたことだしと、そろそろ何かカクテルでもと考えていたけれど、向かいの席の様子が既にあやしい。今日は飲まずに世話役に徹する気でいた方が良さそうだ。メニューをチラ見してから店員を呼んで、リンゴジュースをオーダーする。すぐに運ばれて来たドリンクを紗英の前にそっと置きつつ、まだ少しレモンサワーが残るジョッキを回収してテーブルの隅に移動させた。「咲月って弁護士やってる叔母さんと結構仲いいでしょう? なのになんで、ケーキ屋が倒産して内定取り消された後、叔母さんのとこに就職ってならなかったのよ? 結構手広くやってる事務所なんでしょ、姪っ子一人雇うくらいできたんじゃないの?」 敦子と食事に出かけたり、いろいろ買って貰ったりしているのは二人には何度か話したことはあった。今日持って来たバッグもそうだし、卒業式の袴一式を用意して貰ったのも喋った記憶はある。そこまで可愛がって貰ってるのなら、卒業後の面倒だってみてもらえそうなのにとずっと不思議に思っていたらしい。「あ、でも、今のデザイン事務所は敦子叔母さんからの紹介だったから……」 「うん、それは聞いた。でも、自分の事務所においでとは言われたことないんだよね?」 「そう言えば、言われたことは無いね」 「まさか、咲月のジンクスが発動するのを恐れて、とか? ……さすがにそれはないかー」 「あーでも、ほら。身内が入ると他のスタッフが仕事し辛くなるってのもあるからじゃない?」 横で聞いていた美奈が、それっぽいフォローを入れてくれるが、紗英はあまり納得していないようだった。確かに姪っ子を創立パーティへ気軽に呼んだり、事務所へ遊びに来させたりするような人がそんなことを気にするとは思えないのだろう。 咲月は困ったなという風に小さく苦笑する。これまで大学の友達に実家の話をしたことがないから、当然といえば当然なのだ。身近にコネがない訳じゃないのに、何でこの子はこん
「でも同じ会社の人と付き合うとかは無理だなぁ……」 そう呟いたのが美奈じゃなくて紗英だったから、咲月は食べていた鶏の唐揚げで喉を詰まらせそうになり、むせ返ってしまった。驚きと喉の詰まりで思わず目をぱちくりさせる。ついさっき、会社の先輩の話で瞳にハートを浮かべていたところではなかったか、と。「いやいや、バッグデザイナーの先輩は?」 咲月が来る前に散々いろいろ聞かされていたせいもあってか、美奈も速攻で紗英を突っ込んで「はぁぁ?!」と目を剥いていた。「だってほら、付き合ったとしても、その後に上手く行かなかったことを考えてみてよ。下手したら職場に居辛くなって、職も彼氏も同時に失うことになっちゃわない? あんなに苦労して就活した会社だよ。そこまでの覚悟ができるくらい本気ならいいかもだけど……」 「じゃあ、その先輩は何なの一体?」 「先輩は私にとって、社内のオアシスってとこかなぁ。ぶっちゃけ、推しだね。それ以上でもそれ以下でもない!」 あくまでも恋愛感情ではないと言い切る紗英に、美奈が呆れた溜め息を吐いている。コイバナだと思って真剣に聞いていた時間を返せと、紗英にクレームを入れ始める。「だってほら、大学ん時だってバイトとかサークルで付き合い始めた子とかいたけど、別に上手くいってる内はいいよ。でも、結局別れるってなった時、必ずどっちかが来なくなってたもん」 「まあ、普通はそうなるなるよね。たまに平然としてる人達もいたけど、周りが変に気使わされて大変なやつ」 「そうそう。学生の時はそういう後々のことは考えず行動しても何とかなったでしょ。気マズかろうが、どうせ卒業したら会わなくなるんだしって。でもさ、今はそういう訳にもいかないじゃん」 「……確かに、どっちかが辞表出すまでずっとだよね」 就活をやり直すリスクを冒してまでは踏み込みたいとも思えないと、ついさっきまであんなに惚気ていたとは思えないほど紗英がドライに語る。社会人になって見た目と同じくらい、恋愛観までがらりと変わったみたいだ。「でも、うちの会社って意外と社内結婚が多いらしいんだよねー」 信じられないと言いたげに、紗英が眉を寄せながら言う。「やたら懇親会的なのが多いから、そういうので距離が縮まるのかなぁ。大抵はどっちかが辞めて、どっちかが残ってるって感じなんだけど。結婚しても旧姓のままだったりす
「あ、こっちこっちー」「沙月、おっそーい」 通っていた大学通りの馴染みの居酒屋。駅前でよく見かけるチェーン店だ。アルバイト店員の中にはどこかの講義で一緒になった記憶のある後輩の顔をちらほら見かけた。学生の時から住み続けているマンションが近いという理由で、この店を指定したのは紗英だった。 卒業式以来ずっと会ってなかった紗英は、当時とはメイクもがらりと変わって随分と大人っぽくなったように思えた。美奈と共に同じゼミで、学生生活の大半を一緒に過ごした紗英はアパレルメーカーの勤務。第一志望は出版社で、ファッション誌の編集をやりたかったみたいだけれど、あまりの高倍率に断念して、紹介する側ではなく作って流通させる側に回ることにしたらしい。「ほんと、咲月は全然変わらなくて安心するー。見てよ、紗英を、また初めて見るバッグを持ってるんだよ。こないだ通勤用って言ってたのとは全然違うし。バッグばっかりどんだけ買ってるのよ?」「えー、社割社割! でも、新作が出たらつい欲しくなっちゃうんだよねぇ」 洋服こそビジネスカジュアルを意識してはいるものの、咲月は卒業祝いに敦子からプレゼントして貰ったバッグを通勤用にしている。落ち着いたブラウンの合皮のトートバッグは中の仕切りが多くて使い勝手がとてもいい。自立タイプだからデスクの下に立ててしまえるのが気に入っている。 ただまあ、敦子セレクトだからデザインが大人っぽ過ぎるのは確か。でも、ブランドに詳しい人なら分かるらしく、初めてオフィスに持って行った時、笠井から「あら、そのバッグ素敵じゃない」と褒めて貰えた。「もしや、これも例の彼のデザインとか?」 美奈が揶揄うように紗英の顔をの覗き込んでいる。先に飲み始めていた二人は、すでに目元がほんのりと赤らんでいた。テーブルの上には半分以上を飲み終わっている酎ハイの中ジョッキ。向かいに座る美奈の言葉に、紗英は照れ笑いを浮かべ始める。「え、例の彼って何のこと?」 ジャケットを脱いで壁のハンガーに引っ掛け、美奈の隣の席に座りながら咲月が二人の顔を交互に見る。どうやら自分が来る前にすでに何か面白い話が出ていたらしい。美奈達はクスクスと笑い合って、妙に盛り上がっている。「同じ会社のデザイナーさんなんだってー。四つ上だったっけ?」「そう、デザイン部にいる先輩。展示会とかで一緒になったりするんだけど、
聞かなくても分かっている。咲月のことは顧問弁護士の敦子から預かっている子くらいにしか思われていないってくらいは。それでも聞き返してしまったのは、別の答えが返ってくるのをどこかで期待していたからだろうか。無意識の台詞に、自分自身が一番驚いていた。 ――あれっ、私、何言ってんだろ……? そんなこと、社長に聞く必要なんてないのに……。 さっきの甘えた言い方は、咲月のことをただ揶揄っただけだ。年上で大人な彼からすれば、咲月なんて本気で相手にするはずなんてない。笠井や七瀬に比べたら、咲月なんてまだまだ子供でしかないのだから。 そう頭では理解しているのに、咲月は胸の鼓動が早鳴るのを抑えきれなかった。揶揄いの言葉にさえ、心が大きく揺すぶられるのを感じる。こうなるのが分かっていて、あんな風に思わせぶりなことをわざと言うなんて、羽柴智樹という男は何て意地が悪いんだろう。 そんな咲月の隠れた動揺を打ち破ったのは、社長室扉を叩く音だった。コンコンと二度のノック音の後に、平沼の困惑した声が聞こえてくる。「失礼します。社長、ちょっといいっすか? 七瀬さんがやっぱ社長にも同席して欲しいそうなんすけど……」 小松絡みで相談に来たという七瀬が、羽柴も一緒に話を聞いて欲しいと言い出しているらしい。この事務所では小松の仲介者だった平沼が担当していると伝えたみたいだけれど、彼女はどうしても羽柴社長もと聞かないようだった。 彼女に取って、小松の件は都合の良い言い訳に過ぎない。過去に逃した魚を再び追いかけるのに丁度良いキッカケだったのだろう。笠井の予想では、独立の可能性が立ち消えた彼女の夫は、早い内に見限られて捨てられてしまうに違いない。 そんな女の冷酷な策略を知ってか知らずか、平沼は呆れるような溜め息を吐きつつ、客人の様子を報告してくる。「うちはもう小松の案件はとっくに対応済みだから、社長に出てもらうようなことは無いって言ってるんすけどね。向こうのことを相談に乗って貰いたいとかなんとか――」 「渡せる情報は渡してあげたんだよね?」 「はい。うちがどう対応したかは伝えました」 「じゃあ、こっちで助けてあげられることはもう何もない。他所の事務所のことにまで口出しはできない。他に何かあれば、七瀬――ああ、彼女の旦那の方に連絡するようにするって言ってくれるかな」 さっきとは打って変
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