浴室からは水音がしゃばしゃばと響いて、時折混じるくぐもった、なんとも言えない色気を帯びた声。彼は、どうしても自分で済ませることを選ぶ。私には絶対に触れようとしない。私はずっと、慎一が私に見せる独占欲は、きっと私が彼に「新鮮さ」を与えたからだと思い込んでいた。あんな味気ない日々の中、突然私が現れて、愛と性という刺激を彼に無理やりぶち込んだ。まるで、時期外れの年齢で若者らしい恋愛を体験したみたいに、ただ、それだけのことだと。でも、今の彼はまた私に触れることを拒む。結局、肉体の快楽が彼にとって一番なのか、それとも、彼がいつも強調する「感情」こそが本物なのか……疲れ切った体はもう思考を止めてしまって、私はもうどうでもよくなっていた。好きにして、なんでもいい。夢うつつの中、ベッドが沈み、慎一が私の体をすくい上げるようにして、その腕の中に抱き寄せた。彼の体にはまだ水滴が残っていて、ひんやりとした感触に半分だけ覚醒するけど、それでも目は開けられない。慎一の唇が私の頭に落ちる。彼の低い声が耳に届く。「佳奈、今度すごいプレゼントを用意してるんだ。きっと気に入るはずだ」「婚約の品?」自分でもなぜそんなことを口にしたのかわからない。適当に返事をしただけ。どうしてもその言葉が口から出てしまったのは、多分、私の奥底でずっと気にしていたからだ。こんなやり方で彼の隣に戻ってきて、正々堂々と言えない自分を、自分で責めている。慎一はふっと笑い、私の背中にそっと噛みつくようにして言った。「違うよ」「ならよかった、ありがとう、ありがとう……」私は何度も呟きながら、眠気に負けて目を閉じた。「寝よう、寝よう……」と繰り返す。本当は分かってる。結局、女を喜ばせるための小道具みたいなものだ。慎一は、私と再婚する気なんて、これっぽっちもないんだ。ぼんやりと、慎一がまだ何かを言っているのが聞こえた気がする。でも、その声は頭の中で蚊の鳴き声みたいに小さくて、煩わしい。もし、あとほんの数秒だけでも意識がはっきりしていたら、彼がこう呟いたのを聞き取れただろう。「俺がもう一度結婚なんてできるわけない。もしそんな日が来るなら、その前に全財産を投げ打ってでも、お前をこの手から離さない」……翌朝、差し込む陽の光に目を覚まし、昨夜のあまりの乱れぶりに気
車内には、熱を帯びた吐息と微かな喘ぎが充満していた。慎一は私の手を掴み、そのまま自分のベルトの上に押し当てる。ここには、あの高貴で冷たい慎一なんてもういない。欲望に身を焦がし、ずっと女を遠ざけてきた男の本能だけが、今、目の前にいる。彼の体は熱くて、今にも車の中で二人の服を全部脱がせてしまいそうな勢いだった。彼の口からは濃いお酒の匂いがして、私の体も彼のせいで火照って仕方がない。それでも、かろうじて残っている理性で、私は最後の一枚の布を必死で守るしかなかった。地下駐車場に着いた時、彼は私を抱き上げ、振り返りもせずエレベーターへと進む。まるで狂ったように、私を壁に押し付けて激しくキスを繰り返す。慎一は低くかすれた声で囁く。「俺に、くれるよな?」私は首を反らして喘ぐ。こんなふうに弄ばれて、耐えられる女なんているはずがない。それに、彼がプライドを捨てて、車の中で私のためだけに必死になっていることが、なおさら私の心をかき乱す……エレベーターは直通で家に着く。ドアが開いた瞬間、私の服はすでに行方不明だった。私はもう抵抗しなかった。彼に抱きかかえられ、柔らかなベッドに運ばれる。私の理性と心は、激しくせめぎあっていた。あれだけ何度も彼と体を重ねてきたというのに、今この瞬間も、私たちは名もなき関係のまま。拒まないのは、ただ約束を果たすため。私は目を閉じて、彼を急かす。「早くして」慎一は服を脱ぎ、ズボンを蹴飛ばし、私が抱きしめていた布団すらも床に投げ捨てる。私の足首を撫でながら、「隠すな。もっと見せて」と囁いた。部屋のエアコンは効いているはずなのに、冬の夜はやっぱり寒い。私の肌には小さな鳥肌が立って、彼に触れられる部分は特に敏感になってしまう。彼はまるで新しい遊びを見つけた子供のように、私を弄るのをやめようとしない。私の意志を削ろうとしているのか、エロい言葉を囁き続け、どうにか理性を手放させようとしている。私は唇を強く噛みしめ、どんなに彼が求めても、彼が聞きたがっているあの言葉だけは口にしなかった。彼は、私に「愛してる」と言わせたいのだ。私の体を弄び、泣くまで責めても、私は絶対に言わなかった。やがて彼は私の耳たぶを噛み、私のそばで祈るように囁いた。「ハニー、愛してるって言って。言ってくれたら、俺も全部あ
車の窓が彼の手でゆっくりと下げられた。夜の涼しい風が車内に流れ込み、私の中の湿った感情を少し吹き飛ばしてくれる。慎一は片手で窓枠に肘をつきながら言った。「ちょっと考えさせてくれ。真思のことは、なにより雲香が悪いことをしたからな」その言葉を聞いても、私は特に驚かなかった。彼の心の中では、いつだって真思が受けた傷だけが正義。真思が他の誰かを傷つけてきたことなんて、まるでなかったことのように……それでも、彼が真思と一緒にいる理由は、ただの罪悪感だけなのだろうか?もしも、彼が真思のために打ち上げパーティーに出席したなら、その瞬間、彼は改めて世界中に宣言することになる。「真思こそが、俺の彼女だ」と。じゃあ私は?前に、わざわざ彼を連れて食事に行った私の姿は、全部、滑稽な見せかけだったってことになる。慎一の心の中では、すべてもう選ばれていたのだ。どれだけ強引に私を側に置いたとしても、彼の答えが変わることはない。私は彼の腕の中から必死に抜け出し、「もう帰ろう」とだけ言った。「もう拗ねたのか?」慎一は楽しそうに笑い、私の髪を優しく撫でる。「なんでお前は、他の奴には絶対怒らないのに、俺にだけ怒るんだ?やっぱり俺は、特別なんだろ?」特別?たぶん、そうなのかもしれない。この世に慎一という名の人間は、彼しかいないのだから。私は過去を消せない。かつて彼に注いだ思いも、もう消せない。もし昔の私なら、きっと迷いもせず「あなたは特別」と伝えていた。でも今は違う。「勘違いしないで」街灯の薄暗い路地。ライトもつけていない車内で、私は彼の顔すらはっきり見えない。ただ、彼の体から伝わってくる、どこか満たされない気持ちだけが、私を揺さぶる。慎一は面白くなさそうだ。私の心が彼で満たされていないことが、気に入らないのだ。どれだけ強引にしても、甘い言葉を囁いても、彼が得たい満足は得られない。彼は、佳奈が欲しいのだ。その夜、彼は珍しく彼女を家に送らず、まっすぐバーへと向かった。まるで普通の恋人同士みたいに、二人でカウンターに腰掛ける。一人は酒を飲み、もう一人は黙って考え込む。彼は酒の勢いで、薄暗いライトの下、抑えきれず彼女にキスをした。自分でも理由が分からないまま。バーテンダーがちゃかすと、彼は嬉しそうに佳奈を抱きしめて、
慎一は、特に驚いた様子を見せなかった。どうやら、この界隈にもう一人新しい顔が加わったことは、すでに秘密でもなんでもなくなっているらしい。ただ慎一が博之の顔をまだ見たことがなかっただけだ。「これからは、お義姉さんに近寄るな」彼は博之に一切の情けも見せず、ただそれだけを言い残して私を車に乗せた。どうやら、私生児ひとりなど、彼にとっては取るに足らない存在らしい。振り返ると、博之は片手をポケットに突っ込んだまま、微笑んでいた。何を考えているのかは分からない。そのとき、不意に私の顔が正面に戻される。慎一が身を乗り出して、私のシートベルトを締めてくれた。「まだ見るのか?」「もう見ないよ」慎一は無表情のままエンジンをかける。「弟ができて、そんなに新鮮かと思った」慎一のおかげで、今や「新鮮」という言葉を聞くだけで全身がむず痒くなる。そもそも新鮮さを語るなら、彼のほうがよく分かっているはずだ。だって、雲香とは血のつながりがないのに、あれだけ長い間甘やかしてきたのだから。「別に」私は気のない返事をする。慎一はしばし黙り、顔をしかめた。「とにかく、あいつには近づくな。性格がひねくれてて、付き合いにくい。第一、うちの母さんが昔あいつに土地を譲ったろ。お前が義理の娘だろうが、関係ない」うちの母さん?胸が詰まり、さっきのレストランでの真思との会話が頭をよぎる。私の母には、とてもじゃないが「うちの母さん」なんて呼ばれたくないはずだ。「私と一緒にいるとはいえ、私たちはとっくに離婚してるの。余計なこと言って母を怒らせたら、夜中に夢にでも出てきて恨み言言われるわよ」彼は急ブレーキで車を止め、私を抱き寄せた。次の瞬間、彼の唇が私に落ちる。彼の体から、微かに香水の匂いがした。その香りは私のものじゃない。嫌悪感が湧く。でも、彼にしっかりと抱きしめられて、結局そのキスを避けることはできなかった。彼の手が私の服の中に忍び込み、不埒なことをし始める。しばらくすると、彼は息を切らせて私を抱きしめたまま言った。「これ、罰してるのはお前か、それとも俺か……もう分からないな」私はもう、彼との色恋に付き合う気はなく、ただ肩にもたれて荒い息をついていた。「安井先生、もし俺たちが夫婦じゃなかったら、車の中で男とこうして……刺激的だと思わないか?」
博之の瞳は、まるで深い湖底のような色をしていた。佳奈に会いたい――そう思ったのは、今日や昨日の話じゃない。一年や二年どころじゃなく、もうずっと胸の奥にくすぶっていた想いだ。だけど、どうやら佳奈の記憶の中から、自分はすっかり消え去ってしまったらしい。あの頃、佳奈は大学四年生だった。困っていたお婆さんのために弁護を引き受けたことがあった。そのお婆さんは、とてもよくしてくれた。食べるものにも困っていた博之に、そっとご飯を分けてくれたりして。だけど、お婆さんは病気になり、お金がなくて怪しい薬を買ってしまい、それを飲んだせいで容態がさらに悪化してしまった。佳奈は、お婆さんの家計の事情を知って、一銭も受け取らなかった。そのせいで、恨みを買い、嫌がらせまで受ける羽目になった。恩返しのつもりで、博之は何人か仲間を集めて、毎日こっそり佳奈の護衛をした。けれど、なぜかいつもある警察官がぴったりと付き添っていて、博之は結局、佳奈とまともに話す機会を逃してしまった。思い返せば、あの時の警察官の警戒心の強さといったら、自分まで悪者扱いされたに違いない。苦笑混じりに、博之は思う。世間なんて狭いものだ。ぐるりと巡り巡って、こんな形で佳奈と再会することになるなんて。博之は穎子を車に乗せ、シートベルトをしっかり締めてから、ふと口を開いた。「霍田社長の名前なんて、知らない人の方が珍しいでしょ?安井先生もついでに有名人だな。ま、もし機会があれば、霍田社長にうまく口添えしてくれると助かる。俺が稼げば稼ぐほど、穎子も幸せにできるんだし」博之はそう軽口を叩くが、本心かどうかは、私にはよくわからなかった。ただ、彼が穎子を気遣う手つきは、どこか優しかった。根は悪い人間じゃないのかもしれない。ふと、穎子が酔う前に私に言った最後の言葉を思い出す。「自分が何をしているのか、わかってる。私のことで、佳奈が我慢するのは嫌。いつか、私も佳奈のために何かできる人になりたい……」きっと、彼女なりの想いなのだろう。今の博之は、穎子にとって一番ふさわしい人なのかもしれない。だからこそ、博之が少しふざけた口調で私に話しかけても、私は怒ることができなかった。この瞬間、私はまた一つ、真思への憎しみを強くした。もしあの女が余計なことをしなければ、穎子は今ごろ、バリバリ働くカッコいい弁護
「佳奈?」穎子がスーツを脱ぎ捨て、華やかな姿で男の隣に立っている。こんな彼女を見るのは初めてだ。目の前のこの男、どこかで見覚えがある気がする。見た目は二十代後半。慎一に比べると少し幼さの残る顔立ちだが、シャープな輪郭がその整った顔をより際立たせている。その涼しげな目元が、どこか飄々とした雰囲気を醸し出しているが、時折きらりと光る視線には油断ならない鋭さも伺える。どうやら、腹の底が読めない男だ。この男が、卓也が話していた、穎子の新しい彼氏なのだろう。「佳奈、まだ紹介してなかったよね。この人、私の彼氏。南風博之。さっきちょうど、今度は一番の友達に紹介したいって話してたところだったの。まさか、タイミング良く来てくれるなんて!博之、この人が佳奈、私が何度も言ってた一番の親友」私は微笑んで、博之に軽く手を差し出し、握手だけ交わすと、挨拶代わりに声をかけた。「これからどこか行くの?邪魔しちゃったみたいね」「うん、彼の友達に紹介したいって言われてて。佳奈、何か用事?」臨城市でのあの日以来、彼女の様子が気がかりだったけれど、とりあえず今は博之がちゃんと支えているように見えた。心の中には聞きたいことが山ほどあったけれど、今この場では言い出せない。特に用事はないって言いかけたところで、博之が一歩前に出て、実にさっぱりとした様子で、「よかったら一緒にどう」と誘ってきた。穎子はうれしそうに私の腕に絡んできて、「ちょうど良かった!ね、博之がすっごく美味しいお店見つけてくれたの。一緒に行こうよ!」夕飯は済ませたばかりだったけれど、彼女の突然の彼氏にはどうにも不安が拭えず、一緒に行くことにした。車では、私と穎子が後部座席。運転席には博之。穎子はすっかり私に任せきりな様子だけど、誠和のことはやはり気になるらしく、道中ずっと私と仕事の話で盛り上がった。恋愛しても仕事の心は健在、ひとまず安心した。車が長い大通りに差し掛かった頃、博之が話しかけてきた。「今日は俺の友達は呼ばないよ。あいつら人数多すぎてさ。安井先生が気まずいかと思って。今日は安井先生のための食事会だから」そう言って微笑む彼を見て、穎子は得意げに私を覗き込んでくる。「ほら、うちの彼氏、気が利くでしょ?」けれど、私はどこか博之の言葉に含みを感じてしまう。食事は