LOGIN私、橘弥生、28歳。自分のことを「ダメな人間」だと思い込んで生きてきた。 ある日、セレブが集うパーティーの裏方スタッフとして働いていた私は、高価な花瓶を割ってしまう。優しく手を差し伸べてくれたのは――神宮寺蓮。この国を代表する企業グループの若き総帥だった。 「あなたは、自分を過小評価しすぎている」 彼の言葉が、凍りついていた私の心を少しずつ溶かしていく。花を愛する彼との時間の中で、私は忘れていた「好きなこと」を思い出していく。 でも、セレブ社会からの冷たい視線、周囲との格差、そして何より――「私なんかが愛される資格はない」という、自分自身の声。 逃げ出したくなる。でも、彼は言う。「僕が一緒にいる」と。
View More春の陽光が、オフィスビルの窓ガラスを通して淡く差し込んでいた。橘弥生は派遣会社から送られてきた業務指示書を手に、高層ビルの三十二階にあるイベント会場へ向かうエレベーターに乗っていた。二十八歳。派遣社員としてこの仕事を始めて五年になる。
エレベーターの鏡に映る自分の姿を、弥生は一瞥して目を逸らした。地味なベージュのブラウスに黒いパンツ。控えめなメイク。髪は後ろで一つに束ねている。目立たないように、目立たないように。それが弥生の生き方だった。
「本日の慈善パーティーは、神宮寺グループ主催です。裏方スタッフとして、会場設営と受付補助をお願いします」
朝のブリーフィングで聞いた言葉が頭の中で反芻される。神宮寺グループ――この国を代表する企業グループの一つ。その若き総帥、神宮寺蓮は、三十四歳でありながらビジネス界のカリスマとして知られている。弥生も雑誌で何度か見たことがあった。完璧な容姿、鋭い眼差し、そして圧倒的な存在感。自分とは別世界の人間。
会場に着くと、すでに他のスタッフたちが忙しく動き回っていた。弥生は指示通り、会場装飾の最終チェックを担当することになった。
「あの、すみません。この花瓶の位置、もう少し中央寄りにしていただけますか?」
弥生は恐る恐る、装飾担当のスタッフに声をかけた。自分の意見を言うことさえ、彼女にとっては勇気のいることだった。
「ああ、そうですね。お願いします」
スタッフが快く応じてくれたことに、弥生は小さく安堵の息を吐いた。
会場の中央には、高さ一メートルほどの大きなクリスタルの花瓶が置かれていた。中には白い胡蝶蘭が優雅に活けられている。弥生は思わずその美しさに見入った。胡蝶蘭の花言葉は「幸福が飛んでくる」。子供の頃、祖母が教えてくれた。花が好きだった祖母は、よく弥生に花言葉を教えてくれたものだ。
弥生は花瓶の位置を微調整しようと、慎重に両手で持ち上げた。その瞬間――
背後から誰かがぶつかってきた。
「きゃっ!」
弥生の手から花瓶が滑り落ちる。鈍い音とともに、クリスタルの花瓶が床に落ち、無数の破片となって四方に飛び散った。水が床一面に広がり、白い胡蝶蘭が無残に転がっている。
会場中の視線が、一斉に弥生に注がれた。
「あ、あの、すみません! すみません!」
弥生は震える声で謝りながら、床に膝をついた。顔が真っ赤になるのを感じる。心臓が激しく打っている。やってしまった。また失敗した。自分はいつもこうだ――
「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
低く落ち着いた声が、頭上から降ってきた。
弥生が顔を上げると、そこには黒いスーツを完璧に着こなした男性が立っていた。整った顔立ち。深い茶色の瞳。そして、その瞳に宿る優しさと強さ。
神宮寺蓮だった。
「あ、あの、申し訳ございません! 私の不注意で……」
弥生は慌てて立ち上がろうとして、足元のガラスの破片で手のひらを切ってしまった。
「動かないでください」
蓮は素早く弥生の腕を支え、彼女が動けないようにした。そして周囲のスタッフに指示を出す。
「すぐに掃除道具と救急箱を。それから、会場の設営スケジュールを三十分遅らせてください」
「し、社長、私が片付けます! 本当に申し訳……」
「まず、あなたの手当てが先です」
蓮の声には、有無を言わせぬ強さがあった。弥生は何も言えなくなった。
数分後、弥生は会場の隅に用意された椅子に座らされ、蓮自らが彼女の手に救急処置をしていた。消毒液の匂いが鼻をつく。
「痛みますか?」
「い、いえ、大丈夫です……」
弥生は蓮の顔をまともに見ることができなかった。こんなに近くで、こんな人と話すなんて。しかも、自分のせいで迷惑をかけているのに、彼は怒るどころか、自分で手当てをしてくれている。
「あなたの名前は?」
「た、橘弥生です……」
「橘さん。さっき、花瓶の位置を直そうとしていましたね」
弥生の心臓がまた跳ねた。見られていた?
「あ、あの、出過ぎた真似を……」
「いいえ。あなたの判断は正確でした。あの位置では、光の反射が強すぎてゲストの目を傷める可能性があった」
蓮は手当てを終えると、弥生の目をまっすぐ見た。
「花がお好きなんですか?」
「え? あ、はい……祖母が、花が好きで……」
「胡蝶蘭を見つめていた時のあなたの表情、とても優しかった」
弥生は言葉を失った。自分の表情を、この人は見ていた? なぜ?
「あの、本当に申し訳ございませんでした。花瓶の弁償は……」
「必要ありません。事故です」
蓮は立ち上がり、弥生にも立つように促した。
「橘さん、今日のパーティーが終わったら、少しお話ししてもいいですか?」
「え……?」
「お願いしても?」
その言葉に、弥生は混乱した。なぜ? なぜこの人は自分に話しかけようとするの? 同情? それとも何かの罰?
「あ、あの、お忙しいのでは……」
「あなたと話したいんです」
蓮の瞳は、真剣だった。嘘をついているようには見えない。でも、理解できない。自分のような人間に、なぜ?
「……わかりました」
弥生は小さく頷いた。断る理由が見つからなかった。
パーティーは無事に始まった。弥生は受付の補助として、ゲストの案内や記帳の手伝いをした。豪華なドレスを身にまとった女性たち、高級スーツの男性たち。誰もが輝いていて、弥生は自分がまるで舞台裏の影のような存在に思えた。
それでも、時折会場の中を見渡すと、蓮の姿が目に入った。彼は主催者として、様々な人々と会話を交わしている。笑顔で、しかしどこか距離を保っているような印象を受けた。
パーティーが終わり、ゲストたちが帰り始めた頃、スタッフの一人が弥生に声をかけた。
「橘さん、神宮寺社長がお呼びです」
弥生の胸が締め付けられた。やはり、花瓶のことで叱責されるのだろうか。それとも、弁償の話?
案内された部屋は、会場に隣接した小さな応接室だった。窓からは東京の夜景が一望できる。
「お疲れ様でした、橘さん」
蓮はソファに座るよう促した。弥生は緊張で体が硬くなっているのを感じながら、言われた通りに座った。
「あの、お話というのは……」
「まず、コーヒーでも飲みませんか?」
蓮は自らコーヒーを淹れ始めた。その手つきは慣れていて、まるでバリスタのようだった。
「砂糖とミルクは?」
「あ、ブラックで……」
数分後、弥生の前には湯気を立てるコーヒーカップが置かれた。香ばしい香りが漂う。
「実は、橘さんに聞きたいことがあるんです」
蓮も自分のカップを手に取り、弥生の向かいに座った。
「なぜ、あの花瓶の位置を直そうと思ったんですか?」
「え……?」
「誰かに指示されたわけではないですよね」
弥生は戸惑った。そんなこと、聞かれるとは思わなかった。
「あの……光が、強すぎると思って……。それに、入口から見たとき、少し視界を遮るような気がしたので……」
「素晴らしい観察力です」
蓮は微笑んだ。その笑顔は、パーティーで見せていたものとは違っていた。もっと自然で、温かかった。
「橘さん、あなたは自分のことを、どう思っていますか?」
「え……?」
突然の質問に、弥生は言葉に詰まった。
「私……特に、何も……。普通の、いえ、普通以下の……」
「なぜそう思うんですか?」
蓮の瞳が、弥生をまっすぐ見つめている。逃げられない。
「私は……いつも失敗ばかりで……。今日も花瓶を割ってしまって……」
「でも、あなたは花瓶を割る前、会場をより良くしようとしていた。それは失敗じゃない。むしろ、気配りの証拠です」
弥生は何も言えなかった。そんな風に言われたことは、一度もなかった。
「橘さん、もし良かったら、また会えませんか?」
「え……?」
「あなたともっと話がしたい。食事でも、お茶でも、あなたの都合のいい時に」
弥生の頭が真っ白になった。これは夢? それとも何かの間違い?
「なぜ……私なんかと……」
「『なんか』じゃない」
蓮の声が、少し強くなった。
「あなたは、今日一日で私に三つのことを教えてくれました。一つ、細部への気配り。二つ、花を愛する優しさ。三つ、自分を過小評価しすぎる謙虚さ」
「そんな……」
「次は、あなた自身のことをもっと知りたい。お願いできますか?」
弥生は混乱していた。でも、蓮の瞳の中に嘘は見えなかった。この人は、本気で言っている。
「……わかりました」
自分でも信じられない言葉が口から出た。
その夜、家に帰った弥生は、ベッドに横たわりながら天井を見つめた。今日の出来事が、まるで夢のようだった。神宮寺蓮。あの人が、自分と会いたいと言った。なぜ? 理由がわからない。
でも、心のどこかに、小さな温かさが灯っているのを感じた。それは、長い間忘れていた感覚だった。
もしかしたら――いや、そんなはずはない。でも、もしかしたら。
弥生は目を閉じた。胸の奥で、小さな期待が芽生え始めていた。
週末、弥生と蓮は新幹線で弥生の実家がある信州へ向かった。車窓から見える景色が、都会から田園へと変わっていく。「久しぶりですか? 実家に帰るの」「はい。三年ぶりです……」 弥生は答えた。両親とは仲が悪いわけではない。ただ、自分の失敗した姿を見せたくなくて、距離を置いていた。「ご両親、驚くでしょうね」「はい……連絡はしましたが、蓮さんのことは詳しく話していないので……」 駅に着くと、母親が迎えに来ていた。五十代後半の、優しそうな女性。弥生の面影がある。「弥生、久しぶりね」「お母さん……」 母親は蓮を見て、少し驚いた表情を見せた。「こちらは……?」「神宮寺蓮と申します。弥生さんの会社の者です」 蓮は丁寧に頭を下げた。「まあ、わざわざ……」 母親は戸惑いながらも、二人を車に乗せた。 実家は、山に囲まれた小さな一軒家だった。庭には、色とりどりの花が咲いている。「お母さん、庭の花、綺麗ですね」「ああ、これはね。あなたのおばあちゃんが植えたものよ。毎年咲くの」 弥生は庭を見渡した。スイートピー、パンジー、マリーゴールド。祖母が好きだった花ばかり。「すばらしい庭ですね」 蓮も庭を見ていた。「この花の配置、とても計算されています。色のバランス、高さの変化、季節の移り変わりを考慮している」「まあ、よくわかりましたね」 母親は感心した。「おばあちゃんは本当に花が好きで。弥生も、小さい頃からずっと手伝っていたのよ」 家の中に入ると、仏壇があった。祖母の写真が飾られている。笑顔の、優しい顔。 弥生は仏壇の前に座り、手を合わせた。蓮も隣で手を合わせた。「おばあちゃん……
パーティーから一週間、弥生は蓮からの連絡にうまく返事ができなくなっていた。会社には行く。仕事はする。でも、蓮と顔を合わせるのが怖かった。「橘さん、少し話せますか?」 金曜日の夕方、蓮がオフィスにやってきた。弥生は逃げられないと悟った。「はい……」 二人は会議室に入った。夕日が窓から差し込んでいる。「あの日から、避けていますね」 蓮は単刀直入に言った。「そんなことは……」「嘘をつかないでください。あなたの目を見ればわかります」 弥生は俯いた。「堀江さんの言葉を、まだ気にしているんですか?」「……はい」 正直に答えた。もう、嘘はつけない。「彼女の言うことが、正しいような気がするんです」「どういう意味ですか?」「私は、蓮さんには相応しくない。違う世界の人間です。いつか、蓮さんの足を引っ張ってしまう」 蓮は深く息を吐いた。「橘さん、質問してもいいですか?」「はい……」「あなたは、自分に価値がないと本当に思っていますか?」 弥生は答えられなかった。「僕が見ている橘弥生は、花を愛し、人を思いやり、真摯に仕事に向き合う女性です。でも、あなた自身は、そんな自分が見えていない」 蓮は弥生の手を取った。「それが、一番もどかしい」「蓮さん……」「時間が必要なら、いくらでも待ちます。でも、一つだけ約束してください」「何ですか……?」「自分を否定しないでください。少なくとも、僕の前では」 弥生は涙が溢れるのを堪えた。 その夜、弥生は一人で考え込んだ。蓮の言葉。堀江の言葉。どちらを信じればいいのか。 翌週、プロジェクトに大きな動きがあった。大手企業か
プロジェクトが軌道に乗り始めた頃、蓮は弥生を自分の主催するパーティーに誘った。「今度は、ゲストとしてです」 蓮は微笑んだ。「あなたにドレスを着てほしい」 弥生は戸惑った。ドレス? そんな高価なもの、持っていない。「選びに行きましょう。一緒に」 週末、蓮は弥生を銀座のブティックに連れて行った。店内には、煌びやかなドレスが並んでいる。値札を見て、弥生は目を疑った。一着で、自分の月給の数倍する。「これなんか、どうですか?」 店員が薄いブルーのドレスを持ってきた。シンプルだが、上品なデザイン。「試着してみてください」 蓮に促され、弥生は試着室に入った。 ドレスを身につけて鏡を見た瞬間、弥生は息を呑んだ。そこに映っているのは、自分? ブルーの生地が肌に柔らかく添い、体のラインを美しく見せている。髪をアップにすると、首筋が見える。「橘さん、見せてください」 蓮の声に、弥生は恐る恐るカーテンを開けた。 蓮は、数秒間黙って弥生を見つめた。「……美しい」 彼の声は、いつもより低かった。「本当に、美しいです」 弥生は顔が熱くなるのを感じた。「で、でも、高すぎます。こんなの、私には……」「プレゼントさせてください」「だめです! そんな高価なもの……」「では、プロジェクトの制服ということで」 蓮は笑った。「これから色々なイベントに出る機会があります。その時に着てください」 弥生は迷ったが、結局受け入れた。蓮の真剣な眼差しを、断ることができなかった。 パーティーの日。弥生は美容院で髪をセットしてもらい、メイクもプロに任せた。全てが初めての体験だった。 会場に到着すると、そこは前回のパーティーとは比べものにならないくらい豪華だった。シャンデリアの光、生
それから二週間、蓮からの連絡は途絶えなかった。毎日ではないが、二、三日に一度、彼から短いメッセージが届いた。『今日は良い天気ですね。花日和です』 『面白い本を見つけました。今度貸しますね』 『週末、時間がありますか?』 弥生は最初、どう返信していいかわからなかった。でも、次第に自然に返せるようになっていった。 ある土曜日、蓮は弥生を都内の植物園に誘った。「ここの温室は、世界中の珍しい植物が見られるんです」 蓮は楽しそうに説明した。弥生は彼のその様子が意外で、少し微笑ましかった。ビジネスの世界で生きる冷静な経営者が、植物を前にすると少年のように目を輝かせる。 温室の中は、外の春とは違う、熱帯の空気が満ちていた。色とりどりの蘭、巨大な葉を持つモンステラ、天井近くまで伸びるヤシの木。「これ、見てください」 蓮が指差したのは、深紅の花を咲かせた植物だった。「アンスリウム。花言葉は『煩悩』『恋にもだえる心』」 弥生は驚いて蓮を見た。「花言葉、知ってるんですか?」「少しだけ。母から教わりました」 蓮は花に近づいた。「でも、橘さんほど詳しくはありません。いつか、もっと教えてほしい」 弥生は頬が熱くなるのを感じた。 温室を出ると、外の庭園を散策した。桜は既に散り、新緑の季節が始まっていた。「あ、あそこ」 弥生が指差したのは、青い小さな花が群生している場所だった。「ネモフィラです。花言葉は『どこでも成功』『可憐』」 弥生は花の前に膝をついた。「この花、好きなんです。小さくて、でも一生懸命咲いてる」 蓮は弥生の隣にしゃがんだ。「あなたに似ていますね」「え……?」「小さく見えるけど、一生懸命で、そして美しい」 弥生は蓮を見た。彼の目は真剣だった。「蓮さん……」「考えてくれましたか? 僕