慎一は私の顔にかぶせていた枕を乱暴に剥ぎ取ると、私の耳元で低く囁いた。「俺は鈴木家を決して不義理なんてしたことはない。康平が得たものは、お前の思っているよりずっと多い。もし康平自身に選ばせても、やはり結婚を選んだだろうさ」「不義理じゃないって?」私は指先に力を込めて、彼の肩に爪を立てた。まるでその肉を引き裂きたくなるほどの怒りだった。「兄弟同士で争わせて、挙句、兄が子どもを失うように仕組んで、それでいて彼の結婚まで犠牲にさせた。これが不義理じゃないってこと?康平が結婚を選ぶしかなかったのは、他に道が残されてなかったからよ!」慎一は私の頬をぐいと掴み、強引に唇を塞いだ。「俺のベッドの上で、他の男の話なんかするな」上から私を見下ろす慎一の体は強張り、次の瞬間、私の意識は彼の激しさに押し流されていった。痛みと快楽が入り混じり、どちらがより狂おしいかを競い合っているようだった。彼の唇は何かを呟いていた気がするけれど、私の耳にはもう何も届かなかった。私は泣き叫び、彼を叩き、時には許しを乞うたけれど、全ては無駄だった。彼の瞳には、誰にも見せられないような欲望が渦巻いていた。こんな時でさえ、その表情は陰鬱で、まるで私を壊したいと願っているようだった。体中が車に轢かれたみたいに痛かった。どれほど時が過ぎたのかわからない。裂けるような激痛の果て、私はもうすぐ死んでしまうのではないかと思った。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、私は声を枯らして叫んだ。「このクソ野郎!いっそ真思に車で轢き殺してもらった方がマシだった!」そうだったら、その後のことも何もなかったのに。私はもう一度彼とやり直そうなんて、馬鹿な夢も見なかったし、彼の病気が再発したなんて嘘も信じなかった。ただ、今みたいに、ベッドの上でしか繋がっていない冷え切った関係に堕ちることもなかった。もし本当に轢き殺されていたら、意識が遠のく瞬間に、慎一が私を助けに駆け寄る姿くらいは見られたかもしれない。もしかすると、私と彼の関係は、どちらかが死ななければ永遠に終わらないのかもしれない。慎一の荒い息遣いが急に止まる。彼は我に返ったように、呆然と私を見つめ、その黒い瞳には戸惑いが浮かんでいた。自分が何をしたのか。慎一は自分を紳士だと思っている。女の人を無理やり抱くなんて、ま
鏡越しに慎一をじっと見つめる。雲香と一緒にいたら、そんなに機嫌が良くなるものなの?私は問いかけてみる。「どうやって仕返しするつもり?まさか、あの結婚式をぶち壊す気?」「ふっ」慎一は何も言わず、いきなり私の鎖骨に噛みついた。痛みで息が漏れる。「そんなこと、思うな」言いながらも、唇は鎖骨から離れず、甘噛みしながら吸い付いてくるから、くすぐったくて痛い。私は身をよじって彼を押しのけ、立ち上がった。「冗談よ」慎一の表情はどこまでも陰鬱だった。「こっちに来てから、まったく触れさせてもくれない。今さら彼のために貞操を守るって?遅すぎると思わないか?」その言葉は、まるで私の胸の奥を鋭く刺す刃のようだった。これは、あからさまな屈辱だ。「私と康平には、何もなかったんだから!」拳を強く握りしめ、体が震えるほど悔しい。「ああ、俺が早く気づいたからな。あと三日遅れてたら、それでも何もなかったって言い切れるか?」慎一は笑みを浮かべているけれど、その表情は全然嬉しそうじゃない。彼は片手でネクタイを緩めながら、じりじりと私に近づく。「お前があいつの家で、帰りを待っていた……その事実だけで、俺は一生許せない。明日、お前に見せてやるよ。あいつが他の女と結婚式をあげるところを。それでお前もきっぱり諦めろ」慎一、おかしくなってる。私の頭に浮かぶのは、それだけだった。「あなたに許せないことがあるなら、私にもあるよ。だったら、私たちはここまでにしよう。あなたは好きな人と一緒にいればいい。もう無理して私のそばにいなくていいから」私と康平が一緒になろうと決めたとき、私は独り身だった。誰と付き合うかは私の自由なはず。それなのに、いつの間にか、それすら罪のように思わされていた。しかも、それが一生続くなんて。じゃあ、私たちが結婚していた間、彼が他の女と関係していたとき、私はどうやって乗り越えればよかったの?私はくるりと背を向けて部屋を出ようとした。けれど、バサリと広がった髪を慎一に掴まれ、そのまま彼の胸元に引き寄せられた。「お前が康平を忘れれば、俺たちはうまくやっていける。俺と一緒にいて、あいつを忘れろ、な?」首筋をぎゅっと掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。痛みで涙が滲み、首を振って拒むけれど、まるで世界中が慎一に覆われているみたい
「でも、慎一って、強気な女が好きってわけじゃないと思うよ」慎一の女性に対する理想は至ってシンプルだ。一つ、優しくて家庭的であること。もう一つ、男としての欲求を満たしてくれること。要するに、その二つだけ。だが、目の前の彼女には、どうやらその一つ目が難しいらしい。「つまり、霍田社長が好きなのはあなただけって言いたいの?そんな自信、ちょっと面白いわ。私、あなたと友達になりたくなっちゃった」幸福はドレスの箱の上にそっと手を置いて、微笑んだ。彼女の自信満々な態度は、まるで空から降ってきたごちそうを「どうぞ」と私の目の前に差し出してくるようだった。私は表情を変えず、もうその話題には触れなかった。こういうタイプには、自分で痛い目を見ないと分からない。慎一と出会ってから今まで、彼に憧れる女性が途切れたことなんてなかった。本当に自信があるなら追いかけてみればいい。真思がいなくなった今、彼が彼女を好きになるのか、私も見てみたい。あくまで同じタイプ女性だし……「明日は慎一と一緒に、ちゃんとあなたの結婚式に出るから」私は静かに彼女を玄関まで送り、もうこれ以上話を広げなかった。幸福は肩をすくめて言った。「私の提案、もう一度考えてみてよ。じゃないと、私、あなたと康平のことを父に話しても構わないんだから。そうなれば、あなたの大切な人もただじゃ済まないわよ?」「子供を脅すみたいな真似はやめて。鈴木家は白核市でも並々ならぬ家柄よ。あなたが簡単に動かせる相手じゃない。それに、あなたたちは協力関係なだけで、施しでも何でもない。それに、安井家も、どんな時でも康平の味方よ」今まではこんなこと自信を持って言えなかった。でも今は違う。私には慎一ほどの絶対的な力はないけれど、家の力で守りたい人くらいは守れる。これこそ、私がずっと欲しかったもの。私は扉を開けて、彼女を外に送り出した。「まあ、今はまだ早い話だけど、一つだけ忠告しておくわ。まず、自分の父親に聞いてみたら?どうしてあなたが康平と結婚することになったのかを」この件はどうにも腑に落ちなかった。彼女が本当に慎一に興味があるのか、それともただ私と康平の関係を探りに来ただけなのか、私にはわからなかった。でも、これまでずっと引っかかっていた疑問が、ようやく一つ、はっきりした気がした。康平の結婚、慎一がそれに
幸福が話すときは、ほんの少し顎を上げて、まるで周囲のすべての愛情を一身に受けて育ったお姫様そのものだった。きっと彼女は、私と康平の間に一度始まる前に終わった淡い想いがあったことを、とっくに知っていたんだと思う。彼女の前では、できるだけ穏やかに振る舞った。だって、どんな花嫁だって、こんな話を聞いたら気にするに決まってる。康平の傍に私がいることを、彼女が快く思わないのも、無理はない。私はドレスを受け取りながら、「中にどうぞ」と促した。お茶を淹れてあげたけど、彼女が本当に望んでいるのは私にブライズメイドを頼むことじゃなくて、自分の存在を私に見せつけることなんだろうな、とすぐに分かった。「うちの国では、既婚の女性はブライドメイドになれないんだよ」と、私はそう言ってみた。本当は言いたかった。彼女が来ようと来まいと、私と康平の間にはもう何も起こらない。だって私は「既婚」だから。幸福の笑顔が一瞬凍りついた。「霍田社長の妹から聞いたけど、あなたはただの夜の相手なんでしょ?」夜の相手……しばらく意味が分からなかった。慎一の元に戻ってから、こんなにあからさまに私の立場を暴く人なんて初めてだった。今までは、慎一が「霍田家の奥様」の肩書きを与えてくれて、たとえ周りが内心どう思っていようと、彼の顔を立てて誰も突っ込んでこなかった。でも、彼女の言っていることは正しい。彼女は康平の婚約者だ。私は笑顔を崩さず、争う気もなく、「ごめんなさい。でも、一度結婚はしているの」と返した。幸福は私の顔色に気付いたのか、すぐに言い直した。「佳奈、気にしないで。うちの国では夜の相手って悪い意味じゃないの。普通のことよ」私は黙って頷いた。彼女の国の習慣なんて知らない。ただ、笑顔が引きつってきた。「申し訳ないけど、あなたのブライドメイドはできないわ」「断るべきじゃないと思うけど。康平と話す機会、欲しくない?私のブライドメイドをやってくれたら、二人きりになれるチャンスも作ってあげる」話の流れがどんどん奇妙になっていく。私はもう、彼女の思考についていけなかった。彼女は私の反応が薄いのを見て、にこやかに続けた。「康平、あなたのことすごく好きだって言ってた。本当なの?あなたはどう?」私は表情を崩さずに彼女を見つめた。「明日、あなたと康平は結婚するんでしょ
慎一がそう言った瞬間、私はこの事が絶対に彼と関わっていると確信した。私はまったく彼の考えが理解できず、全身の血が一瞬で凍りつくようだった。「私、もうあなたのそばにいるのに!」「佳奈、この話はもうしたくない」慎一はただそれだけを言い残し、携帯でタクシーを呼んだ。私に残されたのは、彼の沈黙だけだった。慎一から見れば、佳奈以外に、康平の結婚を巡って関わる全ての人は、これを素晴らしい縁だと思っているのだろう。佳奈は相変わらず、頭の中が恋や愛でいっぱいの女性だった。でも、その想いはもう、決して彼には向けられない。これ以上この件で佳奈と争いたくなかった。自分が感情を抑えきれなくなるのが怖かった。それでは佳奈が自分からさらに遠ざかってしまうだけだと分かっていたから。ホテルに戻ると、まだ時間は早かった。雲香がようやく望みを叶え、慎一を連れてまた外出した。しばらくして、穎子から食事に誘う電話がかかってきた。第一声は怒鳴り声だった。「ちょっと、あんたんとこのクソ野郎、あのクズ女を連れてショッピングモールで服買ってるってのに、あんた一人ホテルに放り出して、ふざけてんの!」私は一瞬、呆然とした。こうなることは薄々分かっていたけれど、心の中はまだざわついたままだ。「穎子、博之と楽しんできて。私、ちょっとそんな気分じゃないの」私はこめかみを揉みながら答えた。体も心も重く、外に出る気力なんてこれっぽっちも湧かなかった。穎子は私の苦しみを分かってくれていた。「佳奈、あんまり考えすぎないで。全部きっと最善の流れなんだよ。康平の結婚だって、案外いいことなのかもしれないよ。相手が誰かちゃんと見てみなよ。康平にとっては十分すぎるくらいのお相手だよ?」「穎子まで、これが良いことだって思うの?」私は信じられなかった。康平の婚約者については、もちろん事前に調べていた。ファッション界で絶大な影響力を持ち、世界中のセレブ女性たちの財力を牛耳る一族。その娘が指一本動かせば、「限定品」目当ての富裕層たちが大金を惜しみなく投じる。そんな家系だった。でも、それが本当にいいことなのだろうか?「康平にも、本来なら自分の人生があったはずだよ。自分だけの女性と出会って、わかり合い、やがて恋に落ちて、最後は幸せな結婚――そうなるはずだった。でも今は全部、お膳立てされ
私は足を止めた。すると、慎一も同じように立ち止まった。異国の街には、慌ただしく歩く人々が溢れている。だが、その中で私と彼だけが立ち止まり、互いを見つめ合っていた。視線の先には、彼しかいなかった。ふと思い返す。初めてパーティーでこの眩い少年を見かけたあの日。もしも、彼が私の人生で、これほどまでに幸福と絶望の大半を占める存在になると最初から分かっていたなら、私は果たして、あの時のように抑えきれない視線を彼に向けていただろうか。視線を外そうとした。けれど、彼には不思議な引力があった。愛なのか、憎しみなのか、そのどちらにせよ、私はどうしても彼から目を離すことができなかった。なぜか急に、少し腹が立ってきた。「そこまでして私に付きまとうの?」私は本気で怒っていた。慎一は、私が康平の結婚式に来ることをきっととっくに知っていたのだろう。なのに、何も言わず、私が康平と再会するその瞬間を狙って、わざわざ現れて、私を自分の側に引き戻そうとするなんて。私と康平が戸惑う姿を見て、きっと得意げだったに違いない。慎一は唇を引き結び、無表情だった。その心の内は、なんとなく分かる気がした。私と彼の間には、少し距離があった。会話をするなら、声を張らなければならない。だが、行き交う人が多すぎる場所で大声を出すのは、彼の流儀ではない。どれほど異国で誰も彼を知らなくても、慎一は決して品位を崩さない。私は鼻で笑い、踵を返そうとした。だがその時、慎一が大股で私の方へ駆け寄ってきた。顔には焦りの色が浮かんでいる。全然優雅じゃない。私が反応する間もなく、彼の勢いに引っ張られ、私はふらついた。慎一は私を強く抱きしめ、そのままの勢いで体を半回転させた。ちょうどその時、彼の背後にある大型ショッピングモールのモニターに、満開の花火が映し出されていた。そんなの、ただの女の子を騙す手口じゃない。私は必死に自分の高鳴る心臓を押さえ、冷静になろうとした。花火が続く間、彼のキスも終わらない。やがて周囲の人々が気付き、足を止めて見守り、囃し立て始めた。私は耐えきれず、息を切らしながら顔を彼のコートの中に埋めた。でも、慎一は両手で私の頬を包み、また私を引き出して、流暢な英語で見知らぬ人たちに言った。「俺の妻です。ちょっと照れてるんですよ」呆然と顔を上げると、周囲の人はみな温