安浦隆司(やすうら たかし)が死んだ。 葬式の前、妻である玲子(れいこ)は彼の遺品を整理している時、一冊の分厚いアルバムを見つけた。 表紙には「最愛」と書かれていた。 アルバムを開くと、中の写真は自分のものではなく、津戸静美(つど しずみ)——隆司がかつて養女として引き取った少女だった。 それだけではない。隆司の財産も全て彼女に残されていた。 玲子は恨みを抱えたまま息を引き取り、再び目を開くと、隆司と結婚する直前の頃に戻っていた。 今度はこの男のために全てを捧げるのではなく、自分のために生き、夢を追って旅立つことを選んだ。 しかし、思いもよらなかった——今世の隆司は彼女が去ると、狂ったように世界を探し回ったのだ。
View More友江に連れられ病院に着くと、病床で瀕死の隆司が目に入った。「どうして……?」玲子は思わず眉をひそめた。前世の隆司は50代まで生き、交通事故で亡くなっていたはずだ。友江は涙ながらに説明した。「あなたが去ってから、この子は自分を痛めつけるように働き続けたの。止めようとしても聞かなかった。そんな無理がたたって、気づいたころには末期がんと診断されたのよ」人の体は遺伝子、食事、生活習慣、そして情緒に左右される。玲子を失った隆司は心が折れ、食事も睡眠も疎かにし、健康を損なっていた。「帰ってきてくれたのか……前世で20年以上君を裏切ったから、今世では20年待つつもりだった」病床の隆司は玲子を見て苦笑した。「だが……どうやらそれも叶わないようだ。玲子、最後に……俺を許してくれないか?もう一度チャンスを……」弱り切った男を見つめ、玲子は長い沈黙の末に言った。「分かった、許してあげる」隆司の目が暗くなった。許してはくれたが、「もう一度チャンスをあげる」とは言わなかった。これ以上ない程はっきりとした答えだ。死に際の男にすら、優しい嘘を与えない。隆司はついに悲痛な表情で目を閉じた。仕方ない……これが自分の報いだ。「来世……本当の来世で……今世の記憶がないときに……きっと君を幸せにする……」そう呟くと、彼はついに息を引き取った。
「もしあなたが前世で20年以上も裏切られ、待ち続けたのに、最後にはその人の身勝手で殺されていたら」玲子は呆然と立ち尽くす隆司を見つめながら、一語一語区切って言った。「今世で、またその人にチャンスを与えたいと思う?まだ時間を無駄にしたい?」隆司の顔から血の気が引いた。立ち尽くしたまま、一言も返せなかった。「あなたの表情が答えよ。どうか私の気持ちも理解して」玲子は静かに続けた。「隆司、もう二度と私を探さないで」そう言い残し、玲子は振り返らずに去った。隆司はその場に取り残され、魂が抜けたようだった。あの夢が妙に現実的だと感じていたが、まさか玲子が経験した真実だったとは。突然、隆司は崩れ落ちるように膝をついた。目には絶望が広がっていた。あの夢は警告だとばかり思っていた。自分の本心に気づかせるためだと。だが実際は、玲子が耐え忍んだ現実だったのだ。そんな経験をした玲子が、二度と自分を許すはずがないだろう。隆司は顔を覆い、声を上げて泣いた。……時は流れ、あっという間に7年が過ぎた。有人宇宙船の着陸成功とともに、玲子ら研究者たちから歓声が上がった。10年間のプロジェクトがついに完結したのだ。「やっと家に帰れる。子供は私を覚えているだろうか」「母の腰痛は治ったかな……」皆が帰宅を心待ちにしている中、玲子だけは平静だった。もはや帰る家などない。両親は亡くなったし、隆司とも縁が切れた。戻っても、ただ静かな日々が待っているだけだ。しかし帰宅すると、意外にも隆司の母親が待っていた。「玲子、やっと帰ってきたのね」友江は彼女の手を握り、涙声で言った。「来るのがもう少し遅ければ、隆司の最後の顔も見れないところだったわ」「えっ?」玲子は凍りついた。
玲子はすぐに状況を理解し、眉をひそめて低く言った。「私は研究所に戻ります」振り向いて去ろうとしたが、廊下の入り口で隆司に腕を掴まれた。「玲子、なぜ逃げるんだ?」玲子は手を振り払い、淡々と言った。「逃げてなんかいない」隆司はさらに興奮した。「嘘だ。俺を見てすぐに帰ろうとしたんだろ?もう気にしていないなら、なぜ向き合わいんだ?」玲子はため息をつき、隆司をまっすぐ見つめた。「見ての通り、逃げていない。言ったでしょう。あなたのために時間を浪費するつもりはない、ただそれだけ」それは彼女の本心だった。前世の一生と今世の青春を、すでに隆司に費やしすぎた。これからの一秒たりとも、彼との関わるのはごめんだった。隆司の目に痛みが浮かんだ。「すまない、玲子。俺が悪かった」高慢な彼が初めて頭を下げ、へりくだって言った。「頼む、許してくれ。今後は絶対に君を幸せにする。一緒に帰ってくれないか?」しかし玲子は冷ややかに見つめるだけだ。「懇願する必要はない。婚約を解消した時点ですでに他人よ。これ以上話すことはないの」「でも俺は君を手放さない」隆司は激しく腕を掴んだ。「実は君が去った後、俺は夢を見たんだ。前世のような夢だ。前世では結婚したが、俺は君をずっと傷つけた。最後には俺が死に、君は俺のせいで刺し殺された。目が覚めてから、胸が張り裂けるようだった。ようやく本当に君を愛していると気づいた。二度と離れないでくれ」隆司がその夢を語ったのは、自分の心境の変化を伝えるためだった。だが玲子の表情が変わったのを見て、彼は戸惑った。「もしそれが夢じゃなかったら?」「どういう意味だ?」隆司は凍りついた。「隠さずに言うわ」玲子は隆司の手を振り払い、静かに言った。「私は逆行したのよ。あなたが見た夢は、私たちの前世なの。つまりあなたが夢で見た私の苦しみ、絶望、全て現実に起こったこと」
玲子の箸が一瞬止まった。基地では機密保持のため、外部との連絡は禁止されていた。だが完全にネットを遮断するわけにもいかない。最低限の娯楽やネットショッピングは許されており、ニュースの閲覧も可能だ。ただし発言は禁止され、購入品は全て指定の住所に送られて検閲後に配布される。そのため、隆司の派手な「愛の宣言」も玲子の目に入っていた。同僚たちは彼女に好奇の目を向けた。「玲子さん、彼の婚約者が去った時期とあなたが来た時期、偶然にも重なるわ」「本当だ。よく考えたら、玲子さんが彼の婚約者かもしれないね」皆が笑う中、玲子は無理やり笑みを作った。「同姓同名なんて珍しくないでしょう」この基地では、研究者同士の私的な交流は少ない。玲子の指導を担当する先輩以外、彼女が名門叶野家の令嬢だと知る者はほとんどいない。まさか豪邸を捨て、この過酷な環境で科学研究を選ぶお嬢様がいるとは誰も思わないのだろう。「玲子、君の事情はわかってる。婚約者に傷つけられてここに来たんでしょう」先輩は夜、データのチェックをしながらそっと尋ねた。「彼は反省しているようだけど、戻る気はないの?特別申請をすれば退出は可能だよ」しかし玲子は迷いなく答えた。「帰りません」「彼が本当に後悔しているかどうかは重要じゃない。私は彼を避けるためではなく、自分の夢を追うためにここに来たのです」そう、玲子は隆司の宣言を読んだが気にも留めなかった。今世の隆司が自分を愛していると気づいたとしても何も変わらない。遅すぎた愛など、雑草以下の価値しかない。前世の悲劇も、今世の傷も、消えることはない。そんな男のために、何かを諦めるつもりはなかった。ここに来たのは、自分のためだけだ。今世は、ただ自分のために生きる。先輩は申し訳なさそうに頷いた。「そうか、君を過小評価していたよ。ごめん」こうして玲子の基地生活は平穏に続いた。研究に没頭し、プロジェクトが進むごとに喜びを感じた。あっという間に3年が過ぎた。ある日、実験室を出た玲子は上司に呼び止められた。「玲子、今夜はスポンサー企業への感謝パーティだ。一緒に出席してくれ」玲子は眉をひそめた。「私はただの研究者です。対外業務は担当外では」上司は手を振った。「謙遜する
息子が拳を握りしめ、力強く宣言する姿を見て友江は呆然とした。「必ず玲子を追いかける。全世界をひっくり返しても、必ず彼女を見つけ出す」そう、この短い瞬間に隆司は悟ったのだ。夢の中の悲劇や20年の偽りの結婚生活より、現実にはまだ希望がある。玲子が去ったとしても、この世にいる限り必ず取り戻せる。そして彼は信じていた。玲子があれほど自分を愛していたのだから、簡単に忘れられるはずがないと。今までの自分の行いが酷く耐えられずに、一時的に逃げただけだ。自分も本心に気づいた。誠意を見せれば、きっとやり直せる。「何を言っているの?あのプロジェクトは国家機密よ。どうやって探すつもり?」友江は尋ねた。「方法はある。たとえ見つからなくても、待つ」隆司は淡々と言った。「10年でも20年でも」「何ですって!?」母親は凍りついた。しかし息子の決意を見て、もう引き返せないと悟った。彼はもはや親の言いなりになる少年ではない。立派な大人になり、誰にも縛られない男になっていた。……隆司はすぐに行動を開始した。退院後、ありとあらゆる人脈を使って玲子の居場所を探した。しかしそのプロジェクトはあまりにも機密性が高く、手がかりすらつかめなかった。そこで彼は作戦を変え、宇宙開発プロジェクトに多額の投資を始めた。国家主導のプロジェクトだが、民間企業でも十分な資金を提供すれば参加できる。隆司は文字通り、湯水のごとく資金を投じた。いつか玲子の居場所がわかると信じて。式場では「玲子が怪我で1ヶ月延期する」と説明していたが、期限が過ぎても戻らないため、安浦家は婚約解消を公表した。世間は騒然とした。安浦家が新しい嫁を探すと思いきや、隆司は「玲子を待つ」と高らかに宣言した。具体的な行方は伏せ、「留学中の婚約者を待つ」とだけ発表した。御曹司の改心と純愛ストーリーは、たちまち世間の話題をさらった。元から叶野家と安浦家は名家で二人とも容姿端麗なためファンも多かったからだ。隆司の宣言は瞬く間にネットで話題になり、熱烈に議論された。一方、月坂の宇宙研究基地では――「ネットで見た?あの安浦家の御曹司、留学中の婚約者を待つって宣言してる」「前にあんなに冷たくしてたのにね」「誕生日に街中のスクリーンで祝福
目が覚めた瞬間、隆司は安堵した。この世界の玲子はまだ生きており、まだ自分のせいで殺されていない。しかし次の瞬間、玲子がもう二度と会えない場所に行ってしまったことを思い出し、胸が締め付けられた。夢の中の自分は、どんな形であれ玲子と20年以上を共に過ごしていた。だが現実の自分は、玲子を完全に失ってしまった。そう思うと激しい痛みが心を襲った。彼は頭を抱え、呼吸さえ苦しくなった。「隆司、どうしたの?どこか痛むの?医者を呼ぼうか?」母親は慌てて尋ねた。隆司は真っ赤な目で母親を見上げ、枯れた声で絞り出すように言った。「母さん……俺、玲子を……本当に愛していたんだ」その言葉を口にした瞬間、彼は胸の重石が下りたような気がした。ようやく認め、向き合うことができた。母親は一瞬驚いたが、すぐに涙を浮かべた。「ええ、ずっと知っていたわ。『子を知ること母に如くはなし』と言うでしょう?あなたが玲子を気にかけているのは、小さい頃からわかっていた。でもなぜか認めようとしなかった。それでも好きだと知っていたから、この結婚を進めてきたの。でなければ、亡き親友のためだけに、息子に嫌いな女性と結婚させるとでも思う?でもあなたは馬鹿ね。好きならなぜ早く認めなかったの?なぜもっと優しくしなかったの?なぜ傷つけ、心を折って去らせてから、ようやく気づいたの?」隆司は茫然とした。そうだ。自分は常に聡明だと自負し、ライバルのどんな策略も簡単に見抜いてきた。なのに、自分の本心だけは見えなかった。おそらくただの反抗心だったのだろう。玲子とは幼なじみで、本当に仲が良かった。小さい頃は玲子をよく守っていた。彼女がいじめられれば前に立ち、好きなお菓子があればたとえどんなに遠くても走って買いに行くほどに。いつから変わったのか?高校時代、玲子の母親が亡くなった時だ。母親が急に「二人を結婚させよう」と言い出した。丁度その頃、隆司は大学の志望校で両親と激しく対立していた。両親は金融を学ばせ家業を継ぐことを望んだが、隆司の夢はスポーツ選手だった。結局親の意向に従ったが、心に反抗心がくすぶり続けた。そして婚約が決まった時、その感情が爆発した。なぜ学校の分野も婚約も、親の言いなりにならなければいけないのか?
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