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第180話

Author: 藤崎 美咲
さっき悠真は、星乃のことについてほとんど何も触れなかった。誠司はそれが不思議でならなかった。

これまでどんなに星乃を避けていたとしても、悠真はいつも最低限の手配くらいはしてくれていた。だが今日に限っては、まるで彼女の存在を完全に無視するかのようだった。

星乃を見つめながら、誠司の胸にわずかな痛みが走る。

それでも彼は、なんとか言葉を選んで慰めるように言った。「もしかしたら、悠真さんはもう何か手配してくださってるのかもしれませんよ」

「そうかしら?」星乃はかすかに笑った。「これまで一度でも、あの人がわざわざ私のために動いたことがあった?」

誠司は何も言い返せなかった。

彼がまだ何か言おうとすると、星乃はその意図を察したように言った。「誠司さん、あなたの気持ちはわかるけど、善意だけでどうにかなることじゃないの。ここまできたら、もう私たちの関係は戻れないわ」

誠司はなおも食い下がった。「でも、もう少し待ってみませんか?あなたが家を出てから、悠真様の気持ちは確かに変わりました。もう少し待てば、きっとあなたを手放せなくなります」

「そうかもしれないね」星乃はその言葉を聞きながらも、自分の中に何の波も起きないことに気づく。

彼が未練を持とうが持つまいが、もう自分には関係のないことのように思えた。

「私はもう、あの人を愛していないの」

そう静かに告げたとき、誠司は星乃の顔をまっすぐに見た。

そこには取り繕いも嘘もなく、穏やかな表情だけがあった。

もう何を言っても無駄だと悟り、誠司は最後に書類を差し出した。

星乃はそれを受け取り、そのまま役所へ向かった。

対応してくれたのは、前回と同じ職員だった。今回も一人で来たことを察したのか、彼女は何も言わず、ただ優しく手続きを進めてくれた。

離婚の手続きは、結婚より少し面倒に感じることもある。けれど星乃は必要な書類をすべて揃えていたため、今日はすぐに終わった。

やがて、離婚届受理証明書が二枚、彼女の手に渡された。

星乃はその受理証明書をバッグにしまい、役所の扉を押して外へ出た。

――ちょうどそのころ、寿宴の会場では。

悠真の右まぶたがピクピク動いた。

まぶたをこすりながら、胸の奥に得体の知れない不安が広がる。

「悠真、どうしたんだ?」寿宴の会場を一通り確認し終えた怜司が階下へ降りると、悠真がどこか上
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