妻の血、愛人の祝宴

妻の血、愛人の祝宴

By:  汐Updated just now
Language: Japanese
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子宮外妊娠による大出血で、手術台の上で死の淵を彷徨っていた彼女。 しかしその時、夫は愛人のために都心の一等地の高級ホテルを貸し切り、盛大な誕生日パーティーを開いていた。 結婚して四年、あれほどまでに尽くしてきたというのに、彼の心を動かすことはできなかった。 彼が憎き仇の娘を手の中の宝物のように大切に慈しむ姿を目にした時、彼女の心は完全に壊れた。 一枚の離婚協議書を置き、彼女は静かに彼の前から姿を消した。 仕事の世界に舞い戻った彼女は、キャリアに没頭。 その才能は大輪の花が咲き、潮崎市中の注目を浴びる。 いつしか彼女は、上流階級の男たちが競って手に入れようとする、真の優秀な人材となっていた。 彼女の周りに男たちが群がる様子を見た冷徹な夫は、ついに平静を保てなくなった。 彼は自らの手で彼女の新たな縁談を次々と断ち切り、そして彼女を壁際に追い詰めた。 「離婚は認めない」

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Chapter 1

第1話

潮崎市、センター病院。

「子宮外妊娠です。卵管破裂は命にかかわります!こんな大手術なのに、どうして一人で来たんですか?旦那さんは?早く呼んでサインをもらってください!」

朝霧静奈(あさぎりしずな)は、腹部を引き裂かれるような激痛に耐えながら、電話をかけた。

呼び出し音は長く続いた。

受話器の向こうから、冷たい声が聞こえる。

「用件は?」

「彰人、今、忙しい?お腹がすごく痛くて、少しだけ……」

「無理だ」

彼女が言い終わる前に、不機嫌な声が冷たく言葉を遮った。

「腹が痛いなら医者に行け。こっちは忙しい」

「彰人さん、誰から?」

電話の向こうから、甘い女の声が聞こえる。

「どうでもいい相手だ」

彼の声が、急に優しくなった。

「どれがいい?好きな方を言え。競り落としてプレゼントしてやる」

耳元で、ツーツーという無機質な音が鳴り響く。

静奈の心は、まるでナイフでじわじわと切り刻まれるようだった。

彼女の顔色が真っ白になり、呼吸が浅くなっているのに気づき、医師が叫んだ。

「急げ!すぐに手術室を押さえろ!患者の手術を始める!」

静奈が次に目を覚ましたのは、病室のベッドの上だった。

「目が覚めましたか?昨日は本当に危険な状態だったんですよ。処置が早かったから助かったものの、もう少し遅かったら危なかったんですから!」

若い看護師が、点滴をしながら愚痴をこぼした。

「それにしても、あなたの旦那さん、ひどいじゃないですか!こんなに大きな手術をしたのに、一度も顔を見せないなんて!本当に無責任ですよ!

はい、これ、介護士センターの番号です。必要なら、介護士を呼んでくださいね」

「ありがとうございます」

静奈は看護師から名刺を受け取った。

携帯を取り出し、介護士センターに電話をかけようとした、その時。

突然、ニュース速報がポップアップで表示された。

【潮崎市一の富豪、長谷川グループ社長・長谷川彰人氏、二十八億円のマダム・デュヴィエのダイヤモンドネックレスを落札!恋人の笑顔のため、衝撃のプレゼントか!】

目に突き刺さるような見出しに、静奈の瞳孔が大きく開いた。

写真に写っているこの上なく端正な顔立ちは、まさしく自分の夫、長谷川彰人(はせがわあきと)だった。

だが、自分は彼にとって決して公開できない妻。

結婚して四年。

彼はいつも、氷のように冷たく無慈悲だった。

てっきり、それが彼の持って生まれた性格なのだとそう思っていた。

彼の心を動かすため、自分は従順で物分かりの良い「長谷川夫人」を必死に演じてきた。

しかし今、彼が堂々と他の女性を腕に抱き、世間に愛情を見せつけている姿を見て、ようやく悟った。

彼は本当に少しも自分を愛してなどいなかったのだ。

胸が締め付けられるように痛む。

静奈の目には、みるみるうちに涙が滲んだ。

もう、諦めなければ。

四年も続いたこの茶番を、終わらせる時が来たのだ。

静奈は予定より二日早く、退院手続きを済ませた。

医師は心配そうな顔で言った。

「体はまだかなり衰弱していますよ。もう少し入院していた方が……」

「家の用事がありまして」

「しばらくは絶対に安静にしてください。激しい運動は禁止、それから性行為は絶対に駄目ですよ。一週間後にまた検査に来てください」

「ええ、わかりました。ありがとうございます、先生」

静奈は汐見台という住宅街にある一軒家の邸宅に戻った。

家政婦の田所敦子(たどころ あつこ)は、あからさまに不機嫌な顔で彼女を責め立てた。

「若奥様、近頃はますます目に余りますね!何日も家を空けるなんて!若様がお知りになったら、お怒りになりますよ!」

敦子は長谷川家の家政婦という立場だが、その振る舞いは姑同然だった。

彼女は彰人のめのとであり、自分は特別な存在だと自負している。

彰人から寵愛を受けていない静奈のことなど、鼻から見下していた。

静奈は分かっていた。

敦子が自分に対してこのような態度を取るのは、彰人の指示ではないにしても、彼の黙認があるからだ。

でなければ、これほどまで傲慢になれるはずがない。

これまでは、彰人に気に入られようと、静奈は彼の周りの人間すべてに媚びへつらってきた。

敦子にいじめられ、見下されても、いつも腹の底に怒りを押し殺してきた。

しかし、もう我慢する必要はない。

静奈は敦子の頬を思い切り平手で打った。

その声は侮蔑に満ちていた。

「出過ぎた真似を!ただの雇われの分際で、誰に向かってそんな口を利いている!」

「なっ!」

敦子は顔を覆い、愕然とした表情で目を見開いた。まさか静奈が手を出すとは思ってもみなかったのだろう。

「私を叩いた……」

「叩かれて当然よ!何?まさか、やり返すつもり?」

静奈の冷え切った一言が、敦子を凍り付かせた。

いくら若様に疎まれていようと、彼女は長谷川家の大奥様が直々に選んだ人なのだ。

敦子は、込み上げる怒りを無理やり飲み込むしかなかった。

静奈は背を向け、二階へと上がっていく。

背後から、敦子の小声での悪態が聞こえてきた。

「顔が綺麗なだけで、何の役にも立たないくせに。どうせ若様からは見向きもされないんだわ。この家の若奥様の席なんて、すぐに他の人のものになるんだから!」

棘のある言葉が、ナイフのように静奈の胸に突き刺さる。

彼女は深呼吸をした。

もう、どうでもいい。

今日を限り、彰人に関するすべては、もうどうでもよくなるのだ。

自室に戻った静奈は、私物をすべてスーツケースに詰めた。

彼女の物は驚くほど少なく、スーツケース一つで十分だった。

スーツケースを持ち上げた瞬間、傷口が引きつれた。

腹部に激しい痛みが走り、冷や汗が雨のように流れ落ちる。

静奈は痛み止めを数錠飲んで、ようやく少し落ち着いた。

薬が効いてきたのか、彼女はベッドに横たわると、いつの間にか眠りに落ちていた。

深夜。

部屋に、大きな人影が入ってきた。

バスルームからシャワーの音が聞こえ、二十分ほどして、彰人が腰にバスタオルを巻いた姿で出てきた。

彼は彫刻のように整った顔立ちで、広い肩幅に引き締まった腰、そして力強く割れた腹筋のが男性的魅力を放っていた。

水滴が筋肉を伝い、緩く巻かれたタオルの内側へと消えていく。

彼は何も言わなかった。

まるで月に一回の事務的なことをこなすかのように、静奈のネグリジェの裾をめくり上げた。

眠っていた静奈は、痛みに体を震わせた。

「痛い……」

彼女は無意識に彼を押しのけた。

「やめて」

「拒むふりか?静奈、それが新しい手口か?」

低く、嘲るような声が頭上から降ってきた。

彰人は彼女から離れるどころか、報復するように続けた。

「月に一度の夫婦の営みは、お前がおばあさんに頼み込んで実現したことだろう?今更やめたいと?」

傷口が引き裂かれるような痛みに、静奈の目から涙がこぼれ落ちた。

彰人が自分を憎んでいることは分かっている。

数年前。

彰人の祖母である大奥様が、二人の結婚を強引に進めた。

結婚後、彰人が彼女に冷淡な態度を取り続けるのを見かねた大奥様が、月に一度は夫婦として同衾するよう、彼に命じたのだ。

その度に、彼はまるで道具でも扱うかのように、彼女で欲望を処理するだけだった。

四年間にも及ぶ結婚生活を思い返し、静奈の胸は痛みに満たされた。

細心の注意を払い、自分を殺して尽くしてきたというのに、彼の心からの愛情はひとかけらも手に入らなかった。

それならば、これ以上執着する必要がどこにあるだろう?

「彰人、離婚よ……」

静奈が言い終わる前に、けたたましく携帯の着信音が鳴り響いた。

彰人は、夜中に電話がかかってくることを非常に嫌う。

しかし、その電話には驚くほど優しく応じた。

「どうした?」

「彰人さん、一人だと怖いの。会いに来てくれない?」

受話器から、甘えたような女の声が聞こえる。

「わかった」

彼は一瞬のためらいもなく承諾した。

その声には、静奈が一度も聞いたことのない優しさが滲んでいた。

「すぐに行くから、二十分だけ待ってて」

電話が切れる。

彰人は、ためらうことなく彼女の上から体をどけた。

そして、一度も振り返ることなく部屋を出て行った。

数分後、階下から車が走り去る音が聞こえた。

涙が枕を濡らす。

静奈は、白くなった指でシーツを固く握りしめた。

愛すると、愛さないとでは、これほどまでに違うのだ。

翌朝。

静奈は離婚協議書をテーブルの上に残し、スーツケースを引いて家を出た。

その瞬間、腹部に骨の髄まで染み込むような痛みが走り、体の下から暖かい何かが流れ出る感覚があった。

太ももを伝って、足元へと落ちていく。

ふと下を見る。

そこには、衝撃的なほどの血だまりが広がっていた。
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第1話
潮崎市、センター病院。「子宮外妊娠です。卵管破裂は命にかかわります!こんな大手術なのに、どうして一人で来たんですか?旦那さんは?早く呼んでサインをもらってください!」朝霧静奈(あさぎりしずな)は、腹部を引き裂かれるような激痛に耐えながら、電話をかけた。呼び出し音は長く続いた。受話器の向こうから、冷たい声が聞こえる。「用件は?」「彰人、今、忙しい?お腹がすごく痛くて、少しだけ……」「無理だ」彼女が言い終わる前に、不機嫌な声が冷たく言葉を遮った。「腹が痛いなら医者に行け。こっちは忙しい」「彰人さん、誰から?」電話の向こうから、甘い女の声が聞こえる。「どうでもいい相手だ」彼の声が、急に優しくなった。「どれがいい?好きな方を言え。競り落としてプレゼントしてやる」耳元で、ツーツーという無機質な音が鳴り響く。静奈の心は、まるでナイフでじわじわと切り刻まれるようだった。彼女の顔色が真っ白になり、呼吸が浅くなっているのに気づき、医師が叫んだ。「急げ!すぐに手術室を押さえろ!患者の手術を始める!」静奈が次に目を覚ましたのは、病室のベッドの上だった。「目が覚めましたか?昨日は本当に危険な状態だったんですよ。処置が早かったから助かったものの、もう少し遅かったら危なかったんですから!」若い看護師が、点滴をしながら愚痴をこぼした。「それにしても、あなたの旦那さん、ひどいじゃないですか!こんなに大きな手術をしたのに、一度も顔を見せないなんて!本当に無責任ですよ!はい、これ、介護士センターの番号です。必要なら、介護士を呼んでくださいね」「ありがとうございます」静奈は看護師から名刺を受け取った。携帯を取り出し、介護士センターに電話をかけようとした、その時。突然、ニュース速報がポップアップで表示された。【潮崎市一の富豪、長谷川グループ社長・長谷川彰人氏、二十八億円のマダム・デュヴィエのダイヤモンドネックレスを落札!恋人の笑顔のため、衝撃のプレゼントか!】目に突き刺さるような見出しに、静奈の瞳孔が大きく開いた。写真に写っているこの上なく端正な顔立ちは、まさしく自分の夫、長谷川彰人(はせがわあきと)だった。だが、自分は彼にとって決して公開できない妻。結婚して四年。彼はいつも
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第2話
静奈は震える手で119番に電話をかけた。救急車のサイレンが聞こえてきたところで、彼女はついに意識を失った。再び目を覚ましたのは、翌日のことだった。体中に、無数の医療機器の管が繋がれている。医師が、まるで出来の悪い子供を叱るように言った。「短期間内に性行為は駄目だと、あれほど言ったでしょう!旦那さんはそんなに我慢ができない人なんですか?手術したばかりの体で関係を持つなんて!無茶苦茶で!傷口がまた開いて出血したんですよ!搬送がもう少し遅かったら、命はありませんでしたからね!」「ごめんなさい、先生。迷惑をかけてしまって」医師は、衰弱しきって青白い顔をした静奈を見て、少しだけ不憫に思ったのか、語気を和らげた。「言わせてもらいますけど、旦那さんは本当にろくでなしですよ。あなたの体を少しも大事にしていない!すぐに家族に電話して、病院に来てもらいなさい。万が一のことがあっても、私では責任が取れませんから」医師はそれだけ言うと、病室を出て行った。静奈の胸に、苦い思いが込み上げる。彼女にもう、家族と呼べる人はいなかった。十七歳の時。両親が不慮の事故で亡くなり、彼女は天涯孤独の身となった。叔父の朝霧良平(あさぎり りょうへい)が後見人として現れ、両親が遺した財産と会社を少しずつ食い潰し、ついには両親の屋敷まで乗っ取った。十九歳の時。酒に酔った叔父が、亡き母の名を呼びながら彼女の部屋に押し入ってきた。もう少しで、力ずくで辱められるところだった。その日を境に、彼女はあの家を完全に捨てた。これ以上医師に迷惑はかけられないと、静奈は親友の浅野雪乃(あさの ゆきの)に電話をかけた。三十分後。雪乃が病院に駆けつけてきた。看護師から静奈の事情を聞いた彼女は、怒りを爆発させた。「長谷川、あのクソ野郎!あなたをこんな目に遭わせておいて、顔も見せないなんて!番号を教えなさい!罵詈雑言の限りを尽くしてやらなきゃ、気が済まない!」雪乃は、自分のことのように憤慨している。しかし静奈は静かに首を振った。「その必要はないわ」今電話したところで、惨めな思いをするだけだ。彼はきっと、もっと自分のことを嫌いになる。醜く争うくらいなら、このまま静かに別れた方がましだった。「あんたってば!」雪乃は、
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第3話
数日後、静奈は退院手続きを済ませた。彼女はネットで物件を探し、家賃一百万円、年払いの部屋を見つけた。ATMでお金を引き出そうとした時、カードの残高がわずか数千円しかないことに気づいた。雪乃は、またしても汚い言葉で罵倒せずにはいられなかった。「長谷川!潮崎市一の富豪!資産何兆よ!自分の妻に対して、なんてケチなのよ!愛人には平気で何十億、何百億と貢いで!オークションで馬鹿騒ぎしたり、病院に寄付したり!通りすがりの物乞いにだって数千円くらい恵んでやるくせに、どうして妻に対しては他人以下なのよ!静奈、この数年間、一体どんな生活してたのよ?」静奈の胸が苦しくなる。彰人は、きっと心の底から自分を憎んでいるのだろう。四年前。長谷川家の大奥様に招かれ、本邸を訪れたことがあった。夕方から大雨になり、帰れなくなった彼女を、大奥様は彰人の隣室に泊まらせた。彰人はその日、接待があった。誰かが彼の酒に薬を入れたのだ。夜中、泥酔して帰宅した彼は部屋を間違え、彼女と関係を持ってしまった。大奥様は、元々二人を結婚させたがっていた。翌朝、二人が同じベッドで寝ているのを見つけると、それを口実に彰人に彼女を娶るよう強制したのだ。彰人の誤解は深かった。彼の心の中で、静奈は玉の輿に乗るためなら手段を選ばない女、ということになっていた。人に指図されることを何よりも嫌う彼は、彼なりのやり方で、静奈に手酷い復讐をしていたのだ。思い返せば。家政婦の敦子は、生活費を渡すたびに、嫌味たらしく彼女を貶めた。「若奥様は毎日、食材の買い出しも料理もなさらない。光熱費や管理費を払うわけでもない。一体何にお金をお使いになるんですか?若様が毎月数万円くださるだけでも、ありがたいことですよ!」静奈は、元々物欲がほとんどない人間だった。彰人と一緒にいられるだけで、彼女にとってはそれがこの上ない幸福だったのだ。だから、そんな状況を少しもおかしいとは思わなかった。今にして思えば、自分は「長谷川夫人」として、あまりにも惨めな存在だったと痛感する。カードを財布に戻そうとした時、ふと、仕切りに古いカードが一枚入っているのに気づいた。それは、大学時代のものだ。毎年の奨学金や、コンペで得た賞金がこのカードに入っている。家賃くらいは払えるはずだ。静
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第4話
この光景を目の当たりにし、静奈の足元から冷気が這い上がってくるようだった。体は思わず震えだす。彰人が骨の髄まで可愛がっていた女、それが、まさか沙彩だったとは!なぜよりによって彼女なのか、なぜよりによって仇の娘なのか!「もし、断ると言ったら?」静奈は、声の震えを必死に抑え込んだ。「お前への生活費を中止する」彰人の声は、冷たく突き放すようだった。「ふふ……」静奈は笑いながら、涙がこぼれそうになった。なんという皮肉だろう。沙彩のご機嫌を取るためなら、彼は本当に何でもするのだ。「いいのよ、彰人さん」沙彩が甘えた声で彰人の腕に絡みつく。「彼女、私の従妹なの。両親を早くに亡くして。昔、家にいた頃から、よく私の物を欲しがったわ。たかが服一枚じゃない、譲ってあげるわ」雪乃が我慢できなくなり、沙彩を指差して怒鳴った。「この厚かましい泥棒猫!静奈の物を奪うだけじゃ飽き足らず、白々しい嘘までつくなんて!その口、引き裂いてやるわ!」彰人の顔色が、目に見えて険しくなった。静奈は雪乃を引き留めた。彰人と沙彩、そして自分。この三人の問題に、他人を巻き込みたくはなかった。彰人は静奈をじっと見つめ、彼女が折れるのを苛立たしげに待っていた。しかし静奈は、持っていたカードをまっすぐ店員に差し出した。「このドレス、いただくわ。カードで」これほどあからさまに拒絶され、彰人はわずかに眉をひそめ、不快感を露わにした。静奈は彼を無視し、高額なドレスの入った紙袋を手に、踵を返した。背後から、彰人の低い声が聞こえた。「これと、これと、それもだ。この店にある新作を全て、沙彩の家へ送ろう!」静奈の足が止まった。新作全てとなれば、安く見積もっても億単位になるだろう。沙彩が望んだ服を手に入れられなかった埋め合わせとして、彼はこれほど豪快な手段で彼女を慰めるのだ。よほど、心の底から彼女を愛しているのだろう。彼女がほんの少しでも不快な思いをすることが許せないのだ。雪乃は、またしても汚い言葉で罵った。「クソッ!長谷川の目は節穴か!あなたみたいな素晴らしい奥さんを大事にしないで、あの性悪女のどこがいいって言うのよ!」静奈の胸に鋭い痛みが走ったが、すぐに穏やかな心持ちを取り戻した。離婚を決めた以上、もう彼のた
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第5話
翌日の午前。明成バイオテクノロジー、社長室。人事部の人が書類を運んできた。「社長、こちらが本日の面接者の履歴書です」「そこに置いておいてくれ。この後会議があるから、面接はパスする」「かしこまりました」桐山昭彦(きりやま あきひこ)が会議室へ向かおうと立ち上がった時、ふと、一番上にあった履歴書に目が留まった。朝霧静奈。その名前を見た瞬間、彼は動きを止めた。履歴書を手に取り、そこに写る見慣れた顔を見て、彼の心には複雑な感情と、わずかな驚きがこみ上げてきた。彼は高野文教授の愛弟子であり、静奈より幾つか年上だった。海外で研究に没頭していた頃から、指導教師である文が「聡明で、まさに天才と呼ぶべき後輩を指導している」と話しているのを何度も耳にしていた。文は電話で学術的な議論をするたび、いつもその後輩のことを手放しで褒めていた。初めのうちは、教授にそこまで言わせるほどの逸材とはどんなものか、という単なる興味で彼女の情報を追っていた。だが、いつしか写真でしか見たことのないその後輩に、彼は惹かれていた。研究期間を終えると、彼はためらうことなく帰国の途についた。しかし、空港に降り立って真っ先に耳にしたのが、彼女の結婚の知らせだった。もう二度と関わることはないだろうと思っていた。まさか、彼女の履歴書を受け取ることになるとは。昭彦はすぐに秘書に内線を入れた。「午前の会議は全てキャンセルだ!」昭彦は面接室へ向かった。人事部の担当者は彼の姿を見て一瞬驚き、すぐに中央の席を譲った。「社長」昭彦は、内なる興奮を抑えつけた。「始めてくれ」面接が正式に始まった。昭彦は面接官の席に座ったまま一言も発さず、人事担当者が応募者に質問をしていく。「社長、先ほどの方は……」人事が昭彦の意見を求めた。「君たちで判断してくれ」「かしこまりました」「次の方、朝霧静奈さん」静奈が面接室に入ってきた瞬間、昭彦の意識は彼女に集中した。彼女の顔色は、あまり良くないように見えた。人事担当者が、いくつか専門的な質問をした。静奈は四年間のブランクがあったものの、その間も独学で知識をアップデートし続けていたため、淀みなく、的確に回答していく。人事部の担当者は満足げに頷き、結果は後日連絡すると伝えようとした。
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第6話
陸と湊は、彰人の結婚式で一度だけ静奈に会ったことがあった。正直なところ、なかなかの美人であり、何年も経ってはいたが、二人は一目で彼女だと気づいた。彰人の幼馴染である彼らもまた、静奈のことをひどく嫌っていた。陸が、わざと嫌味な口調で言った。「おやおや彰人、奥様のお出ましだぞ?旦那の不倫現場を押さえに来たってわけか」彰人は鼻で笑った。「こいつが?そんな資格があるとでも?」彰人の冷酷な言葉、沙彩の勝ち誇ったような明るい笑顔、そして陸と湊の嘲笑が、静奈の心を深く突き刺した。「ごめんなさい、部屋を間違えたわ」彼女はそのままドアを閉め、外に出た。静奈のあまりにも冷静な態度に、陸と湊は少し面食らった。「普通の女なら、旦那が他の女といるのを見たら、泣きわめいたりするもんじゃないか?あいつ、なんで平然としてるんだ。彰人、まさか愛想を尽かされたとか?」「あり得ないだろ?あいつは彰人のこと、死ぬほど愛してるんだ。ここで騒ぎ立てて、追い出されるのが怖かっただけだろ」ドアの外で、静奈は深く息を吸った。彼らの言葉を気にしてはいけないと、必死に心を落ち着かせようとした。「お姉さん!」その時、先ほどの男性モデルが彼女の方へ歩いてきた。「探したよ、こんな所にいたんだ」彼は、ごく自然に静奈の腰に腕を回した。「行こう。雪乃さんが待ちくたびれてる」静奈は、その馴れ馴れしさに戸惑いつつも、今度は拒まなかった。陸が、ドアのガラス越しに、静奈がその男と親密そうに別の個室に入っていくのを目撃し、思わず大声を上げた。「マジかよ!彰人、これはなんのプレイだ!あいつ、男を買いに来てやがるぞ!」湊が分析する。「てことは、さっきのは浮不倫調査じゃなくて、マジで部屋を間違えただけか?」彰人の端正な顔が、瞬く間に恐ろしいほど黒く染まった。静奈、よくも!「長谷川夫人」の名を冠しながら、妻としての貞淑さも守らず、こんな場所で男遊びとは。自分の面子をどこまで潰せば気が済むんだ?静奈が個室に戻ると、雪乃はすでにかなり酔っていた。「静奈、どこ行ってたのよ、遅かったじゃない」「すみなせん、ちょっと部屋を間違えて」静奈は、彰人に遭遇したことを彼女には話さなかった。雪乃が提案する。「ねえ、ゲームしない?口でカード
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第7話
月曜日の午前。静奈が明成バイオテクノロジーに出社すると、すぐに弁護士から電話がかかってきた。「朝霧様、長谷川様は水曜日の午前でしたらご都合がつくとのことです。当日の離婚届の提出で予約を取りましたので、必ず時間通りにお越しください」「はい、分かりました」電話を切り、静奈は深く息を吸った。水曜日。あと二日で、この息苦しい婚姻関係から解放されるのだ。「朝霧さんですね?」人事部の担当者が静奈を迎え入れた。「あなたの席はこちらです。主なお仕事は、創薬開発チームの実験操作や資料整理の補佐となります。現在、会社は抗がん剤の標的薬の開発に注力しています。こちらが関連資料ですので、先に目を通しておいてください」静奈の役職は、創薬開発アシスタント。人事担当者から、分厚い資料の束を手渡された。創薬研究は、長く複雑なプロセスを要する。彼女が短期間で戦力になるには、一刻も早くプロジェクトの全体像を把握しなければならなかった。静奈は自席で食事さえ忘れて資料を読みふけった。重点箇所には印をつけ、自身の考えや見解も書き加えていく。気づけば、とっくに退勤時間を過ぎていた。資料はまだ四分の一ほど残っており、彼女は迷わず残業することにした。すべてに目を通し終えたのは、夜の九時過ぎだった。外はすっかり暗くなり、オフィスには彼女一人だけが残っていた。静奈は席を立ち、トイレへ向かった。席に戻ると、デスクの傍らに長身の整った人影が立っており、彼女が資料に書き込んだメモを熱心に読んでいるのに気づいた。「社長」静奈は、努めて事務的に声をかけた。その声に、昭彦が顔を上げた。「この資料を三日で読み終えるだけでも早いが、君は一日で目を通したのか?」「いえ……大まかに把握しただけです。細かい部分は、まだ文献を調べる必要があります」昭彦は、手に持っていた資料を閉じた。「まだ夕食を食べていないだろう?行こう、何かご馳走する」「いえ、お構いなく、社長。それは……」静奈が断ろうとすると、昭彦は半分冗談といった口調で言った。「入社初日からこんな時間まで残業させて、人聞きが悪いな。僕がブラック企業の経営者だと思われる。僕の名誉のために、付き合ってくれないか?」そこまで言われては、静奈も断りきれず、頷くしかなかった。「
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第8話
翌日の午前。静奈が仕事に没頭していると、病院から電話がかかってきた。復帰後の検診に来るよう、念を押す内容だった。会社は病院からそう遠くない。退勤後、静奈は歩いて十数分で病院に到着した。病院の正面玄関に着いた途端、見慣れた一台の高級車が目に入った。彰人の愛車だ。彼女は乗せてもらったことこそないが、一目で見分けることができた。この車種は、潮崎市全体でも数台しか走っていない。彰人は車体に寄りかかり、その長い指には火の点いたタバコが挟まれている。煙が薄い唇から吐き出され、アンニュイな雰囲気と冷酷さが同居していた。格好をつけているわけではないのだろうが、通り過ぎる若い女性たちは皆、彼から目を逸らせないようだった。「彰人さん!」女の声が響いた。沙彩が病院の診察棟から駆け寄ってくる。彰人は手慣れた様子でタバコの火を揉み消すと、走ってきた沙彩を抱きしめた。「出張中、私のこと、恋しかった?」沙彩が、ごく自然に彼に甘えた。「どう思う?」彰人は直接答えなかった。沙彩が助手席のドアを開けた瞬間、口を押さえて歓声を上げた。「うそ!」助手席は、シートが見えなくなるほどの花で埋め尽くされ、その中央には小さなギフトボックスが置かれていた。彼が念入りに選んだことが一目で分かる。「彰人さん、こんなサプライズ、ありがとう!」沙彩は彰人の首に腕を回し、彼の頬にキスをした。静奈は、物陰に隠れていた。目の前の光景を見て、彼女の顔からは血の気が引き、爪が手のひらに深く食い込んでいた。結婚して四年。彰人は、自分にプレゼントをくれたことなど一度もなかった。サプライズなどもってのほかだ。それどころか、自分が心を込めて用意したプレゼントさえ、彼は履き古した靴のようにゴミ箱に捨てたのだ。この結婚生活に、もう未練はない。しかし、これほど強烈なコントラストを見せつけられると、やはり心が痛むのを止められなかった。「朝霧さん、どうかなさったんですか?」ちょうど看護師が出てきた。「早く中へどうぞ。先生、もう終業の時間ですから」「はい、今行きます」静奈は感情を押し殺し、建物の中へと入っていった。三十分後。医師が検査報告書を手に口を開いた。「経過は良好ですね。ですが、絶対に安静にしてください。
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第9話
辺りには雨宿りできる場所すらない。静奈は鞄を頭上に掲げ、本邸の方向へと足を速めた。ププーッ!背後で、車のクラクションが鳴り響いた。静奈は慌てて道の脇に寄った。黒い車が彼女のすぐそばを通り過ぎる。窓越しに、あの整った冷徹な顔が見えた。彼女が呆気に取られている間に、車はすでに遠ざかり、テールランプがぼんやりと霞むだけだった。彰人だ。間違いなく、彼は今、静奈に気づいたはずだ。それなのに、彼は減速する素振りも見せず、脇目もふらずに走り去っていった。冷たいものが静奈の全身を駆け巡り、体が思わず震えだす。それが打ち付ける雨による冷たさなのか、それとも心の冷たさなのか、もはや区別がつかなかった。三十分後。静奈は、ふらふらになりながら本邸にたどり着いた。全身ずぶ濡れで、まるで溺れたネズミのような有様だった。ドアを開けた使用人は、驚きに目を見開いた。「若奥様、どうしてそんなに濡れて……」大奥様は、寒さで唇を白くしている静奈の姿に胸を痛め、すぐに振り返るとソファに座る彰人を詰問した。「静奈を一緒に乗せてくるように言ったでしょう!この馬鹿者が!自分の妻を労わることも知らんのか!」彰人は、整った眉をわずかに吊り上げた。「静奈が、俺の電話に出なかったんだ」静奈は、わずかに目を見開いた。暗に何かを言っている。昨日、彼からの電話を切ったから、その仕返しに、わざと雨の中に放置したというのか?静奈は使用人から差し出されたタオルを受け取り、まだ水が滴る髪を拭いた。「おばあさん、大丈夫ですよ。平気ですから」大奥様は、持っていた杖で彰人の脚をピシャリと叩いた。「ぼうっと突っ立っていないで、早く静奈を部屋に連れて行って、シャワーを浴びさせてやりなさい!それから清潔な服に着替えさせるんだ!」彰人は親孝行な男だ。そうでなければ、そもそも大奥様の強引な仲介で、静奈を娶ることもなかっただろう。彼は長い脚を一歩踏み出すと、大股で二階へと上がっていった。静奈は、大奥様に何かを勘繰られたくなくて、仕方なく彼の後について行った。寝室。彰人は、ソファにふんぞり返るように座った。「さっさと入って洗え。何を突っ立ってる、まさか俺がお湯を溜めてやるとでも思ってるのか?」静奈は、部屋を濡らしてしまう
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第10話
シャワーを浴び、清潔な服に着替えると、静奈は彰人と共に階下へ降りた。使用人が、温かいスープを差し出す。「若奥様、温かいうちにどうぞ。体が冷え切っていらっしゃいますから」静奈はそれを受け取って飲み干した。胃のあたりがじんわりと温まり、少し気分が楽になった。食事中。大奥様は、静奈の好物を彼女の目の前に並べた。「静奈、もっとお食べ。ずいぶん痩せてしまったじゃないか。私がが留守にしていたこの二ヶ月、また彰人があなたをいじめたんじゃないだろうね?」確かに、このところの手術や入院、そして離婚の心労がたたって、静奈はかなり痩せていた。大奥様に心配をかけまいと、彼女は笑顔で首を振った。「ううん。最近ダイエットしてるだけです」「ダイエットなんて必要ないよ。ちっとも太ってない。そんなことしてたら、骨と皮になっちゃうよ」大奥様は、彰人に目配せした。「彰人、静奈に取り分けておやり」彰人は、仕方なくといった様子で、料理を静奈の皿に置いた。皿に盛られた豚肉の唐辛子炒めを見て、静奈の心は揺らいだ。自分は、辛いものが苦手だった。彰人が好きだからという理由だけで、味を受け入れようと努力してきた。おそらく、自分はあまりにもうまく演じすぎていたのだろう。彰人は、自分の好みも、苦手な食べ物も、何一つ知らなかった。これまでは、彼が取り分けてくれたものなら、たとえそれが何であっても喜んで食べた。口の中が火を噴き、唇がみっともないほど腫れ上がっても、心は甘美な喜びで満たされていたのだ。だが今回、もう自分に嘘をつきたくなかった。彰人が取り分けたその料理に、静奈は一口も手をつけなかった。夕食が終わり、使用人がテーブルを片付けている時、静奈の皿に手付かずで残っている豚肉の唐辛子炒めを見て、わずかに訝しげな顔をした。静奈と彰人の間に、何か妙な空気が流れている気がする。だが、それは自分の考えすぎかもしれないと、使用人は何も言わなかった。彰人は、仕事の処理があると言って書斎に向かった。大奥様は、静奈の手を取ってソファに座らせた。「静奈、この数年間、辛い思いをさせたね」その話題に触れると、大奥様は涙を抑えきれなかった。元はと言えば、自分が彰人に静奈を娶るよう強制したのだ。静奈ほどの素晴らしい娘であれば、彰人
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