彼女しか救わなかったから、息子が死んでも泣かないで

彼女しか救わなかったから、息子が死んでも泣かないで

By:  藤崎 美咲Updated just now
Language: Japanese
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もし――あなたと、あなたの夫がずっと心に秘めていた特別な女性が、同じ事故に遭ったとしたら。彼は、どちらを助けると思う? 冬川 悠真(ふゆかわ ゆうま)は、迷いなくその女性を抱き上げ、去っていった。命が、静かに消えていく音がした。お腹に宿った小さな命が途絶えていくのを感じながら、篠宮星乃(しのみや・ほしの)は、自分の心までもが崩れていくのを感じていた。 ――彼との結婚は、取引のようなものだった。それでも、星乃は心から望んでいた。最愛の彼と夫婦になることを。 だが、周囲はみな知っていた。その結婚は、悠真とあの女性の関係を引き裂いてまで手に入れたものだと。 それでも、彼の心がいつか自分に向く日が来ると信じていた。 けれど――三ヶ月育んできた命を、自らの手で土に還したそのとき、星乃はようやく目を覚ました。 「……離婚しましょう」 一枚の離婚協議書が、ふたりの縁を静かに切り離した。 あれから三ヶ月。揺れるドレスの裾と甘い香水のなかで、星乃は壇上に立ち、静かに賞を受け取った。その姿を、男は驚いたように三秒見つめた後、何事もなかったかのように周囲にうなずき、口を開いた。「ええ。彼女が、俺の妻です」 「妻?」 星乃は微笑みを浮かべながら、手にしていた離婚協議書を静かに差し出した。「すみません、悠真さん。もう前妻です」 普段は冷静で感情をあまり見せない男が、その時は目を赤くし、声を震わせて叫んだ。「前妻って……何言ってるんだ!俺は一度だって、そんなの認めたことはない!」

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Chapter 1

第1話

「悠真社長、現場はまだ危ないです!中に入らないでください!」

「救助隊にはすでに連絡済みです。救急車も間もなく到着します!」

「社長……」

「どけ!ここで時間を無駄にして、彼女に何かあったら、お前ら全員、道連れにするからな!」騒然とする声の中で――怒りに満ちたその声が、篠宮 星乃(しのみや ほしの)の意識を深い闇の底からゆっくりと引き戻していく。

ぼんやりと視線を上げると、すぐそばに見慣れた大きな背中があった。神々しく凛とした姿が、まっすぐこちらへ駆け寄ってくる。

――冬川 悠真(ふゆかわ ゆうま)だ。

星乃は思わず涙をこぼした。

何時間もひっくり返った車の中に閉じ込められ、もう助かる見込みはないと諦めていたのに。

まさか、彼が駆けつけてくれるなんて。

事故の直前、二人は激しい言い争いをしていた。

昨夜会社で会う約束をしたはずなのに、悠真は朝の一本の電話で約束を破棄し、それっきり連絡が途絶えていた。その後彼女は事故に遭い、最後のバッテリーを使って、彼の秘書に自分の居場所を知らせたのだ。

また無視されるだろうと思っていた。何度もそうだったから。

だけど……

「赤ちゃん……助かるかもしれない……パパが来てくれたよ……」

星乃は止まらない腹部の出血を見つめながら、かすかな希望にすがりついた。

めまいと吐き気を必死にこらえ、わずかに口を開き名前を呼ぼうとした。しかし声は出ず、喉が焼け付くように痛み、かすれた息だけが漏れた。

――それでも、もう大丈夫。悠真が見つけてくれたのだから。そう信じて力の入らない腕を震えながら持ち上げて手を振ろうとした。

だが次の瞬間。悠真は星乃の前で立ち止まることなく、そのまま彼女の前を通り過ぎていった。

え?星乃は呆然とした。

――見間違いかと思った。

今日、彼女が乗っていた車はいつもと違う。冬川家の車ではなく、母が贈ってくれたものだ。普段はほとんど使わないため、悠真が知らなくても不思議ではない。

「悠真……」星乃はこれ以上、考える余裕もなく必死に声を絞り出そうとした。

しかし出血のせいで体にもう力は残っておらず、その声はかすかなものだった。

悠真はその声に気づかず、さらに歩みを進め、数メートル先の白い車の前で立ち止まった。

そしてドアを開け、中から震えるように身をすくめた女性を抱き上げた。

長いコートに包まれた、細くしなやかな体つき。儚げで上品な雰囲気は、まるで誰もが守ってあげたくなるほどの弱々しさを漂わせている。

その顔を見た瞬間、星乃の体から、一気に血の気が引いていった。

――葉山 結衣(はやま ゆい)。悠真が長年、胸の奥に封じ込めてきた特別な女性。

さっき、あの車が蛇行しながら追いかけてきた光景が頭をよぎる。彼女の車はまるで正気を失ったかのように後方から激しくぶつかってきたのだ――

今はまるで何もなかったかのように静かに路肩に停まっている。まるで傷ついた小動物のように。

そして、その「飼い主」は今――自分の夫の腕の中で、しっかりと抱きかかえられていた。

結衣がなぜ突然、海外から帰国したのか。なぜこのタイミングで自分の車にぶつかったのか――星乃にはもう考える余裕すら残っていなかった。

彼女がその瞬間に願ったのは、ただひとつ。赤ちゃんを守ることだけだった。

「社長!あの車の中にも、まだ人がいます!」

星乃が必死に窓を叩こうとしたその時、悠真の護衛が先に気づいた。車内でかすかに揺れる人影と、その車にどこか見覚えがあったため、思わず声を上げた。

その声に、悠真はようやく星乃のほうを振り返った。

血まみれの顔。服もシートも血で染まり見るも無惨な様子だが、それでもその下から、かすかに女性本来の美しい顔立ちが透けて見えた。

どこかで……見たことがある。

悠真が足を止め、何か言おうとしたそのとき、腕の中の結衣が小さくうめいた。

「……結衣が怪我をしている。病院までのルートを、すぐ確保しろ」

彼はそれ以上、何も確かめようとはしなかった。

「で、でも社長……」

護衛の声は途中で途切れ、悠真の冷たい視線を受けると、思わず言葉を飲み込んだ。「は、はい」

星乃はじっと見つめていた。悠真の視線が、ほんの一瞬だけ自分に向けられたあと、彼は結衣を抱き上げ、まっすぐ車へと戻っていった。

「悠真……お願い……助けて……赤ちゃんを……」声を絞り出そうとした瞬間、口の中に熱い血がこみ上げた。息が詰まり、声にならなかった。

誰も彼女のことなど、もう見ていない。

悠真の車は音を立てて遠ざかっていく。

星乃はただそれを見送るしかなかった。視界がぼやけ、意識は遠のいていく。一瞬にして、身体を貫く激痛が波のように押し寄せ、すべてが暗闇に沈んでいった――

彼女は再び意識を失った。
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第1話
「悠真社長、現場はまだ危ないです!中に入らないでください!」「救助隊にはすでに連絡済みです。救急車も間もなく到着します!」「社長……」「どけ!ここで時間を無駄にして、彼女に何かあったら、お前ら全員、道連れにするからな!」騒然とする声の中で――怒りに満ちたその声が、篠宮 星乃(しのみや ほしの)の意識を深い闇の底からゆっくりと引き戻していく。ぼんやりと視線を上げると、すぐそばに見慣れた大きな背中があった。神々しく凛とした姿が、まっすぐこちらへ駆け寄ってくる。――冬川 悠真(ふゆかわ ゆうま)だ。星乃は思わず涙をこぼした。何時間もひっくり返った車の中に閉じ込められ、もう助かる見込みはないと諦めていたのに。まさか、彼が駆けつけてくれるなんて。事故の直前、二人は激しい言い争いをしていた。昨夜会社で会う約束をしたはずなのに、悠真は朝の一本の電話で約束を破棄し、それっきり連絡が途絶えていた。その後彼女は事故に遭い、最後のバッテリーを使って、彼の秘書に自分の居場所を知らせたのだ。また無視されるだろうと思っていた。何度もそうだったから。だけど……「赤ちゃん……助かるかもしれない……パパが来てくれたよ……」星乃は止まらない腹部の出血を見つめながら、かすかな希望にすがりついた。めまいと吐き気を必死にこらえ、わずかに口を開き名前を呼ぼうとした。しかし声は出ず、喉が焼け付くように痛み、かすれた息だけが漏れた。――それでも、もう大丈夫。悠真が見つけてくれたのだから。そう信じて力の入らない腕を震えながら持ち上げて手を振ろうとした。だが次の瞬間。悠真は星乃の前で立ち止まることなく、そのまま彼女の前を通り過ぎていった。え?星乃は呆然とした。――見間違いかと思った。今日、彼女が乗っていた車はいつもと違う。冬川家の車ではなく、母が贈ってくれたものだ。普段はほとんど使わないため、悠真が知らなくても不思議ではない。「悠真……」星乃はこれ以上、考える余裕もなく必死に声を絞り出そうとした。しかし出血のせいで体にもう力は残っておらず、その声はかすかなものだった。悠真はその声に気づかず、さらに歩みを進め、数メートル先の白い車の前で立ち止まった。そしてドアを開け、中から震えるように身をすくめた女性を抱き上げた。長いコ
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第2話
「残念ですが……病院に運ばれたときには、すでに手遅れでした。母体の手術は無事に終わりましたが、お腹の赤ちゃんは助かりませんでした」「ご妊婦さんのご家族は」「いないようです。手術の同意書も、ご本人が自ら署名していました」まだ麻酔のぼんやりとした残響の中で、星乃は医師と看護師の会話を聞いていた。指先でそっと、自分のお腹に触れる。医師の言葉どおり、もうそこに命の温もりはなかった。わずかにふくらんでいた下腹部は、今や平らになっている。もう二度と、あの小さな命の鼓動を感じることはできない。泣きたい。悲鳴を上げて崩れ落ちるほど泣きたい。けれど涙は一滴も出てこなかった。きっともう泣き尽くしてしまったのだろう。彼女が目を覚ましたのに気づいた医師は、体調を軽く確認すると、帰り際に体を大切にするよう伝えた。子どもはきっとまた授かれるはずだと、優しく声をかけて励ましていった。星乃は、ただ小さくうなずくだけだった。――二度と、子どもを授かることはない。そう心の中でつぶやいた。だって、この子は奪うようにして得た命だった。この結婚と同じ。彼のものを無理やり手に入れたものだったから。星乃はかつて、思い描いたとおりに悠真――名門・冬川家の御曹司と結婚した。だが、悠真は、星乃が計算して近づいてきた女だと思い込み、彼女を心の底から嫌っていた。結婚式の夜には、わざと人目につく会員制クラブへ出かけ星乃に恥をかかせた。一夜にして、彼女は世間の笑いものになった。それでも五年間の結婚生活の中で、少しずつ悠真の態度は和らいでいった。彼女が酷く嘲られたときには、わずかにかばってくれることもあった。長く共に過ごせば情も移ると言うが、仮面夫婦であっても時間が経てば少なからず情が芽生えるのかもしれない。だが悠真ははっきりと言っていた。彼女に対しては一時的に感情が動くことはあっても、心までは動かない。つまり、本気で愛してはいない。だから絶対に彼の子は産ませないと。彼らは毎回避妊を徹底していた。たとえ準備が間に合わないことがあっても、その後で必ず彼女にアフターピルを飲ませていた。星乃もまた妻としての役割を守りながら、彼のルールに従っていた。――あの夜までは。三ヶ月前、酒に酔った悠真が帰宅し、理性を失った状態で星乃を抱いた。避妊はし
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第3話
病室の中。怜司は悠真が海外にいる間、星乃にどれほど冷たく接していたかを、まるでその場を見ていたかのように臨場感たっぷりに語っていた。「ある年なんてさ、星乃がリストカットして、自殺をほのめかす写真まで悠真に送ったんだって。でもさ、どうなったと思う?」「悠真、その写真を見ても一切反応せずに、家に帰ってきて玄関から星乃を放り出したらしいよ。『死ぬなら外で死ね。家を汚すな』って。全然容赦なかったってさ」この話も、怜司が誰かから聞いた噂話に過ぎなかった。当時は氷点下で、外に出された星乃は凍えるように震え、流れた血もすぐに凍ってしまったという。そこまで話すと、怜司はどこか哀れむように、それでいて少し楽しげに笑った。「悠真が星乃をどう思ってたかもう明白だよな。けど、結衣に対しては……海外でちょっと熱を出しただけで、悠真は――」「もういい。喋りすぎだ」悠真が低く冷ややかな声で遮った。「なに照れてんのかよ」「ねえ結衣、悠真がめっちゃ睨んでくるんだけど、放っておいていいの?」怜司は軽く笑いながら結衣の方を向いた。冗談めかして言う怜司に、結衣は口元を押さえて小さく笑ったが何も言わなかった。悠真の胸の内では、いくつもの感情がせめぎ合っていた。ちょうどそのとき、怜司がVIP病室の手配を終えたところだった。悠真は無言で書類を受け取り、そのまま手続きのため病室を出ていった。怜司は悠真の背中を顎で示しながら、結衣に目配せし、小声でささやいた。「ね、結衣のことになると、悠真って誰よりも本気になるんだよ」その声は、悠真の耳には届かなかった。悠真は書類を持って階下で支払いを済ませ、結衣のために静かな個室を特別に選んだ。一通りの手続きを終えた後、ふと星乃のことが頭をよぎった。気になってスマホを取り出すと、不在着信と一通のメッセージが届いていた。【星乃様のご家族の方へ。私たちは朝倉聖心病院の医師です。何度かお電話を差し上げましたが繋がらなかったため、こちらにご連絡いたします。星乃様は交通事故に遭われ、ただちに手術の同意が必要です。このメッセージをご覧になりましたら、できるだけ早く病院へお越しください】病院名――朝倉聖心病院。今まさに自分がいる場所だった。悠真は数秒間、無言のままメッセージを見つめ、怜司の話を思い出
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第4話
「……なんだって?」悠真は一瞬自分の耳を疑った。しかし星乃は、先ほどの言葉を変わらず淡々と、はっきりと繰り返した。けれど、悠真はまだ信じられずにいた。「星乃……今度は、どんな芝居を打つつもりなんだ?」「悠真、私は本気よ」「あなたと結衣のためにも、もう終わりにしましょう。弁護士にはもう連絡してあるわ。私は今、病棟の上の階にいるの。もし時間があるなら、一度来て。離婚について、ちゃんと話をしたいの」星乃が言い終えるより早く、悠真は冷たい笑みを浮かべた。その表情は、何かに気づいたようでもあった。「悪いが、そんな暇はない」そう言い放つと、電話を一方的に切った。鼻で笑いながらスマホを放り投げた。――やっぱり、全部、俺を引き戻すための芝居だったんだろ。「離婚」を餌に、自分を呼び出すつもりだったのだろう。まんまと騙されかけた自分が、滑稽でならない。これまで何度も、星乃には離婚を申し出てきた。財産の半分を渡すとまで言った。与えられるものは、すべて差し出すつもりだった。けれど、彼女は、一度たりとも頷かなかった。それならと、悠真は彼女を突き放すことにした。わざと目の前で他の女と親しげにふるまい、家族の前では彼女を軽んじ、友人たちの前では平然と冷たく接した。普通の女なら、とっくに諦めて出て行ったはずだ。だが、星乃は違った。最初は彼女のことを欲張りだと思っていた。もっと多くを手に入れたくて、必死にしがみついているのだと。でも、ようやく気づいた。彼女が本当に欲しかったのは――金でも地位でもなく、自分自身だったのだ。皮肉交じりに笑みを漏らす。――彼女には何でも与えられる。しかし、それだけは絶対に与えられない。【俺も結衣も、お前には会いたくない。自分の立場をわきまえろ】それだけ送ると、まるで何事もなかったかのように、結衣の病室へ戻っていった。星乃が少しでも現実を受け止めてくれればいい。それでもまだ分からないというのなら――力づくで追い出すだけだ。一方、星乃はその短いメッセージをじっと見つめていた。そして、微かに笑った。わかっていた。覚悟もしていた。けれど、それでも胸の奥が冷えた。まさか彼が自分をここまで信じられなくなっているなんて。五年の結婚生活――これが彼の答えだった。失望?いや、それすら
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第5話
看護師が何か言いかけたとき、ちょうど通りかかった怜司が笑いながら口を挟んだ。「上の階の病室にいる妊婦だよ。前の病院を追い出されたらしい」「悠真、あんな噂、信じちゃダメですよ。あの人たち普段からゴシップばかり聞いてるせいで、記憶がめちゃくちゃになってるんです」怜司の言葉に、悠真は素直に頷いた。それに、これまでの年月を考えれば、星乃とはしっかり避妊をしてきたので、子どもができる可能性はほとんどなかった。彼は気軽な口調で訊いた。「星乃はどうした?病院に来てたって聞いたけど」怜司は一瞬、視線を逸らした。「……ああ、ちょっと擦りむいただけだ。たいしたことないよ」「たぶんだけど、悠真が結衣のことを心配してるって聞いて、わざとケガしたふりして焼きもち焼いたんじゃない?」そう言いながら、怜司はそっと悠真の表情をうかがった。だが悠真は特に気にする様子もなく、少し眉をひそめただけで、鼻で笑うようにして背を向けそのまま立ち去った。怜司はようやく息をついた。そして悠真が見えなくなると、隣にいた二人の看護師に向かって釘を刺した。「この病室のことは、誰にも喋っちゃダメだ」ようやく悠真と結衣の関係が修復され始めたのだ。余計なことは起きてほしくなかった。悠真が星乃を好いていないことは怜司もよく知っている。だが、子どものこととなると話は別だ。もしかしたらその子に情が湧いて、星乃に対しても少しは同情や罪悪感を抱くかもしれない。どんなことがあろうとも――少なくとも自分がいる限り、星乃の企みは絶対に成功させない。……星乃は二日間の療養を終えて退院すると、まず向かったのは、まだ生まれていない子のための墓地だった。この子は最初から誰にも歓迎されないまま、命を失った。だから星乃も、産着やおもちゃを用意することさえしていなかった。彼女はショッピングモールに立ち寄り、店員に勧められるがまま、目についたものを次々と買い揃えた。最後には店員が思わず口を挟むほどだった。「お客様、赤ちゃんはすぐに大きくなっちゃうから、そんなにたくさん買ってもムダになっちゃいますよ」星乃の鼻先がツンと痛んだ。彼女は首を横に振った。この子はもう大きくなることはないのだ。どれだけ覚悟を決めていたつもりでも――実際に小さな棺が土に覆われていくその瞬
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第6話
星乃は自分がそこへ行けば悠真にますます嫌われることがわかっていた。それでも彼の母親の立場を考えると、断ることはできなかった。そのため彼女はいつも板挟みになり、苦しんでいた。「星乃、あなたが以前どんな立場だったかなんて関係ないのよ。悠真の妻になった経緯もどうでもいい。ただ嫁いできた以上、自分の立場をわきまえなさい」「夫が三日も家に帰らないのを放っておくのも問題だけど、あなたまで三日も外で遊び歩くなんて、いったい何を考えているの? 悠真の妻だという自覚はもうないの?」佳代の声は相変わらず耳障りで、責め立てるようだった。以前の星乃なら、黙ってその叱責に耐えただろう。だが、今は違った。彼女は珍しくその言葉を遮った。「お義母さん、さっきおっしゃったように、私は彼の妻です。彼の母親ではありません」「悠真はあなたの息子であって、私の息子ではないです。だから私に彼を教育し直す義務なんてありません」「……何ですって?」佳代の顔が怒りに歪んだ。「あなた、正気なの? 私に向かってそんな口をきくなんて!」「ただ事実を言っただけです」佳代は怒鳴ろうとしたが、ふと何かを思い出したかのように鼻で笑った。「ふん、嫉妬で理性を失っているのね」「まさか結衣が戻ってきたことを知っているんじゃない? この三日間、悠真は彼女と一緒にいたんでしょう?」星乃は何も答えなかった。佳代が結衣の帰国を知っていても不思議ではない。情報通の彼女にとって、それくらい簡単なことだった。星乃もまた、彼女がわざとそう訊いているのだと察していた。黙っていると、それがまるで答えのように、佳代はふっと笑みを漏らした。「やっぱりそうなのね。だからといって、こんなふうに八つ当たりしないでくれる? でも勘違いしないで。私は悠真の母親よ。彼が誰と一緒になるかは私が決めるの。もし私があなたと離婚させたいと思ったら、明日には荷物をまとめて出て行くことになるわよ」「だから、私に話すときは、少しは自分の立場を考えて話しなさい」星乃が黙っていると、佳代は自分の脅しが効いたと思い込み、得意げにまくしたてた。しかし、彼女は今日の星乃の様子がいつもと違うことに気づいていなかった。実のところ、星乃よりも、佳代の方が結衣をずっと嫌っていた。星乃は欠点があったし、自分が理想とするよ
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第7話
星乃は再び弁護士事務所を訪れ、離婚協議書の作成を依頼した。実は入院していたときには、すでに書類の大半を準備していて、あとは財産分与について悠真と話し合うだけだった。彼女はもともと順調なキャリアを築いていたが、結婚後、悠真の実家である冬川家では、嫁が外で表に出ることは許されないという考えが強く、やむなく仕事を辞め、家で悠真の身の回りの世話に専念することになった。ここ数年、悠真は静かな生活を好むようになり、家にいた掃除係や家政婦も次々に解雇され、最後に残ったのは鈴木恵子(すずき けいこ)ただ一人だった。恵子は佳代の身内を盾に、遠慮なく星乃を見下し、家事を押しつける一方で自分は怠けてばかりいた。まるで星乃が自分の使用人であるかのように、当然のように指示を出してくる。悠真はそれを知らなかった。あるいは知っていても見て見ぬふりをしていたのかもしれない。だから星乃は、冬川家の妻というよりは、悠真に仕えるために用意された、同居人兼家政婦のような存在だった。彼の財産の半分をもらえるとは思っていない。しかし、だからといって、手ぶらで出ていくつもりもなかった。星乃は弁護士に依頼し、かつて自分が働いていた業界の近年の給与水準を調べてもらい、それを基に「失われた年月の補償」として妥当な額を算出してもらった。離婚協議書にその額を記入し、星乃は書類を抱えて自宅へ戻った。玄関を開けると、目に飛び込んできたのは荒れ果てたリビングの光景だった。床にはゴミが散乱し、テーブルの上には果物の皮や殻が山のように積まれていた。その張本人である恵子は、ソファにふんぞり返りながらアイドルドラマを観て、悠々とおせんべいをかじっていた。星乃の姿を見ると、一瞬だけ緊張の色を浮かべたが、すぐに表情を緩めた。「帰ったの?」と言って、またソファに深く腰を沈めると、ドラマの続きを観始めた。悠真が家にいるときだけは、彼女も一応家政婦らしい態度を取っていたが、彼がいなくなると、まるでこの家の主のように振る舞い始めるのだった。星乃は、恵子がいつものように自分が掃除を始めるのを待っていることに気づいた。恵子は亡き母と同年代だったため、最初のころは星乃もつい彼女の仕事を手伝っていた。しかし恵子はそれをいいことに「今日は調子が悪い」と言い訳を重ね、やがては言い訳さ
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第8話
「星乃、いるなら出てこい!」星乃はちょうど離婚後の身の振り方について考えていたところだった。玄関から響いた悠真の怒鳴り声に、思わず眉をひそめる。立ち上がる間もなく、ドアがいきなり蹴り開けられた。「結衣が帰国したこと、お母さんに話したのはお前だな?」怒りをまとった悠真が部屋に踏み込み、真っすぐ星乃の前まで来て詰め寄る。星乃は一瞬ぽかんとしたが、すぐに苦笑して、何も言わずに彼を見返した。説明なんてもう意味がない。昔からそうだった。何かあればすぐに疑われて、違うと必死に説明しても信じてもらえない。ある時、星乃はようやく証拠を見つけ、嬉しそうにそれを彼に差し出した。「ねえ、見て。本当に私じゃなかったの」期待を込めた目でそう訴えた彼女に対して、悠真は――ただ鼻で笑った。「……だから何だ?星乃、お前こそ考えたらどうだ。俺が真っ先にお前を疑った、その理由を」あの言葉は今でも心に刺さったままだ。誠実に精一杯の思いで差し出した心は、真冬の水を浴びせられたように凍りついたその瞬間、もうこの人に言葉で説明をするのに必死になる必要なんてないと、悟ったのだ。星乃は黙ったまま視線を落とす。それを見た悠真は、鼻で笑った。いつまでも嫉妬深い女だな。「お母さんに泣きついたところで、何が変わる?」「……星乃、お前に言っておくが――」その言葉をさえぎるように、星乃が口を開いた。「時間作って。離婚届、出しに行きましょう」「離婚?」何度も聞き慣れたはずのその言葉が、なぜかこの時は可笑しく響いた。「本気で離婚したいとでも?」「あれだけ手を使って俺と結婚したくせに、そんな簡単に諦めるわけがないだろ」「信じるかどうかは、あなたの自由よ」星乃は彼に信じてもらおうとは思っていなかった。そう言って、星乃は書類を差し出した。「離婚協議書はこれ。条件は全部ここに書いてあるわ。離婚届も添えてある。あとは、あなたがサインすれば提出できる」悠真は思わず言葉を失い、目を見開いた。半信半疑のまま書類を受け取ってページをめくる。それは間違いなく、離婚協議書だった。最終ページには、彼女の整った署名がしっかりと記されていた。かつて何度も、悠真は星乃にこれを書かせようとした。だがそのたびに、彼女は頑なに拒んできた。それがなぜ、
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第9話
悠真は険しい表情のまま、財産分与の項目を指さした。「俺はおまえと財産分与の話なんてした覚えはないけど?」星乃は一瞬言葉を失った。まさかそんな切り口で来るとは思ってもいなかったからだ。悠真の実家、冬川家は資産に困るような家ではない。確かに彼の態度はいつも冷たかったが、お金のことに関して細かく文句を言われたことは一度もなかった。むしろ、過去に離婚をほのめかされた時の条件は、今回よりもはるかに高額だった。だからこそ星乃は深く考えずに、自分が受け取るべき正当な財産の理由を記した書類と、弁護士が算出した明細を彼に差し出した。「つまり、俺と結婚したことがお前にとって損失ってわけか?」協議書を見した悠真は嘲るような笑みを浮かべ、冷たく言い放つ。「星乃、おまえの能力じゃ月に20万円の収入でも上出来だろ。それを、どこの誰が月給40万円もらって当然なんて言えるんだ?」「それに家のことは全部恵子がやってる。自分は何一つ動かしてないくせに、家事分の報酬なんてよく言えたもんだな?」「それから――」悠真は彼女が請求した金額を一つひとつ否定していった。星乃の顔から血の気が引いていく。悔しいのはお金を失ったことではない。彼のために夢を捨て、何年も支えてきたこと――それが彼にとっては、何の価値もないことだったと知ったからだ。唇をぎゅっと結び、呼吸を整えようと必死だった。仕事のことは証明できない。だが、これまでの努力を無にされたまま引き下がるわけにはいかない。「……ずっと、私が家のことを管理して――」「家のことを?」星乃の言葉を遮り、悠真は冷笑した。彼は彼女の腕を乱暴に掴み、抵抗も無視して玄関のほうへ引っ張った。そして手すりに押し付け、無理やり頭を下げさせて階下の様子を見せつける。そこには恵子がしゃがんで床を掃除していた。「旦那様!申し訳ありません、すぐに片づけます!」恵子は彼を見つけて慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。その様子を見て、悠真の口元にさらなる嘲笑が浮かぶ。「星乃、これがお前の言う管理してきた家か?」「じゃあ今ここで掃除している恵子は、一体何をしているというんだ?」星乃が反論しようとした瞬間、悠真は恵子に視線を向け、わざとらしい笑みを浮かべて言った。「恵子、お前から話してくれ」「星乃は家のこと
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第10話
その考えが頭をよぎった瞬間、星乃は自分でそれ打ち消した。――そんなはずがない。つい先月のことだ。悠真は結衣が病気だと知るやいなや、深夜に最短の便を手配し、国外へ飛んだ。三日三晩、ほとんど眠らずに彼女のそばに付き添い、さらには千万円以上もするネックレスを買ってプレゼントまでした。帰国後も、彼は夢の中で何度も結衣の名前を呼んでいた。あれほどまでに結衣を想っているのに、どうして自分との離婚を望まないはずがあるだろう?悠真は、彼女がお金を手に入れられず落ち込んでいるのだと決めつけ、心の中でますます軽蔑の色を深めた。そして鼻で笑いながら言い放った。「冬川家は、お前みたいな人間が出入り自由な場所じゃない。あのとき婚約を破棄しようともしなかったくせに、今さら金だけ持って勝手に出て行けると思うな」星乃は静かに反論した。「このお金で、あなたと結衣が一緒になれるなら……安い取引じゃないの?」悠真は一瞬きょとんとし、不意を突かれたような顔をした。結衣?結衣が、どう関係ある?だがすぐに、星乃の言葉の裏に込められた意図を悟る。――彼女は、自分と結衣のために身を引こうとしているのだと。悠真は苛立ちと、そしてどこか滑稽さを感じて、思わず小さく笑った。本来は自分の財産を奪うために離婚話を持ち出したくせに、今ではまるで「あなたたちのために身を引く」とでも言いたげな、被害者ぶった態度だ――やっぱり、彼女の母親にそっくりだ。腹の底では、何を考えているか分からない。鼻で笑った悠真は、星乃の顎を乱暴に掴み、その目を無理やり自分に向けさせた。「誰が言った?離婚しなきゃ、俺が結衣と一緒になれないなんて」その声は冷え切って、鋭く胸に刺さった。黒い瞳に見つめられながら、星乃の心はじわじわと凍りついていく。――そうだ。彼は最初から、倫理だの婚姻制度だの、そんなものに縛られる人間じゃなかった。自分が離婚しようとしまいと、彼は結衣との関係を続ける。その事実に気づいた瞬間、星乃の顔から血の気が引いた。その変化を目ざとく捉えた悠真は、それを彼女の企てが外れた証だと受け取り、ますます嘲るように唇の端を吊り上げた。「星乃、お前のくだらない駆け引きはもう見飽きた」「ちゃんと態度を改めて、俺の妻としての自覚を持つか――それとも……」そ
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