もし――あなたと、あなたの夫がずっと心に秘めていた特別な女性が、同じ事故に遭ったとしたら。彼は、どちらを助けると思う? 冬川 悠真(ふゆかわ ゆうま)は、迷いなくその女性を抱き上げ、去っていった。命が、静かに消えていく音がした。お腹に宿った小さな命が途絶えていくのを感じながら、篠宮星乃(しのみや・ほしの)は、自分の心までもが崩れていくのを感じていた。 ――彼との結婚は、取引のようなものだった。それでも、星乃は心から望んでいた。最愛の彼と夫婦になることを。 だが、周囲はみな知っていた。その結婚は、悠真とあの女性の関係を引き裂いてまで手に入れたものだと。 それでも、彼の心がいつか自分に向く日が来ると信じていた。 けれど――三ヶ月育んできた命を、自らの手で土に還したそのとき、星乃はようやく目を覚ました。 「……離婚しましょう」 一枚の離婚協議書が、ふたりの縁を静かに切り離した。 あれから三ヶ月。揺れるドレスの裾と甘い香水のなかで、星乃は壇上に立ち、静かに賞を受け取った。その姿を、男は驚いたように三秒見つめた後、何事もなかったかのように周囲にうなずき、口を開いた。「ええ。彼女が、俺の妻です」 「妻?」 星乃は微笑みを浮かべながら、手にしていた離婚協議書を静かに差し出した。「すみません、悠真さん。もう前妻です」 普段は冷静で感情をあまり見せない男が、その時は目を赤くし、声を震わせて叫んだ。「前妻って……何言ってるんだ!俺は一度だって、そんなの認めたことはない!」
View More正隆の顔色はふたたび曇った。「本当に離婚したの?」綾子は驚いて声をあげた。その点は彼女も予想外だった。「まだよ」美優が首を振って言った。「事務的手続きがまだ終わってないんだって。離婚が正式に成立するまで、数日かかるって言われた」そう言うと彼女は小さくため息をつき、がっかりしたようにつぶやいた。「だったら、パッと終わらせてくれればいいのに……」美優の言葉を聞いて、綾子は正隆の険しい表情に気づいた。綾子は美優の頭をぽんと軽くはたき、くすくすと笑いながらたしなめた。「もう、そんなこと言わないの。離婚したって、悠真の家には行けないんだから」「母さん!」美優は不満げに声を上げた。たとえ綾子の言う通りでも、彼女はどうしても釈然としなかった。実は結婚が決まる前、篠宮家は美優を代わりに、悠真のもとへ送り込もうと考えていたし、悠真本人もその変更を受け入れていた。それが思わぬすれ違いで――最終的に婚約者になったのは星乃の方だった。悠真の家との縁談は一度きりのチャンス。にもかかわらず、その機会は星乃の手に渡ってしまったのだ。美優はますます憤りを募らせた。大切にしている娘の不機嫌を感じ、綾子は慌てて慰めた。「心配しないで。お母さんは絶対、もっといい相手を見つけてあげるから。悠真よりずっといい人よ」美優は小声でぼそりと返した。「この瑞原市に、悠真よりいい人なんているの…」言えば言うほど腹が立ち、星乃のせいで恥をかかされたことを、さらに両親に訴えてやろうと思っていた。綾子と正隆は二人とも美優に構う余裕がなく、綾子は適当に受け流しながら部屋に戻って休ませようとした。美優はしぶしぶ、その場を離れた。娘が去っていくのを見届けてから、正隆は「まだ離婚していない」という言葉に、少しこわばっていた表情をようやく緩めた。綾子は正隆を横目で見て、ため息まじりに怒りをにじませる。「それにしても、星乃って本当にわがままだわ。篠宮家がこんなふうに没落したのは、あのときのあの行動が原因なのよ。もしあのとき……」言いかけたところで、正隆の顔にまた陰りがさす。綾子が続きを言おうとするのを見て、正隆は手を振った。「もういい。そんな話、今さらしても意味がない」綾子は彼の反応を察したようで、すっと怒りを引っ込めた。茶色の
星乃は、悠真の前ではいつも立場が弱かった。その投資の失敗も一つの原因だった。正隆の企みに気づいた瞬間、星乃は冷ややかに笑った。「もう意味ないわ。私と悠真は、離婚したの」「今や、篠宮家と冬川家は『親戚同士』でもなんでもない」「……なんだと?」電話の向こうで正隆が言葉を失い、しばらくしてから険しい声を絞り出した。「お前たち、離婚したって?」「ええ」「いつの話だ」「ついさっきよ」「悠真が言い出したのか?」「私からよ。彼はあっさり承諾したわ」「ふざけるなっ!」バンッ、と机を叩く音がスマホ越しに響いた。そこにいなくても、星乃には正隆の顔が目に浮かんだ。きっと、いつものように怒り狂っているに違いない。もし今、自分が彼の目の前にいたら――一族の裏切り者でも見るような目で、睨みつけてきただろう。でも、その目を美優に向けたことは一度もなかった。たとえ美優がわがままを通して、会社に何千万もの損失を出そうとも、正隆はため息をひとつついて、甘やかすような口調で、いつになったら大人になるのかと穏やかに問いかけるのだった。星乃は皮肉げに笑ったが、何も言わなかった。電話の向こうで、正隆の声が冷たくなっていく。「お前の母さんが命懸けで繋いだ縁だぞ。それを簡単に壊して……母さんに顔向けできるのか!?」「天国からお前の母さんが見てたら、どう思うと思ってるんだ!あの人の想いを、そんなふうに踏みにじって!」「命令だ、すぐに謝りに行け!」星乃は冷ややかに笑った。もし母が本当に天国から見ているのだとしたら――もうとっくに、すべてに絶望しているはずだ。言葉を返す間もなく、電話は一方的に切られた。篠宮家。正隆は電話を叩き切ると、顔色が悪くなっていた。「もう怒らないで。前から言ってたじゃない、あの子、もう私たちのことなんて、家族と思ってないのよ。たぶんね、悠真の家の力だけ利用し尽くして、将来の道を固めたかったのよ。私たちはそのための邪魔な存在だったの」綾子は、赤いドレス姿でリビングへと優雅に歩いてきた。彼女は、正隆が星乃に助けてもらえず怒っていると思い、そっと手を伸ばして彼の胸を優しくたたいた。「もう一度、悠真のおばあさまにお願いしてみたら?」その艶めかしさに一瞬目を奪われた正隆は、少しだけ表情を
美優は星乃に言い返されるとは思っておらず、顔を真っ赤にして怒りを露わにした。「誰があんたと同じ血を引いてるって?」「そうね」と星乃は軽く頷いた。「確かに違うわ。だって、誰かさんの体に流れているのは、愛人の血なんだから」「なっ……!? 私のお母さんのことをよくも……星乃、あんた頭おかしいんじゃないの!?」美優は絶叫すると同時に、手を振り上げて星乃に平手打ちを浴びせようとした。しかし星乃は素早く彼女の手首を掴んで止めた。「私、何か間違ったこと言った?あなたの母親が愛人だなんて、一言も言ってないわよ」「もしかして、自分のことだと心当たりはあるの?」その言葉に美優は言葉を失った。隣にいた令嬢も呆然と二人のやりとりを見つめていた。彼女は美優が篠宮家の娘だということしか知らず、美優の本当の出自については何も知らなかったのだ。星乃の言葉を聞いてからというもの、美優を見る目にわずかな変化が現れた。そして乾いた笑みを浮かべ、慌てて自分の荷物を美優から受け取った。「美優……今日はここまでにしましょう。急用を思い出したの」そう言うと、美優の引き留めにも構わず、足早に立ち去った。「待って……」遠ざかる彼女の背中を、美優は呆然と見送った。怒りと悔しさが入り混じり、今にも泣き出しそうな表情だった。星乃はそんな美優に目もくれず、そのまま踵を返して立ち去った。「こっ……このっ……星乃!よくも私をいじめたわね!絶対に許さないから! 今すぐお父さんとお母さんに言いつけてやるんだから!」美優は地団駄を踏みながら叫んだ。背中を見せて去っていく星乃に対し、羞恥と怒りが募るばかりで、どうすることもできなかった。帰ろうとしたその時、不意に足が止まる。ふと目に入ったのは、すぐ近くの建物に掲げられた役所の看板。――役所?そういえば、星乃はさっきあそこから出てきたような……一体何をしに来たんだろう?……星乃は駐車場に戻り、車に乗り込んだものの、しばらく茫然としていた。結衣がまだ別荘にいるのかは分からない。でも今は帰るべきじゃない気がした。母を亡くしてから、かつての親戚たちとの縁も徐々に薄れていった。結婚後は友人らしい友人もほとんどいない。このまま私は、どこへ向かえばいいのだろう。そんな思いに沈んでい
星乃は十六歳のときに、初めて生理が来た日のことをよく覚えている。あのとき、父・正隆はひどく慌てて、彼女を連れて病院へ駆け込んだ。ただの生理現象だと医者に告げられた後、二人して何とも言えない気まずい空気になった。だからこそ、最初の頃は父が再婚したことも、星乃なりに理解しようとしていた。たとえ美優が自分に敵意を向け、いつもおもちゃや服を奪い取ろうとし、そんな美優を父が甘やかして自分に譲るように仕向けていたとしても――星乃は不満を胸にしまい込み、大人しく従っていた。家の平和を守るためには、自分が我慢すればいいと思っていたからだ。だが、すべてが変わったのは五年前。口論のさなかに美優がうっかり漏らした言葉から、星乃は真実を知った。綾子は「再婚相手」などではなく、ずっと父が外で囲っていた愛人だった。そして美優もまた、綾子の連れ子ではなく、正隆の隠し子――つまり星乃と同じ血を分けた娘だったのだ。その事実を知った日、星乃は怒りと裏切りに打ちのめされ、泣き叫びながら二人を家から追い出すよう父に迫った。しかし次の瞬間、父の鋭い平手打ちが彼女の頬を打ち、その無言の一撃がすべてを物語っていた。かつて自分を何より大切にしてくれた家族は、もうどこにもいなかった。母の死とともに、父の「愛」もとうに消え去っていたのだ。今の家は――美優の家であり、星乃はそこにいるただのよそ者だった。かつての彼女は、父を困らせまいと美優にすべてを譲っていた。だが今はただ、生き延びるためにそうしているだけだった。「ねぇ、美優。この人、誰?」隣に立っていたのは、どこかのお嬢様らしい女性だった。星乃を見て首をかしげると、すぐに思い出したように意地悪な笑みを浮かべた。「思い出したわ。前に見たことある。あなた、悠真さんの奥さんでしょ?」美優は冷たく嘲った。「そうよ。しつこくつきまとって、無理やり悠真さんと結婚した女。うちの家まで巻き込んで、恥をかかせてくれたわ」実際には父や母が言っていた通り、星乃の結婚は篠宮家にとって、何の迷惑もかけていなかった。むしろ悠真との関係で、少なからず恩恵を受けたほどだった。結局、この結婚は星乃と彼女のすでに亡くなった母親が仕組んだことだと、誰もが知っていたのだ。だが、美優は納得していなかった。当初、自分だって悠
星乃はスマホを取り出し、画面に表示された「悠真」の名前を見た。一瞬ためらいながらも、応答しようとしたが、着信音はふっと途切れた。思わずかけ直すと、コールが二秒鳴ったところで切られてしまった。すぐにメッセージが届いた。「ごめんね、星乃。結衣だよ。さっきの電話、私がかけたの」「ちょっとパジャマを借りようと思ったんだけど、もう大丈夫よ。悠真が、自分のを貸してくれたから」何気ないようでいて、明らかに挑発を含んだそのメッセージに、星乃はふっと微笑んだ。不思議と、胸の奥には何の感情も湧いてこなかった。結衣からこうしたメッセージが届くのは、今回が初めてではなかった。どれも一見すると他愛のない内容でありながら、その行間には、どこか挑発的な棘が潜んでいた。かつて一度だけ、星乃はそれを悠真に打ち明けたことがある。けれど、ほんの少しでも結衣の意図を疑おうとした途端、悠真は決まって「被害妄想だ」と星乃を責めた。もうすぐ、そんな悠真とも正式に別れる。二人の未来のため――星乃は自ら身を引くことをした。人ひとり譲ることに比べれば、服の一着くらい、どうだっていい。「わかった」とだけ返信し、星乃は画面を閉じて、手続きを再開した。窓口で応対していたのは、若い女性職員だった。事務的な口調ながら、「本当に、よろしいんですか?」と声をかけてくる。星乃は無言のまま、数枚の写真を差し出した。そこには、悠真と結衣が一緒に写った姿が収められていた。すべて、結衣やその周囲の人たちから送られてきたものだ。写真の中の悠真は、いつものように無表情――けれど、星乃にはわかる。彼は、心から楽しんでいた。星乃もかつて、悠真に一緒に写真を撮りたいと頼んだことがあった。でもそのたびに面倒だと拒まれ、いざカメラを構えると、彼は決まってフレームの外へと立ち去ってしまった。結婚のときでさえ、二人はウェディングフォトを撮らなかった。悠真が自分を愛していない証拠なんて、数えきれないほどある。もし職員に時間があるなら、三日三晩かけても話し尽くせないかもしれない。星乃が話したのは、そのうちのほんの一部だけだったが、それだけで職員の表情は明らかに変わった。そして、それ以上、何も言ってはこなかった。手続きは順調に進み、最後に職員が丁寧に説明した。「書類の確認と
まさか星乃が本当に承諾するとは、悠真も思っていなかった。彼の記憶では、星乃の母が亡くなったあと、父親はすぐに再婚し、継母とともに星乃を冷たく扱っていたはずだった。彼の表情を見て察したのか、星乃はそれ以上何も言わず、静かにうなずいた。「もう決まったことだし、引き延ばしても仕方ないから」離婚はすでに覆せない決定事項だった。星乃はあいまいで宙ぶらりんな状態を嫌っていた。「じゃあ、最近の行動も……全部そういうことだったのか?」悠真の頭にここ最近の星乃の不思議な言動がよぎる。彼女は、自分が篠宮家への出資を拒むのを恐れて、わざと駆け引きをしていたのか――そう考えると悠真は思わず笑みをこぼした。星乃は意味をすぐには理解できなかったが、彼の表情が和らぎ、機嫌が悪くなさそうなのがわかった。たぶん、このまま離婚すれば、ようやく結衣と一緒になれる――そう思っているのだろう。星乃の胸には、冷たい笑みが浮かんだ。口では離婚しても何の影響もないと言いながらも、心の奥では自分との離婚を待ち望んでいた。それは、彼が結衣と結びつくためだった。星乃は何も言わず、その沈黙を了承の合図と受け取った悠真は、これ以上言葉を交わさず、協議書と離婚届にあっさりとサインした。「明日、一緒に……」役所という言葉を言いかけて、悠真はすでにマイナンバーカードを取り出し、星乃の前に差し出した。「俺は忙しい。あとは自分でやれ」「どうしてもわからないことがあったら、誠司に聞け」その冷たい口調に、星乃はかすかに苦笑した。結婚したときも、悠真は自分の代わりに誠司を役所に行かせていた。そして今回も――五年にわたる婚姻生活の幕引きですら、彼は自分の大切な時間を割く気はなかったのだ。こんな結婚、思い返すのも虚しい。けれど、以前よりは少しだけ、彼女の心は強くなっていた。行かなくていい。「この離婚協議書は?一応弁護士に見てもらったほうがいいんじゃない?」星乃がたずねる。「必要ない」悠真は淡々と答えた。「一度決めたことだ。あとはお前が後悔しなければいい」白熱灯の淡い光が斜めに彼の顔を照らし、深みのある立体的な顔立ちの輪郭を際立たせている。星乃はその横顔をじっと見つめた。ふと、昔見たあの少年の顔が重なった気がした。悠真と初めて出会った
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