LOGINもし――あなたと、あなたの夫がずっと心に秘めていた特別な女性が、同じ事故に遭ったとしたら。彼は、どちらを助けると思う? 冬川 悠真(ふゆかわ ゆうま)は、迷いなくその女性を抱き上げ、去っていった。命が、静かに消えていく音がした。お腹に宿った小さな命が途絶えていくのを感じながら、篠宮星乃(しのみや・ほしの)は、自分の心までもが崩れていくのを感じていた。 ――彼との結婚は、取引のようなものだった。それでも、星乃は心から望んでいた。最愛の彼と夫婦になることを。 だが、周囲はみな知っていた。その結婚は、悠真とあの女性の関係を引き裂いてまで手に入れたものだと。 それでも、彼の心がいつか自分に向く日が来ると信じていた。 けれど――三ヶ月育んできた命を、自らの手で土に還したそのとき、星乃はようやく目を覚ました。 「……離婚しましょう」 一枚の離婚協議書が、ふたりの縁を静かに切り離した。 あれから三ヶ月。揺れるドレスの裾と甘い香水のなかで、星乃は壇上に立ち、静かに賞を受け取った。その姿を、男は驚いたように三秒見つめた後、何事もなかったかのように周囲にうなずき、口を開いた。「ええ。彼女が、俺の妻です」 「妻?」 星乃は微笑みを浮かべながら、手にしていた離婚協議書を静かに差し出した。「すみません、悠真さん。もう前妻です」 普段は冷静で感情をあまり見せない男が、その時は目を赤くし、声を震わせて叫んだ。「前妻って……何言ってるんだ!俺は一度だって、そんなの認めたことはない!」
View More拓真は、結衣が何を考えているのか分からなかったが、それでも了承した。「そういえば、UMEの件ですけど、データの問題でかなり騒ぎになってるんです。どう対応するべきですか?」と拓真が尋ねた。彼自身も、どこかおかしいと感じていた。前日に千佳のパソコンから技術を手に入れたばかりなのに、翌日には盗作騒ぎが一気に広まり、しかも相手側の証拠提出は異様に早い。下書きや発想の流れまで細かく示されていて、明らかに周到に準備されていたものだった。こちらも大幅に手は加えているとはいえ、UMEはファン数が多く、世論への影響力も侮れない。きちんとした説明を出さなければ、この件は収まりがつかないだろう。少し考えてから、彼は探るように言った。「誰かに責任をかぶせるっていうことですか……?」結衣は唇の端をわずかに上げ、さっき千佳が去っていった方向へ視線を向けた。拓真もその視線を追うと、ちょうど千佳が泣きながら路肩のタクシーに乗り込む後ろ姿が見えた。「この件は冬川グループの体面に関わるわ。だから、身代わりにするのは絶対に冬川グループの人間じゃダメ。……言いたいこと、分かる?」結衣は、まるで当たり前のことでも話すかのように、落ち着いた口調で言った。拓真はその意味を理解し、体が一瞬こわばる。数秒後、彼はゆっくりとうなずき、目に決意を宿した。「分かりました」拓真が去ったあと、結衣は椅子の背にもたれ、彼の後ろ姿を見送りながら、ゆっくりとコーヒーをひと口飲んだ。そのとき、テーブルの上に置いていたスマートフォンが突然鳴り出した。結衣はちらりと画面を見た。そこに「悠真」の名前が表示されているのを見て、ぱっと表情が明るくなる。前に星乃のことで口論して以来、悠真から連絡が来ることはほとんどなかった。一緒にいても素っ気ない態度で、妊婦健診ですら花音に付き添わせていたほどだ。昨日、悠真が退院したことも、怜司から聞いて初めて知ったくらいだった。そんな中で、まさか悠真のほうから電話が来るとは思ってもいなかった。結衣の胸は高鳴る。慌ててコーヒーカップを脇に置き、気持ちを整えてから通話ボタンを押した。「今夜七時、冬川家の食事会だ。時間を空けて、一緒に来い」低く冷たい声が電話口から聞こえてきた。それを聞いた結衣は一瞬きょとんとし、次の瞬間、胸の奥から喜び
律人は小さくため息をついた。看護師は案の定、彼の言葉にすっかり押されてしまった。律人の身分が並大抵ではないことを知っている彼女は、慌てて口外しないと約束し、そのまま薬を差し出した。「この件は必ず秘密にします。でも、専門の有名な医師や専門家には必ず相談してくださいね」看護師が去ったあと、律人は遠くを見やった。目の前はぼんやりとかすみ、白い霧がかかったように見える。彼は目を閉じ、深く息を吐いた。「大丈夫だ」彼は小さくつぶやいた。……七日前。千佳はオフィスを泣きながら飛び出したあと、しばらくぼんやりしていた。智央の言葉が耳の奥で何度も繰り返される。「千佳、お前の能力は高く評価しているし、ここまで来るのも簡単じゃなかったはずだ。だからこそ、私的な事情で仕事を台無しにするような真似はしてほしくない。データ流出の件を包み隠さず正直に話せば、会社としても処分は軽くできる。だが、意地を張り続けるなら、機密漏洩なんて重大な問題だ。一度追及されればお前の将来は終わる。俺でも助けられない」智央でさえ、自分を信じてくれなかった。千佳は、事の重大さをようやく思い知る。頭の中はぐちゃぐちゃだった。ビルを出て家へ帰ろうとしたはずの足は、気づけば別の方向へ向かっていた。無意識のうちに冬川グループのビルの下へ足が向き、恋人の拓真に助けを求めようとしていたのだ。だが、ビル下のカフェに着いた瞬間、店内にいる拓真と結衣の姿が目に入った。拓真は指輪をひとつ取り出し、結衣の前へ差し出していた。その笑顔は、千佳が今まで一度も見たことがないほど晴れやかで、どこか媚びるようでもあった。ガラス越しでも完全には音を遮れず、二人の会話がかすかに聞こえてくる。「結衣さん、ご安心ください。UMEのデータ流出の件はすでに処理済みですし、あちらのデータ技術の核心も掴んでいます。うまく手を加えれば、問題は起きません。前に約束していただいた件、まだ有効ですよね?」拓真の視線は、まっすぐ結衣に注がれていた。彼の視線に気づいていながら、結衣はあえて避けなかった。ちらりと横に目をやり、すぐに戻して微笑む。「あなた、彼女がいるって聞いたけど?バレてもいいの?」その言葉を聞いた瞬間、拓真は「可能性がある」と確信し、胸の内が一気に高揚した。結衣が悠真の婚
何十階もの高い場所を歩いていて、突然足を踏み外したような感覚だった。星乃はびくっと体を震わせ、はっと目を覚ました。「悪い夢でも見た?」律人が、そばでくすっと笑いながら声をかけてきた。星乃は顔を上げて、ようやく自分がいつの間にか眠っていたことに気づいた。背筋を伸ばしてこめかみを軽く揉む。肩にかけられていた毛布がするりと落ちた。きっと律人が、起こさないように気を遣いながらも、冷えないようにそっと掛けてくれたのだろう。星乃は毛布を拾い上げ、時間を確認する。眠っていたのはせいぜい十数分。けれど不思議なことに、疲れは取れるどころか、むしろ余計に重くなった気がした。「少し休んだほうがいいよ」律人はベッドから降り、指先で彼女の肩を軽く揉んだ。「一週間以上ずっと残業続きだろ。どんなに丈夫でも、休まないと」星乃は首を横に振り、無理やり気合いを入れる。「大丈夫、さっきちょっと寝たし。もう全然元気」今回のプロジェクトはUMEの運命を左右する。気は抜けない。それに、皆が必死で働いているのに、自分だけ先にサボるなんてできるはずがない。星乃は振り返り、両手で律人の白くて柔らかな頬を軽くつまんで、にこっと笑った。「いい子にして先に遊んでて。お金稼げたら、お姉ちゃんが飴買ってあげるからね」彼女の瞳がきらきらと輝いている。律人は笑って、そのノリに合わせた。「じゃあ、ありがとうお姉ちゃん」「でも、飴よりお姉ちゃんのほうが好きだけどね」そう言いながら、視線を下へと落とし、星乃の唇に向ける。形のいい唇。ほんのり淡いピンクで、うっすらと艶があって、妙に色っぽい。その視線に気づいた星乃は意味を察し、顔が一気に赤くなった。「ちょっと、やめてよ」律人はくすっと笑い、何か言おうとしたその瞬間、目の奥に鋭い痛みが走り、笑みがわずかに固まった。まぶたがびくっと痙攣し、針で刺されるような痛みが広がる。星乃は照れていて彼を見ていなかったため、その異変に気づかなかった。「ねえ律人、好きなものとかある?私……」言い終わる前に、律人が口を開いた。「ちょっと外に出てくる。先に仕事してて」そう言い残すと、返事を待たずに病室を出ていった。本当は、彼の好きなものを聞いて、このプロジェクトが終わって配当が入ったら、サプライズでプレゼントしようと思ってい
黎央はぱっと目を輝かせた。「何でも聞いていいのか?」「うん」沙耶はうなずいた。何にせよ、今の黎央は自分と同じ側にいる。本当は最初、ひとりで瑞原市に戻るつもりだった。けれど黎央が心配して、どうしてもそばで守ると言い張るから、断りきれず一緒に来ることになった。ここまで来た以上、いくつかのことは彼にも知っておくべきだ。沙耶は、相手がどうしてあんな大げさに自分を追い詰めてくるのかとか、命に関わる危険があるのかとか、あるいは無事に逃げ切れるのかといったことを聞かれると思っていた。ところが黎央は少し間を置いて、どこか照れくさそうにこう聞いた。「圭吾さんって、沙耶さんの婚約者じゃなかったのか? なんであんなに避けてるんだ?」「婚約者?」沙耶は一瞬きょとんとした。「誰がそんなこと言ったの?」否定された途端、黎央の目がぱっと明るくなり、すぐに戸惑いが混じった。悠真が言っていたはずだ。沙耶の婚約者は圭吾だと。その名前は何度も頭の中で繰り返した。間違えるはずがない。しかも、沙耶の計画で圭吾のそばにいたときも、何度も確認していたし、圭吾自身も何度か沙耶の名前を口にしていた。けれど、沙耶の表情はとても嘘をついているようには見えない。「違うのか?」黎央は戸惑いながら聞いた。沙耶の目に、はっきりとした嫌悪が浮かぶ。「どうしてあの人が私の婚約者になるの? 私の婚約者は優しくて、思いやりがあって、それでいて芯の強い人だった。あの人は、私の婚約者を殺したの。私の仇よ」黎央は言葉を失った。沙耶の目の奥にある悲しみと、うっすらとにじむ涙が見えた。ずっと昔の、消えない痛みが掘り起こされたように。「……ごめん」黎央は小さく言った。沙耶は首を横に振る。そして、ふっと微笑んだ。「もう、終わったことだから」律人の言っていたことは正しいとわかっている。圭吾は警戒心が強い。たとえ近づけたとしても、紀弥の仇を討つことなんてできない。かつて閉じ込められていたあの頃、自分も何度か復讐を試みた。けれど、そのたびに失敗した。それだけじゃない。圭吾は、人を追い詰める方法を、まるで生まれつき知っているかのようだ。復讐に失敗するたび、自分にとって命のように大切なものが、少しずつ奪われていった。紀弥の部屋、紀弥の遺品、あのとき紀弥が助けた小犬……恵理
その後の二日間は、何事もなく穏やかに過ぎていった。UMEの新型ロボットの内部テストも順調で、たまに細かいデータの不具合はあったものの、すぐに修正された。仕事の合間も、星乃の胸の中には落ち着かない気持ちがくすぶっていた。何度か遥生と連絡を取り合ったが、結局のところ結果は同じだった――沙耶は、あの日海に出てからずっと消息を絶っているという。水野家では人を出して昼夜問わず捜索を続けていたが、手がかりは何ひとつ見つからず、最終的には捜索範囲を広げることになった。待つというのは、想像以上に苦しいことだった。星乃はスマホの通知音が鳴るたびに心臓が跳ね、眠っていても音がすれば飛び起き
UMEの発表会は午前中に開かれる予定だった。星乃が会場に着いたときには、すでに五つ星ホテルのロビーに人が溢れていた。ざわめく会場のあちこちで、今日の発表会についての噂や期待の声が飛び交い、報道陣はカメラを構えて機材の調整に追われている。人の多さに圧倒されて、星乃の胸の奥がきゅっと縮んだ。休憩室の隅に身を隠すようにして座り、呼吸を整えようとするが、息が浅く、こめかみがじんわり痛む。こんなに多くの視線を浴びたのは、母の葬儀のとき以来だった。あのときも、参列者たちは口では慰めの言葉をかけながら、背後ではひそひそと嘲るようにささやいていた。「運がいいわよね。お母さんの命ひとつで
彼は焦りで落ち着かず、部屋の中をぐるぐる回ったあと、何かを思いついたように星乃へ向かって言った。「弁護士を探して、冬川グループを訴える準備をしよう」「無駄です」星乃は静かに答えた。「冬川グループがこんなことを仕掛けてくるってことは、もうすべての準備を終えているはずです。今訴えても、こちらに得はありません。それに、冬川さんの瑞原市での影響力は誰もが知っています。逆に反撃される可能性のほうが高いです。そうなったら、UMEの立場はもっと厳しくなりますよ」智央は焦りのせいで冷静さを失っていたが、星乃の言葉を聞いてようやく我に返った。冬川グループのことは詳しく知らないが、海外にいた頃
星乃は子どもが大きくなるのを待ち、その存在で自分を繋ぎ止めようとしている。そう考えれば、これまでの数々の疑問や違和感もすべて筋が通った。「……わかった」電話を切ったあと、悠真の胸には複雑な感情が渦巻いていた。彼は星乃を好きではないし、彼女に自分の子を産んでほしいとも思っていなかった。だが、いざ星乃がお腹に自分の子を宿していると知った瞬間――悪くない、そう感じてしまった。……仕事を片づけた星乃は、化粧室で軽くメイクを直し、荷物をまとめて会社を出る。階段の踊り場に差しかかったところで、ちょうど上の階から降りてくる遥生と鉢合わせた。「今日はちょっと用事があって、一
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