LOGINもし――あなたと、あなたの夫がずっと心に秘めていた特別な女性が、同じ事故に遭ったとしたら。彼は、どちらを助けると思う? 冬川 悠真(ふゆかわ ゆうま)は、迷いなくその女性を抱き上げ、去っていった。命が、静かに消えていく音がした。お腹に宿った小さな命が途絶えていくのを感じながら、篠宮星乃(しのみや・ほしの)は、自分の心までもが崩れていくのを感じていた。 ――彼との結婚は、取引のようなものだった。それでも、星乃は心から望んでいた。最愛の彼と夫婦になることを。 だが、周囲はみな知っていた。その結婚は、悠真とあの女性の関係を引き裂いてまで手に入れたものだと。 それでも、彼の心がいつか自分に向く日が来ると信じていた。 けれど――三ヶ月育んできた命を、自らの手で土に還したそのとき、星乃はようやく目を覚ました。 「……離婚しましょう」 一枚の離婚協議書が、ふたりの縁を静かに切り離した。 あれから三ヶ月。揺れるドレスの裾と甘い香水のなかで、星乃は壇上に立ち、静かに賞を受け取った。その姿を、男は驚いたように三秒見つめた後、何事もなかったかのように周囲にうなずき、口を開いた。「ええ。彼女が、俺の妻です」 「妻?」 星乃は微笑みを浮かべながら、手にしていた離婚協議書を静かに差し出した。「すみません、悠真さん。もう前妻です」 普段は冷静で感情をあまり見せない男が、その時は目を赤くし、声を震わせて叫んだ。「前妻って……何言ってるんだ!俺は一度だって、そんなの認めたことはない!」
View Moreけれど、星乃は肩に掛けられた上着を外そうとはせず、軽く肩を寄せるようにして、律人との会話を続けた。少し大きめのメンズジャケットを羽織った姿は、それだけでいつもとは違う雰囲気を醸し出していた。少し離れたボックス席では、誠司が向かいに座る悠真をおそるおそる見ていた。先ほど星乃の姿を見かけてからというもの、悠真の機嫌は明らかに悪かった。しかも今、星乃が律人のジャケットを羽織っているのを見て、手にしたスプーンが曲がってしまいそうなほど強く握りしめている。「悠真様、だったら別の店に移りませんか……」誠司がおずおずと切り出した。誠司はネットの旅行ガイドを参考に、このレストランを選んだだけだった。それなのに、まさかこんなに偶然が重なるとは思わなかった。食事をしに来ただけで、星乃と鉢合わせするなんて。星乃一人なら、まだよかった。ところが律人まで一緒にいて、そのうえ二人は見るからに仲がよさそうだった。悠真は何も答えず、ただ視線を逸らした。複雑な表情を浮かべたまま、何を考えているのか分からない。「悠真様……?」誠司が探るように声をかける。悠真は顔を上げ、独り言のように呟いた。「前に一度、結衣が帰国したとき、クラブで帰国祝いのパーティーを開いたことがあったのを覚えてる……あの夜、星乃が俺に会いに来た。でも俺は、ただ鬱陶しいと思って、店の人間に外で足止めさせた。そのあと、あいつはクラブの前の花壇の縁に座って、一晩中俺を待ってた」あのときの星乃も、きっと今の自分と同じ気持ちだったのだろう。その話を聞いて、誠司はすぐには何も言えなかった。これまでの五年間、似たようなことがあまりにも多かったからだ。実は、ずっと口にできずにいたことがある。悠真がどれだけ星乃を追いかけたとしても、おそらくもう、星乃が振り向くことはない。誠司には、そんな気がしてならなかった。食事を終えると、星乃は律人と一緒に近くの市場を見て回り、遥生や遥香たちに現地のお土産をいくつか買った。それを済ませてから、二人はようやくホテルへ戻った。その後の二日間も、星乃と律人は近くの観光スポットをいくつか巡り、二人でたくさんの写真を撮った。その中で何度か、星乃は人混みの中に悠真の姿を見つけた。けれど、もう一度よく見ようとしたときには、悠真がいたはずの場所には誰もいな
星乃が目を覚ましたときには、もう午後になっていた。空はどんよりと曇り、窓の外から差し込む光も、どこか薄暗く、黄みがかっている。寝室には彼女一人しかいなかった。星乃は時間を確認し、もう夕方が近いことに気づくと、慌ててベッドから飛び起きた。まず洗面所へ行って身支度を整え、寝室を出ると、リビングのソファに律人が仰向けになっていた。目を閉じているが、眠っているのかどうかは分からない。星乃は小さなブランケットを一枚持ってくると、そっと近づき、彼に掛けてやった。立ち上がろうとしたそのとき、律人が手を伸ばして彼女の手首をつかみ、少し力を込めた。不意を突かれた星乃はよろめき、そのまま彼の上に倒れ込んだ。驚いて起き上がろうとしたが、律人に腰を抱き寄せられ、そのまましっかりと腕の中に閉じ込められる。「ちょっとお腹空いたな。今は我慢するしかないし、もう少しこのままでいさせて」律人は小さく笑った。星乃は少し困ったような顔をしたが、それ以上動こうとはせず、顔を上げて彼を見つめた。目覚めたばかりだからだろうか、律人の瞳は少し潤んでいて、照明に照らされると、きれいな光を帯びていた。この顔は、本当に欠点のつけようがないほど整っている。「外に食べに行く?」星乃が言った。一日ほとんど何も食べていないので、彼女も少しお腹が空いていた。律人は頷いた。。「この辺、美味しい店が何軒かある。たぶん君の好みに合うと思う」「じゃあ、着替えてくる」そう言って、星乃は立ち上がって寝室へ戻り、黒いキャミソールワンピースに着替えた。少し考えてから、薄手のショールも羽織った。「ショールはないほうが似合う」律人はドア枠に軽く寄りかかりながら、そう勧めた。星乃は眉を上げた。「本当に?」「うん」律人は笑って頷いた。星乃は肌がとても白く、黒いキャミソールワンピースがその白さをいっそう際立たせていた。清楚な顔立ちに、どこか色っぽさを感じさせる雰囲気も相まって、思わず目を奪われるほど綺麗だ。まるで完成された芸術作品のようだった。ショールを羽織ってしまうと、かえって少し地味に見えてしまう。「こんな格好で出かけて、他の人に見られても、嫉妬しないの?」星乃は探るように尋ねた。律人は笑うと、彼女の前まで歩み寄り、身をかがめて首筋にキスをした。そして離れた
星乃は、気のせいかもしれないと思いながらも、律人の顔色が以前より少し青白くなっているように感じていた。 以前、怪我をしてからというもの、律人はずっと体調があまりよくない。それでも今日は、いつにも増して儚げに見えた。 「どうした?ずっと僕のこと見てるけど」律人は星乃の頭をくしゃっと撫でて、笑った。「僕ってそんなにかっこいい?」星乃は頷いた。「芸能界に入らないなんて、本当に芸能界にとって大きな損失だよ」律人はその言葉に、小さく笑った。星乃は少し探るように尋ねる。「最近、体調はどう?」律人は一瞬黙ると、星乃のほうへ身を寄せた。そして彼女の顎をそっと持ち上げ、唇を耳元へ近づけると、二人にしか聞こえない声で囁いた。「だったら、今夜、君が自分で確かめてみる?」星乃「……」ところがその夜、確かめるどころではなかった。星乃は生理が来ていることに気づいたのだ。律人はいたって平然としていた。前回の経験もあって、今回は手慣れた様子で体を温める滋養スープを作った。相変わらず、何十種類もの高級食材をこれでもかというほど鍋に詰め込んでいた。星乃はそれを飲み終えてから、一晩中ほとんど眠れなかった。明け方になってようやく、ふらふらしながら眠りについた。律人はもともと星乃を連れて買い物に出かけるつもりだったが、彼女があまりにも眠そうだったので起こさなかった。そのまま隣に横になって本を一冊手に取り、静かに読み始めた。午後になると、美琴から電話がかかってきた。律人はそっと部屋を出て電話に出ると、すぐに美琴が尋ねてきた。「星乃と悠真、どういうこと?」律人には何のことか分からなかったが、美琴から送られてきたニュース記事を見て、ようやく事情を理解した。パパラッチが飛行機の中や空港で撮った星乃と悠真の写真を、ある芸能メディアが都合よく切り取り、二人が復縁するのではないかと憶測を広めていたのだ。「今、瑞原市ではその話でもちきりよ。もし星乃にその気があるなら、あなたは何なの?」美琴は思わず言った。彼女だって、こういうニュースが根も葉もない噂を大げさに取り上げているだけだということくらい分かっていた。それでも、星乃と悠真があんなふうに人目も気にせず堂々と一緒にいるのを見て、少し腹が立った。あの頃、律人は星乃のために命まで落としかけたとい
空港のロビー。誠司は電話を終えると、メモ用紙に数行書き留め、それを悠真に差し出した。「悠真様、これが律人さんの今の住所です」そう言って、少し離れたところにいる星乃へ目を向けた。誠司の胸中は、何とも言えないほど複雑だった。誠司だけではない。悠真自身も、ふとした瞬間、自分はどうかしていると思った。自分が、元妻の今の恋人の住所を教えようとしてる?だが、さっき飛行機の中であの女性に言われたことを思い出し、悠真はもう一度深く息を吐いた。自分はおかしくなったのかもしれないという考えを、無理やり胸の奥へ押し込める。昔、星乃はあれほど長い間、自分を追いかけてきた。それを思えば、これは自分が負っていたものなのかもしれない。想いが届かないことが、こんなにも苦しいものだったなんて。悠真は目を閉じ、星乃のもとへ歩いていった。その頃、星乃は目を伏せたまま、律人に送るメッセージを打っていた。すると突然、目の前に影が差した。反射的に顔を上げると、そこにいた人物を見て、星乃は一瞬ぽかんとした。「どうしてここにいるの?」星乃はすぐには状況を飲み込めなかった。さっきまで連絡がつかなかった相手が、今、自分の目の前に立っている。白いコートをさらりと着こなし、上品な雰囲気を漂わせている。律人は薄く笑い、星乃の頭を優しく撫でた。「君がここにいる夢を見たんだ。それで、空港に来てみた。まさか、本当に会えるとは思わなかったよ」律人は眉を上げると、二歩ほど後ろへ下がった。そして両腕を広げ、まだ状況を飲み込めていない星乃に向かって言った。「こんなに久しぶりに会えたのに、抱きしめてくれないの?」星乃は数秒固まっていたが、ようやく我に返った。そして早足で彼のもとへ駆け寄り、ぎゅっと抱きついた。律人はそんな星乃を抱き上げ、その場で二度ほどくるりと回った。星乃を床に下ろすと、律人はその頬をつまみ、冗談めかして言った。「痩せたな。そんなに僕に会いたかったなら、こっちの用事を早く片づけて帰って、君と一緒に過ごすよ」星乃は、その言葉が本気なのか冗談なのか分からなかった。慌てて首を横に振る。「急がなくていいよ。ゆっくりで大丈夫。ちょうどこの二日間は休みだから」「あ、そうだ。ジジ、また大きくなったよ。もう三キロ近くあるの。子猫って、あんなにたくさん食
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