LOGIN「必要ないよ」理沙は自分の指先をいじりながら答えた。柚香の目に疑問が浮かぶ。理沙は何でもないことのように言った。「たぶん、中に花粉が混ざった化粧品が入ってる」柚香は少し考えてから尋ねた。「花粉アレルギーなの?」理沙は頷いた。「うん」このことを知っているのは、池田家の人間だけだ。海斗と静香が知ったのも、家の使用人が二人が花束を抱えて帰ってきたのを見て、それを教えたからだった。「こういうこと、今回が初めてじゃないから」理沙は何でもないように言った。「好きにやらせておけばいいよ。何度も繰り返してれば、父だって、あの二人がどうしようもないって分かるから」「あなたが分かってるなら、よかった」柚香は少しだけ安心した。「大丈夫。あの二人じゃ何もできないから」理沙は、最初から二人を敵だと思ったことすらなかった。柚香は頷いた。その次の瞬間、何かを思いついたように、疑うような目で理沙を見る。理沙は腕を組み、いたって平然としていた。「どうしたの?」「これ、最初から分かってたんじゃない?」柚香は思った。この話を聞いてから今まで、理沙はずっと落ち着いていた。驚いた様子も、一瞬たりとも見せていない。大胆な推測だったが、そうとしか思えなかった。理沙の瞳に笑みが浮かぶ。「どう思う?」柚香は、自分が余計な心配をしていたような気がしてきた。考えてみれば、理沙だって蒼海市で生まれ育った池田家のお嬢様だ。どうして、よそ者の二人に簡単にしてやられるだろう。「少しくらい隙を与えてあげないと、どうやって失敗させるの?」理沙の口元に、自信に満ちた笑みが浮かんだ。「失敗させなきゃ、父にあの二人はもう見込みがないって思わせられないでしょ」「じゃあ、私はこれで」柚香はきっぱりと言った。この瞬間、柚香はふと、遥真が言っていたことの意味を実感した。神崎家が自分に課している試練は、公平じゃない。理沙は池田家のお嬢様だ。たとえ直樹の計画では、将来、家のために政略結婚をすることになっていたとしても、理沙は幼い頃からずっと家族の中で育ち、家というものの仕組みを身近で見ながら、そうした環境の中で教育されてきた。一方、海斗と静香は違う。二人はただの一般人だ。たまたま運よくこの世界に入り込めたとしても、知識も、人脈も、さらには物事の考
柚香は、あの夜に会った朔也のことを思い出した。ほんの数分間話しただけだったが、言葉の端々から、明るく気さくな性格だということは伝わってきた。「怒るなら、さっさと怒って」理沙はドレッサーの前にある椅子に腰を下ろし、顔を上げて柚香を見る。「怒り終わったら、時間を作って一度うちに来て」「面倒だから、相手にしたくない」柚香は素っ気なく返した。「じゃあ、もう怒り終わったってことで」理沙はそう言って、にやっと笑った。柚香はそれ以上何も言わなかった。理沙に対して、いい印象を持っているのは確かだった。これまで話しているときも、いつもふざけた調子だったり、わざと自分をからかったりしていたが、不思議と嫌な感じはしなかった。「今週はちょっと忙しいから、来週以降なら好きな日に決めていいよ」隣の市から持ち帰った第二期プロジェクトの資料を、まだ会社に持っていっていないことを思い出し、柚香は自分からそう言った。理沙は相変わらず調子が軽い。「そんなに私のこと好きなの?」柚香「……」理沙は片手で頬杖をついた。「利用されたのに、それでも私を助けてくれるんだ?」「理沙さんが美人で、口も上手くて、人をその気にさせるのが得意だからでしょ」柚香は理沙の真似をして言った。「私、意志が弱いから。しつこく迫られたら、断れないんだよね」理沙は笑った。その瞬間、自分がどうして柚香と友達になりたいと思ったのか、なんとなく分かった。さっきだって、本当なら「これ以上ふざけてたら、もう手を貸さないから。湊人と結婚することになるわよ」くらい言ってもよかった。でも柚香は言わなかった。その話には一度も触れなかった。こんなに誠実で、優しくて、純粋な心を持った人。好きになるなというほうが難しい。「そんなに熱い目で見ないでよ」理沙の視線を受けて、柚香は少し居心地が悪くなり、軽く咳払いをした。「私、普通に男の人が好きだから」「本当に?」理沙はゆっくり立ち上がり、身をかがめて柚香に近づいた。柚香は動じない。「本当」理沙の白く滑らかな指先が、柚香の頬に触れた。指の腹がゆっくりと下へ滑っていく。その声は、花の香りのように甘く柔らかかった。「本当に普通なら、どうして私にしつこく迫られたら断れないの?」「……」柚香は全身に鳥肌が立つのを感じた。「あなたがそ
「これから一年間の生活費は、自分たちで払え」直樹が口を開いた。その目には厳しさしかなかった。「理沙のドレス代を弁償したら、その時点でこれまでと同じ待遇に戻す」「お父さん!」海斗はその決定に不満をあらわにした。直樹が一瞥する。それだけで、海斗はすぐに大人しくなった。「あとでドレスを何着か追加で用意させる。万が一に備えておけ」直樹は理沙にそう言ってから、柚香へ目を向けた。「今夜は助かった。ありがとう」「余計なことをしたと思われていなければ、それで十分です」柚香は礼儀正しく答えた。「理沙のために危ないところを事前に見つけてくれたんだ。こちらこそ感謝している。どうして責めたりするものか」直樹は感情をほとんど見せず、社交辞令のように続けた。「時間があるときは、理沙と一緒に家に遊びに来なさい」「お時間があるときに、ぜひ伺わせていただきます」柚香も同じように当たり障りのない返事をした。直樹は軽く頷くと、佳代を連れてその場を去っていった。その瞬間、そこには柚香たちだけが残った。「まだ帰らないの?人を呼んで下まで連れていかせようか?」理沙は海斗と静香に目を向けた。口調はいたって穏やかだったが、どこか有無を言わせないものがあった。海斗は柚香を思いきり睨みつけると、静香を連れて出ていった。柚香と理沙には話があるだろうと、慎吾と康平もその場を離れた。しばらくして、そこには柚香と理沙の二人だけが残った。さっきのことを思い返しながら、柚香はドレッサーにもたれ、ドレスの前に立つ理沙を見た。そして、疑問を口にする。「この件、本当にこれで終わり?」「うん」理沙は頷いた。柚香はほんのわずかに眉を寄せた。誕生日パーティーを台無しにしようとして、十着以上ものドレスを切り刻んだのに、これから一年間の生活費を自分たちで払うだけ。謝罪の一言すらない。「うちって、昔からこうなの」理沙は、もうどうにもならないほど傷んだドレスを見て、それ以上気にすることもなかった。「父は、海斗や静香が私にこんなことをしたこと自体を問題だとは思ってない。ただ、やり方が下手だと思ってるだけ」「……?」柚香は呆気に取られた。理沙はごく自然な口調で続ける。「父は、私たち四人が家の中で争うこと自体は許してるの。誰かが死ぬようなことにならなければ、取り返しの
「お父さん、絶対にこいつの言うことを信じちゃダメだ!」海斗がすぐさま口を挟んだ。いかにも筋が通っているような口調だった。「お姉ちゃんの誕生日パーティーをめちゃくちゃにしたくて、わざとこんなことをしたんだ」直樹は険しい顔のまま尋ねた。「どういう意味だ?」「今夜はお姉ちゃんの誕生日パーティーだよ。もしここに警察が来たら、下にいる人たちは何があったのか気にするに決まってる」ずっと黙っていた静香が口を挟んだ。「そうなったら、変な噂が立つかもしれない」「それだけじゃない」海斗も続けた。「お姉ちゃんの誕生日パーティーだって台無しになる。柚香は、お姉ちゃんの誕生日を蒼海市中の噂話にしたいんだよ」二人は交互に言葉を重ねた。まるで、さっきまで話していたことがすべて本当であるかのように。「私は別に構わないけど」理沙は柚香の隣に立ったまま、気だるそうに髪を軽くかき上げた。「警察を呼んで」「お姉ちゃん、本当にそれでいいの?」海斗は拳を強く握りしめた。冷や汗が滲んでいる。「警察が来たら、お姉ちゃんの誕生日パーティーのことを、蒼海市のほかのお嬢様たちの間で、必ず噂になるよ」理沙は淡々と答えた。「別にいいよ」海斗は歯を食いしばった。静香はしばらく考えたあと、心配そうな顔で直樹に言った。「これはお姉ちゃん一人の問題じゃない。池田家全体にも関わることだ」「誰に関係する話だろうと、警察には届けるべきよ」佳代は二人の様子を見て、柚香の言った通りだと分かった。「ここにあるドレスだけでも、全部合わせれば二億円以上の価値があるのよ。こんなふうにうやむやにしていい話じゃないわ」「じゃあ、パーティーが終わってから警察に届ければいい」海斗は折衷案を出した。「それまでは誰もここに入れないように見張っておけばいい。警察が来るまで、この部屋には誰も入らせない」そう言って、海斗は何食わぬ顔で柚香を見た。そして、一言ずつ区切るように言った。「特に、柚香の人間はな」「そんな面倒なことをする必要ないよ」柚香が一歩前に出た。その場にいた全員の視線が柚香に集まる。柚香はスマホのアルバムを開き、直近の動画を選んで理沙に見せた。「動画を撮ってたの。海斗と静香がドレスを切ってるところ、最初からはっきり映ってるよ」海斗の顔から、一気に血の気が引いた。静香も、動揺
「どうしたの?」理沙は何事もなかったような顔で、柚香のところへ歩いてきた。「海斗と静香がハサミで予備のドレスを切り刻んで、それだけじゃなく、持ってきた化粧品であなたのものを入れ替えようとしてた」柚香は二階で起きたことをすべて話した。「いくらになるか、見積もってもらって」理沙は頷いた。「分かった」そう言って、両親を見る。「二人も見に行く?パーティーが始まるまで、まだ一時間くらいあるけど」直樹は何も言わずに立ち上がり、理沙と一緒に向かった。海斗と静香が何をしようとしていたのか、直樹はさほど気にしていなかった。彼が知りたかったのは、理沙と柚香が本当に友人なのかどうかだった。もし本当に友人なら、湊人との結婚話を少し先延ばしにすることもできる。そんな父親の考えを、理沙はすべて分かっていた。柚香と並んで前を歩きながら、さっきのことを思い出して、小声で尋ねる。「外で、いつから盗み聞きしてたの?」「堂々と数分ほど聞いてた」柚香は平然と答えた。理沙の目に、納得したような色が浮かぶ。「それで、どう思った?」「あなたの言う通りだと思う」理沙「ん?」柚香は理沙に目を向けた。声を落とし、二人にしか聞こえないように言った。「さっき両親に話してたこと。あれ、あなたの言う通りだと思う」「私があなたを利用してるって、気にしないの?」理沙は、柚香があの話を聞いていたと知ってから、少し複雑な気持ちになっていた。利用するつもりだと事前に話していたとはいえ、実際に聞かれたとなると、嫌な思いをさせていないか気になってしまう。誰だって、利用されるのは好きじゃない。まして、自分のことをそんなふうに話されるのは、いい気分がするものではない。「電話でも言ったでしょ?」柚香は逆に問い返した。理沙は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。そして、無意識にもう一度柚香を見た。見た目はどこか可憐で、守ってあげたくなるような雰囲気がある。けれど、その佇まいにも瞳にも、芯の強さが滲んでいた。誠実で、裏表のない人だ。「何笑ってるの?」柚香は、さっきまでとは違う目で見られていることに気づいた。まるで恋に落ちた相手を見るような視線だった。「初めて会ったときの、あなたのぽかんとした顔を思い出したの」理沙はわざとからかうように言った。「……」柚香
「池田家の人間なら、誰だって家のために利益を生み出さなきゃならない」直樹は険しい顔のまま、その考えを少しも変えなかった。「たとえ君のお兄さんだって、将来結婚するときは釣り合いの取れた相手を選ばなきゃならない」理沙の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。直樹が彼女を見る。「何がおかしい?」「お父さんがひいきしてるなって思って」理沙はわざと、かなり率直な言い方をした。「お兄ちゃんは釣り合いの取れた相手と結婚すればいいのに、私はあなたたちの決めた相手と結婚しなきゃいけない。まるで私じゃ、釣り合いの取れる相手を見つけられないみたいじゃない?」直樹は何も言わなかった。けれど、理沙には分かっていた。蒼海市の若手で名の知れた男性といえば、蓮司とその兄、それから湊人と藤堂家の三男くらいしかいない。藤堂家の三男は警察官として働いていて、曲がったことを嫌う真っ直ぐな性格だ。商売人である父にとっては、そういう相手は好ましくない。だから自然と候補から外され、残ったのが湊人だった。「理沙」佳代がなんとか説得しようとする。「お父さんが利益を大事にしてることくらい分かってる」理沙は相変わらず気のない口調で、父との話を続けた。「でも、もしどうしても私と湊人を結婚させたいっていうなら、その先にあるもっと大きな利益は、お父さんには関係なくなるよ」直樹は探るような目で理沙を見た。佳代は意味が分からず、理沙を見つめている。何かに思い当たったように、佳代は探るように尋ねた。「……柚香のこと?」理沙は頷いたが、それ以上は何も言わなかった。「柚香が来てるのか?」直樹の目に、驚きが浮かんだ。「来てるだけじゃなくて、理沙にプレゼントまで持ってきてくれたのよ」佳代は先ほどの出来事を説明した。「いつの間に、そんなに柚香と仲良くなったの?私たちは何も知らなかったわ」「朔也が友達を作るのはいいのに、私が友達を作るのはダメなの?」理沙は逆に問い返した。直樹も佳代も、思わず言葉を失った。まさか、そんなことを言われるとは思っていなかったのだ。「柚香の立場くらい、お父さんたちも分かってるでしょ。これから神崎グループの大株主になる人なんだから」理沙はもう、遠回しな言い方をやめてはっきり話した。「黒崎家だって、たとえ株を全部譲ることはなくても、昭彦社長があれだけ柚香