LOGIN結婚して五年。橘川柚香(きっかわ ゆずか)は、まさか夫から、ほかの女性と夫を「共有する」ようなことを要求されるとは、夢にも思わなかった。 彼は言った。「彼女は俺にとって大事な人なんだ。彼女の存在を受け入れてほしい」 そしてさらに言葉を重ねた。「承知してくれたら、君はずっと俺の妻だ。誰にもその立場は奪わせない」 久瀬遥真(くぜ はるま)と出会ったのは、柚香が人生のどん底にいた頃だった。 彼はそんな彼女と結婚し、甘やかし、惜しみなく愛情を注いでくれた。 だから柚香はずっと、彼が誰よりも自分を愛してくれていると思っていた。 けれど今になって、ようやくわかった。 自分は、滑稽なほどの勘違いをしていただけだ。 …… 遥真は、自分がこれまで手塩にかけて育てた、か弱い小鳥のような妻が、自ら離婚を切り出すなんて思わなかった。だが、彼は止めようとはしなかった。それを一時の気まぐれだと受け流したのだ。外の世界で苦労すれば、どうせ自分のもとに戻ってくると信じていたのだ。 けれど柚香は、名前は柔らかい響きだが、心の芯は強く、頑なだった。 どれだけつらい思いをしても、決して振り返ることはなかった。 彼は思わず問いかけた。「一度くらい、素直になれないのか?」 その後。 柚香は、たしかに一度だけ「素直」になった。 けれどその一度を境に、彼女は遥真の世界から、跡形もなく消えてしまった。 それ以来、恐れというものを知らなかった遥真が、初めて「恐怖」という感情を覚えた。 …… そして時は流れた。 柚香は別の男の腕に手を絡め、遥真の前に姿を現した。 真っ赤な目で彼女を見つめながら、遥真はドアの後ろに彼女を追い詰めた。会いたくて、気が狂いそうだった。 「柚香……君って、ほんとに冷たい女だな」
View More安江は陽翔の頭を優しく撫でた。「うん、わかったよ」昭彦にもひと言伝えておこうと思ったが、気づけばもう姿がなかった。代わりにスマホにメッセージが届いている。【やっぱり遥真のやつ、どうにも下心がある気がする。ちょっと様子を見てくる】安江「……」安江は特に止めなかった。もし本当に邪魔されたら困る状況なら、遥真が自分でどうにかするだろう。昭彦は探し回りながら電話もかけていたが、柚香にも遥真にも連絡がつながらず、ますます遥真への疑いを強めていた。そして健太と恭介が門番のように立っているのを見て、自分の予感が当たっていると確信した。「柚香を見なかったか?」二人に尋ねる。健太は即答した。「見てません」「上にいます」恭介は淡々と答えた。健太「???」健太は信じられないという顔で恭介を見た。恭介も同じような目で見返す。「なんで教えるんだよ」健太は昭彦が押しかけて邪魔をしないか心配だったが、昭彦の立場を考えると強く止めることもできない。「社長と柚香さんは仕事の話をしてるんです。邪魔しないほうが……」「上のどこだ?」昭彦は遮るように聞いた。「上の更衣室です」恭介は真面目な口調で答えた。「ですが、今はお話中です。何かご用件があれば私からお伝えします」更衣室?昭彦はもう落ち着いていられなかった。二人をすり抜け、そのままエレベーターへ向かう。元恋人と娘が二人きりで更衣室にいるなんて、一体何をしているんだ。「昭彦社長」恭介が止めようとする。「俺も遥真さんと仕事の話があるんだ」昭彦はエレベーターが来るとすぐ乗り込み、ドアを閉める。ついて来るなと言わんばかりだった。「君たちはそこで待っていてくれ」恭介と健太は顔を見合わせ、別のエレベーターで後を追った。階数ボタンを押したあと、健太が少し不満げに言う。「前は人を止めるの得意だったじゃないか」「この人は将来、社長の義父になるかもしれない相手だ。他の人とは立場が違うよ」恭介は状況を冷静に見ていた。「強引なやり方はできない」「でも社長と柚香さんの邪魔をしたらどうするんだよ!」健太は焦った。「社長なら自分で対処できる」恭介は落ち着いて答える。しかし健太はさらに焦った。こんな短時間で社長が出てきてしまったら、自分と時也のほうが先に始末されかねない。
その言葉は、鋭い両刃のナイフのように遥真の胸を刺すと同時に、柚香の胸も深く傷つけた。二人はずっと互いを信頼し、理解し合ってきた。けれど、この瞬間……固く結ばれていた関係に、ひびが入った。「私はね、あのことが起こるまでは、自分は本当に幸せだって思ってたの」柚香の言葉はすべて本心だった。「あなたは他人には用心深くて、いろいろ先を読んで動く人だったけど、私には本当に優しかった。だから、そういう策略や駆け引きを私に向けるなんて思ったこともなかった」「向けたことはある」「え?何?」「君と再会してからずっとだよ。大人になって初めて君に会った時から、どうやって君をうちに連れて帰るか考えてた」「それは違うよ」柚香はきちんと区別していた。「私が言ってるのは、傷ついたことについて」遥真は答えた。「それもある」「……え?」いつのこと?「付き合う前、君を好きになった人が何人かいた。でも目障りだったから、恭介に頼んで少し忙しくなってもらった」遥真は、自分がしてきた見苦しいことも隠さず口にした。「君が彼らを選ぶ機会を、俺が奪った」人を愛するなら選択肢を与えるべきだと言う。その人自身に最善だと思う相手を選ばせるべきだと。けれど彼は違った。最初から自分で選んでしまったのだ。「知ってたよ」柚香は、それが二人の暗黙の了解だと思っていた。今度は遥真の方が驚いた。柚香は当時のことをすべて話した。「そんな機会、私には必要なかった。最初から、私の中では一番いい選択をしてたから」「柚香……」遥真の胸は締めつけられながらも温かくなり、その痛みとぬくもりが何度も押し寄せた。「私は過去を後悔してないよ」柚香がそう言えば言うほど、遥真の心はさらにばらばらになっていく。「今も新しい選択を貫こうとしてる。私はずっと、自分で選んだ道を歩いてきたから」その言葉を聞いて。遥真には分かっていた。彼女は、自分に手放せと言っているのだ。自分がしてきたことによって、彼女は恐れるようになってしまった。「だからあなたも、新しい道を歩いてほしい」柚香は話題を彼へ向けた。「自分に恥じることがなければ、約束なんてそこまで縛られる必要はないと思う」遥真は答えなかった。二人の間には重苦しく張り詰めた空気が流れていた。しばらくしてから、遥真がようやく
「この先を左、もう一度左、それから右」恭介はこの施設の見取り図を頭に入れていたため、各場所の位置も把握していた。「俺は先に行ってくる。恭介さんはあっちで社長を待ってて」健太は体調が悪そうな顔で走り出した。非常階段を見つけると急いで二階へ上がり、ポケットに入れていた紙切れを更衣室へ押し込んだ。遥真に気づいてもらえないと困ると思い、わざわざドアを二回ノックする。遥真が紙を手に取った頃には、もう健太の姿はなかった。【柚香さん、社長、ご安心ください。お坊ちゃまにはこちらで適切に説明しますので、心配させることはありません】遥真は紙切れの内容を確認すると、それを握りつぶしながら柚香に言った。「座って休んでて、俺がドアを開ける方法を考える」もし柚香が彼を心から信頼していなかったら、今日の一件はどれだけ理由や証人があったとしても、彼の疑いを晴らすことはできなかっただろう。ドアが閉まったタイミングも、電波の届かない部屋も、この紙切れも……どれも彼が仕組んだ計画にしか見えない。「大丈夫」柚香は彼らの狙いを理解していたし、わざわざ大騒ぎする気もなかった。「そのうち誰かが開けに来るから」「向こうが来るのを待ったら、一時間以上はかかると思う」遥真は言った。「そんなに待たなくていいよ」「え?」柚香は床まで届く窓の向こうの芝生を見ながら、静かに口を開いた。「昭彦社長が真っ先に探しに来るはずだから」認めたくはなかったけれど、自分と遥真が一緒に姿を消したとなれば、昭彦は間違いなく最初に探しに来る人だ。一つは、遥真が娘につきまとうのを嫌がっているから。もう一つは、娘である自分を心配しているから。「確かに」遥真も納得した。「本当に君のことを大事に思ってるんだな」柚香は小さくうなずいた。そのまま立ち続けるのも気が進まず、適当な場所を見つけて腰を下ろした。二人の間に重たい沈黙が流れ、五分ほどが過ぎた頃。遥真が彼女の向かいに座った。「柚香」柚香は顔を上げる。「君から見て、俺ってすごく失敗した人間なのかな」遥真はそう尋ねた。二人の間にまだどんな問題が残っているのか。自分には何を改める必要があるのか。それを知りたかった。以前は玲奈の存在が原因だった。だが玲奈はすでに二人の間から完全に消え、これから先も同じことは起こ
「大丈夫か?」遥真は大股で近づいてきた。その目には隠しきれない心配が浮かんでいる。柚香は気に入ったコートを選んでいる最中で、きょとんとした顔をした。「え?」「時也から、承輝が君の後をつけて来たって聞いたんだ」遥真は誤解されたくなくて説明する。「君に危害を加えるようなことをするんじゃないかと思って」「?」柚香は首を傾げた。承輝なら、もう帰ったんじゃなかった?そう言おうとしたその時、突然、外のドアが閉められた。バタン!かなり大きな音が響く。遥真はわずかに眉をひそめ、ドアノブを引いた。「ドアを閉めたの、健太だ」外を横切った人影が一瞬見えただけだったが、柚香にははっきり分かった。遥真はドアノブを握ったまま動きを止める。そして、どこか複雑な感情を含んだ目で彼女を見た。弁解したかった。だが、柚香が信じてくれるか分からなかった。「あなたとは関係ないって分かってる」柚香は彼のことをよく知っている。こんな小細工をする人ではない。「たぶん、私たちを仲直りさせようとしてるんでしょ。少し強引な手を使っただけ」「じゃあ、君はそれを望んでる?」遥真はその流れに乗って聞いた。柚香は一瞬も迷わなかった。「望んでない」遥真は彼女を見つめたまま聞く。「本当に少しも?」「少しも」遥真は最初からその答えだと分かっていた。それでも本人の口から聞くと、胸の内はやはり複雑だった。柚香は部屋の照明の下で、さっきと似た色のコートを選んで着替える。感情の揺れはまるでなく、驚くほど落ち着いていた。「電話してドアを開けてもらって。陽翔が待ちくたびれて心配するから」「分かった」遥真はうなずいた。だがスマホを取り出してみると、電波が入っていない。彼がためらっているのを見て、柚香が尋ねた。「どうしたの?」「たぶん、あいつらが前もって細工してたんだろう」遥真の表情が少し険しくなる。時也が一度にこんなところまで頭を回すとは思わなかった。「電波がない」柚香も自分のスマホを確認した。やはり電波がない。その頃、部屋の外では、健太は自分の仕掛けた作戦に大満足していた。ちょうど時也に電話して戦果報告をしようとしていたところへ、恭介がこちらへやって来るのが見えた。邪魔されないよう、慌てて近寄る。「社長と柚香さんを
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