手遅れの愛、妻と子を失った社長

手遅れの愛、妻と子を失った社長

By:  結奈々Updated just now
Language: Japanese
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結婚して五年。橘川柚香(きっかわ ゆずか)は、まさか夫から、ほかの女性と夫を「共有する」ようなことを要求されるとは、夢にも思わなかった。 彼は言った。「彼女は俺にとって大事な人なんだ。彼女の存在を受け入れてほしい」 そしてさらに言葉を重ねた。「承知してくれたら、君はずっと俺の妻だ。誰にもその立場は奪わせない」 久瀬遥真(くぜ はるま)と出会ったのは、柚香が人生のどん底にいた頃だった。 彼はそんな彼女と結婚し、甘やかし、惜しみなく愛情を注いでくれた。 だから柚香はずっと、彼が誰よりも自分を愛してくれていると思っていた。 けれど今になって、ようやくわかった。 自分は、滑稽なほどの勘違いをしていただけだ。 …… 遥真は、自分がこれまで手塩にかけて育てた、か弱い小鳥のような妻が、自ら離婚を切り出すなんて思わなかった。だが、彼は止めようとはしなかった。それを一時の気まぐれだと受け流したのだ。外の世界で苦労すれば、どうせ自分のもとに戻ってくると信じていたのだ。 けれど柚香は、名前は柔らかい響きだが、心の芯は強く、頑なだった。 どれだけつらい思いをしても、決して振り返ることはなかった。 彼は思わず問いかけた。「一度くらい、素直になれないのか?」 その後。 柚香は、たしかに一度だけ「素直」になった。 けれどその一度を境に、彼女は遥真の世界から、跡形もなく消えてしまった。 それ以来、恐れというものを知らなかった遥真が、初めて「恐怖」という感情を覚えた。 …… そして時は流れた。 柚香は別の男の腕に手を絡め、遥真の前に姿を現した。 真っ赤な目で彼女を見つめながら、遥真はドアの後ろに彼女を追い詰めた。会いたくて、気が狂いそうだった。 「柚香……君って、ほんとに冷たい女だな」

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Chapter 1

第1話

柚香にはわからなかった。男はみんな、家の中では本妻を手放さず、外では別の女に手を出したいものなのだろうか。

けれど、そんな無茶を押し付けられても、絶対に受け入れられない。

京原市の誰もが知っている。

落ちぶれた元お嬢様・橘川柚香(きっかわ ゆずか)は、久瀬家の次男・久瀬遥真(くぜ はるま)から、誰もが羨むほどの愛情を注がれていると。

彼女が欲しいと言えば、彼は必ずそれを与えた。

気に入ったものがあれば、彼はためらいもなく差し出した。

家の中にはブランド物の限定品があふれ、ジュエリーもバッグも時計も、壁一面を埋め尽くしている。

ガレージには高級車がずらりと並び、どれを見ても目が回るほどだ。

パーティーではいつも彼がそばにいて、どこへ行くにも彼女の手をつないで離さなかった。まるで、彼女が少しでも傷つくのを恐れているかのように。

そんな愛されぶりに、周囲は羨望のまなざしを向けた。柚香自身も、遥真は本気で自分を愛しているのだと、そう信じかけていた。

「ママ」眠そうに目をこすりながら、小さな男の子が顔を上げ、柔らかな声で尋ねる。「今日、元気ないの?」

柚香は布団をかけ直して、優しい笑みを浮かべた。「ううん、大丈夫よ」

男の子はベッドから起き上がり、彼女の不思議そうな視線を受けながら、駆け寄って抱きついた。「抱っこ!」

柚香は一瞬、動きを止めた。

「どうして元気がないのかわからないけど、何があっても、僕はずっとママのことが大好きだよ」小さな腕にぎゅっと力をこめ、体のぬくもりを伝えようとする。

柚香はそっと微笑み、彼の背中をなでた。

そして、あることについて確かめる勇気も、少しずつ湧いてきた。

夜の十一時。

子どもを寝かしつけたあと、柚香はリビングで何度も時計を見た。

針が十一時四十分を過ぎたころ、ようやく玄関の鍵が回る音がした。

遥真は、白いシャツ姿で黒のスーツの上着を腕に掛けたまま入ってきた。

清潔で整った顔立ちはどこを取っても完璧で、まるで神様が丁寧に作り上げたかのようだった。

「まだ起きてたのか」いつものように隣に腰を下ろすと、彼は自然に腕を伸ばし、柚香を抱き寄せた。その手が服の中に滑り込み、腰をなぞる。

柚香は、流されそうで怖くなり、そっと彼の手を押し戻した。「ちょっと待って。話があるの」

「話なら、しながらでもいいだろ」彼の声は穏やかで、仕草もいつも通り優しい。

「ダメ」柚香はきっぱりと拒んだ。

「いいから」彼はそう言って、彼女の唇を塞いだ。

だが、シャツについた口紅の跡と、あの写真が脳裏をよぎった瞬間、胸がきゅっと締めつけられるように痛み、思わず彼を突き飛ばした。

「どうした」遥真が眉を寄せる。拒まれた理由が分からないようだった。

柚香の心臓は早鐘のように鳴っていた。

数秒の沈黙のあと、柚香は息を整え、彼の目をまっすぐ見つめた。「あなたと玲奈が、水月亭で一緒に夜を過ごしてる写真を見たの」

「……ああ」遥真はまだ彼女を抱いたままだった。

柚香の胸がずきりと痛む。

――説明する気も、ないの?

「知ってるなら話が早いな」低い声が静かに響いた。

「……なに?」柚香は息を整えて言った。

「玲奈の存在を、受け入れてほしい」彼は目を逸らさずに言った。「彼女は、俺にとって大事な人なんだ」

柚香は信じられないというように目を見開いた。

「承知してくれたら、君はずっと俺の妻だ。誰にもその立場は奪わせない」

「……自分が何を言ってるのかわかってるの?」普段は穏やかな柚香の声に、怒りがにじんだ。

桐谷玲奈(きりたに れいな)は、大学時代の親友だった。

けれど、ある出来事をきっかけに絶交した相手だ。

それなのに――今、あの玲奈と夫を「共有」しろというの?

遥真は淡々とした表情で言った。「わかってる」

「そんな馬鹿げた話、受け入れられるわけないわ」柚香は彼をまっすぐみつめた。「まともな人間なら誰だってそうよ」

「構わない。君がどう思おうと、俺は彼女を一生養う」遥真の声には、一切の迷いがなかった。「君に話したのは、ただ俺の奥さんとして知っておいてほしかったからだ」

柚香の手が、きゅっと握りしめられた。「それで、ありがとうって言えばいいの?」皮肉を込めた声に、彼は薄く笑った。

「礼を言いたいなら、止めないけど」その言い方が、いっそう彼の意地の悪さを際立たせた。

怒りで胸が激しく波打ち、息が荒くなる。

これまで礼儀正しく誠実だと思っていた人の仮面が、いま目の前で剥がれていくのを見た。

「遥真」柚香は、もう一度だけ彼に問いかけた。最後のチャンスを与えるつもりで。

彼は目を上げ、落ち着いた様子で言った。「なんだ」

「玲奈をどうしても手放せないのね。私が反対しても、嫌っても、憎んでも、あなたの考えは変わらないの?」

柚香の声は真剣だった。

ほんの少しでも、「違う」と言ってくれたら許せたのに。

けれど、現実はいつも残酷だ。

遥真は彼女の目を見つめたまま、はっきりと言った。「そうだ」

その瞬間、胸の奥を鋭い痛みが走った。

「誰にも、この決定は変えられない」その言葉が、とどめのように響いた。

「……だったら、離婚しよう」柚香は彼の考えを受け入れられず、もう一緒にはいられないと悟った。「あなたが彼女を一生養うつもりなら、妻の席は、彼女に譲るわ」

もし普通の夫婦なら、義両親に相談もできただろう。

けれど、久瀬家の両親は最初からこの結婚に反対していた。

彼らは、遥真の相手はもっと家格の釣り合う女性であるべきだと言っていた。橘川家はかつて裕福だったが、久瀬家のような名家とは比べ物にならない。

さらに、会社は倒産し、父親は金を持ち逃げした。

そのせいで、彼女はますます「価値のない女」に見られた。

「本気か」遥真の黒い瞳が、静かに彼女を見つめる。

「ええ。本気だわ」誠実さと忠誠、それが彼女にとっての結婚の最低ラインだった。

遥真はしばらく黙って、じっと彼女を見つめた。

従順だった彼女が、こんなにも強い意志を見せるとは思っていなかった。

「わかった」彼はあっさりと答えた。

あまりにもあっさりと言われ、柚香の胸は痛んだ。この五年間、結局一度も彼の心に届かなかったのだと、ようやく悟る。

彼の優しさなんて、気まぐれにすぎなかったのかもしれない。

柚香は胸の奥が重く沈むのを感じながら、階段を上がり、あらかじめ用意していた離婚届と離婚協議書を手に戻ってきた。

――本当は、もっと早く気づくべきだった。

三ヶ月前、彼の服から微かに女の香水の匂いがした。

尋ねると、彼はそのとき、飛行機の中でうっかりついてしまったのだろうと答えた。

その言葉を、信じてしまった。

今思えば、あれは嘘だった。

三か月前、玲奈はちょうど帰国したばかりで、時間を考えれば彼はあのとき、玲奈と一緒にいたはずだ。

「これが離婚届と離婚協議書。確認して」柚香はサインをし、彼に差し出した。「問題なければサインして。明日、提出するわ」

「離婚が君にとって何を意味するかわかってるのか」遥真の声は冷たかった。

柚香は手をぎゅっと握りしめながら答えた。「そんなこと、言われなくても分かってる」

「結婚してから、君は働いていない」彼は離婚協議書を開きながら、容赦なく言い放つ。「君のお母さんの治療費、どうするつもりだ?考えたことあるのか」

その言葉と同時に、視線が離婚協議書に落ちる。

結婚後の財産は半々、子どもの親権は母親にあると書かれているのを見ると、遥真は彼女に視線を向け、目を細めた。「ずいぶん都合のいいこと、考えたな」
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第1話
柚香にはわからなかった。男はみんな、家の中では本妻を手放さず、外では別の女に手を出したいものなのだろうか。けれど、そんな無茶を押し付けられても、絶対に受け入れられない。京原市の誰もが知っている。落ちぶれた元お嬢様・橘川柚香(きっかわ ゆずか)は、久瀬家の次男・久瀬遥真(くぜ はるま)から、誰もが羨むほどの愛情を注がれていると。彼女が欲しいと言えば、彼は必ずそれを与えた。気に入ったものがあれば、彼はためらいもなく差し出した。家の中にはブランド物の限定品があふれ、ジュエリーもバッグも時計も、壁一面を埋め尽くしている。ガレージには高級車がずらりと並び、どれを見ても目が回るほどだ。パーティーではいつも彼がそばにいて、どこへ行くにも彼女の手をつないで離さなかった。まるで、彼女が少しでも傷つくのを恐れているかのように。そんな愛されぶりに、周囲は羨望のまなざしを向けた。柚香自身も、遥真は本気で自分を愛しているのだと、そう信じかけていた。「ママ」眠そうに目をこすりながら、小さな男の子が顔を上げ、柔らかな声で尋ねる。「今日、元気ないの?」柚香は布団をかけ直して、優しい笑みを浮かべた。「ううん、大丈夫よ」男の子はベッドから起き上がり、彼女の不思議そうな視線を受けながら、駆け寄って抱きついた。「抱っこ!」柚香は一瞬、動きを止めた。「どうして元気がないのかわからないけど、何があっても、僕はずっとママのことが大好きだよ」小さな腕にぎゅっと力をこめ、体のぬくもりを伝えようとする。柚香はそっと微笑み、彼の背中をなでた。そして、あることについて確かめる勇気も、少しずつ湧いてきた。夜の十一時。子どもを寝かしつけたあと、柚香はリビングで何度も時計を見た。針が十一時四十分を過ぎたころ、ようやく玄関の鍵が回る音がした。遥真は、白いシャツ姿で黒のスーツの上着を腕に掛けたまま入ってきた。清潔で整った顔立ちはどこを取っても完璧で、まるで神様が丁寧に作り上げたかのようだった。「まだ起きてたのか」いつものように隣に腰を下ろすと、彼は自然に腕を伸ばし、柚香を抱き寄せた。その手が服の中に滑り込み、腰をなぞる。柚香は、流されそうで怖くなり、そっと彼の手を押し戻した。「ちょっと待って。話があるの」「話なら、しながらでもいいだろ」
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第2話
「ここに書かれていることは全部、法律に基づいたものよ」柚香は、必要以上のことは望まなかった。「子どものことに関しても、あなたの品行では、一緒には暮らせないわ」「結婚して五年、君は一円も稼いでない」遥真は冷たく言い放った。「なんで俺の稼いだ金を半分渡さなきゃいけない?」「あなたと陽翔の生活全部、私が面倒を見てたでしょ」柚香が言うと、遥真は薄く笑いながら見下ろした。「それで?」それで、って……?柚香は、まるで今初めてこの人を知ったような気がした。「もし、そのお金でお母さんの治療費を払おうなんて考えてるなら、今すぐやめといたほうがいい」遥真は離婚協議書をテーブルの上に投げた。柚香は彼を見つめた。「どういう意味?」「結婚後に増えた財産なんて、もう無い」遥真は淡々と続けた。「信じないなら、裁判でもして調べてもらえ」柚香は一瞬、呆然とした。けれど、数秒後には全てを悟った。初めて彼の浮気を疑ったときから、今こうして彼が自ら認めるまでの間に、彼はすでに結婚後の財産をすべて別名義に移して、隠していたのだ。――そういえば、彼のシャツの襟についた口紅がやけにくっきりしていた。普段は写真が漏れるのを何より嫌うくせに、どうして玲奈との写真が堂々とメディアに出回っていたのか。そういうことか。彼は、自分が気づくのを待っていた。そして、この機会を利用して堂々と「家では妻、外では別の女」という要求を押し通そうとしていたのだ。遥真。本当に最低ね。「もういいわ」柚香は冷めた声で言った。彼のやり方は完璧で、証拠なんて一つも残さないだろう。「サインして。私は子どもだけでいい」遥真はペンを取って、署名した。彼の字は、本人と同じように整っていて綺麗だった。けれど今の柚香には、それがただただ気持ち悪かった。翌朝。二人は一緒に役所へ行き、離婚の申請を出した。その間、遥真は一度も引き止めなかった。罪悪感もなければ、後悔もない。いつも通りの冷静さだけ。サインするとき、柚香は彼を見て、ふと思った。――どうして愛してもいない相手に、あんなに長く優しくできたのだろう。自分たちの関係って、一体なんだったの?「離婚届はお預かりしました。書類の確認などがございますので、手続きが完了するまでに一か月ほどかかります。手続きが
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第3話
彼は、午前中に役所に行ったときと同じグレーのオーダースーツを着たまま、ソファに腰を下ろしていた。その姿にはどこか気だるさと、淡々とした距離感が漂っている。医者とは、途切れ途切れに何かを話していたが、その様子からして離婚のことで気分を害しているようにはとても見えなかった。彼女の姿を見つけると、彼はふと顔を上げ、視線を彼女に向けた。柚香の両手は無意識に強く握られ、目にはあからさまな嫌悪と拒絶の色が浮かぶ。「来たんですね」医者が軽く声をかける。柚香は視線を外した。「はい」「電話でだいたいお話ししましたが、これが毎月の治療費の明細です。内容を確認して、問題なければ記入して署名してください」医者が書類を差し出す。柚香はそれを受け取り、目を落とした。そして、毎月何百万円から何千万円もの医療費を考えると、胸が少し重くなる。もし結婚前の財産を父に騙し取られていなければ、あと数ヶ月はなんとかなっただろう。けれど今の自分には何もない。この金額を支払う余裕など、あるはずがない。「もし負担が大きいようでしたら、こちらのプランの中から合うものを選ぶこともできます」医者は彼女の表情を見て、もう一枚の資料を差し出した。新しいプランは確かに今より安かったが、それでも月に百万以上はかかる。柚香がまだ書類を見つめていると、医者は思わず遥真の方を見た。彼が目で合図を送ると、医者はすぐに理解したように頷いた。「では、ゆっくり検討してください」医者はスマホを手に立ち上がり、言った。「病室の様子を見てきます。もしこれでも難しいようでしたら、戻ってからまた相談しましょう」柚香は視線を資料に落としたまま、「はい」と答えた。医者はすぐに部屋を出て、扉を静かに閉めた。室内には、柚香と遥真の二人だけ。空気が張りつめ、落ちた針の音さえ聞こえそうなほどの静けさが広がる。「いくら眺めてても、今の君の資産じゃ、君のお母さんの治療費は払えない」遥真が口を開いた。いつものように落ち着いていて、淡々としている。柚香の中で、怒りが一気に湧き上がった。彼を睨みつける目には、燃えるような感情が宿る。「まして君には、部屋を借りて陽翔を育てる費用も必要だ」遥真は続けた。「……何が言いたいの?」柚香が睨み返す。「離婚のことは、君の気まぐれだと受け取っておく」
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第4話
「奥様、お帰りなさいませ」執事がいつも通りに挨拶した。遥真と玲奈が振り返る。玲奈は柚香の姿を見ると、一瞬ためらいながらも声をかけた。「柚香」柚香は彼女を一瞥もせず、視線を逸らしたまま真っすぐ階段を上がっていった。もし彼女の顔を見たら思わず怒鳴りつけてしまいそうだ。「玲奈が挨拶したの、聞こえなかったのか?」遥真の冷たく淡々とした声が響く。「それとも、橘川さんはそんなに礼儀知らずな人間なのか?」柚香の足が止まった。――橘川さん?振り返ってふたりを見据え、皮肉が口をついて出た。「不倫相手を家にまで連れ込んでおいて、私に礼儀を求めるの?」「ここは俺の家だ。どう過ごそうが俺の勝手だろ」遥真は淡々とした口調で言う。「気に入らないなら、出ていけばいい」柚香の手がぎゅっと握られる。彼の気持ちがもう自分にないことなんて、わかっていた。それでも、実際に口にされると、胸の奥が締め付けられた。「ここは君の家でもある。俺のものは全部、君のものだ」と、昔彼は自分に言ってくれたのに。「遥真、柚香はあなたの奥さんなんだから。そんな言い方、あんまりじゃない?」玲奈がなだめるように言った。「チャンスはやった。でも要らないって言ったのは彼女の方だ」遥真はそう言いながら、柚香を見た。柚香もまた、彼をまっすぐ見返す。どちらも一歩も引かない。「柚香、遥真にちゃんと謝ったら?本当はあなたのこと気にしてるんだし、きっと許してくれるわ」玲奈は穏やかな笑みのまま、静かに油を注いだ。「言われなくても出ていくつもりよ」柚香は一切取り合わず、声を強めた。「こんな、ろくでもない男と女の匂いしかしない場所、もう一秒もいたくない」そう吐き捨てて階段を駆け上がる。まるで、汚れた空気から逃げるように。「ドンッ!」扉が勢いよく閉まる音が響いた。部屋に入るなり、柚香はスーツケースを引っ張り出して荷造りを始めた。遥真の挑発だとわかっていた。それでも、もう我慢できなかった。身分証や重要な書類をまとめ終えると、彼女はクローゼットへ向かった。無数の服やバッグ、アクセサリーが並ぶ中で、一瞬だけ手を止める。けれど次の瞬間、迷わずジュエリーコーナーへと向かった。――今はお金が必要だ。これを売れば、しばらくはなんとかなる。箱を取り出そうとしたそのとき、遥
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第5話
柚香の心は粉々に砕け散っていた。唇をきゅっと結び、やっとのことで声を絞り出す。「……そこまでしなきゃ気がすまないの?」「君に教えてやりたいだけだ。俺と別れたら、君の人生はめちゃくちゃになるってことをな」遥真は彼女の前に立ち、見下ろすように言った。「もちろん、どうしても何かを売って生活の足しにしたいなら、玲奈に相談してみればいい」玲奈は思わず自分を指さした。「私?」「君はこの家の女主人だ。ここのものをどうするかは、君が決めていい」遥真の言葉は玲奈に向けられていたが、その視線は柚香に落とされた。まるで、逆らえば、こうして別の誰かに取って代わられるのだと告げるように。柚香の両手が、ぎゅっと握り締められる。屈辱が、波のように胸の奥からこみ上げた。「記念に持っていくくらいなら構わないけどね」玲奈は火に油を注ぐように言った。「でも売るために持っていくのは、あなたの彼への想いを安っぽく見せる気がして。私なら、どんなにお金に困ってもそんなことできないわ」遥真が柚香に視線を向けた。「聞いたか?」その言葉の代わりに返ってきたのは、ものを投げつける音だった。ガシャン。柚香は手にしていたジュエリーを床に叩きつけ、そのまま踵を返した。一度も振り返らずに、部屋を出ていく。「柚香があんなに怒るなんて……わたしの言い方が悪かったのかも」玲奈は唇を噛み、申し訳なさそうに眉を下げた。「私、謝ってこようか?」「必要ない」遥真は冷たく遮った。「でも……」玲奈はまだ何か言いたげだった。「気に入らないものがあったら言え。片づけさせる」そう言って彼女の頭を撫で、優しく微笑む。「これからは、この部屋のものは全部君のだ」「ありがとう、遥真……」玲奈はその胸に腕を回した。その光景は……柚香の視界の端に映った。二人がそういう関係だと頭ではわかっていても、彼があんなふうに、玲奈を甘やかすように優しく扱っているのを目の当たりにすると、胸のあたりがどうしても痛むのだ。昔、彼は言ってくれた。自分が一番愛されていて、誰よりも特別なんだ、と。その言葉は、もうどこにも残っていなかった。「いつまで荷造りしてる?まさか、出ていく気がないのか?」遥真が目の前に立ち、冷ややかに見下ろした。柚香はスーツケースをパタンと閉じ、顔を上げる。「ただ確認してただけ
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第6話
「出て行くんじゃなかったのか?なんでまだここにいる?」遥真は、避けもせずまっすぐに彼女の視線を受け止めた。「言われなくても出て行くわ」柚香はスーツケースを手に取り、冷たく言い放つ。「こんなゴミばかりの場所、もう一秒だっていたくない」そう言うと、彼女は一瞬のためらいもなく歩き出した。そのあまりのあっさりぶりに、遥真の目がわずかに陰を帯びる。「待て」柚香の足が止まる。彼女が何か言う前に、遥真は視線をスーツケースに落とし、玄関に立つボディーガードへと命じた。「橘川さんの荷物をチェックして。中に彼女のものじゃない物が入っていないか確認しろ」「どういう意味?」柚香は反射的にスーツケースを抱きかかえた。「さっき君がジュエリーを盗もうとした件があるからな。中に他のものが入っていないとは言い切れないだろう」遥真は、相手を追い詰める方法をよくわかっていた。「確認したほうが、お互いのためだ」「あなたの中で、私はそんな人間なの?」柚香の瞳に、怒りと失望が入り混じる。ほんの一瞬――遥真の心がわずかに揺らいだ。けれど、彼女があれほど冷たく出ていこうとした姿を思い出し、感情を押し殺して言い放つ。「そうだ」胸の奥が、鋭く痛んだ。愛されなくても、冷たくされても、柚香は耐えてきた。けれど、玲奈の前で侮辱されることだけは、どうしても許せなかった。それは彼女の存在そのものを否定する行為であり、誇りを踏みにじることだった。「プライバシーを侵すような検査なんて、絶対に受けない」柚香はスーツケースのハンドルを、今までにない力で握りしめた。「どうしても調べたいなら、警察を呼んで。それが嫌なら、いっそ私の手を切り落として」そう言って、彼女は負けじと彼を見返す。遥真は彼女の前に立ち、強気なその瞳を見つめながら、彼女の指を一本ずつ、静かにスーツケースから剥がしていった。柚香は必死に抵抗したが、その力は簡単に振りほどかれた。彼は無表情のままスーツケースをボディーガーに渡した。まるで仕事の手続きをこなすように。「念入りに調べろ。隅々まで」「かしこまりました」ボディーガードは即座に応じた。「遥真!」柚香は涙目でスーツケースを奪い返した。今まで、こんな屈辱を受けたことは一度もなかった。遥真の顔には、もう以前のような優し
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第7話
部屋の中を一通り見渡した彼の視線が、最後に柚香の手にあるスーツケースで止まった。柔らかい声に真剣さを帯びて尋ねる。「ママ、それ、なんでスーツケース持ってるの?」柚香は口を開きかけたが、すぐにはうまい言い訳が浮かばなかった。「それはパパの荷物だよ」遥真が口を開き、息子の前にしゃがみ込む。視線の高さを合わせながら言った。「パパ、数日出張なんだ。その間、ママの言うことをちゃんと聞くんだぞ、わかった?」陽翔は素直に頷く。「わかった」「いい子だな」遥真は彼の頭を優しく撫でた。「このおばさんは?」陽翔の視線が玲奈に向かう。「パパの秘書だよ」遥真はまるで呼吸するように嘘をついた。「これから一緒に出張に行くんだ」柚香はスーツケースの取っ手を握る手に力が入ったが、表情は崩さなかった。遥真は立ち上がり、自然な仕草で彼女の手からスーツケースを受け取る。いつもと同じように、彼女の唇に軽くキスを落とし、穏やかな声で言った。「行ってくる。寂しくなったら電話して」柚香は胸の奥にこみ上げる不快感を押し殺し、ぎこちなく返す。「うん」「いい子だ」遥真は彼女の耳もとに手を伸ばし、落ちた髪をそっと耳にかける。その指先が耳の形をなぞるように滑り、最後に耳たぶをやわらかく指で弄んだ。「帰ってくるまで、待ってて」「もう行きなよ。飛行機、間に合わなくなるよ」柚香は促した。今の彼女にとって、彼と一秒でも近くにいること自体が耐えがたいほど嫌だ。とにかく、早く出ていってほしい。彼女の拒絶を感じ取った遥真は、わざと挑発するように身を屈め、唇に軽くキスを落とした。触れるだけの一瞬で、拒む間すら与えない。柚香が怒りをにじませて顔を上げた時には、もう彼はスーツケースを持って玲奈と一緒に部屋を出ていった。「ママ」二人が去った後、陽翔がぽつりと声を出した。柚香は気持ちを抑え、いつもの笑顔で向き合う。「どうしたの?」陽翔は一度口を開きかけ、言い直した。「お昼の時間だよ。ご飯、食べに行こう」「うん」柚香は頷いた。――食事の間中、彼女の頭の中にはさっきのことが渦巻いていた。あんなに平然とした顔で、息子に嘘をつけるなんて。私が浮気のことを陽翔に話すかもしれないとは思わないのだろうか。それに、あのキス。他に女がいるくせに、どうしてまだ自分に触れるの。
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第8話
その言葉は、柚香の耳に突き刺さった。まるで彼に自ら刃を突き立てられたようだった。彼と玲奈のニュースを見たときも、胸が痛んだものの、まだどこかで「もしかしたら何かの誤解かもしれない」と思っていた。けれど、今こうして二人の会話を自分の耳で聞いてしまうと、胸の奥が切り裂かれるように苦しくて、息をするのもつらくなった。胸のあたりがぎゅっと締めつけられる。「何の用だ」低く響く遥真の声。その口調には、これまでのような親しさも温度もなく、まるでどうでもいい他人にでも話すような冷たさがあった。柚香はそれでも確かめたくて聞いた。「……あなたたち、何をしてるの?」「電話してきたのは、それを聞くためか?」遥真は答える代わりにそう言い返した。柚香は完全に失望した。深呼吸して気持ちを整え、もう無駄な言葉を交わすのをやめた。「私のスーツケース、返して」返ってきたのは、無情にも電話が切れる音だった。柚香はもう一度かけ直した。自分の身分証明書などが中に入っている。彼のもとに置いたままにすれば、後々面倒なことになる。けれど今度は、遥真は電話に出なかった。玲奈は彼のスマホに「ゆずか」と登録された着信を見て、そっと尋ねた。「出ないの?」「順番ってものがある。今は君とテレビを見る時間だ」遥真はスマホをそのまま鳴らせておき、取ろうとも切ろうともしなかった。玲奈は彼の腕に腕を絡めた。シャワーを浴びたばかりで、キャミソール一枚の姿が艶っぽく映る。「テレビなんか見たくない……あなたとほかのこと、したいな」さらに身体を寄せる。少しでも彼が視線を落とせば、胸元の谷間が目に入る距離だった。「おとなしくして」遥真は彼女の動きを制した。その表情は変わらず冷静で、欲も情も見えない。「今の君は、まず身体をちゃんと治すことだけ考えないと」「私のこと、好きじゃないから拒むの?」玲奈の声には涙が混じっていた。「違う」遥真は短く答えた。「じゃあ、なんで……なんで柚香にはキスできるのに、私には触れもしないの?」「あれは、陽翔の前で芝居をしただけだ」遥真は彼女の腕を外し、さらりと話題をそらした。「君が心配するようなことはない。俺にとって一番大事なのは君だ」玲奈は感激したように彼を抱きしめた。けれどその胸の奥には、消えない不安が渦巻いていた。――いつ
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第9話
その言葉が出た瞬間。柚香は一瞬、動きを止めた。そして、彼の本性をはっきりと理解した気がした。離婚届を出したあの日から、もう自分たちはただの他人なのだと、ようやく腑に落ちた。胸の奥にあった重苦しさや痛みが、ふっと消えていく。彼女は気持ちを整え、声のトーンを落として距離を取った。「私は別に、たいした人間じゃない。ただ、もしちゃんと自分で持ち物を返してくれていたら、こんなことにはならなかったと思う」「たかがスーツケースひとつでしょ。遥真が欲しがるわけないじゃない」玲奈が遥真の肩を持つように言った。「彼は取らないよ」柚香は淡々と言った。その目にはもう、以前のような怒りも悲しみもない。まるで感情を置き去りにしたようだった。「でも、私のスーツケースがここで汚れるのは嫌なの」遥真の目がわずかに陰る。柚香の声は淡々としていた。「荷物を返して。すぐに出ていくから」彼女はもう、手放してしまっていた。遥真の突然の冷たさも、他の女を庇うその姿も。「陽翔が、このスーツケースを見てた」遥真が思い出したように言う。「久瀬家の御曹司なら、同じものをもう一個買うのなんて簡単でしょ」柚香は自分でも不思議だった。どうしてこんなに早く心が冷めてしまったのか。「あなたも、何度も私と顔を合わせるなんで嫌でしょ」遥真は彼女の顔を見つめた。拗ねているのかと思ったが、どう見ても落ち着きを払っている。「上の部屋にあるスーツケースを橘川さんに」彼は後ろに控えていたボディーガードにそう命じた。「かしこまりました」とボディーガードが答え、奥へ消えていく。しばらくして、淡いオレンジ色のスーツケースが運ばれてくる。遥真と玲奈は、柚香がそれを受け取ってすぐ出て行くものと思っていた。だが彼女は、二人の目の前で突然スーツケースを開けた。玲奈が戸惑った声を上げる。「柚香、何してるの?」「何か抜けてないか確認してるだけ」柚香は平然と、しかし一番刺さる言葉を放つ。遥真は奥歯を軽く噛む。彼女がこんなに早く、やり返す術を覚えるとは思っていなかった。「遥真の人間性を疑ってるの?」玲奈がまた余計なことを言う。「中にあるのは証明書とか書類くらいでしょ。仮に何か貴重なものがあっても、彼が盗むわけないじゃない」「彼はしないだろうね。でも、あなたは?」柚香はもう誰にで
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第10話
「……」遥真は何も言わなかった。どう考えても、彼女がわざとやったに決まっている。「どうして遥真がくれた物を、そんなふうに扱えるの?」玲奈が慌てて拾い上げ、まるで宝物のように大事そうに撫でる。「だって、これは……」彼女の言葉が終わらないうちに、柚香はもうスーツケースを持って車に乗り込んでいた。家には戻らず、真帆の家へ向かった。まだ住む場所が決まっていない今、彼女のところに置かせてもらうのが一番安全だ。半日ぶりに顔を見た真帆は、やつれた柚香の様子にすぐ気づいて、胸を痛めた。「またあのクズ男に何かされたの?」「うん」柚香はうなずく。「最低。ほんっとにどうしようもないやつ!」真帆は怒りを隠さず吐き出す。「今日の昼、荷物を取りに戻ったときに、玲奈の前でスーツケースを開けろって言われたの。私が何か盗んだんじゃないかって」柚香は淡々と話す。心の中は空っぽのようだった。「午後に電話したとき、向こうで玲奈が『お風呂あがった』って言ってるのが聞こえた」「は?頭おかしいんじゃないの!」真帆はテーブルを叩きそうな勢いで立ち上がる。そんなふうに自分の代わりに怒ってくれる友人を見て、柚香は唇をきゅっと結び、しばらくの沈黙のあと、ぽつりと呟く。「真帆」「なに?」「……抱きしめてくれる?」落ち着いた声の奥には、心の奥底をえぐるような痛みがあった。真帆は何も言わず、ぎゅっと柚香を抱きしめた。その腕はあたたかくて、安心できる場所だった。柚香はもう少しだけ頑張ろうと思っていたのに、この二日の出来事が頭をよぎった瞬間、鼻の奥がつんと痛くなった。泣きたくなかったが、涙は勝手にこぼれ落ちていく。肩が小さく震えた。胸の奥が痛くてたまらなかった。「泣きたいときは泣いていいんだよ。無理しないで」真帆は背中を優しくさすりながら、包み込むように言った。「泣いたら、きっと新しいスタートができる。そのときは、私がずっとそばにいるから。いっぱい甘やかしてあげる!」その言葉を聞いた瞬間、柚香は堰を切ったように声を上げて泣いた。真帆はそのまま抱きしめ続け、十数分ほどして、ようやく泣き声が静まった。真帆はティッシュで柚香の涙を拭き、少し乱れた髪を指で整えながら言った。「柚香には、私がいる。忘れないでね」「……うん」柚香の声は
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