LOGIN結婚して五年。橘川柚香(きっかわ ゆずか)は、まさか夫から、ほかの女性と夫を「共有する」ようなことを要求されるとは、夢にも思わなかった。 彼は言った。「彼女は俺にとって大事な人なんだ。彼女の存在を受け入れてほしい」 そしてさらに言葉を重ねた。「承知してくれたら、君はずっと俺の妻だ。誰にもその立場は奪わせない」 久瀬遥真(くぜ はるま)と出会ったのは、柚香が人生のどん底にいた頃だった。 彼はそんな彼女と結婚し、甘やかし、惜しみなく愛情を注いでくれた。 だから柚香はずっと、彼が誰よりも自分を愛してくれていると思っていた。 けれど今になって、ようやくわかった。 自分は、滑稽なほどの勘違いをしていただけだ。 …… 遥真は、自分がこれまで手塩にかけて育てた、か弱い小鳥のような妻が、自ら離婚を切り出すなんて思わなかった。だが、彼は止めようとはしなかった。それを一時の気まぐれだと受け流したのだ。外の世界で苦労すれば、どうせ自分のもとに戻ってくると信じていたのだ。 けれど柚香は、名前は柔らかい響きだが、心の芯は強く、頑なだった。 どれだけつらい思いをしても、決して振り返ることはなかった。 彼は思わず問いかけた。「一度くらい、素直になれないのか?」 その後。 柚香は、たしかに一度だけ「素直」になった。 けれどその一度を境に、彼女は遥真の世界から、跡形もなく消えてしまった。 それ以来、恐れというものを知らなかった遥真が、初めて「恐怖」という感情を覚えた。 …… そして時は流れた。 柚香は別の男の腕に手を絡め、遥真の前に姿を現した。 真っ赤な目で彼女を見つめながら、遥真はドアの後ろに彼女を追い詰めた。会いたくて、気が狂いそうだった。 「柚香……君って、ほんとに冷たい女だな」
View More「これから一年間の生活費は、自分たちで払え」直樹が口を開いた。その目には厳しさしかなかった。「理沙のドレス代を弁償したら、その時点でこれまでと同じ待遇に戻す」「お父さん!」海斗はその決定に不満をあらわにした。直樹が一瞥する。それだけで、海斗はすぐに大人しくなった。「あとでドレスを何着か追加で用意させる。万が一に備えておけ」直樹は理沙にそう言ってから、柚香へ目を向けた。「今夜は助かった。ありがとう」「余計なことをしたと思われていなければ、それで十分です」柚香は礼儀正しく答えた。「理沙のために危ないところを事前に見つけてくれたんだ。こちらこそ感謝している。どうして責めたりするものか」直樹は感情をほとんど見せず、社交辞令のように続けた。「時間があるときは、理沙と一緒に家に遊びに来なさい」「お時間があるときに、ぜひ伺わせていただきます」柚香も同じように当たり障りのない返事をした。直樹は軽く頷くと、佳代を連れてその場を去っていった。その瞬間、そこには柚香たちだけが残った。「まだ帰らないの?人を呼んで下まで連れていかせようか?」理沙は海斗と静香に目を向けた。口調はいたって穏やかだったが、どこか有無を言わせないものがあった。海斗は柚香を思いきり睨みつけると、静香を連れて出ていった。柚香と理沙には話があるだろうと、慎吾と康平もその場を離れた。しばらくして、そこには柚香と理沙の二人だけが残った。さっきのことを思い返しながら、柚香はドレッサーにもたれ、ドレスの前に立つ理沙を見た。そして、疑問を口にする。「この件、本当にこれで終わり?」「うん」理沙は頷いた。柚香はほんのわずかに眉を寄せた。誕生日パーティーを台無しにしようとして、十着以上ものドレスを切り刻んだのに、これから一年間の生活費を自分たちで払うだけ。謝罪の一言すらない。「うちって、昔からこうなの」理沙は、もうどうにもならないほど傷んだドレスを見て、それ以上気にすることもなかった。「父は、海斗や静香が私にこんなことをしたこと自体を問題だとは思ってない。ただ、やり方が下手だと思ってるだけ」「……?」柚香は呆気に取られた。理沙はごく自然な口調で続ける。「父は、私たち四人が家の中で争うこと自体は許してるの。誰かが死ぬようなことにならなければ、取り返しの
「お父さん、絶対にこいつの言うことを信じちゃダメだ!」海斗がすぐさま口を挟んだ。いかにも筋が通っているような口調だった。「お姉ちゃんの誕生日パーティーをめちゃくちゃにしたくて、わざとこんなことをしたんだ」直樹は険しい顔のまま尋ねた。「どういう意味だ?」「今夜はお姉ちゃんの誕生日パーティーだよ。もしここに警察が来たら、下にいる人たちは何があったのか気にするに決まってる」ずっと黙っていた静香が口を挟んだ。「そうなったら、変な噂が立つかもしれない」「それだけじゃない」海斗も続けた。「お姉ちゃんの誕生日パーティーだって台無しになる。柚香は、お姉ちゃんの誕生日を蒼海市中の噂話にしたいんだよ」二人は交互に言葉を重ねた。まるで、さっきまで話していたことがすべて本当であるかのように。「私は別に構わないけど」理沙は柚香の隣に立ったまま、気だるそうに髪を軽くかき上げた。「警察を呼んで」「お姉ちゃん、本当にそれでいいの?」海斗は拳を強く握りしめた。冷や汗が滲んでいる。「警察が来たら、お姉ちゃんの誕生日パーティーのことを、蒼海市のほかのお嬢様たちの間で、必ず噂になるよ」理沙は淡々と答えた。「別にいいよ」海斗は歯を食いしばった。静香はしばらく考えたあと、心配そうな顔で直樹に言った。「これはお姉ちゃん一人の問題じゃない。池田家全体にも関わることだ」「誰に関係する話だろうと、警察には届けるべきよ」佳代は二人の様子を見て、柚香の言った通りだと分かった。「ここにあるドレスだけでも、全部合わせれば二億円以上の価値があるのよ。こんなふうにうやむやにしていい話じゃないわ」「じゃあ、パーティーが終わってから警察に届ければいい」海斗は折衷案を出した。「それまでは誰もここに入れないように見張っておけばいい。警察が来るまで、この部屋には誰も入らせない」そう言って、海斗は何食わぬ顔で柚香を見た。そして、一言ずつ区切るように言った。「特に、柚香の人間はな」「そんな面倒なことをする必要ないよ」柚香が一歩前に出た。その場にいた全員の視線が柚香に集まる。柚香はスマホのアルバムを開き、直近の動画を選んで理沙に見せた。「動画を撮ってたの。海斗と静香がドレスを切ってるところ、最初からはっきり映ってるよ」海斗の顔から、一気に血の気が引いた。静香も、動揺
「どうしたの?」理沙は何事もなかったような顔で、柚香のところへ歩いてきた。「海斗と静香がハサミで予備のドレスを切り刻んで、それだけじゃなく、持ってきた化粧品であなたのものを入れ替えようとしてた」柚香は二階で起きたことをすべて話した。「いくらになるか、見積もってもらって」理沙は頷いた。「分かった」そう言って、両親を見る。「二人も見に行く?パーティーが始まるまで、まだ一時間くらいあるけど」直樹は何も言わずに立ち上がり、理沙と一緒に向かった。海斗と静香が何をしようとしていたのか、直樹はさほど気にしていなかった。彼が知りたかったのは、理沙と柚香が本当に友人なのかどうかだった。もし本当に友人なら、湊人との結婚話を少し先延ばしにすることもできる。そんな父親の考えを、理沙はすべて分かっていた。柚香と並んで前を歩きながら、さっきのことを思い出して、小声で尋ねる。「外で、いつから盗み聞きしてたの?」「堂々と数分ほど聞いてた」柚香は平然と答えた。理沙の目に、納得したような色が浮かぶ。「それで、どう思った?」「あなたの言う通りだと思う」理沙「ん?」柚香は理沙に目を向けた。声を落とし、二人にしか聞こえないように言った。「さっき両親に話してたこと。あれ、あなたの言う通りだと思う」「私があなたを利用してるって、気にしないの?」理沙は、柚香があの話を聞いていたと知ってから、少し複雑な気持ちになっていた。利用するつもりだと事前に話していたとはいえ、実際に聞かれたとなると、嫌な思いをさせていないか気になってしまう。誰だって、利用されるのは好きじゃない。まして、自分のことをそんなふうに話されるのは、いい気分がするものではない。「電話でも言ったでしょ?」柚香は逆に問い返した。理沙は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。そして、無意識にもう一度柚香を見た。見た目はどこか可憐で、守ってあげたくなるような雰囲気がある。けれど、その佇まいにも瞳にも、芯の強さが滲んでいた。誠実で、裏表のない人だ。「何笑ってるの?」柚香は、さっきまでとは違う目で見られていることに気づいた。まるで恋に落ちた相手を見るような視線だった。「初めて会ったときの、あなたのぽかんとした顔を思い出したの」理沙はわざとからかうように言った。「……」柚香
「池田家の人間なら、誰だって家のために利益を生み出さなきゃならない」直樹は険しい顔のまま、その考えを少しも変えなかった。「たとえ君のお兄さんだって、将来結婚するときは釣り合いの取れた相手を選ばなきゃならない」理沙の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。直樹が彼女を見る。「何がおかしい?」「お父さんがひいきしてるなって思って」理沙はわざと、かなり率直な言い方をした。「お兄ちゃんは釣り合いの取れた相手と結婚すればいいのに、私はあなたたちの決めた相手と結婚しなきゃいけない。まるで私じゃ、釣り合いの取れる相手を見つけられないみたいじゃない?」直樹は何も言わなかった。けれど、理沙には分かっていた。蒼海市の若手で名の知れた男性といえば、蓮司とその兄、それから湊人と藤堂家の三男くらいしかいない。藤堂家の三男は警察官として働いていて、曲がったことを嫌う真っ直ぐな性格だ。商売人である父にとっては、そういう相手は好ましくない。だから自然と候補から外され、残ったのが湊人だった。「理沙」佳代がなんとか説得しようとする。「お父さんが利益を大事にしてることくらい分かってる」理沙は相変わらず気のない口調で、父との話を続けた。「でも、もしどうしても私と湊人を結婚させたいっていうなら、その先にあるもっと大きな利益は、お父さんには関係なくなるよ」直樹は探るような目で理沙を見た。佳代は意味が分からず、理沙を見つめている。何かに思い当たったように、佳代は探るように尋ねた。「……柚香のこと?」理沙は頷いたが、それ以上は何も言わなかった。「柚香が来てるのか?」直樹の目に、驚きが浮かんだ。「来てるだけじゃなくて、理沙にプレゼントまで持ってきてくれたのよ」佳代は先ほどの出来事を説明した。「いつの間に、そんなに柚香と仲良くなったの?私たちは何も知らなかったわ」「朔也が友達を作るのはいいのに、私が友達を作るのはダメなの?」理沙は逆に問い返した。直樹も佳代も、思わず言葉を失った。まさか、そんなことを言われるとは思っていなかったのだ。「柚香の立場くらい、お父さんたちも分かってるでしょ。これから神崎グループの大株主になる人なんだから」理沙はもう、遠回しな言い方をやめてはっきり話した。「黒崎家だって、たとえ株を全部譲ることはなくても、昭彦社長があれだけ柚香
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