LOGIN結婚して五年。橘川柚香(きっかわ ゆずか)は、まさか夫から、ほかの女性と夫を「共有する」ようなことを要求されるとは、夢にも思わなかった。 彼は言った。「彼女は俺にとって大事な人なんだ。彼女の存在を受け入れてほしい」 そしてさらに言葉を重ねた。「承知してくれたら、君はずっと俺の妻だ。誰にもその立場は奪わせない」 久瀬遥真(くぜ はるま)と出会ったのは、柚香が人生のどん底にいた頃だった。 彼はそんな彼女と結婚し、甘やかし、惜しみなく愛情を注いでくれた。 だから柚香はずっと、彼が誰よりも自分を愛してくれていると思っていた。 けれど今になって、ようやくわかった。 自分は、滑稽なほどの勘違いをしていただけだ。 …… 遥真は、自分がこれまで手塩にかけて育てた、か弱い小鳥のような妻が、自ら離婚を切り出すなんて思わなかった。だが、彼は止めようとはしなかった。それを一時の気まぐれだと受け流したのだ。外の世界で苦労すれば、どうせ自分のもとに戻ってくると信じていたのだ。 けれど柚香は、名前は柔らかい響きだが、心の芯は強く、頑なだった。 どれだけつらい思いをしても、決して振り返ることはなかった。 彼は思わず問いかけた。「一度くらい、素直になれないのか?」 その後。 柚香は、たしかに一度だけ「素直」になった。 けれどその一度を境に、彼女は遥真の世界から、跡形もなく消えてしまった。 それ以来、恐れというものを知らなかった遥真が、初めて「恐怖」という感情を覚えた。 …… そして時は流れた。 柚香は別の男の腕に手を絡め、遥真の前に姿を現した。 真っ赤な目で彼女を見つめながら、遥真はドアの後ろに彼女を追い詰めた。会いたくて、気が狂いそうだった。 「柚香……君って、ほんとに冷たい女だな」
View More柚香はスマホを取り出し、ちゃんとアプリを開いて番号をかけられることを確認してから答えた。「まあ、大丈夫」それからさらに十分あまりが過ぎた。柚香は四杯目、五杯目と続けて飲んだ。必死に意識を保とうとしたが、アルコールには逆らえず、ふらふらと立ち上がったかと思えば、そのままどすんと座り込む。完全に酔っていた。「その程度で?料理が冷める前にもうダウンしてるじゃない」真帆が肩を貸して立たせながら、あきれたように言う。柚香は酔った声でぼそりと言った。「じゃあ、もっと鍛える……」真帆は小さく笑い、どこか困ったような表情を浮かべる。そのあと怜人と一緒に柚香を家まで送り届けた。前と違ったのは、帰り道のあいだずっと、柚香がなんとか意識を保とうとしていたこと。けれど家に着いた瞬間、糸が切れたようにそのままベッドに倒れ込み、深い眠りに落ちた。その様子を見て、怜人も真帆も、胸の奥が重くなる。「こんな飲み方して、本当に大丈夫なのか?」怜人は心配そうに言った。真帆はやさしい手つきで布団をかけながら答える。「大丈夫なわけないでしょ」「じゃあ、どうして止めなかったんだ?」怜人が聞く。「どうやって?」怜人は眉をひそめる。「昭彦社長が彼女の実の父親なんだろ?頼めば、株の件だってどうにかしてもらえるはずだ。わざわざ苦労する必要なんてない。俺たちが手を貸すことだってできる」柚香にこれ以上つらい思いをしてほしくないのだ。真帆は珍しく真剣な顔で彼を見た。「……本気で柚香のこと、好きなの?」怜人は即答する。「もちろんだ」「だったら、彼女の決めたことを尊重してあげて。たとえ、それがつらい道でも」真帆は柚香のことをよく分かっている。だから今回は放っておくのではなく、あえて止めなかった。「私たちにできるのは、友達として支えることだけ」自分の手でつかんだものだけが、確かなものになる。恋人も、友達も、家族だって、いつどう変わるか分からない。これまでいろんなことを経験して、柚香は怖くなったのだ。もう誰かに頼るのではなく、自分の力で、自分の居場所を守りたいと思っている。怜人はしばらく黙り込み、やがて小さくうなずいた。「……分かった」「先に帰って」真帆は布団を整えながら言う。「今夜は私がここにいる」離婚したばかりで、恋も終わったばかり
遥真は一瞬、言葉を失った。恭介と健太は、こっそり親指を立てる。さすが陽翔だ。「俺って、そんなに人に見せられない存在か?」遥真は横目で見て、もういつもの落ち着いた表情に戻っていた。「わざわざこっそり考える必要があるのか?」「それ、わかりきってるでしょ」陽翔は子ども用のスマートウォッチで柚香に無事だとメッセージを送りながら、真面目な顔で言う。「堂々と考えられる相手だったら、わざわざこっそりなんてしないよ」「俺のこと、何を考えてる?」遥真が聞く。「ちゃんと元気にしてるかなって」陽翔は隠そうともせず答えた。遥真は、薄く唇を引き結んだ。それからの道中、陽翔はいつになく本音ばかり口にした。受けては返すことに慣れている遥真でも、さすがに少し押され気味になる。けれど、その言葉のおかげで、胸の奥に溜まっていた重さが少しだけ軽くなった。張り詰めていた気持ちも、わずかに緩む。見慣れない道が続くのを見て、陽翔は横目で尋ねた。「これ、どこ行くの?」「家だ」遥真が答える。「柚苑って、この道じゃないよね?」遥真は唇を引き結んだ。柚香に追い出されたなんて、さすがに言えるはずもない。そう思った、そのとき。スマホに一通のメッセージが届く。柚香からだった。【陽翔、あの家に慣れてるから、問題なければそっちで過ごさせてあげて。取りに行きたい物もあるみたい。無理なら無理しなくていい】恭介の提案を断ったのは、これ以上遥真と関わりを持ちたくなかったから。けれど陽翔は二人の子どもだ。大人の事情で、子どもに不自由をさせるわけにはいかない。遥真はすぐに返信する。【わかった】そして、柚香からは、それ以上返事は来なかった。スマホをしまい、柚香は安江と一緒に財産移転の手続きを進めた。安江の資産はあまりにも多く、すべての移転を終えるには数ヶ月はかかる見込みだった。最終的に、元の価格で株を買い戻すために必要な現金と基金だけを先に移し、その他には手をつけないことにした。現金の手続きはその日のうちに終わったが、基金は二、三日かかる。その合間の時間を使って、柚香は真帆と怜人を呼び出した。待ち合わせ場所がバーの個室だと知って、二人は少し驚く。柚香がこういう場所を好まないことは、よく知っているからだ。そう思いながら、個室に入るな
「ボディーガードの慎吾も一緒に行くよ。陽翔をそっちに送り届けたら、そのまま戻るから」柚香はできるだけ漏れがないように説明した。「陽翔を受け取ってくれればそれでいいから」恭介「承知しました」電話を切った瞬間、胸がきゅっと締めつけられるように緊張が走った。本来なら今日は休みで出社する必要はなかったのに、よりにもよってこんな時に社長の機嫌を損ねるとは。先月任されていた仕事も終わっていない上に、修司側の人間にしてやられたのだ。「恭介さん……頼む、少し口添えしてくれよ」「本当に、あれが修司の仕掛けた罠だなんて思わなかったんだ」「もう二度と同じミスはしない!頼む!」そばにいた数人が小声で懇願する。これ以上叱られたくなかった。「これは完全に仕事上のミスです。私にはどうにもできません」恭介はこういう時、決して情に流されない。「解雇されなかっただけでも、これまでの関係を考慮してもらった結果です」皆は口を開きかけて、結局何も言えずに黙り込んだ。今回、自分たちが大失敗をやらかしたことは分かっている。だが……恭介は彼らを横目に通り過ぎ、遥真のそばへ行くと声を潜めて言った。「柚香さんから連絡がありました。お坊ちゃまが二時間後の便で到着するそうです。迎えに行くようにとのことです」遥真は一瞬だけ間を置き、「手配してくれ」と指示した。「承知しました」恭介はすぐに車の準備へ向かった。彼が去った後、遥真の温度のない視線が目の前の数人に向けられる。その圧は息が詰まるほどだった。「挽回のチャンスをやる。休み明けには結果を見せろ」「はい……!」皆は口々に応じ、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。遥真は立ち上がり、そのまま部屋を出ていく。歩くたびに、空気まで冷え込むようだった。その場に残された幹部たちは、誰一人大きく息をすることすらできない。遥真の姿が視界から消えてようやく、詰めていた息を吐き出した。「今回、恭介さんがいなかったら本当に終わってたな……」「そもそも君たち二人がやらかしたんだろ。修司に引っかかりさえしなければ、俺まで休み潰されることなかったのに」「人のせいにすんなよ。お前らだって同じだろ」「もういい、言い合ってる場合じゃない。まずはミスを取り返すのが先だ」「でもさ、恭介さんって何て言ったんだろうな。あれであそこま
陽翔はその一言を送った。遥真はさっきと同じように返信してきた。【くっつける前に、相手の人柄や家庭環境、それに恋愛に対する考え方をちゃんと見ておけ。本当にママのことを愛してるのか、確かめるんだ】このメッセージを見た瞬間、陽翔のメンタルはさらに崩れた。パパとママ、一体どうなってるの?本当に自分にママの新しい相手を探せと言っている?「やっぱり、言うほどママのこと好きじゃないんだね」陽翔は話題を変えるように言った。「離婚した途端、もう全部忘れちゃったんだ」遥真は大きな窓の外へ視線を向けた。もし、柚香との約束がなければ。彼女を手放すなんて、できるはずがなかった。この先一生、彼女の人生に踏み込めないのなら。いっそ、彼女と陽翔の選択を尊重したほうがいい。そう思い至り、感情を押し込めると、短く返信して再び仕事に戻った。【早く寝ろ】陽翔の小さな顔には不満がにじんでいた。パパの言葉らしくない。明日、ピアノの家庭教師が来る予定じゃなかったら、今すぐ京原市に飛んで直接問いただしていたかもしれない。その夜、「三人家族」の誰一人として、まともに眠れなかった。柚香は明け方近くまで眠れず、遥真は徹夜。陽翔も夜中の二、三時になってようやく寝ついた。朝、朝食のために下に降りてきた柚香と陽翔は、二人そろってあくびばかり。その様子を見た安江は、冗談っぽく言った。「二人とも、昨夜こっそり遊びにでも行ってたの?」陽翔と柚香は顔を見合わせる。二人の頭に同時に同じ考えが浮かぶ。まさか、遥真のことが気になって眠れなかったなんて言えるわけがない。「ピアノの先生に、今日は来なくていいって連絡しようか?」安江は明らかに元気のない陽翔を見て言った。「もう少しゆっくり寝たほうがいいんじゃない?」陽翔は小さな顔を上げて柚香を見る。「いい?」「いいよ」柚香は特にこだわりもなく答えた。家庭教師にはその分きちんとお礼をすればいい。「じゃあ、残りの家庭教師の授業も全部お休みしていい?」陽翔は様子をうかがうように聞いた。「外の習い事も含めて」柚香は一瞬、言葉に詰まった。安江も少し驚いた様子だった。陽翔は頭をかきながら言う。「連休の間に、京原市に戻ってちょっと荷物取りに行きたくて」その一言で、柚香はすべてを察した。陽翔は遥真に会いに
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