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極道の夫が守った妊婦は、私ではなかった

極道の夫が守った妊婦は、私ではなかった

By:  星宮 凪Completed
Language: English
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待ち望んでいた妊娠が分かったその日、早乙女莉香(さおとめ りか)がInstagramにマタニティフォトを投稿した。 写真には、白いレースをまとった莉香と、その腹に手を添える一人の男が写っていた。 その男の左手の結婚指輪まで、はっきり見えた。 そして最悪なことに、その男は九条組の四代目組長であり、九条興業の社長でもある私の夫、九条征士郎(くじょう せいしろう)だった。 『頼れる大きな彼と、お腹の中の小さな彼。今日から二人に守ってもらいます』 私はひと言だけコメントした。 『お幸せに』 すぐに莉香から電話が来た。 写真のことは誤解だと、莉香は繰り返した。 恋人と喧嘩をした腹いせに、わざと誤解を招くような写真を載せただけだという。 やがて電話を代わった征士郎は、低い声で言った。 「莉香は身重だ。分かっていて追い詰めるな」 「自分がなかなか身ごもれないからって、みっともないぞ」 五分後、莉香はまた写真を投稿した。 『社長がいれば、何も怖くない』 征士郎は、すぐに「いいね」をつけた。 私――九条澪(くじょう みお)は、診察室でもらったばかりのエコー写真を封筒に戻した。 そして、結婚指輪を外した。

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Chapter 1

第1話 古い靴を贈る女

その夜、征士郎は珍しく九時前に本家へ戻ってきた。

玄関に姿を見せただけで、若い衆の空気が張り詰める。

黒いシャツの袖をまくった彼は、私の顔より先に台所のごみ箱へ目を向けた。

中には、未開封の漢方薬が入っていた。

不妊治療を始めてから、毎日欠かさず飲んできたものだ。

「ずいぶん派手に拗ねたな」

征士郎は箱を拾い上げ、眉間にしわを寄せた。

「私、拗ねてないよ」

「だったら、どうして捨てた」

「もう必要ないから」

妊娠したことを告げようとして、バッグの中の封筒に手を伸ばした。

けれど征士郎は、私の言葉を待たなかった。

「好きにしろ。子どもができなくて焦ってるのは、俺じゃない」

差し出しかけた手を、膝の上へ戻した。

征士郎は私の前に濃紺の箱を置いた。

「莉香からだ」

蓋を開けると、黒いパンプスが入っていた。

有名ブランドのものだったが、新品ではない。

靴底には外を歩いた跡が残り、右のヒールには小さな傷がついていた。

笑わせるな。

「あの写真で澪を怒らせたと思って、気にしてた」

「これを、私に?」

「まだ数えるほどしか履いていないらしい。あいつなりに考えたんだ。受け取ってやれ」

征士郎が戻る三十分前、莉香は新しい靴の写真を投稿していた。

淡いピンクの箱には、今季発売されたばかりのパンプスが収まっていた。

『世界でいちばん頼りになる人から。こんなに甘やかされたら、だめになっちゃう』

撮影場所は、征士郎の車の後部座席だった。

「要らない」

箱を閉じると、征士郎の目が険しくなった。

「莉香はまだ二十四だ。父親を亡くして、頼れる身内も近くにいない」

「恋人がいるでしょう」

「大阪にも来ない男を、頼れると言うのか」

「だから、あなたが代わりになるの?」

征士郎の口元から、わずかに残っていた笑みが消えた。

「あいつの親父は、俺をかばって死んだ」

それは何度も聞いた言葉だった。

莉香が九条興業で失敗しても、勝手に本家へ出入りしても、征士郎の私物に触れても。

莉香が何をしても、最後はいつも同じ言葉で許された。

「お父さんへの恩返しなら、何をされても許すの?」

「澪。いい加減にしろ」

征士郎が箱をこちらへ押し返した。

角が額に当たり、鈍い痛みが走る。

思わず顔を背けると、箱が畳へ落ちた。

征士郎の表情が変わった。

「悪い。わざとじゃない」

伸びてきた手を避けた。

「大丈夫」

「赤くなってる」

「本当に平気だから」

彼は私の顎に指をかけ、無理に顔を上げさせた。

昔なら、その不器用な心配だけで胸がいっぱいになった。

今は、額よりも胸の奥のほうが痛かった。

「冷やすものを持ってくる」

征士郎が立ち上がったとき、スマートフォンが鳴った。

画面に表示された名前は、莉香だった。

「征士郎さん……」

受話口から漏れた声は、今にも泣き出しそうに震えていた。

「どうした」

「お腹が痛くて。病院へ行こうとしたんですけど、電車を乗り間違えて……ここがどこかも分からなくて」

「一人で行くなと言っただろ」

征士郎の声が、すぐに柔らかくなる。

「でも、今日は澪さんに悪いことをしたから。これ以上、お二人の邪魔をしたくなくて」

「くだらないことを気にするな。今はおまえと腹の子が最優先だ」

電話の向こうで、莉香がためらいがちに言った。

「征士郎さんから、今日は澪さんにとって大事な治療の日だと聞きました。私なら一人でも大丈夫です。早くお二人にも赤ちゃんができるように、そばにいてあげてください」

征士郎は小さく笑った。

「今日一日一緒にいたからって、子どもができるわけでもない。今いる場所を送れ」

私は自分の腹に、そっと手を置いた。

ここにいる命を、征士郎はまだ知らない。

「澪、莉香を病院へ連れていく」

彼が車の鍵を手に取った。

「少し待って」

苛立った目が向けられる。

「まだ何かあるのか」

私は彼の上着を取りに行き、内ポケットから薄い手帳を抜いた。

莉香の母子健康手帳だった。

先週、征士郎の車に置き忘れたらしい。

「これ、持っていってあげて」

征士郎は一瞬、言葉を失った。

「……ありがとう」

私は曲がっていた襟を直した。

いつも彼を送り出すときと同じように。

これは、妻として彼を送り出す最後の夜になるかもしれない。

そんなことを考えているとは知らず、征士郎は私の手首をつかんだ。

「すぐ戻る。待ってろ」
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第1話 古い靴を贈る女
その夜、征士郎は珍しく九時前に本家へ戻ってきた。玄関に姿を見せただけで、若い衆の空気が張り詰める。黒いシャツの袖をまくった彼は、私の顔より先に台所のごみ箱へ目を向けた。中には、未開封の漢方薬が入っていた。不妊治療を始めてから、毎日欠かさず飲んできたものだ。「ずいぶん派手に拗ねたな」征士郎は箱を拾い上げ、眉間にしわを寄せた。「私、拗ねてないよ」「だったら、どうして捨てた」「もう必要ないから」妊娠したことを告げようとして、バッグの中の封筒に手を伸ばした。けれど征士郎は、私の言葉を待たなかった。「好きにしろ。子どもができなくて焦ってるのは、俺じゃない」差し出しかけた手を、膝の上へ戻した。征士郎は私の前に濃紺の箱を置いた。「莉香からだ」蓋を開けると、黒いパンプスが入っていた。有名ブランドのものだったが、新品ではない。靴底には外を歩いた跡が残り、右のヒールには小さな傷がついていた。笑わせるな。「あの写真で澪を怒らせたと思って、気にしてた」「これを、私に?」「まだ数えるほどしか履いていないらしい。あいつなりに考えたんだ。受け取ってやれ」征士郎が戻る三十分前、莉香は新しい靴の写真を投稿していた。淡いピンクの箱には、今季発売されたばかりのパンプスが収まっていた。『世界でいちばん頼りになる人から。こんなに甘やかされたら、だめになっちゃう』撮影場所は、征士郎の車の後部座席だった。「要らない」箱を閉じると、征士郎の目が険しくなった。「莉香はまだ二十四だ。父親を亡くして、頼れる身内も近くにいない」「恋人がいるでしょう」「大阪にも来ない男を、頼れると言うのか」「だから、あなたが代わりになるの?」征士郎の口元から、わずかに残っていた笑みが消えた。「あいつの親父は、俺をかばって死んだ」それは何度も聞いた言葉だった。莉香が九条興業で失敗しても、勝手に本家へ出入りしても、征士郎の私物に触れても。莉香が何をしても、最後はいつも同じ言葉で許された。「お父さんへの恩返しなら、何をされても許すの?」「澪。いい加減にしろ」征士郎が箱をこちらへ押し返した。角が額に当たり、鈍い痛みが走る。思わず顔を背けると、箱が畳へ落ちた。征士郎の表情が変わった。「悪い。わざとじゃない」伸びてきた手を避けた。「大丈夫」「赤くなってる」
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第2話 夫が眠る、彼女の部屋
重い玄関扉が閉まる。車の音が遠ざかってから、私はスマートフォンを開いた。連絡先をスクロールしていると、何年も連絡を取っていなかった名前が目に留まった。榊原冬真(さかきばら とうま)。亡くなった父の店を整理したとき、世話になった弁護士だった。『突然すみません。離婚について、相談したいことがあります』送信して十分もたたないうちに、返信が届いた。『いつでも連絡してください』その夜は、何も考えないように早めに床に就いた。スマートフォンの振動で目を覚ました。時計を見ると、すでに午前一時を回っていた。隣に征士郎の姿はなく、シーツは冷え切っていた。画面を開くと、莉香からのメッセージが届いていた。『うちの社長、本当に顔だけはいいですよね』『寝てる間に食べちゃいたいくらい』続けて、一枚の写真が表示された。征士郎は薄いピンク色のクッションに頭を預け、目を閉じていた。黒いシャツの襟元が乱れている。背景に見えるカーテンは、本家にも九条興業の休憩室にもないものだった。莉香の部屋だ。数秒後、三件とも送信を取り消された。『友達に送るつもりでした。ごめんなさい』『診察が終わって安心したら、征士郎さん、ソファで寝ちゃって』『怒らないでくださいね』以前の私なら、すぐ征士郎に電話をかけていた。どうして帰ってこないのか。なぜ莉香の部屋で眠っているのか。何もなかったと証明してほしいと、朝まで問い詰めていただろう。けれど、その夜は莉香をブロックし、スマートフォンを伏せた。もう、答えを聞きたいとは思わなかった。翌朝、九条興業の大阪本社へ出社すると、玄関前が騒がしかった。莉香が段差に足を取られ、尻もちをついたらしい。征士郎は彼女を抱き上げ、そのまま役員専用エレベーターへ向かっていた。「歩けます。下ろしてください」口では遠慮しながら、莉香の腕は征士郎の首に回っている。私に気づくと、彼女は征士郎の肩越しに、ほんの少し笑った。受付の社員たちは、目を合わせないようにしていた。九条組と関わりのない社員も多いが、征士郎の背景を知らない者はいない。私たちは、社内で夫婦であることを公にしていない。ここでの私は、創業時から経営企画を担当してきた九条部長だった。高木という若い社員が、声を潜めた。「早乙女さん、コピーするはずの書類をシュレッダーにかけそう
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第3話 離婚を告げた夜、黒い車が迫った
その夜、私は大阪・中之島の料亭を訪れた。九条興業の取引先である神戸港湾サービスの山田社長との会食のためだ。私は淡い色の訪問着に袖を通し、会食の席に着いた。神戸港周辺の物流施設をめぐる契約で、半年以上前から先方との調整を続けてきた。まさか征士郎が莉香を連れて現れるとは思わなかった。山田社長が到着する前に、二人は当然のように私の向かいへ腰を下ろした。事情がのみ込めないまま、私は二人に帰るよう告げた。「今夜は、神戸港湾サービスの山田社長と約束があります」征士郎が片眉を上げた。「山田社長は、俺に会いたくないとでも言ったのか」私は黙り込み、それ以上追い返すことができなかった。離婚を決めたとはいえ、征士郎が今も私の上司であることに変わりはない。ほどなくして山田社長が到着し、会食が始まった。仲居が日本酒を注ごうとしたとき、私は杯を伏せた。杯を伏せながら、妊娠が分かった日の診察で、医師から念を押された言葉を思い出した。「以前、交通事故で流産した際に子宮を損傷しています。今回妊娠できたこと自体、奇跡に近いことです」「もし再び流産すれば、今後の妊娠が極めて難しくなる可能性があります」「申し訳ありません。今日はお酒を控えさせてください」向かいに座る取引先の社長は、穏やかにうなずいた。「もちろんです。無理に飲む時代でもありませんから」それで終わるはずだった。「でも、澪さんって昔からお酒に強いんですよね?」莉香が無邪気そうに首をかしげた。私は冷ややかに言った。「誰から聞いたの」莉香の笑顔が凍りつき、不安げに征士郎を見上げた。「私、また何か余計なことを言ってしまいましたか……?」征士郎は莉香の髪を優しく撫でると、私へ冷たい目を向け、杯を取るよう命じた。「澪、たかが一杯だ。子どもでもあるまいし、いつまでも意地を張るな」私は杯に手を触れなかった。「飲めない理由があります」「体調が悪いのか」ようやく征士郎が私を見る。私は一度、息を整えた。「私、妊娠しています」座敷がしんと静まり返った。征士郎の指が、膝の上で止まる。「……いつ分かったの」「莉香さんが、あなたとの写真を投稿した日」莉香の笑顔が固まった。それでもすぐに立ち上がり、自分の杯を持った。「おめでとうございます。私、どうしてもお祝いしたいです」「やめろ」征士郎は反
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第4話 帰る場所に、私の部屋はなかった
入院していた三日間、征士郎は一度も見舞いに来なかった。退院する日になって、征士郎からようやくメッセージが届いた。『莉香の部屋で水漏れがあった。しばらく本家で預かる』私がどんな処置を受けたのか、彼は尋ねなかった。あの子がどうなったのかも、一度も聞こうとしなかった。ただの一言も。退院後、本家へ戻ると、九条家の門前に見覚えのない若い組員が立っていた。私を見るなり、彼は深く頭を下げた。それでも、門を開けようとはしなかった。「どうしたの?」「申し訳ありません、姐さん。莉香さんが身重なので、奥には誰も通すなと組長から言われています」「私も?」若い組員は、さっと顔を青ざめさせた。「すぐに確認してまいります」自分の家へ入るために、莉香か征士郎の許可を待たなければならない。あまりに滑稽で、思わず笑いそうになった。やがて、奥から莉香が姿を現した。身につけているのは私のエプロン――征士郎とお揃いで買ったものだった。「澪さん、退院したんですね。連絡してくれたら、迎えを出したのに」莉香は当然のように私を中へ通した。その振る舞いは、まるでこの家の女主人そのものだった。家の中には料理の匂いが漂っていた。莉香は台所へ駆け寄ると、明るい声を上げた。「征士郎さん、澪さんが帰ってきたよ!」台所から出てきた征士郎は、揃いのエプロンを身につけていた。私が買ったものの、子どもっぽいと言って一度も身につけなかったエプロンだ。今になってそれを身につけた姿を見ても、ひどく不格好にしか見えなかった。征士郎は私を一瞥すると、莉香に先に部屋へ戻るよう優しく言った。莉香は素直にうなずき、菓子の袋を抱えて、私たちの寝室へ入っていった。居間には、私と征士郎だけが残された。「そこは……私の部屋」「おまえの荷物は、離れの部屋へ移してある」「誰が触ったの?」征士郎は、その問いには答えなかった。「誰が勝手に退院していいと言った」私が答えずにいると、彼はそのまま続けた。「もういい。早く部屋へ戻って休め。明日は莉香の誕生日だ。父親を亡くしてから初めての誕生日だから、本家の身内だけでささやかに祝う」征士郎は一度言葉を切り、付け加えた。「化粧は薄めにしておけ。主役より目立つなよ」私は考えるまでもなく答えた。「予定があるの。二人で祝えばいいでしょう」征士郎が眉をひそめ
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第5話 三つ目の願いが消えた夜
翌日の夕方、私は約束どおり、本家の大広間へ向かった。身内だけのささやかな祝いだと聞いていたのに、襖の向こうからは若い笑い声がいくつも聞こえてくる。黒のワンピースに着替え、いつもより丁寧に化粧をして中へ入ると、征士郎が息をのんだ。しばらく私を見つめたあと、何も言わずに手を差し出してくる。その手を取る前に、莉香が征士郎の腕へ自分の腕を絡めた。「澪さん、本当に来てくれたんですね」笑顔は明るかったが、目だけは笑っていなかった。大広間には莉香の友人が数人と、見覚えのない男がいた。東京から来たという莉香の恋人、森川蓮(もりかわ れん)だった。長く続いている遠距離恋愛の相手らしい。蓮は壁際に座り、退屈そうにスマートフォンを眺めていた。やがて、征士郎が用意した三段のバースデーケーキが運ばれてきた。蝋燭の火を前に、莉香は胸の前で両手を組んだ。「願いごとは三つあります」無邪気な声に、周囲から笑いが起こる。「一つ目。征士郎さんが、これからも莉香を『面倒な子だ』って笑って許してくれますように」「二つ目。征士郎さんが、莉香のせいで澪さんを寂しがらせませんように」莉香はそこで私を見た。「三つ目。私の妊娠運を澪さんにもお裾分けして、澪さんと征士郎さんの間にも、早く赤ちゃんが授かりますように」拍手が起こるより先に、膝の上に置いていたバッグが畳へ滑り落ちた。口の開いたバッグから、一枚の書類が滑り出す。征士郎が拾い上げた。そこには、『流産手術後の注意事項』と印字されていた。征士郎の顔から、みるみる血の気が引いていく。「澪……これは、何だ」かすれた声だった。「いつの話だ」莉香が事情を知らないふりをして、私たちの間へ入ってきた。「征士郎さん、そんな怖い顔をしないでください。今日は私の誕生日ですし、みんなで楽しく――」「澪さん、ケーキを取り分けますね」「今は口を挟まないで」私が告げると、莉香の笑顔が固まった。「今日ここへ来たのは、征士郎が私の願いを一つ叶えると約束したからよ」バッグから離婚届を取り出し、征士郎の前へ置いた。「署名して」「これが、私の願い」征士郎は離婚届をつかみ、その場で二つに破いた。「ふざけるな」「病院の紙を一枚見せれば、おまえが妊娠していたと俺が信じるとでも思ったのか」私は訂正した。「妊娠していたの。もう、過去
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第6話 母は、玄関先に塩を撒いた
あの夜、征士郎は離婚届への署名を拒んだ。「離婚なんて認めない」破り捨てられた紙を見ても、説得しようとは思わなかった。翌朝、榊原先生に連絡し、家庭裁判所への離婚調停の申立てを依頼した。同時に、九条興業へ退職届を提出した。征士郎は、それさえ受け取ろうとしなかった。そこで改めて、内容証明郵便で退職の意思を通知し、残っていた有給休暇の消化に入った。征士郎と九条興業を支えるようになってから、まとまった休みを取ったことは、ほとんどなかった。皮肉にも、すべてを手放して初めて、私には休む時間ができた。本家を出た私は、福井にある実家へ向かった。キャリーケースを引いて玄関前に立ち、呼び鈴を押すか迷っていると、中から扉が開いた。買い物袋を提げた母が出てきた。私の荷物を見るなり、母の表情が険しくなった。「どうして一人なの。征士郎さんは?」私は黙ったまま、何も答えなかった。母は心配するどころか、露骨に顔をしかめた。「あれだけの家に嫁いだのに、追い出されて帰ってきたの?」「子どももできない、夫の心もつなぎ止められない。それでよく、のこのこ帰ってこられたわね」胸の奥に、冷たいものが落ちた。「毎年、私から五十万円は渡していたでしょう」「五十万円ぽっちで、恩を返したつもり?」母の声が、玄関先に響く。「大学まで出してやったのに、何の役にも立たないじゃない」「こんなことなら、早く働かせて、家に金を入れさせればよかった」私は黙って母の口元を見ていた。次々に吐き出される言葉が、不思議なくらい遠く聞こえる。外で散々傷ついたせいか、家に帰れば一言くらい、温かい言葉をもらえると思ってしまった。そんな自分が、ひどく愚かに思えた。キャリーケースの向きを変えると、母が慌てて家の中へ戻った。追いかけてきた母の手には、小さな塩の袋が握られていた。白い粒が、私の足元に散った。「来月、弟が婚約者を連れてくるの。厄を持ち込まないで」けれど、母はさらに続けた。「弟の結婚式の費用も、奨学金の返済もあるんだから、今年は五百万円くらい用意して」「九条家からの祝い金だと思えば、それくらい何でもないでしょう」私は離婚のことを言わなかった。言ったところで、母が心配するのは私ではなく、これから誰に金を頼ればいいのかということだけだ。濡れた雪が、コートの肩へ落ちては消えてい
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第7話 あの日の雪は、もう降らない
大阪へ戻る気にはなれず、福井駅の近くで泊まれる場所を探した。宿泊予約サイトを眺めていると、大学時代に征士郎と泊まったホテルが目に留まった。少し迷った末、そこに部屋を取った。内装は変わっていたが、窓の向こうに広がる冬の街並みは、あの頃とほとんど変わっていなかった。大学四年生の大晦日。些細なことで母に責められ、私は頬を打たれた。年が明けた直後、征士郎から電話が来た。声だけは明るく装ったつもりだった。けれど彼は、すぐに私の異変に気づいた。翌朝、家族が初詣へ出かけ、私だけが家に残された。スマートフォンに、短いメッセージが届いた。『窓から下を見ろ』半信半疑でカーテンを開けると、雪の中に征士郎が立っていた。電話を切ったあと、始発を乗り継いで大阪から来たのだという。荷物も持たず、薄いコートの肩に雪を積もらせて。私を見つけると、彼はあきれるほど優しく笑った。その瞬間、胸の中に積もっていたものが、すべて溶けていくような気がした。私たちは手をつなぎ、行くあてもなく冬の福井を歩いた。雪が降り続き、指先は凍えるほど冷たかった。それでも彼と歩いているだけで、春の陽だまりにいるようだった。その夜、二人でこのホテルに泊まった。窓の外に降り続く雪を眺めながら、誰にも言えなかった傷を打ち明け合った。征士郎は私の顔をまっすぐ見つめた。「卒業したら、結婚しよう」「俺たちが、互いの家族になればいい」「一生、澪を一人にはしない」ドアをノックする音で、過去の景色が途切れた。ルームサービスを頼んだ覚えはない。警戒しながらドアスコープをのぞき、息をのんだ。廊下に立っていたのは、濃い灰色のコートを着た征士郎だった。一瞬ためらったものの、ドアを開けた。「澪」驚きが引くと、居場所を知られた理由に気づいた。結婚後に設定していたスマートフォンの位置情報の共有を解除し忘れていたのだ。征士郎は、昔と同じように追いかけてくれば、私の心が動くと思っているらしい。「考えは変わらない。来ても無駄よ」彼の目が暗く沈んだ。「もう十分だろ。そろそろ機嫌を直せ」「おまえがいない本家は、家じゃない」「一緒に帰ろう」どこからそんな自信が生まれるのか分からなかった。「最後にもう一度だけ言う。怒っているんじゃない」「あなたに会いたくないの。帰って」それでも征士郎は動か
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第8話 その手に、もう触れられない
それ以上、征士郎と言葉を交わす気にはなれなかった。ドアを閉めようとした瞬間、隙間に革靴の先が差し込まれた。「何するの」征士郎はドアを押し返し、そのまま部屋へ入ってきた。後ずさる間もなく、背中が壁にぶつかる。次の瞬間、強い腕に抱き締められていた。「澪。もう一度だけ、やり直すチャンスをくれ」かつては安らぎをくれたはずの腕に、今は嫌悪しか覚えない。胸を押し返し、必死に身をよじった。「離して。警察を呼ぶ」征士郎は腕を緩めるどころか、耳元で低く笑った。「夫婦だろ。警察を呼んで、何て言うつもりだ」片手で私の手首を押さえ、もう一方の手で頬に触れる。「子どもを失ったから、俺が憎いんだろ」「だったら、もう一度つくればいい」「また子どもができれば、俺たちはやり直せる」あまりに身勝手な言葉に、怒りより先に寒気がした。「正気なの?」「無駄よ。もう妊娠は難しいって、医者に言われた」「前の流産のときだって、妊娠しにくくなると言われただろ。それでも授かった」「今度だって――」よくも、あのときの流産を平然と持ち出せたものだ。結婚して一年目のことだった。征士郎が九条興業を立ち上げ、組から距離を置こうとしていた頃だった。跡取りと決まっていた征士郎を、異母弟は幼い頃からひどく憎んでいた。ある夜、口論の末に逆上した異母弟は車に乗り込み、征士郎めがけてアクセルを踏んだ。考えるより先に、私は征士郎を突き飛ばしていた。征士郎は無傷だった。代わりに車にはねられた私は、路上に倒れた。病院へ運ばれて初めて、妊娠4週だったことを知った。そして、子どもを失ったことも。あの事故以来、後ろからエンジン音が聞こえるだけで、体がすくむようになった。しばらくは一人で横断歩道を渡ることさえできず、征士郎の手を握って歩いた。私が何を恐れているのか、征士郎は誰よりも知っていた。「あの夜、莉香のために私を脅したとき、どんな気持ちだった?」征士郎の喉が、わずかに動いた。「私が車を怖がる理由を知っていて、あえて車で脅したんでしょう?」「……やめろ」「言えないなら、代わりに言ってあげる」まっすぐに目を見返した。「そうすれば、私が一番怯えるとわかっていたから」征士郎の顔が、苦しげに歪んだ。「わかってる。俺は最低だ」「それでも、離したくない」「あれだけ愛し合った
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第9話 その動画は、全員に届いた
征士郎から連絡が途絶えて、三日が過ぎた。その間に九条興業の総務から、退職手続きを進めるという通知が届いた。私を叩いたあの瞬間、征士郎の中でも何かが切れたらしい。三日目の朝、私は大阪へ戻った。征士郎が本家の会合に出ている時間に合わせ、九条興業へ私物を取りに向かう。頬の腫れは引いていた。それでも左の頬骨に残った薄い痣だけは、コンシーラーを重ねても隠しきれなかった。使い慣れた手帳や万年筆を、デスクの引き出しから段ボール箱へ移していく。「姐さん、これも使ってください」振り向くと、若い男が空の箱を抱えて立っていた。高瀬直人(たかせ なおと)。九条組の若い衆で、今は九条興業の運転手をしている。あの夜、店の前で私を取り囲んだ二人のうちの一人だった。「ありがとう。そこに置いて」高瀬は箱を床へ置き、顔を上げた。その視線が、私の左頬に止まる。「その痣……」私は答えず、書類を束ね続けた。高瀬は何か言いかけ、結局、深く頭を下げた。「申し訳ありませんでした」何についての謝罪なのか、尋ねなかった。私はそれ以上、何も聞かなかった。片づけを終えると、最後に征士郎の社長室へ入った。莉香が持ち込んだキャラクターの置物が、今も棚に並んでいる。机の一番奥の引き出しを開けると、伏せられた写真立てがあった。結婚式の日の写真だった。紋付袴姿の征士郎と、白無垢姿の私。写真の中の二人は、何の疑いもなく笑っている。九条興業を立ち上げたばかりの頃、征士郎はこの写真を自分のデスクに飾っていた。けれど莉香が来てから、写真立ては少しずつ端へ追いやられ、やがて引き出しの中へ消えた。代わりに並んだのは、莉香の好きなものばかりだった。写真立てを箱へ収め、窓辺に立つ。眼下には、大阪の街が広がっていた。大学を卒業したばかりの頃、私たちは道の向かい側から、このビルを見上げたことがある。『いつか、こんな場所に自分たちの会社を持てたらいいね』そう言った私の手を、征士郎は強く握った。『必ず叶える。澪を失望させたりしない』征士郎は約束どおり、ここまでたどり着いた。そして、私を失望させた。段ボール箱を抱えてビルを出ると、正面玄関の脇に莉香が立っていた。私を待っていたらしい。以前は目立つほど膨らんでいた腹が、もう平らになっている。莉香は私の箱を見るなり、勝ち誇ったよ
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第10話 約束の席で、他人になった
翌日、高瀬とホテルのラウンジで会った。高瀬は席に着くなり、テーブルの上に小さな封筒を置いた。中には、小さなUSBメモリが一つ入っていた。「これは?」「あの夜の記録です」高瀬は膝の上で拳を握り締めた。「あのときは、組長に本家へ連れ戻せと命じられていました」私は黙って続きを待った。「姐さんが石段から落ちたあと、救急車を呼んだのは俺です」USBメモリに保存されていたのは、店の近くに止めてあった若い衆の車のドライブレコーダー映像だった。映像には、征士郎の車が速度を落とさないまま私めがけて突っ込み、衝突寸前で急ブレーキをかけるところまで、はっきり残っていた。その直後、車は方向を変えて走り去った。遠ざかる車のナンバーまで、はっきり映っていた。「どうして、今になってこれを?」尋ねると、高瀬は唇を噛んだ。「昔、俺が抗争で刺されたときのこと、覚えていますか」忘れるはずがなかった。警察沙汰になるのを恐れ、周囲の若い衆は救急車を呼ぶのをためらっていた。血だらけで倒れている高瀬を見つけ、周囲の制止を振り切って救急車を呼んだのは私だった。「姐さんが救急車を呼んでくれなかったら、俺は死んでいました」しばらく、高瀬を見つめた。「これ、榊原先生に渡してもいい?」「そのために持ってきました」「高瀬さんも、組には残れなくなるかもしれない」高瀬は顔を上げ、まっすぐに私を見た。「今回も見て見ぬふりをしたら、俺は一生後悔します」私はUSBメモリを封筒へ戻した。「ありがとう」それ以上、何も言わなかった。一週間後、私は大阪を離れた。東京で借りた部屋は、一人で暮らすには十分な広さだった。窓の外には、見慣れない街並みが広がっている。九条家の人間も、九条興業の社員も、ここには誰ひとりいない。そう思うだけで、ようやく息ができる気がした。高瀬から受け取った記録は、すべて榊原先生へ渡した。不貞の証拠に加え、車を使って私を脅した事実まで明らかになり、離婚調停は一気に進んだ。東京へ移って十日ほど経った頃、スマートフォンでニュースを眺めていると、九条興業の名前が目に入った。『九条興業、社長の不倫動画流出で複数社が取引停止』記事には、動画の流出をきっかけに情報管理の甘さが問題視され、会社の信用が急速に失われていると書かれていた。さらに、莉香と婚約関係にあっ
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