LOGIN待ち望んでいた妊娠が分かったその日、早乙女莉香(さおとめ りか)がInstagramにマタニティフォトを投稿した。 写真には、白いレースをまとった莉香と、その腹に手を添える一人の男が写っていた。 その男の左手の結婚指輪まで、はっきり見えた。 そして最悪なことに、その男は九条組の四代目組長であり、九条興業の社長でもある私の夫、九条征士郎(くじょう せいしろう)だった。 『頼れる大きな彼と、お腹の中の小さな彼。今日から二人に守ってもらいます』 私はひと言だけコメントした。 『お幸せに』 すぐに莉香から電話が来た。 写真のことは誤解だと、莉香は繰り返した。 恋人と喧嘩をした腹いせに、わざと誤解を招くような写真を載せただけだという。 やがて電話を代わった征士郎は、低い声で言った。 「莉香は身重だ。分かっていて追い詰めるな」 「自分がなかなか身ごもれないからって、みっともないぞ」 五分後、莉香はまた写真を投稿した。 『社長がいれば、何も怖くない』 征士郎は、すぐに「いいね」をつけた。 私――九条澪(くじょう みお)は、診察室でもらったばかりのエコー写真を封筒に戻した。 そして、結婚指輪を外した。
View More東京で暮らし始めてから、もうすぐ一年になろうとしていた。新しい仕事にも、この街での暮らしにも、ようやく慣れてきた。朝起きて、誰かの機嫌をうかがうこともない。帰宅が遅くなっても、行き先を問い詰められることもない。一人でいることは、寂しさではなく自由なのだと知った。九条興業は取引先を次々と失い、やがて破産手続きに入った。表の看板だった会社を失った征士郎は、再び極道の世界へ戻っていったらしい。森川蓮は、莉香が自分に無断で子どもをおろしていたことを知った。週刊誌への告発や慰謝料請求だけでは、怒りが収まらなかったのだろう。そんなある夜、大阪の市外局番から見覚えのない着信があった。出ようか迷った末、通話ボタンを押す。『夜分に失礼いたします。大阪市内の救命救急センターの医師です』『九条さんの緊急連絡先に、こちらのお電話番号が残っていまして』電話口の男性医師は、慎重な口調で続けた。『九条征士郎さんが交通事故に遭い、こちらへ搬送されました』一瞬、言葉が出なかった。『同乗していた女性は、現場で死亡が確認されています』莉香のことだと、すぐにわかった。『九条さんも予断を許さない状態です。これから緊急手術に入りますが、その前にどうしてもお話ししたいとのことで』『自分の携帯では出てもらえないだろうから、病院の電話を使ってほしいと、ご本人から頼まれまして』電話の向こうから、慌ただしく人が行き交う気配が伝わってきた。かつてなら、何も考えず病院へ向かっていた。けれど今、胸に浮かんだのは悲しみでも喜びでもなかった。ただ、遠い場所で起きた出来事を聞いているような感覚だけだった。「どなたかとお間違えではありませんか」自分でも驚くほど、声は穏やかだった。「九条征士郎という人は、知りません」医師が何か言いかける前に、通話を終えた。それきり、征士郎と話すことはなかった。数日後、ニュースで事故の全容を知った。森川は、手元に残る証拠をすべて渡し、訴えも取り下げると持ちかけていた。条件は、弁護士を通さず、征士郎と莉香の二人だけで湾岸の倉庫へ来ることだった。これ以上の醜聞を恐れた征士郎は、その条件をのんだ。二人が倉庫にいる間に、森川は征士郎の車のブレーキホースを切断していた。防犯カメラには、その一部始終が映っていた。帰り道、下り坂でブレーキが利かなく
翌日、高瀬とホテルのラウンジで会った。高瀬は席に着くなり、テーブルの上に小さな封筒を置いた。中には、小さなUSBメモリが一つ入っていた。「これは?」「あの夜の記録です」高瀬は膝の上で拳を握り締めた。「あのときは、組長に本家へ連れ戻せと命じられていました」私は黙って続きを待った。「姐さんが石段から落ちたあと、救急車を呼んだのは俺です」USBメモリに保存されていたのは、店の近くに止めてあった若い衆の車のドライブレコーダー映像だった。映像には、征士郎の車が速度を落とさないまま私めがけて突っ込み、衝突寸前で急ブレーキをかけるところまで、はっきり残っていた。その直後、車は方向を変えて走り去った。遠ざかる車のナンバーまで、はっきり映っていた。「どうして、今になってこれを?」尋ねると、高瀬は唇を噛んだ。「昔、俺が抗争で刺されたときのこと、覚えていますか」忘れるはずがなかった。警察沙汰になるのを恐れ、周囲の若い衆は救急車を呼ぶのをためらっていた。血だらけで倒れている高瀬を見つけ、周囲の制止を振り切って救急車を呼んだのは私だった。「姐さんが救急車を呼んでくれなかったら、俺は死んでいました」しばらく、高瀬を見つめた。「これ、榊原先生に渡してもいい?」「そのために持ってきました」「高瀬さんも、組には残れなくなるかもしれない」高瀬は顔を上げ、まっすぐに私を見た。「今回も見て見ぬふりをしたら、俺は一生後悔します」私はUSBメモリを封筒へ戻した。「ありがとう」それ以上、何も言わなかった。一週間後、私は大阪を離れた。東京で借りた部屋は、一人で暮らすには十分な広さだった。窓の外には、見慣れない街並みが広がっている。九条家の人間も、九条興業の社員も、ここには誰ひとりいない。そう思うだけで、ようやく息ができる気がした。高瀬から受け取った記録は、すべて榊原先生へ渡した。不貞の証拠に加え、車を使って私を脅した事実まで明らかになり、離婚調停は一気に進んだ。東京へ移って十日ほど経った頃、スマートフォンでニュースを眺めていると、九条興業の名前が目に入った。『九条興業、社長の不倫動画流出で複数社が取引停止』記事には、動画の流出をきっかけに情報管理の甘さが問題視され、会社の信用が急速に失われていると書かれていた。さらに、莉香と婚約関係にあっ
征士郎から連絡が途絶えて、三日が過ぎた。その間に九条興業の総務から、退職手続きを進めるという通知が届いた。私を叩いたあの瞬間、征士郎の中でも何かが切れたらしい。三日目の朝、私は大阪へ戻った。征士郎が本家の会合に出ている時間に合わせ、九条興業へ私物を取りに向かう。頬の腫れは引いていた。それでも左の頬骨に残った薄い痣だけは、コンシーラーを重ねても隠しきれなかった。使い慣れた手帳や万年筆を、デスクの引き出しから段ボール箱へ移していく。「姐さん、これも使ってください」振り向くと、若い男が空の箱を抱えて立っていた。高瀬直人(たかせ なおと)。九条組の若い衆で、今は九条興業の運転手をしている。あの夜、店の前で私を取り囲んだ二人のうちの一人だった。「ありがとう。そこに置いて」高瀬は箱を床へ置き、顔を上げた。その視線が、私の左頬に止まる。「その痣……」私は答えず、書類を束ね続けた。高瀬は何か言いかけ、結局、深く頭を下げた。「申し訳ありませんでした」何についての謝罪なのか、尋ねなかった。私はそれ以上、何も聞かなかった。片づけを終えると、最後に征士郎の社長室へ入った。莉香が持ち込んだキャラクターの置物が、今も棚に並んでいる。机の一番奥の引き出しを開けると、伏せられた写真立てがあった。結婚式の日の写真だった。紋付袴姿の征士郎と、白無垢姿の私。写真の中の二人は、何の疑いもなく笑っている。九条興業を立ち上げたばかりの頃、征士郎はこの写真を自分のデスクに飾っていた。けれど莉香が来てから、写真立ては少しずつ端へ追いやられ、やがて引き出しの中へ消えた。代わりに並んだのは、莉香の好きなものばかりだった。写真立てを箱へ収め、窓辺に立つ。眼下には、大阪の街が広がっていた。大学を卒業したばかりの頃、私たちは道の向かい側から、このビルを見上げたことがある。『いつか、こんな場所に自分たちの会社を持てたらいいね』そう言った私の手を、征士郎は強く握った。『必ず叶える。澪を失望させたりしない』征士郎は約束どおり、ここまでたどり着いた。そして、私を失望させた。段ボール箱を抱えてビルを出ると、正面玄関の脇に莉香が立っていた。私を待っていたらしい。以前は目立つほど膨らんでいた腹が、もう平らになっている。莉香は私の箱を見るなり、勝ち誇ったよ
それ以上、征士郎と言葉を交わす気にはなれなかった。ドアを閉めようとした瞬間、隙間に革靴の先が差し込まれた。「何するの」征士郎はドアを押し返し、そのまま部屋へ入ってきた。後ずさる間もなく、背中が壁にぶつかる。次の瞬間、強い腕に抱き締められていた。「澪。もう一度だけ、やり直すチャンスをくれ」かつては安らぎをくれたはずの腕に、今は嫌悪しか覚えない。胸を押し返し、必死に身をよじった。「離して。警察を呼ぶ」征士郎は腕を緩めるどころか、耳元で低く笑った。「夫婦だろ。警察を呼んで、何て言うつもりだ」片手で私の手首を押さえ、もう一方の手で頬に触れる。「子どもを失ったから、俺が憎いんだろ」「だったら、もう一度つくればいい」「また子どもができれば、俺たちはやり直せる」あまりに身勝手な言葉に、怒りより先に寒気がした。「正気なの?」「無駄よ。もう妊娠は難しいって、医者に言われた」「前の流産のときだって、妊娠しにくくなると言われただろ。それでも授かった」「今度だって――」よくも、あのときの流産を平然と持ち出せたものだ。結婚して一年目のことだった。征士郎が九条興業を立ち上げ、組から距離を置こうとしていた頃だった。跡取りと決まっていた征士郎を、異母弟は幼い頃からひどく憎んでいた。ある夜、口論の末に逆上した異母弟は車に乗り込み、征士郎めがけてアクセルを踏んだ。考えるより先に、私は征士郎を突き飛ばしていた。征士郎は無傷だった。代わりに車にはねられた私は、路上に倒れた。病院へ運ばれて初めて、妊娠4週だったことを知った。そして、子どもを失ったことも。あの事故以来、後ろからエンジン音が聞こえるだけで、体がすくむようになった。しばらくは一人で横断歩道を渡ることさえできず、征士郎の手を握って歩いた。私が何を恐れているのか、征士郎は誰よりも知っていた。「あの夜、莉香のために私を脅したとき、どんな気持ちだった?」征士郎の喉が、わずかに動いた。「私が車を怖がる理由を知っていて、あえて車で脅したんでしょう?」「……やめろ」「言えないなら、代わりに言ってあげる」まっすぐに目を見返した。「そうすれば、私が一番怯えるとわかっていたから」征士郎の顔が、苦しげに歪んだ。「わかってる。俺は最低だ」「それでも、離したくない」「あれだけ愛し合った


















Welcome to GoodNovel world of fiction. If you like this novel, or you are an idealist hoping to explore a perfect world, and also want to become an original novel author online to increase income, you can join our family to read or create various types of books, such as romance novel, epic reading, werewolf novel, fantasy novel, history novel and so on. If you are a reader, high quality novels can be selected here. If you are an author, you can obtain more inspiration from others to create more brilliant works, what's more, your works on our platform will catch more attention and win more admiration from readers.