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第2話 夫が眠る、彼女の部屋

Author: 星宮 凪
重い玄関扉が閉まる。

車の音が遠ざかってから、私はスマートフォンを開いた。

連絡先をスクロールしていると、何年も連絡を取っていなかった名前が目に留まった。

榊原冬真(さかきばら とうま)。

亡くなった父の店を整理したとき、世話になった弁護士だった。

『突然すみません。離婚について、相談したいことがあります』

送信して十分もたたないうちに、返信が届いた。

『いつでも連絡してください』

その夜は、何も考えないように早めに床に就いた。

スマートフォンの振動で目を覚ました。

時計を見ると、すでに午前一時を回っていた。

隣に征士郎の姿はなく、シーツは冷え切っていた。

画面を開くと、莉香からのメッセージが届いていた。

『うちの社長、本当に顔だけはいいですよね』

『寝てる間に食べちゃいたいくらい』

続けて、一枚の写真が表示された。

征士郎は薄いピンク色のクッションに頭を預け、目を閉じていた。

黒いシャツの襟元が乱れている。

背景に見えるカーテンは、本家にも九条興業の休憩室にもないものだった。

莉香の部屋だ。

数秒後、三件とも送信を取り消された。

『友達に送るつもりでした。ごめんなさい』

『診察が終わって安心したら、征士郎さん、ソファで寝ちゃって』

『怒らないでくださいね』

以前の私なら、すぐ征士郎に電話をかけていた。

どうして帰ってこないのか。

なぜ莉香の部屋で眠っているのか。

何もなかったと証明してほしいと、朝まで問い詰めていただろう。

けれど、その夜は莉香をブロックし、スマートフォンを伏せた。

もう、答えを聞きたいとは思わなかった。

翌朝、九条興業の大阪本社へ出社すると、玄関前が騒がしかった。

莉香が段差に足を取られ、尻もちをついたらしい。

征士郎は彼女を抱き上げ、そのまま役員専用エレベーターへ向かっていた。

「歩けます。下ろしてください」

口では遠慮しながら、莉香の腕は征士郎の首に回っている。

私に気づくと、彼女は征士郎の肩越しに、ほんの少し笑った。

受付の社員たちは、目を合わせないようにしていた。

九条組と関わりのない社員も多いが、征士郎の背景を知らない者はいない。

私たちは、社内で夫婦であることを公にしていない。

ここでの私は、創業時から経営企画を担当してきた九条部長だった。

高木という若い社員が、声を潜めた。

「早乙女さん、コピーするはずの書類をシュレッダーにかけそうになったこともあるのに、よく社長秘書を続けられますよね」

「私だったら、とっくに異動させられてますよ。もしかして、社長と付き合っているんでしょうか」

「そうかもしれないわね」

榊原先生とのやり取りに気を取られていた私は、深く考えずに相槌を打った。

そのとき、背後から低い声がした。

「社長室へ来い」

振り返ると、いつの間にか征士郎が背後に立ち、冷ややかな目で私を見ていた。

会社でよそよそしく振る舞う征士郎にも、いつしか慣れていた。

以前、四十度近い熱を出し、まともに歩けなくなったことがある。

朦朧とする意識の中で征士郎を探し、病院へ連れていってほしいと頼んだ。

けれど彼は部下に勘繰られることを嫌い、縋った私の手を振りほどくと、人事に休暇を申請しろと言っただけだった。

それなのに莉香が腹痛を訴えれば、会議さえ放り出し、迷わず抱き上げて病院へ連れていく。

私は征士郎のあとについて社長室へ入った。

「まだ怒ってるのか」

「何に?」

「昨夜、俺が帰らなかったのに、電話どころかメッセージ一つ寄こさなかった。それでも怒ってないと言うのか?」

「莉香さんと一緒なら、私が連絡する必要もないでしょう」

征士郎が私の手首をつかむ。

「そういう言い方はやめろ」

「仕事の話がないなら、戻ってもいい?」

「澪」

指に力がこもる。

痛みで身体を引いた拍子に、ソファ脇の紙袋が倒れた。

中から、淡いピンク色のレースの下着が滑り落ちた。

言い訳を聞く気にもなれず、私は下着をソファへ放った。

征士郎の目に、わずかな動揺が走った。

「それは……」

「ほかにご用がなければ、失礼します。社長」

仕事を終えたあとは、取引先との会食に向かう予定だった。

私が怒ることには慣れていても、何も聞かなくなることは想像していなかったのだろう。

彼は私の肩に手を置いた。

「今夜、食事に行くぞ」

「今夜は、取引先との会食があるから」

「終わってから、北新地の鮨屋へ行く。前から行きたがってただろ」

結婚記念日に行こうと約束して、三度延期された店だった。

「もう、生ものは食べたくない」

征士郎の顔が曇る。

「鮨が一番好きだっただろ」

「好みは変わるから」

彼は何か言おうとしたが、休憩室から莉香の声がした。

「征士郎さん、お水をいただいてもいいですか」

征士郎の手が、私の肩から離れた。

私は一礼して社長室を出た。
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