All Chapters of 極道の夫が守った妊婦は、私ではなかった: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話 古い靴を贈る女

その夜、征士郎は珍しく九時前に本家へ戻ってきた。玄関に姿を見せただけで、若い衆の空気が張り詰める。黒いシャツの袖をまくった彼は、私の顔より先に台所のごみ箱へ目を向けた。中には、未開封の漢方薬が入っていた。不妊治療を始めてから、毎日欠かさず飲んできたものだ。「ずいぶん派手に拗ねたな」征士郎は箱を拾い上げ、眉間にしわを寄せた。「私、拗ねてないよ」「だったら、どうして捨てた」「もう必要ないから」妊娠したことを告げようとして、バッグの中の封筒に手を伸ばした。けれど征士郎は、私の言葉を待たなかった。「好きにしろ。子どもができなくて焦ってるのは、俺じゃない」差し出しかけた手を、膝の上へ戻した。征士郎は私の前に濃紺の箱を置いた。「莉香からだ」蓋を開けると、黒いパンプスが入っていた。有名ブランドのものだったが、新品ではない。靴底には外を歩いた跡が残り、右のヒールには小さな傷がついていた。笑わせるな。「あの写真で澪を怒らせたと思って、気にしてた」「これを、私に?」「まだ数えるほどしか履いていないらしい。あいつなりに考えたんだ。受け取ってやれ」征士郎が戻る三十分前、莉香は新しい靴の写真を投稿していた。淡いピンクの箱には、今季発売されたばかりのパンプスが収まっていた。『世界でいちばん頼りになる人から。こんなに甘やかされたら、だめになっちゃう』撮影場所は、征士郎の車の後部座席だった。「要らない」箱を閉じると、征士郎の目が険しくなった。「莉香はまだ二十四だ。父親を亡くして、頼れる身内も近くにいない」「恋人がいるでしょう」「大阪にも来ない男を、頼れると言うのか」「だから、あなたが代わりになるの?」征士郎の口元から、わずかに残っていた笑みが消えた。「あいつの親父は、俺をかばって死んだ」それは何度も聞いた言葉だった。莉香が九条興業で失敗しても、勝手に本家へ出入りしても、征士郎の私物に触れても。莉香が何をしても、最後はいつも同じ言葉で許された。「お父さんへの恩返しなら、何をされても許すの?」「澪。いい加減にしろ」征士郎が箱をこちらへ押し返した。角が額に当たり、鈍い痛みが走る。思わず顔を背けると、箱が畳へ落ちた。征士郎の表情が変わった。「悪い。わざとじゃない」伸びてきた手を避けた。「大丈夫」「赤くなってる」
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第2話 夫が眠る、彼女の部屋

重い玄関扉が閉まる。車の音が遠ざかってから、私はスマートフォンを開いた。連絡先をスクロールしていると、何年も連絡を取っていなかった名前が目に留まった。榊原冬真(さかきばら とうま)。亡くなった父の店を整理したとき、世話になった弁護士だった。『突然すみません。離婚について、相談したいことがあります』送信して十分もたたないうちに、返信が届いた。『いつでも連絡してください』その夜は、何も考えないように早めに床に就いた。スマートフォンの振動で目を覚ました。時計を見ると、すでに午前一時を回っていた。隣に征士郎の姿はなく、シーツは冷え切っていた。画面を開くと、莉香からのメッセージが届いていた。『うちの社長、本当に顔だけはいいですよね』『寝てる間に食べちゃいたいくらい』続けて、一枚の写真が表示された。征士郎は薄いピンク色のクッションに頭を預け、目を閉じていた。黒いシャツの襟元が乱れている。背景に見えるカーテンは、本家にも九条興業の休憩室にもないものだった。莉香の部屋だ。数秒後、三件とも送信を取り消された。『友達に送るつもりでした。ごめんなさい』『診察が終わって安心したら、征士郎さん、ソファで寝ちゃって』『怒らないでくださいね』以前の私なら、すぐ征士郎に電話をかけていた。どうして帰ってこないのか。なぜ莉香の部屋で眠っているのか。何もなかったと証明してほしいと、朝まで問い詰めていただろう。けれど、その夜は莉香をブロックし、スマートフォンを伏せた。もう、答えを聞きたいとは思わなかった。翌朝、九条興業の大阪本社へ出社すると、玄関前が騒がしかった。莉香が段差に足を取られ、尻もちをついたらしい。征士郎は彼女を抱き上げ、そのまま役員専用エレベーターへ向かっていた。「歩けます。下ろしてください」口では遠慮しながら、莉香の腕は征士郎の首に回っている。私に気づくと、彼女は征士郎の肩越しに、ほんの少し笑った。受付の社員たちは、目を合わせないようにしていた。九条組と関わりのない社員も多いが、征士郎の背景を知らない者はいない。私たちは、社内で夫婦であることを公にしていない。ここでの私は、創業時から経営企画を担当してきた九条部長だった。高木という若い社員が、声を潜めた。「早乙女さん、コピーするはずの書類をシュレッダーにかけそう
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第3話 離婚を告げた夜、黒い車が迫った

その夜、私は大阪・中之島の料亭を訪れた。九条興業の取引先である神戸港湾サービスの山田社長との会食のためだ。私は淡い色の訪問着に袖を通し、会食の席に着いた。神戸港周辺の物流施設をめぐる契約で、半年以上前から先方との調整を続けてきた。まさか征士郎が莉香を連れて現れるとは思わなかった。山田社長が到着する前に、二人は当然のように私の向かいへ腰を下ろした。事情がのみ込めないまま、私は二人に帰るよう告げた。「今夜は、神戸港湾サービスの山田社長と約束があります」征士郎が片眉を上げた。「山田社長は、俺に会いたくないとでも言ったのか」私は黙り込み、それ以上追い返すことができなかった。離婚を決めたとはいえ、征士郎が今も私の上司であることに変わりはない。ほどなくして山田社長が到着し、会食が始まった。仲居が日本酒を注ごうとしたとき、私は杯を伏せた。杯を伏せながら、妊娠が分かった日の診察で、医師から念を押された言葉を思い出した。「以前、交通事故で流産した際に子宮を損傷しています。今回妊娠できたこと自体、奇跡に近いことです」「もし再び流産すれば、今後の妊娠が極めて難しくなる可能性があります」「申し訳ありません。今日はお酒を控えさせてください」向かいに座る取引先の社長は、穏やかにうなずいた。「もちろんです。無理に飲む時代でもありませんから」それで終わるはずだった。「でも、澪さんって昔からお酒に強いんですよね?」莉香が無邪気そうに首をかしげた。私は冷ややかに言った。「誰から聞いたの」莉香の笑顔が凍りつき、不安げに征士郎を見上げた。「私、また何か余計なことを言ってしまいましたか……?」征士郎は莉香の髪を優しく撫でると、私へ冷たい目を向け、杯を取るよう命じた。「澪、たかが一杯だ。子どもでもあるまいし、いつまでも意地を張るな」私は杯に手を触れなかった。「飲めない理由があります」「体調が悪いのか」ようやく征士郎が私を見る。私は一度、息を整えた。「私、妊娠しています」座敷がしんと静まり返った。征士郎の指が、膝の上で止まる。「……いつ分かったの」「莉香さんが、あなたとの写真を投稿した日」莉香の笑顔が固まった。それでもすぐに立ち上がり、自分の杯を持った。「おめでとうございます。私、どうしてもお祝いしたいです」「やめろ」征士郎は反
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第4話 帰る場所に、私の部屋はなかった

入院していた三日間、征士郎は一度も見舞いに来なかった。退院する日になって、征士郎からようやくメッセージが届いた。『莉香の部屋で水漏れがあった。しばらく本家で預かる』私がどんな処置を受けたのか、彼は尋ねなかった。あの子がどうなったのかも、一度も聞こうとしなかった。ただの一言も。退院後、本家へ戻ると、九条家の門前に見覚えのない若い組員が立っていた。私を見るなり、彼は深く頭を下げた。それでも、門を開けようとはしなかった。「どうしたの?」「申し訳ありません、姐さん。莉香さんが身重なので、奥には誰も通すなと組長から言われています」「私も?」若い組員は、さっと顔を青ざめさせた。「すぐに確認してまいります」自分の家へ入るために、莉香か征士郎の許可を待たなければならない。あまりに滑稽で、思わず笑いそうになった。やがて、奥から莉香が姿を現した。身につけているのは私のエプロン――征士郎とお揃いで買ったものだった。「澪さん、退院したんですね。連絡してくれたら、迎えを出したのに」莉香は当然のように私を中へ通した。その振る舞いは、まるでこの家の女主人そのものだった。家の中には料理の匂いが漂っていた。莉香は台所へ駆け寄ると、明るい声を上げた。「征士郎さん、澪さんが帰ってきたよ!」台所から出てきた征士郎は、揃いのエプロンを身につけていた。私が買ったものの、子どもっぽいと言って一度も身につけなかったエプロンだ。今になってそれを身につけた姿を見ても、ひどく不格好にしか見えなかった。征士郎は私を一瞥すると、莉香に先に部屋へ戻るよう優しく言った。莉香は素直にうなずき、菓子の袋を抱えて、私たちの寝室へ入っていった。居間には、私と征士郎だけが残された。「そこは……私の部屋」「おまえの荷物は、離れの部屋へ移してある」「誰が触ったの?」征士郎は、その問いには答えなかった。「誰が勝手に退院していいと言った」私が答えずにいると、彼はそのまま続けた。「もういい。早く部屋へ戻って休め。明日は莉香の誕生日だ。父親を亡くしてから初めての誕生日だから、本家の身内だけでささやかに祝う」征士郎は一度言葉を切り、付け加えた。「化粧は薄めにしておけ。主役より目立つなよ」私は考えるまでもなく答えた。「予定があるの。二人で祝えばいいでしょう」征士郎が眉をひそめ
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第5話 三つ目の願いが消えた夜

翌日の夕方、私は約束どおり、本家の大広間へ向かった。身内だけのささやかな祝いだと聞いていたのに、襖の向こうからは若い笑い声がいくつも聞こえてくる。黒のワンピースに着替え、いつもより丁寧に化粧をして中へ入ると、征士郎が息をのんだ。しばらく私を見つめたあと、何も言わずに手を差し出してくる。その手を取る前に、莉香が征士郎の腕へ自分の腕を絡めた。「澪さん、本当に来てくれたんですね」笑顔は明るかったが、目だけは笑っていなかった。大広間には莉香の友人が数人と、見覚えのない男がいた。東京から来たという莉香の恋人、森川蓮(もりかわ れん)だった。長く続いている遠距離恋愛の相手らしい。蓮は壁際に座り、退屈そうにスマートフォンを眺めていた。やがて、征士郎が用意した三段のバースデーケーキが運ばれてきた。蝋燭の火を前に、莉香は胸の前で両手を組んだ。「願いごとは三つあります」無邪気な声に、周囲から笑いが起こる。「一つ目。征士郎さんが、これからも莉香を『面倒な子だ』って笑って許してくれますように」「二つ目。征士郎さんが、莉香のせいで澪さんを寂しがらせませんように」莉香はそこで私を見た。「三つ目。私の妊娠運を澪さんにもお裾分けして、澪さんと征士郎さんの間にも、早く赤ちゃんが授かりますように」拍手が起こるより先に、膝の上に置いていたバッグが畳へ滑り落ちた。口の開いたバッグから、一枚の書類が滑り出す。征士郎が拾い上げた。そこには、『流産手術後の注意事項』と印字されていた。征士郎の顔から、みるみる血の気が引いていく。「澪……これは、何だ」かすれた声だった。「いつの話だ」莉香が事情を知らないふりをして、私たちの間へ入ってきた。「征士郎さん、そんな怖い顔をしないでください。今日は私の誕生日ですし、みんなで楽しく――」「澪さん、ケーキを取り分けますね」「今は口を挟まないで」私が告げると、莉香の笑顔が固まった。「今日ここへ来たのは、征士郎が私の願いを一つ叶えると約束したからよ」バッグから離婚届を取り出し、征士郎の前へ置いた。「署名して」「これが、私の願い」征士郎は離婚届をつかみ、その場で二つに破いた。「ふざけるな」「病院の紙を一枚見せれば、おまえが妊娠していたと俺が信じるとでも思ったのか」私は訂正した。「妊娠していたの。もう、過去
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第6話 母は、玄関先に塩を撒いた

あの夜、征士郎は離婚届への署名を拒んだ。「離婚なんて認めない」破り捨てられた紙を見ても、説得しようとは思わなかった。翌朝、榊原先生に連絡し、家庭裁判所への離婚調停の申立てを依頼した。同時に、九条興業へ退職届を提出した。征士郎は、それさえ受け取ろうとしなかった。そこで改めて、内容証明郵便で退職の意思を通知し、残っていた有給休暇の消化に入った。征士郎と九条興業を支えるようになってから、まとまった休みを取ったことは、ほとんどなかった。皮肉にも、すべてを手放して初めて、私には休む時間ができた。本家を出た私は、福井にある実家へ向かった。キャリーケースを引いて玄関前に立ち、呼び鈴を押すか迷っていると、中から扉が開いた。買い物袋を提げた母が出てきた。私の荷物を見るなり、母の表情が険しくなった。「どうして一人なの。征士郎さんは?」私は黙ったまま、何も答えなかった。母は心配するどころか、露骨に顔をしかめた。「あれだけの家に嫁いだのに、追い出されて帰ってきたの?」「子どももできない、夫の心もつなぎ止められない。それでよく、のこのこ帰ってこられたわね」胸の奥に、冷たいものが落ちた。「毎年、私から五十万円は渡していたでしょう」「五十万円ぽっちで、恩を返したつもり?」母の声が、玄関先に響く。「大学まで出してやったのに、何の役にも立たないじゃない」「こんなことなら、早く働かせて、家に金を入れさせればよかった」私は黙って母の口元を見ていた。次々に吐き出される言葉が、不思議なくらい遠く聞こえる。外で散々傷ついたせいか、家に帰れば一言くらい、温かい言葉をもらえると思ってしまった。そんな自分が、ひどく愚かに思えた。キャリーケースの向きを変えると、母が慌てて家の中へ戻った。追いかけてきた母の手には、小さな塩の袋が握られていた。白い粒が、私の足元に散った。「来月、弟が婚約者を連れてくるの。厄を持ち込まないで」けれど、母はさらに続けた。「弟の結婚式の費用も、奨学金の返済もあるんだから、今年は五百万円くらい用意して」「九条家からの祝い金だと思えば、それくらい何でもないでしょう」私は離婚のことを言わなかった。言ったところで、母が心配するのは私ではなく、これから誰に金を頼ればいいのかということだけだ。濡れた雪が、コートの肩へ落ちては消えてい
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第7話 あの日の雪は、もう降らない

大阪へ戻る気にはなれず、福井駅の近くで泊まれる場所を探した。宿泊予約サイトを眺めていると、大学時代に征士郎と泊まったホテルが目に留まった。少し迷った末、そこに部屋を取った。内装は変わっていたが、窓の向こうに広がる冬の街並みは、あの頃とほとんど変わっていなかった。大学四年生の大晦日。些細なことで母に責められ、私は頬を打たれた。年が明けた直後、征士郎から電話が来た。声だけは明るく装ったつもりだった。けれど彼は、すぐに私の異変に気づいた。翌朝、家族が初詣へ出かけ、私だけが家に残された。スマートフォンに、短いメッセージが届いた。『窓から下を見ろ』半信半疑でカーテンを開けると、雪の中に征士郎が立っていた。電話を切ったあと、始発を乗り継いで大阪から来たのだという。荷物も持たず、薄いコートの肩に雪を積もらせて。私を見つけると、彼はあきれるほど優しく笑った。その瞬間、胸の中に積もっていたものが、すべて溶けていくような気がした。私たちは手をつなぎ、行くあてもなく冬の福井を歩いた。雪が降り続き、指先は凍えるほど冷たかった。それでも彼と歩いているだけで、春の陽だまりにいるようだった。その夜、二人でこのホテルに泊まった。窓の外に降り続く雪を眺めながら、誰にも言えなかった傷を打ち明け合った。征士郎は私の顔をまっすぐ見つめた。「卒業したら、結婚しよう」「俺たちが、互いの家族になればいい」「一生、澪を一人にはしない」ドアをノックする音で、過去の景色が途切れた。ルームサービスを頼んだ覚えはない。警戒しながらドアスコープをのぞき、息をのんだ。廊下に立っていたのは、濃い灰色のコートを着た征士郎だった。一瞬ためらったものの、ドアを開けた。「澪」驚きが引くと、居場所を知られた理由に気づいた。結婚後に設定していたスマートフォンの位置情報の共有を解除し忘れていたのだ。征士郎は、昔と同じように追いかけてくれば、私の心が動くと思っているらしい。「考えは変わらない。来ても無駄よ」彼の目が暗く沈んだ。「もう十分だろ。そろそろ機嫌を直せ」「おまえがいない本家は、家じゃない」「一緒に帰ろう」どこからそんな自信が生まれるのか分からなかった。「最後にもう一度だけ言う。怒っているんじゃない」「あなたに会いたくないの。帰って」それでも征士郎は動か
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第8話 その手に、もう触れられない

それ以上、征士郎と言葉を交わす気にはなれなかった。ドアを閉めようとした瞬間、隙間に革靴の先が差し込まれた。「何するの」征士郎はドアを押し返し、そのまま部屋へ入ってきた。後ずさる間もなく、背中が壁にぶつかる。次の瞬間、強い腕に抱き締められていた。「澪。もう一度だけ、やり直すチャンスをくれ」かつては安らぎをくれたはずの腕に、今は嫌悪しか覚えない。胸を押し返し、必死に身をよじった。「離して。警察を呼ぶ」征士郎は腕を緩めるどころか、耳元で低く笑った。「夫婦だろ。警察を呼んで、何て言うつもりだ」片手で私の手首を押さえ、もう一方の手で頬に触れる。「子どもを失ったから、俺が憎いんだろ」「だったら、もう一度つくればいい」「また子どもができれば、俺たちはやり直せる」あまりに身勝手な言葉に、怒りより先に寒気がした。「正気なの?」「無駄よ。もう妊娠は難しいって、医者に言われた」「前の流産のときだって、妊娠しにくくなると言われただろ。それでも授かった」「今度だって――」よくも、あのときの流産を平然と持ち出せたものだ。結婚して一年目のことだった。征士郎が九条興業を立ち上げ、組から距離を置こうとしていた頃だった。跡取りと決まっていた征士郎を、異母弟は幼い頃からひどく憎んでいた。ある夜、口論の末に逆上した異母弟は車に乗り込み、征士郎めがけてアクセルを踏んだ。考えるより先に、私は征士郎を突き飛ばしていた。征士郎は無傷だった。代わりに車にはねられた私は、路上に倒れた。病院へ運ばれて初めて、妊娠4週だったことを知った。そして、子どもを失ったことも。あの事故以来、後ろからエンジン音が聞こえるだけで、体がすくむようになった。しばらくは一人で横断歩道を渡ることさえできず、征士郎の手を握って歩いた。私が何を恐れているのか、征士郎は誰よりも知っていた。「あの夜、莉香のために私を脅したとき、どんな気持ちだった?」征士郎の喉が、わずかに動いた。「私が車を怖がる理由を知っていて、あえて車で脅したんでしょう?」「……やめろ」「言えないなら、代わりに言ってあげる」まっすぐに目を見返した。「そうすれば、私が一番怯えるとわかっていたから」征士郎の顔が、苦しげに歪んだ。「わかってる。俺は最低だ」「それでも、離したくない」「あれだけ愛し合った
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第9話 その動画は、全員に届いた

征士郎から連絡が途絶えて、三日が過ぎた。その間に九条興業の総務から、退職手続きを進めるという通知が届いた。私を叩いたあの瞬間、征士郎の中でも何かが切れたらしい。三日目の朝、私は大阪へ戻った。征士郎が本家の会合に出ている時間に合わせ、九条興業へ私物を取りに向かう。頬の腫れは引いていた。それでも左の頬骨に残った薄い痣だけは、コンシーラーを重ねても隠しきれなかった。使い慣れた手帳や万年筆を、デスクの引き出しから段ボール箱へ移していく。「姐さん、これも使ってください」振り向くと、若い男が空の箱を抱えて立っていた。高瀬直人(たかせ なおと)。九条組の若い衆で、今は九条興業の運転手をしている。あの夜、店の前で私を取り囲んだ二人のうちの一人だった。「ありがとう。そこに置いて」高瀬は箱を床へ置き、顔を上げた。その視線が、私の左頬に止まる。「その痣……」私は答えず、書類を束ね続けた。高瀬は何か言いかけ、結局、深く頭を下げた。「申し訳ありませんでした」何についての謝罪なのか、尋ねなかった。私はそれ以上、何も聞かなかった。片づけを終えると、最後に征士郎の社長室へ入った。莉香が持ち込んだキャラクターの置物が、今も棚に並んでいる。机の一番奥の引き出しを開けると、伏せられた写真立てがあった。結婚式の日の写真だった。紋付袴姿の征士郎と、白無垢姿の私。写真の中の二人は、何の疑いもなく笑っている。九条興業を立ち上げたばかりの頃、征士郎はこの写真を自分のデスクに飾っていた。けれど莉香が来てから、写真立ては少しずつ端へ追いやられ、やがて引き出しの中へ消えた。代わりに並んだのは、莉香の好きなものばかりだった。写真立てを箱へ収め、窓辺に立つ。眼下には、大阪の街が広がっていた。大学を卒業したばかりの頃、私たちは道の向かい側から、このビルを見上げたことがある。『いつか、こんな場所に自分たちの会社を持てたらいいね』そう言った私の手を、征士郎は強く握った。『必ず叶える。澪を失望させたりしない』征士郎は約束どおり、ここまでたどり着いた。そして、私を失望させた。段ボール箱を抱えてビルを出ると、正面玄関の脇に莉香が立っていた。私を待っていたらしい。以前は目立つほど膨らんでいた腹が、もう平らになっている。莉香は私の箱を見るなり、勝ち誇ったよ
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第10話 約束の席で、他人になった

翌日、高瀬とホテルのラウンジで会った。高瀬は席に着くなり、テーブルの上に小さな封筒を置いた。中には、小さなUSBメモリが一つ入っていた。「これは?」「あの夜の記録です」高瀬は膝の上で拳を握り締めた。「あのときは、組長に本家へ連れ戻せと命じられていました」私は黙って続きを待った。「姐さんが石段から落ちたあと、救急車を呼んだのは俺です」USBメモリに保存されていたのは、店の近くに止めてあった若い衆の車のドライブレコーダー映像だった。映像には、征士郎の車が速度を落とさないまま私めがけて突っ込み、衝突寸前で急ブレーキをかけるところまで、はっきり残っていた。その直後、車は方向を変えて走り去った。遠ざかる車のナンバーまで、はっきり映っていた。「どうして、今になってこれを?」尋ねると、高瀬は唇を噛んだ。「昔、俺が抗争で刺されたときのこと、覚えていますか」忘れるはずがなかった。警察沙汰になるのを恐れ、周囲の若い衆は救急車を呼ぶのをためらっていた。血だらけで倒れている高瀬を見つけ、周囲の制止を振り切って救急車を呼んだのは私だった。「姐さんが救急車を呼んでくれなかったら、俺は死んでいました」しばらく、高瀬を見つめた。「これ、榊原先生に渡してもいい?」「そのために持ってきました」「高瀬さんも、組には残れなくなるかもしれない」高瀬は顔を上げ、まっすぐに私を見た。「今回も見て見ぬふりをしたら、俺は一生後悔します」私はUSBメモリを封筒へ戻した。「ありがとう」それ以上、何も言わなかった。一週間後、私は大阪を離れた。東京で借りた部屋は、一人で暮らすには十分な広さだった。窓の外には、見慣れない街並みが広がっている。九条家の人間も、九条興業の社員も、ここには誰ひとりいない。そう思うだけで、ようやく息ができる気がした。高瀬から受け取った記録は、すべて榊原先生へ渡した。不貞の証拠に加え、車を使って私を脅した事実まで明らかになり、離婚調停は一気に進んだ。東京へ移って十日ほど経った頃、スマートフォンでニュースを眺めていると、九条興業の名前が目に入った。『九条興業、社長の不倫動画流出で複数社が取引停止』記事には、動画の流出をきっかけに情報管理の甘さが問題視され、会社の信用が急速に失われていると書かれていた。さらに、莉香と婚約関係にあっ
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