その夜、征士郎は珍しく九時前に本家へ戻ってきた。玄関に姿を見せただけで、若い衆の空気が張り詰める。黒いシャツの袖をまくった彼は、私の顔より先に台所のごみ箱へ目を向けた。中には、未開封の漢方薬が入っていた。不妊治療を始めてから、毎日欠かさず飲んできたものだ。「ずいぶん派手に拗ねたな」征士郎は箱を拾い上げ、眉間にしわを寄せた。「私、拗ねてないよ」「だったら、どうして捨てた」「もう必要ないから」妊娠したことを告げようとして、バッグの中の封筒に手を伸ばした。けれど征士郎は、私の言葉を待たなかった。「好きにしろ。子どもができなくて焦ってるのは、俺じゃない」差し出しかけた手を、膝の上へ戻した。征士郎は私の前に濃紺の箱を置いた。「莉香からだ」蓋を開けると、黒いパンプスが入っていた。有名ブランドのものだったが、新品ではない。靴底には外を歩いた跡が残り、右のヒールには小さな傷がついていた。笑わせるな。「あの写真で澪を怒らせたと思って、気にしてた」「これを、私に?」「まだ数えるほどしか履いていないらしい。あいつなりに考えたんだ。受け取ってやれ」征士郎が戻る三十分前、莉香は新しい靴の写真を投稿していた。淡いピンクの箱には、今季発売されたばかりのパンプスが収まっていた。『世界でいちばん頼りになる人から。こんなに甘やかされたら、だめになっちゃう』撮影場所は、征士郎の車の後部座席だった。「要らない」箱を閉じると、征士郎の目が険しくなった。「莉香はまだ二十四だ。父親を亡くして、頼れる身内も近くにいない」「恋人がいるでしょう」「大阪にも来ない男を、頼れると言うのか」「だから、あなたが代わりになるの?」征士郎の口元から、わずかに残っていた笑みが消えた。「あいつの親父は、俺をかばって死んだ」それは何度も聞いた言葉だった。莉香が九条興業で失敗しても、勝手に本家へ出入りしても、征士郎の私物に触れても。莉香が何をしても、最後はいつも同じ言葉で許された。「お父さんへの恩返しなら、何をされても許すの?」「澪。いい加減にしろ」征士郎が箱をこちらへ押し返した。角が額に当たり、鈍い痛みが走る。思わず顔を背けると、箱が畳へ落ちた。征士郎の表情が変わった。「悪い。わざとじゃない」伸びてきた手を避けた。「大丈夫」「赤くなってる」
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