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第7話

作者: 花見無双
禎子が怯えた目をしているのを見て、彼女が今日はもう死ぬ勇気はないと確信し、ほっと一息ついた。

しかし、彼女は相変わらず強情で、頑なに言い張った。

「それでもあたしは死ぬわよ。あなたが出て行ったら、ここから飛び降りる」

それを聞いて、俺は眉を上げ、ためらいもなく口を開いた。

「飛び降りか?それは俺の管轄外だ。ただな、この階じゃ低すぎるぞ。万一死にきれなくて、体が不自由になるだけならどうする?

おすすめはな、まずビニール袋を買ってきて、それから屋上まで直行。袋を頭に被せて、しっかり縛ってから飛べ。そうすれば確実に死にきれるからな」

「あんたッ!」

禎子は俺の言葉に激怒し、目を大きく見開き、身震いしているが、それでも我慢できずに尋ねた。

「どうして頭にビニール袋を被せなきゃいけないの?」

「地面に叩きつけられてグチャグチャになった君の脳みそを、清掃員が掃除する羽目になる。迷惑をかけることになるからな」

「なっ、なに言ってるのよ!」

禎子はその光景を想像すると、思わず目を閉じて、俺に向かって罵声を浴びせた。

そんな反応を見て、本当は死にたくはないんだと確信し、完全に安心した。

「よし、俺の消防職員証を返せ。もう行くからな。君は身支度して飛び降りる準備でもしとけ」

禎子に手を差し出した。

しかし彼女は抵抗するように首を振り、憤然として言った。

「渡さない。あなたの言う通りに死ななきゃいけない道理なんてないでしょ。さっきあたしの体を全部見たくせに、逃げようだなんて思わないでね」

「マジで、君とこんなことしてるヒマないんだよ。さっさと死んでくれ。俺は人を助けに行くんだ」

そう言うと、俺は禎子が油断した隙に、さっと消防職員証を奪い戻し、躊躇いもなく背を向け、大股でドアから出て行った。

彼女を救う意思はあるが、こんなわがままなお嬢様に対して、どうしても好感を持つことができない。

「待ちなさい!

あんたのこと、絶対に許さないからね!」

背後から禎子の叫び声が聞こえたが、聞こえないふりをし、自分の荷物を持ってその場を去った。

俺が去った後、禎子はスマホでこっそり撮った俺の職員証の写真をまじまじと眺め始めた。

絶世の美貌にほのかな笑みが浮かび、独り言を呟いた。

「よく見ると、イケメンじゃん……

第二消防隊、水草宏人。覚えたわ。

逃がさないからね」

……

この時、俺はすでに誰かにマークされていることに気づいていない。

ホテルを出た後、俺は一刻も早く消防隊に戻った。隊長が俺が予定より早く来たこと、しかも荷物を持っているのを見て、驚いた表情を浮かべた。

「宏人、どうして荷物まで持ってきたんだ?」

隊長が不思議がるのも無理はない。

消防士の火災現場突入は、命懸けの九死に一生の任務だといっても過言ではない。

防火服は生きている間から死ぬまで着るもので、荷物など持ってくる必要は全くない。

「家のことは全部片づけました。妻が俺の残した服を見て悲しむのが怖くて」

それについては、俺は一言でごまかすしかなかった。沙緒理との結婚生活が破綻したことを、誰にも話したくない。

「必ずしも帰ってこられないわけじゃないんだ……」

隊長はそれを聞き、複雑な眼差しでため息をついた。

「ちょうど連絡があってな、本部から消火設備が直接山際に空輸された。今すぐそっちに向う準備を!」

「はい!」

沙緒理と別れてから、死を覚悟したのか、表情に何の変化もない。

「だがな、状況が変わった。あっちは設備の支援もあり、運良く雨も降ったおかげで、火勢はもう制御された。

我々が今回向かうのは、主に後始末の任務だ。お前は実際、行かなくてもいいが……」

隊長の目に一瞬、ためらいの色が走った。

どうしても必要な場合でなければ、彼は俺に山火事の支援に行かせたくないんだ。俺に妻がいることを、気遣ってくれているのかもしれない。

「隊長、やはり行かせてください。一人でも多く、力になれますから」

隊長の言葉を聞き、俺は喜んだ。

火勢がようやく制御されたということは、もうこれ以上の死傷者が出ないことを意味しているからだ。

しかし、沙緒理との現状を考えると、心のすみに灯った一筋の光も、また消えた。

やはり行こう。

強く希望したため、隊長は結局俺を行かせることにした。

到着した時、山火事は完全に鎮圧されており、残るは被害の統計と負傷者の世話といった後片付け作業だけだ。

荒れ果てた光景を見て、俺はすべての雑念を振り払い、一心不乱に後片付け作業に没頭した。

何日もの間、俺は山際で寝起きし、食事もそこですませた。

今回の山火事は状況が深刻で、前線に行けなかったが、前線から連れて帰られてくる人々をこの目で見た。

何人の消防士がこの山火事で犠牲になったかわからない。何日もの間、次々と消防士の遺体が運び出され、どれも見るも無残な姿だ。

彼らのほとんどは近隣の町や村の消防士で、家族はとっくに山際に駆けつけ、遺体の引き取りに来た。妻が子供を連れて来て、泣き崩れている者もいる。

年老いた両親が震える足で前に進み出るが、現実を受け入れられず、その場で悲しみのあまり気を失ってしまう者もいる。

俺はこの悲痛な光景を見て、胸が苦しくなった。

ここに来てから数日間、沙緒理からの電話一本、メッセージ一通すら受け取ったことはない。

もし可能なら、俺はあそこに横たわっている人になりたい。犠牲になった消防士を家族の元に返してやりたい。

俺の妻は、一度だって俺を家族として扱ってはくれなかったのだから。

彼女にとって、俺はただのあってもなくてもいい存在に過ぎない。

……

一方その頃、沙緒理はちょうど会議を終えたところだ。

会議室のドアを踏み出したその瞬間、沙緒理の心は突然、理由もなくざわついた。

彼女は無意識に胸に手を当てた。なぜだかわからない。

傍らにいるアシスタント・中竹広喜(なかたけ ひろき)がそれを見て、心配そうに尋ねた。

「社長、お体の調子が悪いですか?午後の会議をキャンセルして、ゆっくりお休みになりませんか?」

「いいえ、大丈夫よ」

沙緒理は首を振ったが、何かを突然思い出したように、スマホを見た。

そこには宏人からのメッセージはない。

彼女はわずかに眉をひそめ、何とも言えない気持ちで口を開いた。

「この数日、宏人は大人しくしてる?ホテルから何か連絡はあった?」

「いいえ、社長」

広喜は首を振り、沙緒理がどうして突然宏人のことを持ち出すのか理解できないのだ。

社長が夫に気にかけたことは一度もなかったからだ。

「わかった。付いてこなくていい。ちょっと出かけてくる」

そう言うと、沙緒理は振り返りもせずに直田グループビルを後にした。

30分後、彼女はホテルのフロントに現れ、ブラックカードを差し出した。

「水草宏人のこの数日の出入り記録を調べてちょうだい」

「水草様はご宿泊になっておりません。初日に一度いらっしゃった後、すぐにお荷物をお持ちになって出ていかれ、それ以降戻られていません」

フロント係は沙緒理を見て、恭しく答えた。

「え?!」

それを聞いて沙緒理は眉をひそめ、少し不愉快に思い、その場で宏人のスマホに電話をかけた。

普段、彼女が自ら宏人に連絡を取ることは滅多にない。

せっかく電話したのに、相手の電源が切れているという案内音だ。

これで沙緒理の眉間のしわはさらに深くなった。

「宏人、あなたはいったい何を企んでいるの?」
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