……そう考えると、彼がこの2年でやらかしてきたことの数々が、後悔とともに蘇る。 あの馬鹿げた日々を思い出すたび、胸がヒリつく。 せめて、彼女が――結月が、りおとのことを知らないままでいてくれたのが、唯一の救いだった。 もし知っていたら、どんな目で自分を見ただろうか。想像しただけで、背筋が凍る。 私たちが結婚してから―― 私はずっと自分の仕事を続けてきた。慎也も相変わらず仕事人間で、寝る暇もないくらい忙しい日々だったけど、私の夢を誰よりも応援してくれた。 それから5年。私の事業も安定し、小さなデザインスタジオを構えるまでに成長して――そして、ついに子どもが生まれた。 あの「海都のカリスマ実業家」とも呼ばれる藤沢慎也が、今では毎日娘のミルクの飲み具合や、私がちゃんと休めてるかどうかを気にするパパになってるなんて――誰が想像できただろう。 普段は保育士さんが面倒を見てくれてるけど、慎也が帰宅するや否や、すぐさま「交代!」とばかりに抱っこを奪っていく。 「自分で育ててこそ、絆が深まるんだよ」 そう信じて疑わない彼の子育てスキルは、もうプロ顔負け。おむつ替えもミルクもお風呂も完璧。正直、私よりも手際がいいかもしれない。 出産後の数ヶ月を除いて、私はずっと仕事に関わってきた。 娘が4歳になり、幼稚園に通い出したある日―― 慎也が娘を連れてスタジオまで迎えに来てくれた。その時、ふたりの可愛いやり取りが耳に入ってきた。 「ねぇパパ、どうしてママって働いてるの?パパがすっごくお金持ちって、知らないの?」 慎也は優しく娘の頭を撫でながら、笑った。 「もちろん知ってるよ。パパのお金はすべてママのものだから、ママが知らないわけないでしょ」 「じゃあなんで働くの?うちの幼稚園のお友達のママたちは、働いてない人多いんだよ。そしたらずーっと一緒にいられるのに」 「ママはね、まず『ママ』の前に『桐島結月』っていう一人の人間なんだ。やりたいことも夢もある。だから、そんなママを応援するべきだと思わない?」 娘は、よくわかってない顔をしながらも、コクリとうなずいた。 「うん、じゃあママが帰るまで、おりこうに待ってようね」 そんな父娘の会話をこっそり聞きながら、私は胸がじんわりとあたたかくなった。 ――そうだよね、夫婦
隼人が私を追いかけてきた時は、確かに必死だった。毎日会いに来て、あれこれ気を遣って、周囲の男たちを遠ざけていた。 あの頃の慎也にも、誤解を与えていたかもしれない。 でも、ぐるぐると時間が巡っても、こうして私たちはまた出会えた。 あの時の「ただのお見合い」――それが、10年越しの運命だったなんて。 プロポーズの映像はあまりにも幻想的で、式場のスタッフが動画をSNSにアップした瞬間、爆発的に拡散されていった。 「藤沢慎也の婚約者は、桐島結月」 たった一夜で、私の名前はネットの海を駆け巡った。 隼人が、慎也のプロポーズ動画を見たのは、夜中のことだった。 誰もいない部屋。結月のいなくなったその部屋は、空っぽで、生気すら感じられなかった。 最近は、夜になると眠れない。というか、ちゃんと眠れた日なんて、もういつからなかっただろう。 なんとなくスマホを開いて、SNSをぼんやり眺めていた。そこで目に飛び込んできたのは、バズっている1本の動画―― 「プロポーズ映像」という文字と一緒に、サムネイルには、結月の満面の笑顔が映っていた。 その瞬間、彼の体は凍りついた。 最後にあんな風に笑う彼女を見たのは、いつだったろう。 ……ああ、そうか。彼女は、俺のそばでは、あんな風に笑えなかったんだ。 彼女の幸福は、世界中の人が見られるのに――その隣にいるのは、俺じゃない。 胸の奥がズキンと痛んで、鼻の奥がつんとした。何かが抜け落ちたような喪失感に襲われる。 「……本当に、失ったんだな」 隼人は、映像を一コマずつ噛みしめるように見続けた。笑う彼女。泣きながら指輪を受け取る彼女。幸せそうに見上げる彼女。 これでもう、完全にわかった。 「俺……本当は、まだ彼女を愛してたんだ」 あんなに思ってたじゃないか。もう気持ちは冷めたって。りおと一緒になれば、それでいいって。 でも、結月が完全にいなくなった今、心の奥底がスカスカで、どんなものにも興味が湧かない。 りおが何度も連絡してきた。でも、画面を見る気にもなれなかった。 ――結月がいないと、俺の世界には、何の彩りもない。 今になってやっとわかった。彼女は俺にとって、水みたいな存在だったんだ。 特別な味はない。でも、ないと生きていけない。そんな、当たり前のようで
私はただ、彼をじっと見ていた。冷ややかに。そして、一言も返さなかった。 たぶん――彼は、いまだに自分が何を間違えたか、わかっていない。 彼は、私が藤咲りおとのことを知らないと思っている……たとえ、ふたりが一緒にいる場面に出くわしても、私は何も聞かなかったから。 でも――聞かないのは、気にしていないからじゃない。 ただ、もう心が冷めてしまっただけ。 藤咲は、ずっと前に私の連絡先を手に入れて、わざわざ見せつけてきた。隼人がどれだけ彼女を可愛がってるかって。 でも、私は彼にそのことを言うつもりはなかった。 彼のSNSの投稿を見たことも――話す気はない。 言う必要なんて、どこにもない。 彼には何度も立ち止まるチャンスがあった。 それでも彼は何もしなかった。 ただ、私が気づいていないことに安堵していただけ。 ……今ごろになって隼人が焦り出したって、もう遅いのにね。 私の誕生日は6月。あの頃、慎也はすごく忙しかった。元々が有名な仕事人間だし、関係が深まってからは毎日のように会っていたけれど、最近は出張続きで顔を合わせることも減っていた。 その間、私は彼の後押しもあって、ずっと昔に諦めかけていた絵をまた描き始めていた。小さい頃から10年も続けていたのに、家族に「芸術なんて将来性がない」と言われて、結局、理系に進んだ私。 それでも大学では絵を描き続けていて、デザインも副専攻で学んだ。卒業してからはフリーのデザイナーとして活動していたけど、当時は隼人に振り回される日々で、貴重な時間をずいぶんと無駄にしていた。 先月、大きな案件を受けてからは、スケジュールがパンパンで、慎也の仕事の付き合いにもなかなかついていけなかった。 そんなある日、遥から連絡が来た。 「結月~、今日は誕生日でしょ?夜、碧海ホテルね!絶対に来てよ~!」 ホテルは海沿いにあって、私は車を走らせて向かった。到着すると、遥がニヤニヤしながら待っていて、「サプライズあるよ~」と目隠しをされ、そのまま手を引かれて砂浜へ。 「はいっ、ここだよ結月!目、開けていいよ!」 スカーフを外すと、目の前には夢みたいな光景が広がっていた。 海辺に立つ巨大な光の城。夜空には花火が咲き乱れ、地面には無数のバラの花びら。 その真ん中に、久しぶりに見る慎也が
隼人は、私に婚約者がいるという事実を、どうしても受け入れられないらしい。 慎也が、静かにその言葉を遮った。 「もういいだろ。別れた相手をいつまで縛ると思う?」 「はっ、8年だぞ、8年。8ヶ月じゃない。お前にわかるはずがない。そもそもお前ら、知り合ってどれだけだ?結局、俺の代わりでしかないんだよ」 隼人は鼻で笑いながら皮肉を飛ばす。それに対して慎也も、ピシャリと言い返した。 「で?8年付き合って、尻尾振ってすがるだけの男よりマシだな。悪いけど、彼女と結婚するのは俺だ」 言い負かされた隼人は、私に向き直った。 「結月、お前、そいつのことどこまで知ってるんだ?こんなすぐに結婚決めるなんて、どうかしてる。そいつの立場で、たった数回しか会ってない女と結婚なんてするか?俺は聞いたんだよ。そいつ、今まで誰とも付き合ったことないって。それって、どこかおかしいからじゃないのか?あんなの、お前に結婚という名の仮面をかぶせてるだけだ!」 私はひとつ、ため息をついた。 「あんた、間違ってる」 高校に入ったばかりの頃、「藤沢慎也」って名前は何度も耳にした。けど、当時の私は、ただの噂程度にしか思ってなかった。 実際に彼を見て、初めて気づいた。あのときの評判じゃ全然足りない。そんな男だった。 私は遥との関係で、彼と何度か顔を合わせた。その後、生徒会でも少しの間、一緒に活動した。 人を好きになるのって、本当に一瞬だったりする。ひとつのしぐさ、ひとつのまなざし。 それだけで、心に深く刻まれてしまうこともある。 私にとっての慎也は、まさにそうだった。 彼と関わるあいだ、私はずっとその想いを胸の奥に隠していた。 遥にさえ、一度も話したことはなかった。 やがて彼は卒業し、最難関の大学に進学した。 私はただ静かに応援することしかできず、 たまに遥の話の中から、断片的に彼の近況を拾い集めていた。 高校から大学にかけて、私に好意を寄せてくれた人は少なくなかった。 でも―― 最初に好きになった人が完璧すぎた。 そのせいで、その後に出会った誰にも、心が動かなかった。 そして、大学二年のある日。 彼が海外に行くという話を聞いて、私はようやく気づいた。 ……私たちは、もう交わることのない道を歩いているのだと。
……俺、どんだけ勝手だったんだろうな。 今さら、どんな顔して行けっていうんだよ。 すると横から、北条武(ほうじょうたけし)がぽんっとアイディアを出してきた。 「そういえば、来月って海都のビジネス交流会があるよな。隼人が会社代表で出席して、あっちには藤沢グループが当然出てくるだろう。 それにさ、結月さんって情に厚いタイプだろ?お前ら8年だぞ?あいつらはたかが数ヶ月、勝てる勝負じゃん」 隼人は無言のまま指先でテーブルをコンコンと叩いた。そして、静かに言った。 「……いいだろう。北条、お前も一緒に来い」 「結月!」 まさか海都で、あの声を聞くことになるなんて―― 洗面所から出て、ホテルの長い廊下を歩いていたときだった。その声は、あまりにも聞き慣れていて、思わず立ち止まってしまった。 声の方へ目を向けると、隼人が壁に寄りかかって、グラスを手にしながら私を見ていた。目を細めて、じろじろと観察するように。 ――まさか、ここで待ってたの? 「……なんであんたがここにいるの?」 「なんでって……この廊下、お前の所有地か?」 「聞いてるのはそれじゃない。ここのビジネス交流会に、なんで来てるのかってこと」 「お前が来てて、俺が来ちゃいけない理由ある?」 ……酔ってる。 それがすぐにわかるほど、彼の態度は荒れていた。私は関わりたくなくて、そのまま背を向けて歩き出す。けれど、彼がすぐに追いかけてきた。 「やっぱり……あの男と付き合ってるんだな?」 私は足を止め、言い直す。 「『あの男』じゃない。彼は――私の婚約者よ」 「婚約者?……そんなに結婚したかったのかよ」 彼の大きな声が響いたせいで、徐がやってきた。私を見ると、少し困ったように肩をすくめる。 「結月ちゃん……隼人は結月ちゃんに会いたくてここまで来たんだ。自分のバカさに気づいて、謝りたいって。最近、ずっとろくに食べてなくて、寝てもいないらしい」 「結月?」 そのとき、廊下の反対側から、慎也の声がした。 彼の姿を目にした瞬間、隼人の様子が一変した。目を真っ赤にして、私を睨むように見つめてきた。 「結月、俺な、この数日ずっと考えてたんだ。お前、あいつにはっきり言ってくれ。お前ら二人は合わないって、そう言ってくれよ。そしたら、また元通
「いいよ、もらっとけ。気にすんな。遠慮したら損だからな」 その場にいた何人かも、それに続くようにプレゼントを差し出してきた。 慎也は全部受け取るように言う。 「変な遠慮はいらない。こんなの、大したことじゃないから」 私は彼にこっそり聞いた。 「ねえ、もしかして今日の集まりって、私をみんなに紹介するため?」 慎也は私の首筋に顔を寄せて、耳元でそっとささやいた。 「そうだよ、結月。俺には婚約者がいるって、ちゃんと世界に知らせたかったんだ。 愛してるから、君を俺の世界のすべてに繋げたい」 隼人は、あの同窓会で結月にフラれて以来、ずっとイライラしていた。 家でケンカするのはまだしも、あんな大勢の前で結婚を迫ってくるなんて――面子を潰されたとしか思えない。 ずっと優しくて従順だった結月が、突然「他の人と結婚する」なんて、信じられなかった。 しかも「海都の婚約者」?あれは明らかに嘘だ。どこかで急遽連れてきた男だろう、あわや騙されるところだった。 仲間たちが「結月はどうなった?」と聞いてきたとき、隼人は余裕の態度だった。 「まあ、まだ怒ってるだけだろ。放っておけ。 アイツは早く結婚したいんだ。でも俺はあと2年は遊びたい。あれこれ策略で結婚を迫ってきたけど、俺には通用しないね」 そう言って、口元にうっすら笑みを浮かべた。 「長く付き合うとさ、やっぱ良心ってもんが必要になるんだよ。俺が冷たいヤツなら、もうとっくに別れてるっての」 けれど――2ヶ月後、また誰かが話を蒸し返した。 「隼人、結月ちゃんからどれくらい連絡来てない?」 その瞬間、心臓がズキリとした。言葉が出てこない。確かに、結月からはずっと音沙汰がなかった。 彼女がいなくなった部屋は、ただの冷たい箱になった。 「いや、結月ちゃんってあんなにおっとりしてたのに、今回はマジでキレてる感じだよね……」 そのとき、山田毅(やまだつよし)が躊躇いがちに口を開いた。 「隼人さん、聞いたんですけど……結月さん、今、海都の藤沢家の御曹司と付き合ってるって」 海都、藤沢家……あの男の名前は―― 「……藤沢慎也か?」 隼人が低く問い返すと、彼は大きくうなずいた。 「そうそう、そいつっすよ。藤沢慎也って、昔は女性関係まったくなかったらし