Short
風はもう、ここにはいない

風はもう、ここにはいない

Oleh:  水無月ねこTamat
Bahasa: Japanese
goodnovel4goodnovel
21Bab
28Dibaca
Baca
Tambahkan

Share:  

Lapor
Ringkasan
Katalog
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi

六年続いた、誰にも知られない結婚生活。 ある日、夫がかつて愛した女性が戻ってきた。 私はそっと子どもの手を取り、その場所を彼女に返すことにした。

Lihat lebih banyak

Bab 1

第1話

誰にも知られることなく続いてきた、六年の結婚生活。

その今夜、橘真澄(たちばな ますみ)は、初めて娘と「高い高い」をした。

五歳になる心羽(こはね)は無邪気に笑いながら、手を振って篠原柚希(しのはら ゆずき)に声をかけた。

「ママ、叔父さんがね、空に飛ばしてくれたよ!」

その光景を見つめながら、柚希の胸の奥には、やり場のない切なさが広がっていた。

それでも、母として微笑みを作る。せめて、この瞬間だけでも、娘の笑顔を壊したくなかった。

真澄は、酔っていた。何をしているのか、自分でもわかっていないのだろう。

彼は心羽を愛していない。柚希のことも。

今夜、彼が機嫌が良い理由はただ一つ―

彼の「本当に愛した人」水原玲奈(みずはら れいな)が、帰ってきたからだった。

六年前、真澄と玲奈は情熱的に愛し合っていた。

だが、ある日彼女は何の前触れもなく姿を消し、彼は彼女を追う途中事故に遭い、下半身不随となった。

柚希は彼の専属秘書として、昼夜を問わず彼の傍に付き添い、怒りも絶望も黙った受け止め、励まし続け、リハビリにも付き合っていた。

そして、ある日。

彼が奇跡のように立ち上がれたその夜、酒に酔った真澄は彼女を玲奈と勘違いし、狂おしいほど何度も求めた。

その夜、柚希は身ごもった。

真澄は責任を取るように、結婚に同意した。

だが、後になってすべてを知った。彼が結婚を決めたのは、責任感でもなく、愛情でもなかった。

彼はただ、海外で玲奈が海外で他の男と交際しているというニュースを見たから、柚希と結婚したのだった。

結婚後の彼は、まるで存在しないかのように、柚希と娘の生活には一切関わろうとしなかった。

心羽が生まれた日、彼はわざと出張を入れ、病院には現れなかった。

娘が言葉を覚え始めた頃、「パパ」と呼ぶことすら禁じた。

心羽がスケートボードでバランスを崩したとき、ただ一度「パパ」と呼んだだけで、彼は冷たい目を向け、彼女が頭を打って血を流す姿を、ただ、見ていた。

……

だが、今夜の彼は、まるで父親そのものだった。

娘を抱っこした後、ソファにそっと下ろし、柔らかな笑みを浮かべた。

「俺、いいパパになるよ」

「うん、心羽はパパを信じてる!」

彼はその言葉を聞いたのか聞いていないのか、微笑みを残したまま背を向け、口元からぽつりと名をこぼした。

「大翔……」

その名は、玲奈の息子だった。

そうか、彼は大翔の「いいパパ」になるつもりなんだ。

柚希の心が、氷のように冷たく凍りついた。

けれど、心羽はその名前には気づかず、満面の笑みで柚希のもとへ走り寄ってきた。

「ママ、パパって私のこと好きなんだよね?もう『パパ』って呼んでいい?

だってね、抱っこしてくれたし、『いいパパになる』って言ってくれたんだよ!」

その瞳には、希望と憧れが宿っていた。

他の子どもたちのように、パパの胸に飛び込んで、甘えたい。それが心羽の、ささやかだけれど、ずっと抱いてきた願いだった。

柚希は娘を抱き寄せ、込み上げる涙を必死に堪えた。

娘には、この一瞬の幸せが、他の「おばさん」とその息子のおかげだなんて、絶対に知られたくなかった。

「心羽……ママと一緒に、この家を出ようか?」

「え……なんで?」心羽の笑顔は一瞬にして消え、ぽろぽろと涙が溢れ始めた。

「だって……私たち、家族でしょ?パパと一緒にいたいのに……」

柚希は娘の涙をぬぐいながら、震える声で答えた。

「おじさんの本当に好きな人が、帰ってきたの。だから、もうここにはいられないの」

「でも……パパ、私のこと好きって言ってくれたのに……」その声はだんだん小さくなっていった。

きっと心羽自身も気づいているのだ。真澄が、自分を愛していないということに。

「ママ……お願い。誕生日までは待ってて。パパにあと数回だけ、チャンスをあげよう?パパが本当に私たちを好きになってくれるかもしれない。もし、そうなったら、この家に残ろう……」

柚希は涙をこぼしながら、静かに頷いた。

「うん。何回チャンスをあげるかは、心羽が決めていいよ」

そう、最後のチャンスをあげよう。

それでも彼が変わらなければ、きっと彼女たちは、永遠に彼の世界から姿を消すことになるだろう。

「うん、ありがとうママ!」

「そろそろ寝る時間よ」

娘を寝かしつけたあと、柚希は静かに自分の部屋へ戻った。

もうこの結婚に、形だけの意味すらない。繕うべき関係も、もう残っていない。

翌朝。真澄は目を覚まし、階下に降りてきた。

心羽は朝食中で、彼を見るなり、嬉しそうにパンを置いて駆け寄ってきた。

「パパ、おはよう!」

その瞬間、真澄の顔が冷たく曇る。

「今、なんて呼んだ?」

心羽の小さな腕が空中で止まり、表情が凍りついた。

「おじさん……ごめんなさい、おじさん……」

柚希は感情を押し殺して娘を抱き上げた。

「さ、朝ごはん食べようね。学校、遅れちゃうよ」

真澄の態度は何も変わっていなかった。

昨日の優しさは、玲奈が帰ってきた嬉しさと酒の勢いに任せた、ただの気まぐれ。

真澄は少し表情を和らげ、ダイニングでコーヒーを一口すすると、何の挨拶もなく家を出て行った。

「おじさん、いってらっしゃい!」

心羽はいつものように、背中に向かって声をかけた。

けれど、真澄は一度も振り返らなかった。

登校途中、心羽はずっとうつむいたままだった。

学校が近づく頃、彼女はふと顔を上げ、柚希を見つめながら小さく言った。

「ママ……これで、一回目だよね?あと三回だけ、チャンスあげようね……」

その瞳には、静かに涙が浮かんでいた。

柚希は、心が張り裂ける思いでその姿を見つめ、優しく微笑みながら答えた。

「うん。心羽の言うとおりにしようね」

Tampilkan Lebih Banyak
Bab Selanjutnya
Unduh

Bab terbaru

Bab Lainnya

Komen

Tidak ada komentar
21 Bab
第1話
誰にも知られることなく続いてきた、六年の結婚生活。その今夜、橘真澄(たちばな ますみ)は、初めて娘と「高い高い」をした。五歳になる心羽(こはね)は無邪気に笑いながら、手を振って篠原柚希(しのはら ゆずき)に声をかけた。「ママ、叔父さんがね、空に飛ばしてくれたよ!」その光景を見つめながら、柚希の胸の奥には、やり場のない切なさが広がっていた。それでも、母として微笑みを作る。せめて、この瞬間だけでも、娘の笑顔を壊したくなかった。真澄は、酔っていた。何をしているのか、自分でもわかっていないのだろう。彼は心羽を愛していない。柚希のことも。今夜、彼が機嫌が良い理由はただ一つ―彼の「本当に愛した人」水原玲奈(みずはら れいな)が、帰ってきたからだった。六年前、真澄と玲奈は情熱的に愛し合っていた。だが、ある日彼女は何の前触れもなく姿を消し、彼は彼女を追う途中事故に遭い、下半身不随となった。柚希は彼の専属秘書として、昼夜を問わず彼の傍に付き添い、怒りも絶望も黙った受け止め、励まし続け、リハビリにも付き合っていた。そして、ある日。彼が奇跡のように立ち上がれたその夜、酒に酔った真澄は彼女を玲奈と勘違いし、狂おしいほど何度も求めた。その夜、柚希は身ごもった。真澄は責任を取るように、結婚に同意した。だが、後になってすべてを知った。彼が結婚を決めたのは、責任感でもなく、愛情でもなかった。彼はただ、海外で玲奈が海外で他の男と交際しているというニュースを見たから、柚希と結婚したのだった。結婚後の彼は、まるで存在しないかのように、柚希と娘の生活には一切関わろうとしなかった。心羽が生まれた日、彼はわざと出張を入れ、病院には現れなかった。娘が言葉を覚え始めた頃、「パパ」と呼ぶことすら禁じた。心羽がスケートボードでバランスを崩したとき、ただ一度「パパ」と呼んだだけで、彼は冷たい目を向け、彼女が頭を打って血を流す姿を、ただ、見ていた。……だが、今夜の彼は、まるで父親そのものだった。娘を抱っこした後、ソファにそっと下ろし、柔らかな笑みを浮かべた。「俺、いいパパになるよ」「うん、心羽はパパを信じてる!」彼はその言葉を聞いたのか聞いていないのか、微笑みを残したまま背を向け、口元からぽつりと名をこぼした。
Baca selengkapnya
第2話
柚希は娘の心羽を幼稚園に送り届けると、その足で法律事務所へ向かった。鞄から取り出したのは、真澄がかつて用意していた離婚協議書。今もなお効力があるのか、彼女は静かに問いかけた。彼との結婚には、最初から「条件」があった。それは彼が望めばいつでも離婚できるということ。そして彼女には、それを拒む権利すらなかった。その協議書は、婚前から用意されていた。日付欄は空白のままだが、真澄の署名だけは、はっきりとそこに記されていた。法的に有効であると確認がとれると、柚希は迷うことなく自身の名を記し、離婚手続きを弁護士に託した。「お手数ですが、離婚が成立次第、関連書類をこの住所にお送りいただけますか?」彼女が差し出した紙には、現在住んでいる邸宅の住所が書かれていた。鼻の奥がツンとと熱くなる。込み上げる涙をこらえるように、柚希はそっと顔を上げた。彼を、愛していた。本当に、心から。結婚後も懸命に努力し、未来を信じていた。けれど、何度も冷たく突き放されるたびに、胸の中の灯は音もなく、消えていった。そして、玲奈が戻ってきた今、ようやく悟ったのだ。もう、自分の役目は終わったのだと。だが、運命の皮肉か、事務所を出て立ち寄ったショッピングモールのエントランスで、柚希はそのふたりの姿を目にしてしまった。玲奈は、美しかった。強く、自由で、惹きつけるような野性味を纏いながら、真澄の腕に身を寄せ、満面の笑みを浮かべていた。そして真澄は、片腕に彼女の息子を抱き、その眼差しには惜しみない優しさが宿っていた。柚希の呼吸が止まる。かつて、自分と心羽にも夢見た光景が、そこにはあった。耐えきれずに、涙が頬を伝う。それでもなお、彼らを見つめ続けていた。切なさを押し殺しながら、ゆっくりと背を向けた。邸宅に戻ると、彼女は静かに履歴書を整え、作品データを添えて、A国にある志望企業数社へと応募メールを送信した。そして辞表をプリントアウトし、迷うことなく会社へ向かった。結婚後、真澄によって第一線から外された柚希は、今やただの事務職員に過ぎなかった。退職は簡単だった。引き継ぎさえ終えれば、すぐにでもこの場所を去ることができる。人事との手続きを済ませ、デスクに戻って荷物を整理していると、やがて廊下からざわめきと足音が聞こえてきた。顔を上げた瞬
Baca selengkapnya
第3話
心羽の身体がぴたりと固まり、そっと顔を上げた。視線の先には、真澄の腕に抱かれた大翔の姿があった。真澄は、大翔を優しく抱きしめていた。その目に浮かぶ慈しみの色を、心羽は一度も見たことがなかった。真澄と目が合うと、彼はほんの一瞬だけ腕の力を緩めた。しかし、それだけだった。心羽は切なげに目を潤ませたが、真澄はその視線からそっと目をそらした。「大翔、だめよ。また真澄パパに抱っこさせて……降りてちょうだい」玲奈がやわらかくたしなめても、大翔は首にしがみついたままだった。「やだ。ぼく、真澄パパがいい。真澄パパも、ぼくのこと好きだもん!」そう言って、彼は真澄の頬にキスをし、「ケーキ食べたい」と甘えた声でささやいた。「ふふっ、じゃあ行きましょう。真澄、行こう?」玲奈は彼の腕にそっと手を添え、数歩進んだあと、わざとらしく振り返る。「篠原さんも、早く来てくださいね?」柚希はその場にしゃがみ込み、涙を浮かべる心羽の頬に手を添えた。「ママ……あの人たちが、叔父さんの好きな人なんだよね?」その一言に、柚希の心が崩れた。娘を強く抱きしめ、二人して声もなく泣いた。あまりに残酷な現実。大人でさえ耐え難い光景を、幼い心がどれほどの痛みで受け止めているのか。柚希は何も言えなかった。でも、心羽にはもう分かっていた。言葉は、必要なかった。「ママ、もう一度だけ見に行きたい」涙をぬぐい、小さな手を差し出す。「叔父さんが好きな人って、どんな人か、ちゃんと見ておきたいの」「……心羽、帰ろう。もう、十分よ」柚希は、これ以上彼女を傷つけさせたくなかった。けれど、心羽は強く首を横に振った。「行きたいの」「……わかった」ふたりは手を繋ぎ、宴会場の扉を静かにくぐった。華やかな光と笑い声に満ちた空間。その中心には、眩しいほどに輝く三人の姿があった。部屋の隅に腰を下ろし、柚希と心羽はただ黙って、その光景を見つめていた。心羽の視線は、ずっと真澄を追っていた。大翔に向けるその優しさ、微笑み、気配り——それは、心羽が一度も与えられたことのない、夢にまで見た「父親」の姿だった。真澄が果物を一つずつ丁寧に口へ運んでやる様子を見て——心羽は静かに立ち上がった。「ママ、叔父さん……本当に、あの人たちのことが好きなんだね
Baca selengkapnya
第4話
心羽が病院に運び込まれたとき、すでに意識は失われていた。診察を終えた医師は、柚希に向かって冷たく言い放った。「こんな状態になるまで放っておくなんて……母親失格ですね」柚希は何も言い返さなかった。いや、言葉にできなかった。胸の奥で、同じ言葉を何度も自分に投げつけていたから。あの人が心羽を愛していないことなど、とっくに分かっていたのに。それでも、彼に託してしまった。「……パパ……パパに会いたい……」熱に浮かされた心羽のかすれた声が、病室の空気を震わせる。頬は赤く火照り、濡れた髪には涙が絡みついた。「ママ……パパに抱っこしてほしい……いい子にするから……」その震える声を、何度も、何度も。そのたびに、柚希の心は軋み、音を立ててひび割れていく。こんな時でさえ、まだ父の愛を求めているか。柚希はスマホを取り出し、躊躇の末に真澄へ電話をかける。……出なかった。仕方なく、短いメッセージを打つ。【心羽が高熱で入院しています。可能であれば、病院まで来てあげてください】送信ボタンを押した指先が、じんと冷えていた。しかし、朝になっても返事はなかった。代わりに、目に飛び込んできたのは——玲奈のSNS。華やかな夜景を背景に、幸せそうな三人の写真が投稿されていた。心羽を放置したまま、彼は微塵の後悔も見せず、まるで何事もなかったかのように無関心でいた。それを見た瞬間、柚希の中に微かに残っていた希望は、静かに、確かに、消え去った。あの人にとって——心羽は最初から、「いないも同然」だったのだ。そして、柚希自身もまた。彼女は眠らずに、娘のそばに付き添い続けた。そして、夜が明ける頃——「……ママ、ごめんね。心配かけちゃって……」目を覚ました心羽の、あまりにも大人びた声が、柚希の胸を締め付けた。「バカね、謝ることなんてないのよ」——本当は、自分が謝らなければならなかった。「パパの愛を与えてあげられなくて、ごめんね」柚希は心の中でそう呟いた。「ママ、泣かないで。もう大丈夫だから」「……うん、泣かない」柚希は心羽を抱きしめた。その小さな身体はまだ熱を帯び、腕の中でかすかに震えていた。三日間の入院を経て、退院の日。ようやく真澄から、ひとつのメッセージが届いた。【まだ病院か?迎えに行く】
Baca selengkapnya
第5話
二時間後、心羽はようやく部屋のドアを開けた。小さな腕にはぬいぐるみのクマをしっかり抱きしめ、目は泣き腫らして真っ赤に膨らんでいた。そのクマは、真澄が彼女に贈った、たった一つのプレゼント。心羽にとって、それは大切な「証」だった。「ママ、もういらない」無理に口角を上げて、笑顔を作りながら、それを柚希に差し出す。「叔父さんには、あと二回しかチャンスないの」「……うん」柚希は、受け取ったクマをそっと抱きしめたまま、言葉を見つけられずにいた。「ママ、誕生日パーティーをしたい。お友だちを呼んで……みんなでお祝いしたいの。いい?」心羽が顔を上げて言うその声は、わずかに震えていた——けれど、どこか、希望を託すような響きがあった。「……もちろんよ」そう答えながら、柚希は知っていた。それは、娘が真澄に残した「二つのうちの一つ」最後のチャンスなのだと。これまで、誕生日はいつもふたりきり。飾り付けも、ケーキのロウソクも、歌も拍手も、全部ママ一人。そして真澄は、一度たりとも姿を見せたことがない。気にしたこともなかったのだ。心羽はまだ咳が残っていたため、数日学校を休ませることにした。週末。ふたりは遊園地へ出かけた。柚希はベンチに座り、スマホでパーティー会場を調べていた。そんな折、不意に耳に飛び込んできたのは——心羽の泣き声だった。顔を上げると、大翔が心羽の持っていたおもちゃを無理に奪おうとしていた。心羽が渡さなかったことで、大翔は力任せに彼女を突き飛ばした。小さな体が地面に転がる。柚希は反射的に立ち上がり、娘を抱き上げる。「謝りなさい」低く、はっきりとした声で大翔を見据えた。だが大翔は目を逸らし、口を尖らせて言った。「なんでぼくが謝んなきゃいけないの?あの子、自分で転んだくせに」「私は見てた。あなたが押したの。謝って!」柚希の声は静かだったが、決して揺るがなかった。その瞬間、誰かの足音を察した大翔は突然その場に座り込み、大きな声で泣き出した。「大翔!」駆け寄ってきたのは真澄。彼は大翔のそばにしゃがみ込み、体を確認するように手を伸ばした。その焦り、その優しさ——そのすべてを、心羽は一度も受け取ったことがなかった。柚希は、喉の奥で苦笑が漏れるのを感じた。大翔は彼の
Baca selengkapnya
第6話
あの日を境に、真澄は二度と家に戻ることはなかった。柚希も心羽も、まるで示し合わせたかのように、彼のことを口にすることはなかった。誕生日が近づくにつれ、ふたりは招待状を用意し、学校へと持っていった。「みんな、来てくれるって!」心羽は満面の笑みを浮かべて、嬉しそうに言った。誕生日の二日前。柚希は学校で、真澄と玲奈の姿を目にした。ふたりの間にいた大翔は、俯いて静かに泣いていた。どうやら問題を起こし、保護者として呼び出されたらしい。真澄は大翔の背を優しく撫でながら、穏やかな声で話しかけていた。その光景は、あまりにも滑稽だった。心羽のことで、彼がここへ来たことは一度もなかったのに。他人の子どもには、これほど「父親」としての役目を果たそうとする。それが、「愛」というものの差なのだろうか。視線を逸らすと、教室から出てきた心羽が目に入った。彼女は真澄の前を通り過ぎたとき、ほんの一瞬だけ立ちとまり、小さな声で挨拶をした。「叔父さん、叔母さん、こんにちは」真澄がその声に気づいて視線を向けると、玲奈が先に口を開いた。「篠原さん、お迎えですか?」「ええ」柚希は短く頷いた。「本当に羨ましいわ。お嬢さん、こんなにお利口さんで……うちは毎日大騒ぎなのよ」苦笑しながら、玲奈は続けた。「同じ母子家庭なのに、どうしてそんなに立派に育てられるのかしら?」柚希が何も言わずにいると、心羽が静かに口を開いた。「でも、大翔にはパパがいるでしょ?だったら、パパがちゃんと見てあげればいいと思う」その一言に、真澄の目がわずかに揺れた。視線を合わせることができなかった。「あら、心羽ちゃん、それ誤解よ。おばさんと彼は、ただのお友達なの」玲奈が慌てて取り繕ったが、心羽はそれ以上聞こうとはせず、涙を隠すようにうつむいた。「叔父さん、叔母さん、さようなら」小さな手が柚希の手をぎゅっと握る。その細い指先から、必死な思いが伝わってくる。柚希は背後からの視線を感じた。振り返らずとも分かる。彼はまだ、こちらを見ている。「真澄、あなたに残されたチャンスは、あと一回しかないよ」柚希は心の奥でそう告げた。そして、その夜。久しぶりに、玄関の扉が開く音が響いた。心羽は元気がなく、柚希は絵を描く彼女のそばに寄り添っていた。そ
Baca selengkapnya
第7話
「……わかった」真澄は、ほんのわずかに頷いた。その瞬間、心羽の顔はぱっと明るくなり、目尻に残っていた涙を指でぬぐいながら駆け出した。テーブルの上から招待状を一枚取り出し、彼に差し出す。「時間も場所も、ここに書いてあるよ。叔父さん、ぜったいに遅れないでね?」その一言一言に、希望と願いが詰まっていた。真澄は無言で招待状を受け取り、何も言わず玄関のドアを開けて立ち去った。「ママ、叔父さん来てくれるって!」跳ねるように戻ってきた心羽に、柚希はやさしく微笑みかけた。「うん、聞こえてたよ」柚希には知っていた。心羽がどれほどこの言葉を待ち望んでいたかを。その夜、心羽は一度捨てたぬいぐるみのクマを再び部屋に持ち帰り、レゴの小さな車の隣に、そっと並べて置いた。まるで、そこに「家族」がいるかのように。柚希は、娘の静かな後ろ姿を見つめながら、不安を胸に押し込んだ。来られないのなら、せめて最初からそう言ってほしい。希望の灯が何度も踏み躙られるくらいなら。一方、真澄が持っていた招待状を、大翔が見つけた。「うわああああん!」突如、泣き出す声に、玲奈と真澄が同時に振り向く。「どうしたの、大翔?」「心羽、クラスの子みんな呼んでいるのに、ぼくは呼ばれてない!」招待状を握りしめながら肩を震わせ、涙をぽろぽろとこぼす。「泣かないで。きっと、大翔が意地悪したからよ。謝れば、次はきっと誘ってくれるわ」玲奈はそっと大翔を抱きしめ、真澄に意味ありげな視線を送った。「やだ……やだよ、ぼくもみんなと遊びたい!ぼくもパーティーする!ぜったいやる!」大翔は玲奈の胸にしがみつき、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら叫んだ。「でも、その日はあなたの誕生日じゃないでしょ?」「もう誕生日なんてどうでもいい!ママお願い、みんなと遊びたいの!」「大翔……お願い、泣かないで……」涙が止まらない息子に、玲奈の目にも、涙が浮かぶ。そのとき——「……いい。やらせてやる」真澄が無言で大翔を抱き上げ、低く声で告げた。「同じ日にパーティーをやろう。クラス全員呼べばいい」「ほんとに?真澄パパ!」大翔は顔を上げ、涙をぬぐって笑顔を取り戻す。「真澄パパ、だいすき!」そう言って真澄の首にぎゅっと抱きついた。その頃
Baca selengkapnya
第8話
真澄は、そのメッセージを見た瞬間、胸の奥がずしりと沈むのを感じた。得体の知れない焦りと不安が、音もなくじわじわと心を蝕んでいく。慌てて柚希に電話をかけるが、返ってきたのは「電源が入っていません」という機械的な音声だけだった。メッセージも未読のまま。……ブロックされた?誕生日会に行かなかったから?ただ拗ねているだけだろうか?彼はそう思い込もうとした。だが、喉の奥に引っかかった違和感はどうしても飲み込めなかった。苛立ちを含んだため息とともに、ネクタイを緩める。「橘社長、栄景ホールディングスの桐生社長が1階に到着されました」秘書の声に現実に引き戻され、真澄は感情を押し殺して表情を整え、ロビーへと向かった。今日の商談は、会社にとっても重要な節目だった。だからこそ彼自身が出迎える予定だったのだ。だがエレベーターを降りた瞬間、耳にざわめきが飛び込んできた。視線を向けると、大翔がロビーの床に座り込んで、怒ったように誰かを睨みつけていた。「僕のパパはこのビルの社長だぞ!ボール壊したなら、早く謝れよ!」「悪いのはそっちでしょ。どうして謝らなきゃいけないの?」「子どもにムキになるな!パパに言って、君たち、追い出してもらうからな!!」真澄が近づくと、大翔はぱっと立ち上がり、彼に駆け寄った。「真澄パパ!こいつら、僕をいじめたんだ!ボールも壊された!」その指先が向けられた先に立っていたのは——桐生社長だった。真澄のこめかみが、ずきりと痛んだ。「桐生社長、これは何かの誤解でして……」努めて冷静に、低い声で取りなそうとしながら、大翔の手をそっと引いた。「橘社長、この子……お子さんですか?」桐生の口元には、皮肉めいた笑みが浮かんでいた。「いえ、友人の子どもです」真澄は気まずそうに答える。「なるほど。なら構いません。誤解じゃありませんよ。先ほどから何度もボールをぶつけられたので、うちの秘書が取り上げたんです。そしたらこの子、謝れって言い出して、パパに追い出してもらうって」言葉は冷ややかだった。「今回の件、いったん白紙に戻させていただきます。それでは」「桐生社長、お待ちください!」真澄が慌てて足を踏み出したそのとき、大翔が彼の足にしがみついた。「真澄パパ、あんなやつのことなんか気
Baca selengkapnya
第9話
真澄は、手元の仕事を片付け、静かに立ち上がった。オフィスのドアを出たその先で、彼は玲奈と大翔に鉢合わせた。大翔は、小さな両手でコーヒーのカップを抱え、よたよたと歩み寄ってくる。「真澄パパ、ぼく謝りにきたんだ……もう怒らないで?」その声に、玲奈がすかさず寄り添い、胸を真澄の腕に軽く当てながら微笑んだ。「大翔はちゃんと反省してるの。今回だけは、許してあげて?」彼女はあざどくシャツのボタンを一個解け、唇には派手な赤。視線は揺れて、媚びるように彼を見上げる。「ね、ただの子どもよ。ちょっとしたことで、そんなに怒らないで?」吐息は濡れた熱を含み、首筋を撫でていく。真澄は、眉をわずかにしかめた。この女は——本当に、かつて自分の心を奪ったあの玲奈なのか?記憶の中の彼女は、もっと静かで、凛とした気高さをまとっていたはずだ。そして、大翔のしつけも——どうして、こんなにも心羽と違うのだろう。一体、どこで間違えた?今日、この親子を見ていると、どうしてこんなにも胸の奥がざわつくんだ?「『ちょっとしたこと』?会社にどれだけの損害を出したと思ってる?」真澄の声は低く、乾いていた。「……ごめんなさい。でもこれ、大翔が自分で淹れたコーヒーなの。ほんとに反省してるのよ」玲奈は焦るように、大翔をもう一歩前に出す。ふたりの目が、いっせいに真澄を見上げた。その「許しを乞う」ような眼差しに、胸がひどく締めつけられた。見覚えのある、あの目だ。柚希と心羽も、ずっとこんなふうに、自分を見つめていた。彼は、吐き出すように言った。「……もういい。今後は気をつけろ」言葉はぶっきらぼうで、視線は逸らされたまま。「それと、会社に子どもは連れてこないでくれ」「真澄パパにちゃんとお礼言いなさい!」玲奈の促しで、大翔はコーヒーを掲げた。「真澄パパ、ぼく、これからはいい子にする!もう怒らせたりしないから!」「……ああ」真澄はそのカップを受け取らず、ふたりの横をすり抜けてエレベーターへ向かう。「真澄、どこ行くの?」彼の空気に違和感を察した玲奈が追いかける。「今夜、一緒にご飯にしない?あなたの好きな料理、用意して待ってる」彼は振り返ることなく、冷たく言い放った。「今夜は予定がある。それより、勤務
Baca selengkapnya
第10話
「……俺は大翔の父親ではありません」真澄は、反射的に否定した。「娘、心羽を迎えに来ました」教師の顔に、明らかな驚きが走る。彼女の記憶の中で、心羽に「父親」という存在はなかった。送り迎えは、いつも母親の篠原柚希だったからだ。「……冗談をおっしゃらないでください。心羽ちゃんに、お父様なんて……」真澄の表情が陰りを帯びる。その声からは、余裕の響きが消えていた。「冗談ではありません。俺はあの子の実の父親です……今、どこにいますか?」教師は言葉を詰まらせ、ふっと小さく笑った。「それは意外ですね。てっきり、皆さんは、あなたのことを大翔くんのお父様だと……心羽ちゃんなら、もう退園しましたよ。お母様から、何も聞いていらっしゃらないんですか?」「……退園?どこへですか?」真澄の声が掠れ、思わず追うように口をつく。教師はわずかに眉をひそめ、肩をすくめるように首を横に振る。「それは、私たちにも……ですが——」その語尾に、わずかな軽蔑がにじむ。「父親なのに、子どもがどこに行ったかも知らないんですね……私たちにわかるわけ、ないじゃないですか?」その言葉は静かに、しかし容赦なく真澄の胸を抉った。そんなとき——「ぼく、知ってるよ!」教室の奥から、ひょっこりと男の子が顔をのぞかせた。「心羽ちゃんのママって『不倫女』なんでしょ?だから一緒に『不倫の国』に帰ったんだよ!」空気が凍りついた。教師の表情が一変し、すぐに声を張り上げる。「ダメ!そんな言葉、口にしちゃいけません!失礼すぎます!」「でも本当だもん。大翔くんが言ってたよ。心羽ちゃんのママは、大翔くんのパパを奪って、家も奪ったって。だから、『不倫の国』に追い出されたんだって」真澄は息を飲み、鋭く子どもたちに目を向けた。「大翔は……他に何を言ってた?」「心羽ちゃんのこと、いつも『野良の子』って呼んでたよ。心羽ちゃんのおもちゃ、いつも取ってたし、『早く出てけ』って。『パパが好きなのは僕だけ』って」不倫女?野良の子?真澄の呼吸が止まった。胸の奥に、冷たい刃が突き刺さる。心羽は……そんな言葉を、毎日のように浴びせられていたのか。それでも彼女は、何ひとつ言わなかった。泣きもせず、責めもせず、ただ静かに——彼のそばに立とうとし
Baca selengkapnya
Jelajahi dan baca novel bagus secara gratis
Akses gratis ke berbagai novel bagus di aplikasi GoodNovel. Unduh buku yang kamu suka dan baca di mana saja & kapan saja.
Baca buku gratis di Aplikasi
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status