LOGIN私・一ノ瀬澄佳(いちのせ すみか)の夫・一ノ瀬司(いちのせ つかさ)が何の前触れもなく姿を消してから三か月目、私はSNSをだらだら眺めていて、カップル系配信者のショート動画が流れてきた。 背の高い男が、強引に彼女を腕の中に引き寄せる。 「ほら、聞こえる? 俺の心臓が『愛してる』って言ってるだろ。」 そう言って、そのまま顔を近づけて、むさぼるようなキスを交わした。 はだけたシャツの胸元には、意味ありげな爪痕がいくつも走っている。 コメント欄は「尊い」「お似合いすぎ」といった言葉で溢れていた。 私は思わず息を呑んだ。 結婚して七年。顔が映っていなくても、それが司だと一目で分かった。 私が昼も夜もなく司を探し回っていたあの日々、その間ずっと、彼は別の女と甘く愛し合っていたのだ。 私が悲しみのあまり流産して入院していたときでさえ、彼はその女とベッドで激しく抱き合っていた。 涙を拭い、私は弁護士をしている友人に連絡を取り、離婚協議書の案を作ってもらうことにした。
View Moreその瞬間、司は、自分が私からどんどん離れていっているのをはっきり自覚した。苦笑しかけたそのとき、視界の端に、薄暗い隅で凛沙が鋭い目つきでこちらをにらみつけ、その手の刃がぎらりと光ったのが映った。キャップを目深にかぶり、足を引きずりながら近づいてきた。「くたばれ!ハハハ……」ところが、私が血だまりに倒れるはずの光景はいつまでたっても現れず、凛沙の笑いがぴたりと止まった。私の前には、司の背中が立ちふさがっていた。腹から血を流し、顔は血の気がすっかり引いているのに、司はどこかほっとしたように笑っていた。「澄佳、無事でよかった……本当に……良かった」会場から悲鳴が上がる中、私は落ち着いて警察に通報した。凛沙はすぐに警備員たちに取り押さえられ、床にねじ伏せられた。かつては華やかで愛らしかったはずの顔は、今では土気色にやつれきっている。「なんでよ!どうしてあんただけそんなにうまくいくのよ!私はドブネズミみたいに、陽の当たらないところでもがいて生きてるっていうのに!!」顔をゆがめてわめき散らす凛沙の姿が、ただ滑稽にしか見えなかった。どうしてかって?それは、私が自分の足で立つために払ってきた努力と、前に進む覚悟があったから。ただ男にすがりついて生きる、寄生みたいな女じゃないから。病院。三時間に及ぶ手術と処置の末、司はどうにか命の危機を脱した。ベッドに横たわった司の肩が、かすかに震えていた。「澄佳……あのとき、お前もこんな痛みに耐えてたのか……」私は首を横に振った。彼にまつわる記憶も感情も、もうとうの昔に忘れてしまっている。「もう終わったことよ。司、ちゃんと治療に専念して。明日また様子を見に来るわ」感情を何ひとつ込めていないつもりのその言葉が、司には都合よく聞こえてしまったらしい。「澄佳、やっと許してくれたんだな。明日にでも籍を入れ直して、それからまた二人で――」私は眉をひそめ、その妄想をばっさりと断ち切った。「司、あなたが私を庇ってくれたことには心から感謝してる。だからこうして見舞いにも来た。でも、それ以上の気持ちは何ひとつ残っていない。私たちの関係は、とっくに終わってるの。司、もう現実を見なさい」ふと思い出したように、私は左手の薬指にはめたリングを司の前にかざした。
凛沙は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、わんわん泣きじゃくっていた。彼女と友人の会話を耳にしてから、司の報復はどこか歯止めを失ったように狂っていった。ネットで大炎上させられたことから、車の事故で脚を折る羽目になったことまで――司は、私が味わってきた屈辱を少しずつ、確実に倍返ししていった。目元には柔らかな色を浮かべたまま、司はそっと彼女のふくらんだ腹を撫でた。その口からこぼれた言葉だけが、背筋が凍るほど冷たかった。「澄佳も俺の子どもを宿してたんだ。本当なら、あいつだって無事に産めたはずなんだよ。お前が嘘をついて俺を自分のそばに縛りつけなければ、あいつは流産なんてしなかった。お前は俺から、大事な人間を二人も奪った。その分、お前にもはっきりした意識のまま、同じ痛みを味わってもらう」その言葉に、凛沙はぞくりと身の毛がよだつのを感じた。「一ノ瀬さん!全部私が悪いの!出来心であなたに近づいただけなの!罰なら何だって受けるから、この子は関係ないの!お願い、この子だけは助けて!あああああ――!」まともな麻酔もないまま、妊娠五か月での中絶手術は、凛沙の命を奪いかねないほど彼女を追い詰めた。 ……それでも司は諦めず、毎週末わざわざ京原市から港崎市まで飛んでは、私の好きな和菓子を一箱抱えて現れた。その行き先が決まってゴミ箱の中だと分かっていても、司はしつこいほどに同じことを繰り返した。彼のその「一途さ」とやらは、すでに私の仕事にも生活にも深刻な支障をきたしていた。またしても菓子の箱をぶら下げて会社の前で愛を叫ばれ、さすがの私も堪忍袋の緒が切れた。「司、もう来ないで。私の好きな菓子くらい、港崎市でいくらでも買えるわ。わざわざ京原市から持ってくる必要なんて、どこにもないの」「澄佳、それじゃ違うんだ……」「何も違わないわよ。司、いい加減にして」息を呑んだ司の笑みがそのまま顔に貼りつき、泣き顔よりみじめにゆがんだ。「しかして、他に好きな人ができたのか?氷川ホールディングスの社長か? それとも百瀬グループの社長か? あいつらがお前にしてやれることなら、俺にも全部できる……だから、頼むから俺を無視しないでくれ……」裾をつかんで離さない司の手を振り払い、私は一度も振り返らずに背を向けた。まさか次に司と顔を合わせる場所が、交
「澄佳、お前って本当に容赦ないよな。犯罪者だって弁解するチャンスくらいは与えられるのに、俺には謝る機会さえくれないのか……」私は司を見つめた。ただの見知らぬ人間を見るみたいに、冷え切った目で。司はハッとしたように固まり、その現実をなかったことにしたいかのように、私の目を手で覆おうとして一歩踏み出した。声は自分でも抑えられないほど震えている。「澄佳、そんな目で俺を見ないでくれ。そんなふうに突き放さないでくれ……」「司、そういうのはやめて」私は一歩身を引き、司の手は空中で固まった。「既婚者としての自覚くらい持ちなさい」善意でそう忠告したつもりが、司はあっさりと勘違いした。 目の中に、たちまち喜びの色が浮かぶ。「澄佳、やきもち焼いてるんだろ?安心しろよ、あんな性格の悪い女とはちゃんと離婚するから!」凛沙の企みを思い出すと、司は今すぐにでもあの女を八つ裂きにしてやりたい気持ちになった。結局のところ、凛沙はただの虚栄心まみれの女だった。彼女の言う心の傷とやらも、司に誤解されたときに、その場しのぎででっち上げた話を、そのまま膨らませてきただけ。嘘を重ねた末に、彼女は多くの資産を手に入れ、一ノ瀬家の妻の座にまでちゃっかりおさまった。けれど、嘘にはいつか必ず終わりが来る。司はいまも、あの日の凛沙の嘲るような声をはっきり覚えている。「一ノ瀬ってさ、本当バカよね。ちょっと指先ひとつ動かせば澄佳の潔白なんてすぐ証明できたのに、わざわざ私の前でひざまずかせるほう選ぶんだもん。しかもあのとき、ファンの子に刺されたでしょ?それでも平然としてたし。マジで信じられないわ。でもさ〜、本妻のくせに私みたいな浮気相手に頭下げさせられるって、あの優越感? ほんっと最高だった〜」凛沙のその一言は、司にとって衝撃そのものだった。司の脳裏には、あのときの血の気の失せた私の顔が、勝手に浮かび上がった。自分は間違っていた。とんでもない勘違いをしていた。こんな薄っぺらな女のために、本当に大事な人を手放してしまったのだ。それでもまだ、やり直す時間は残っている――そう信じていた。「澄佳、愛してる。お前のいない人生なんて考えられない!一緒に帰ろう。やり直そう。残りの人生全部かけて、お前に償わせてくれ……」自分の世界に浸っ
駆けつけたボディーガードたちに力ずくで家へ連れ戻されたころには、司の頭にはようやく冷静さが戻っていた。「澄佳を探せ。何としてでも見つけ出して、連れ戻せ!」皆が引き上げたあと、司は寝室のベッドに仰向けになり、空気の中に残っているはずの彼女の匂いを探すように深く息を吸い込んだ。けれど、この部屋から私の痕跡になるものはとっくに捨てられていて、私が眠っていたシーツさえ新しいものに替えられていた。司は体を小さく丸め、目のふちを真っ赤にしながらつぶやいた。「澄佳……本当に冷たいよな……俺はただ、凛沙が彼氏を亡くした苦しみにいつまでも縛られているのが見ていられなくて、代わりに恋人のふりをしてやっただけだ。あいつのことなんて、好きになったこともない。 なのにお前は、こんなふうにきれいさっぱり切り捨てて、俺に未練ひとつ残してくれない」……飛行機は港崎市に着陸した。祖父の身の回りを整えて落ち着かせたあと、私は自分の会社を立ち上げた。立ち上げたばかりの仕事がようやく動き出したころ、一人で深夜までバタバタしていると、スマホに若菜からのビデオ通話リクエストが突然表示された。画面に映った若菜の顔はひどく疲れ切っていて、三十代のはずなのに、まるで七十、八十代のような老け込み方だった。「もうほんとやってられないわ。水瀬って、マジでバカでしょ。フォトショもまともに使えないくせに、それはまだいいとしてさ、気遣いってものがゼロなのよ。社長の後ろ盾があるからって、クライアント相手に好き放題やって!その結果、社長と連絡つかない今、後始末は全部こっちに回ってきてるんだから!社長もどれだけ見る目ないのよ。水瀬なんかのために……」そこまで言いかけて、自分の失言に気づいたのか、若菜は慌てて口をつぐみ、慎重に私の表情をうかがった。私が過去のことを思い出して取り乱す様子もないのを見て、彼女はほっと息をつき、話題を切り替えた。「会社作ったって聞いたけど、人手、足りてる?」「どうしたの、うちに移るつもり?うちの待遇なんて一ノ瀬グループには到底かなわないし、この先どう転ぶかも分からない会社よ」「澄佳、もうちょっと自分のこと評価しなよ。あなたの実力、私たちがいちばん分かってるんだから」私はふっと笑って、肯定も否定もしなかった。一ノ瀬グループ
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