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終わらない夢に、君を探して

終わらない夢に、君を探して

By:  岬 鯉(みさき こい)Completed
Language: Japanese
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「神谷さん、検査の結果ですが……ステージ4のすい臓がんです。治療を中止すれば、余命はおそらく一ヶ月もありません。本当に、治療を受けないおつもりですか? ご主人の了承は……?」 「はい、大丈夫です。彼も……きっと、納得してくれます」 電話を切ったあと、私はしんと静まり返った部屋をぐるりと見渡した。 胸の奥が、ひりつくように痛んだ。 ただの胃痛だと思っていた。昔からの持病の悪化だと――まさか、がんだったなんて。 小さくため息をついて、リビングのテーブルに置かれた写真立てに目をやる。 写真の中で、十八歳の神谷蓮がこちらをまっすぐに見つめていた。 あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。 雪の降る帰り道、髪に舞い降りた白い結晶を見つけた彼が、冗談めかして言ったのだ。 「これって、いわゆる『共に白髪の生えるまで』ってやつかな?」

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Chapter 1

第1話

「神谷さん、検査の結果ですが……ステージ4のすい臓がんです。治療を中止すれば、余命はおそらく一ヶ月もありません。本当に、治療を受けないおつもりですか? ご主人の了承は……?」

「はい、大丈夫です。彼も……きっと、納得してくれます」

電話を切ったあと、私はしんと静まり返った部屋をぐるりと見渡した。胸の奥が、ひりつくように痛んだ。

ただの胃痛だと思っていた。昔からの持病の悪化だと――まさか、がんだったなんて。

小さくため息をついて、リビングのテーブルに置かれた写真立てに目をやる。

写真の中で、十八歳の神谷蓮(かみやれん)がこちらをまっすぐに見つめていた。

あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。雪の降る帰り道、髪に舞い降りた白い結晶を見つけた彼が、冗談めかして言ったのだ。

「これって、いわゆる『共に白髪の生えるまで』ってやつかな?」

胸が締めつけられるような、かつての幸福の記憶。私と蓮は幼なじみで、十八のときに恋人同士になった。大学を卒業してからは、狭いボロアパートで彼と二人、夢を追いながら苦労の日々を過ごした。

やがて彼の会社は軌道に乗り、私は新しいマンションと車を手に入れた。私はオシャレが好きで、ブランドの新作は毎シーズン届けられた。旅行が好きな私のために、彼は忙しい合間を縫って、よく遠出にも付き合ってくれた。誕生日も記念日も、彼からのサプライズは欠かさなかった。

私が不妊症だとわかったときも、彼は一言も責めることなく、「全部俺のせいだ」と言った。誰もが口をそろえて言っていた。――神谷蓮は、私のことを溺愛しているって。

でも、その彼が、結婚七年目にして――秘書の女と、外にもう一つの家を作った。

彼はその女、望月寧々(もちづきねね)に豪華な一軒家を買い与え、「愛の巣」だなんて言っていたらしい。

毎晩まっすぐ帰ってきた人が、ある日を境に夜帰らなくなり。望月への態度はどんどん甘くなり、私への態度は冷え切っていった。私を見るたび、彼はまるで嫌悪するかのように眉をひそめた。

考えたくもなくて、床に落ちたガラスの破片を拾い始めた。数日前、蓮との口論の末に割ってしまった花瓶の残骸だった。

あの日は結婚記念日だった。私は彼の好物を用意して、家で待っていた。「今日は早く帰る」と言っていたのに、帰ってきたのは午前二時。

――また、彼女と一緒にいたのだろう。

私たちは激しく言い争い、そのとき蓮は、私の心を完全に壊す一言を吐いた。

「芽衣(めい)、俺には子どもが必要なんだ」

それ以上聞きたくなくて、私は家を飛び出した。彼は追ってこなかった。

それから一週間、私は昔の実家に身を寄せていた。そして、ひどい胃痛で病院に行き、現実を突きつけられた。

久しぶりに戻ったこの家は、埃っぽいままだ。蓮もこの一週間、一度も帰ってきていないのだろう。

かがんで破片を拾っていたとき、検査結果の紙がポケットから落ちた。私は手を止めて、それを見つめた。

……彼に伝えるべきだろうか。私が死ぬってことを、彼が知ったら、悲しむだろうか。

自然と目元が熱くなり、それに自分で苦笑する。

――今の彼なら、「ざまあみろ」とでも言うかもしれない。

気を取り直して片付けを続けていたそのとき、不意に部屋の明かりがついた。

眩しさに目を細めながら玄関を見ると、そこには蓮が立っていた。白いワイシャツの襟元には、赤い口紅の跡。

私の顔を見て、彼は軽く眉を上げた。

「もう拗ねるのは終わったか?」

私は答えず、検査結果の紙をそっとポケットに押し戻す。思いがけず彼が帰ってきたせいで動揺していた私は、手を切ってしまった。

慌ててキッチンに走り、水道の蛇口をひねる。

「新手の演技?自傷?ほんと、甘やかされて育ったんだな、お前は!」

もう何も期待していないはずなのに、その言葉が胸に突き刺さる。

――昔の彼なら、こんな口調で私に話すことはなかった。

私が不安になれば、どんなに喧嘩をしても優しく抱きしめてくれた。家出をしても、すぐに探し出して「怒る暇もない」と笑っていた。

「俺はお前を甘やかしたいんだ。だから一生、俺から離れられないようにしてやる」

そう言っていた彼は、もうどこにもいない。

水を止め、薬箱を出して自分で手当てをしていると、蓮が少しだけ声のトーンを和らげた。

「芽衣、もういいだろ。あいつとはただの遊びだ」

「業界の連中も皆そうだよ、家はちゃんと守ってる」

「妊娠して子どもが生まれたら、向こうは海外にでも送るつもりだ」

彼の言葉が終わる前に、スマホが鳴った。

「神谷さん、どこ? 一人で怖いの……早く帰ってきてよ……」

望月寧々の甘えた声が、受話口から漏れ出た。蓮はまるで宝物でも扱うように、優しく彼女をあやしている。

私は何も言わず、包帯を巻き終えた手で、数日放置されていた食事を片付け始めた。

通話を終えた蓮は、私を一瞥もせず玄関へと向かう。

「蓮」

私は背中に声をかけた。

「……今度はなんだよ?」彼は舌打ちをして続けて言った「寧々が熱出してんだ。俺、行かなきゃなんねぇんだよ。くだらないことで――」

「離婚しましょう」

「……は?」

彼は苛立ちを隠さず、こちらを振り返る。

「さっきは自傷、今度は離婚? 何、次は『死にたい』ってか?」

「……もし、ほんとうにもうすぐ死ぬとしたら?」

私がそう呟いたとき、彼は何も言わず、ドアを閉めた。

その音が鳴り終わると同時に、この広すぎる家は、またしても沈黙に包まれた。

腹の奥がきりきりと痛み出す。慌てて薬を取り出して飲み込む。

――痛い。こんなにも痛いのに。

私は彼に伝えたかった。本当に、もうすぐ死ぬんだって。

震える手で、再び彼の番号を押す。けれど、返ってくるのは無機質なアナウンス。

――着信拒否されていた。

私はかすかに笑って、壁のカレンダーを見上げた。

「……今日が、蓮と『さよなら』する、最初の日なんだね」

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第1話
「神谷さん、検査の結果ですが……ステージ4のすい臓がんです。治療を中止すれば、余命はおそらく一ヶ月もありません。本当に、治療を受けないおつもりですか? ご主人の了承は……?」「はい、大丈夫です。彼も……きっと、納得してくれます」電話を切ったあと、私はしんと静まり返った部屋をぐるりと見渡した。胸の奥が、ひりつくように痛んだ。ただの胃痛だと思っていた。昔からの持病の悪化だと――まさか、がんだったなんて。小さくため息をついて、リビングのテーブルに置かれた写真立てに目をやる。写真の中で、十八歳の神谷蓮(かみやれん)がこちらをまっすぐに見つめていた。あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。雪の降る帰り道、髪に舞い降りた白い結晶を見つけた彼が、冗談めかして言ったのだ。「これって、いわゆる『共に白髪の生えるまで』ってやつかな?」胸が締めつけられるような、かつての幸福の記憶。私と蓮は幼なじみで、十八のときに恋人同士になった。大学を卒業してからは、狭いボロアパートで彼と二人、夢を追いながら苦労の日々を過ごした。やがて彼の会社は軌道に乗り、私は新しいマンションと車を手に入れた。私はオシャレが好きで、ブランドの新作は毎シーズン届けられた。旅行が好きな私のために、彼は忙しい合間を縫って、よく遠出にも付き合ってくれた。誕生日も記念日も、彼からのサプライズは欠かさなかった。私が不妊症だとわかったときも、彼は一言も責めることなく、「全部俺のせいだ」と言った。誰もが口をそろえて言っていた。――神谷蓮は、私のことを溺愛しているって。でも、その彼が、結婚七年目にして――秘書の女と、外にもう一つの家を作った。彼はその女、望月寧々(もちづきねね)に豪華な一軒家を買い与え、「愛の巣」だなんて言っていたらしい。毎晩まっすぐ帰ってきた人が、ある日を境に夜帰らなくなり。望月への態度はどんどん甘くなり、私への態度は冷え切っていった。私を見るたび、彼はまるで嫌悪するかのように眉をひそめた。考えたくもなくて、床に落ちたガラスの破片を拾い始めた。数日前、蓮との口論の末に割ってしまった花瓶の残骸だった。あの日は結婚記念日だった。私は彼の好物を用意して、家で待っていた。「今日は早く帰る」と言っていたのに、帰ってきたのは午前二時。――また、彼女と一緒にいたのだろう
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第2話
数日ほど静養した後、私は馴染みのリユースショップの担当者に連絡し、手持ちの服やバッグ、アクセサリー類をすべて手放すことにした。「奥さま、神谷社長はほんとに優しい方ですね。昨日、今季の新作をまとめて注文されたばかりなのに、今日にはもう衣装部屋を空けるなんて……」そんな言葉を聞きながら、私はただ静かに微笑んだ。スマホの画面を指先で滑らせていくと、望月寧々のSNSが表示された。投稿されたばかりの写真には、まさに今季の新作バッグが映っている。――どうやら、新しい「持ち主」は、もう決まったようだ。業者を見送ったあと、私は親友の須藤ことり(すどうことり)を誘って「一つ付き合って」とだけ伝え、車を出した。目指したのは、郊外の静かな丘にある霊園だった。車が霊園の前で止まったとき、ことりは驚いたように私を見る。「……ここって、墓地じゃないの?」私は何も言わず、彼女の手を取って管理棟へと向かった。受付では、丁寧な対応のスタッフがパンフレットと区画図を渡してくれた。案内を受けながら、私は樹木葬エリアを中心に見学した。桜の木の下、陽当たりのいい場所にある一角がなんとなく気に入って、そこに決めた。そして、その場で仮契約と内金の支払いも済ませた。私には、もう身寄りがいない。両親は数年前に他界し、兄弟もいない。亡くなったあと、誰かがお墓を訪れることもないだろう。だったらせめて、自分の最期くらいは自分で準備しておこうと思ったのだ。……今まで、蓮が稼いできたお金を私はあまり使おうとしなかった。彼のためにと遠慮して、贅沢もそこそこにしてきた。だけど、ようやく「使ってもいい」と吹っ切れたときに、それが自分の墓になるなんて。――男に尽くす人生なんて、本当に馬鹿らしい。スタッフに「墓所名義のお名前をお願いします」と言われ、私は迷いなく自分の名前を書き込んだ。「神谷……芽衣です。自分のために見に来たんです」驚いた様子の職員と、目を丸くしたことり。その視線を気にも留めず、私は静かに手続きを終えた。霊園を出たあと、ことりが運転席で怒鳴るように言った。「芽衣!どういうこと!?なんで自分のお墓なんて見に来てんのよ!?」その声には、焦りと不安、そして深い恐怖がにじんでいた。彼女は、私が消えてしまうことを本気で恐れている。私はぼんやりとした目
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第3話
蓮は望月寧々をしっかりと腕に抱き寄せた。声を出そうとしたけれど、喉の奥が締めつけられ、何も言葉にならなかった。涙が頬をつたう頃には、もう彼の背中は遠ざかっていた。私は、どうしても今の彼を、あの十八歳の少年と重ねることができなかった。――あの日、雪が降る駅前で「ずっと一緒に白髪になるまで」と笑ったあの人とは、もうまるで別人だ。「……芽衣、もしお前が本当に死にそうだったとしても、俺は同じことを言うと思うよ」彼は一度も振り返らず、そう言い残して出ていった。「死んでくれるなら、やっと静かになる。だったらさっさと死ねばいい」その瞬間、全身から力が抜け、私はその場にへたり込んだ。……ああ、この人、本気で私が死ぬことを願ってるんだ。それからというもの、蓮は二度と家に戻ってこなかった。私ももう、何も期待していなかった。遺品整理リストを作り、遺影用の写真を撮り、最期に着る服を買いに行った。数日後、写真屋の店主から「現像できましたよ」と連絡を受け、私は受け取りに向かった。帰ろうと角を曲がったところで――蓮と望月にばったり出くわした。「……何してる。まさか俺を尾行でもしてるのか?」くだらない言い合いはしたくなかった。腹の奥がまた疼きはじめていて、私はただその場を去りたかった。「神谷さん、奥さま、写真を撮りに来たみたいです」望月がそう言って、私の手元にある封筒に手を伸ばそうとした。私は思わず一歩引いた。「奥さま、見られたくないみたいですね。そんなに秘密にして……もしかして、何か隠してるんじゃ?」彼女の声音は一見控えめで、けれど含みをもったその言葉に、蓮が目を細めた。視線が私の腕の中の写真フレームへと向かう。「何を隠してる?」痛みがどんどん強くなる。それでもここで立ち去ることだけを考えていたのに、蓮が私の手首をぐっと掴んだ。その瞳にあるのは、かつての優しさではなかった。あるのは――嫌悪と疑念。でも、私はもうその目に傷つくような女ではなかった。「別に……あなたには関係ないことよ」私は静かに彼の手を振りほどこうとしたが、彼は封筒を掴んで離さなかった。その拍子に写真フレームが落ち、袋から滑り出た中身が地面に露わになった。――私の遺影。モノクロの、それはもう「別れの準備」だった。「……え? これ……白
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第4話
日々は、ただ静かに過ぎていった。けれど、私の身体は確実に蝕まれていった。眠気に勝てないことが増え、痛みも徐々に頻度を増していった。ことりは「うちに来て」と言ってくれたけれど、私は首を横に振った。――誰にも気を遣いたくなかった。ただ一人で、穏やかに終わりを迎えたかった。けれど、望月寧々は、そんな私を放っておこうとはしなかった。彼女は頻繁にメッセージを送ってきた。蓮との旅行の写真、ラグジュアリーホテルのペアルック自撮り、そして――彼の寝顔。どれも、これまでの私だったら心を抉られるような写真ばかりだった。けれど不思議と、何も感じなかった。……そう、あの日までは。ある日、彼女から一枚の写真が届いた。それは――私と蓮が昔住んでいた、あの思い出の家だった。動揺しながらも【これは何?】と打とうとした瞬間、彼女からの新たなメッセージが届いた。【プレゼント。】嫌な予感がして、私は慌てて蓮に電話をかけた。しかし、応答はない。いても立ってもいられず、私はタクシーを拾ってその家へと向かった。――あの家は、私たちがボロアパートから抜け出して、初めて手に入れたマイホームだった。彼の会社が少しずつ成長し、ふたりで夢を語り合いながら暮らした大切な時間。そのすべてが、あの場所に詰まっている。彼が高級マンションを買ってくれても、私はこの家だけは手放さなかった。思い出の詰まった、私たち「だけ」の居場所だった。到着して目に飛び込んできたのは、開け放たれた玄関と、出入りする工事業者の姿だった。中はひどく荒れていて、床にも壁にも養生シートが敷かれ、家具もすでに運び出されていた。――私は、崩れた。「やめて!やめてください!」必死に声を上げたけれど、誰も耳を貸さない。混乱する中、私は蓮に何度も電話をかけた。十数回目、ようやく彼が出た。「……ああ、あの家、リフォームしてる」「寧々が住みたいって言うから」その一言で、胸の奥が、音を立てて崩れ落ちた。蓮がやって来たのは、すでに深夜1時近くだった。業者たちはすでに帰った後だった。私はそこで、5時間以上待っていた。でも、それすらも、もうどうでもよかった。「……なんで、こんなことするの。あの家がどんな意味を持ってたか、あなただ
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第5話
蓮は望月を連れて、そのまま出ていった。私は玄関の外の壁にもたれかかり、息を整えようとしていた。胸がきゅっと締めつけられて、うまく呼吸ができなかった。そのとき、スマートフォンが震えた。メッセージは、望月からだった。【私の勝ちね。】【これからあなたが持っていたもの、全部、ひとつずつ奪っていくつもりよ。】私は無言で画面を閉じ、スマホの電源を落とした。そして、ゆっくりとあの家の中に戻った。すでに家具は何もなかった。床は剥がされて凹凸ができ、陽の当たるバルコニーの隅には、望月好みの淡いピンク色の塗料が未開封のまま置かれていた。室内はがらんとして、何ひとつ残されていなかった。私が一番好きだった出窓の台は、無残にも砕かれ、お気に入りだった小花柄のテーブルクロスは、ゴミ袋の中にくしゃくしゃに詰められ、蓮とふたりで選んだカーテンは、今や誰にも見向きもされず、外のゴミ捨て場に丸めて放り込まれていた。私は部屋の中を何度もぐるぐると歩き回った。そして、ようやく現実を受け入れた。もう、ここは私たちの「家」ではない。最後に一度だけ、玄関から振り返ってその場所を見つめ、私は何も言わず、背を向けて歩き出した。家に戻ると、ふと、望月が言っていた言葉が思い出された。この別荘の家具も、あれこれと彼女が口にしていたものだ。私はすぐにリユース業者へ連絡し、彼女に触れられたものをリストアップして、すべて処分した。もう、私の残された時間には、何ひとつ邪魔されたくなかった。業者を見送る頃には、深夜になっていた。汗ばむ身体のままカーペットに寝転び、私は初めて、心からの安堵を感じていた。カレンダーは毎日、紙を削るように薄くなっていった。でも、驚くほどに、私の心はどんどん澄んでいった。痛み止めを飲む回数は増え、意識がはっきりしている時間は短くなっていった。けれど、ある日、ふと身体が軽く感じられた。その日、私は郵便屋さんに二つの封筒を託した。ひとつはことり宛て。中には私の想いと、名義財産の明細。私の最後の整理は、すべて彼女に託した。もうひとつは――神谷蓮宛てだった。中身は、すでに署名を終えた離婚届。たとえ死ぬとしても、私はこの人との縁を、すべて断ち切りたかった。もう顔を合わせる必
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第6話
神谷蓮がその荷物を開けたのは、届いた翌日のことだった。前日の午後にはすでに配達されていたのに、宛名を見ただけで無造作に玄関の棚に放り投げていた。それを思い出したのは、望月が一言口にしたからだった。「……あの封筒、開けないんですか? もしかして奥さま、怒って送ってきたのかも……」神谷蓮が封を切ると、中には離婚届が入っていた。しかも、すでに署名まで済ませてある。「……離婚? なんだよこれ、子どもじゃあるまいし……」彼の声には呆れと苛立ちが混じっていた。「奥さま、お怒りになってるんですよ。たぶん、あの家のことじゃないかと……」「でも神谷さん、ちゃんと説明しましたよね? 私が仕事の都合で住みたいって言っただけだって。奥さま、きっとわかってくれるはず……。やっぱり、私、引っ越すのやめましょうか?」その一言が、神谷蓮の怒りに火をつけた。「……なんでだよ。なんでお前が我慢しなきゃなんねぇんだ」「いいか、あの女、今回ばかりは俺が思い知らせてやる。施工業者に連絡しろ、工事のペース上げろって伝えとけ!」怒りに満ちたその命令に、望月は満足そうな笑みを押し隠しながら、かすかにうなずいて部屋を出て行った。――もっと騒げばいい。神谷芽衣が暴れれば暴れるほど、自分の立場は確実になる。神谷蓮は離婚届をテーブルの上に放り投げ、スマホを手に取って芽衣に電話をかけた。だが、コール音が鳴るばかりで誰も出ない。何度かけても同じだった。とうとう彼は、「直接確かめに行く」とばかりに、車を出した。――どこまで騒ぐ気だ?離婚したいって言うなら、いいさ。望みどおりにしてやる。家に着くと、人気はなかった。家具も、明らかに減っていた。彼は気に留めることもなく、声を張り上げた。「……芽衣?」返事はない。階段を上がり、寝室に向かう。クローゼットはがらんどうで、かつて芽衣が「絶対に飾っておきたい」と言っていた彼からの贈り物も、すべてなくなっていた。なぜか――胸の奥が、ひどく冷えた。そこに残っていたのは、ひとつの古びたノートだった。角はすっかり黄ばんで、表紙も少し剥がれていた。蓮は何気なくそのノートを手に取った。開いた最初のページには、丁寧でかわいらしい文字で、ふたりの名前が書かれていた。間には
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第7話
「……今度こそ、本当に死んだのか?」神谷蓮は鼻で笑った。その声音には軽薄ささえ混じっていた。まさか芽衣が、ことりと組んで自分を騙すなんて。理由は――あの古い家か?彼は苛立たしげに眉をひそめ、カーナビに須藤ことりの住所を打ち込んだ。「もういい加減にしろ。芽衣がそっちにいるのは分かってる。電話、代われ」「離婚したいんだろ? いいよ、サインしてやる。早く出てこいって伝えろ」ここ最近の理不尽な振る舞いの数々を思い出しながら、彼は心の中で憤っていた。――どこまで図に乗るつもりだ?だったらこっちだって、本気で終わらせてやる。彼女が“自分なしでどう生きるか”、見ものだ。その時、電話の向こうで怒鳴り声が響いた。「このクズ男!……あんた最低だね!!」怒りに震えた須藤ことりの声に、蓮の目が鋭くなる。「芽衣は、本当に死んだのよ!」「今すぐ、火葬場まで来い。……署名が必要なの。あんたしかできないのよ!」ことりが伝えた住所をメモする間も、神谷蓮の頭の中は真っ白だった。手が、微かに震えていた。――まさか。そんなはずない。「……芽衣……」思わず彼の口から、その名前がこぼれた。玄関の方へ無意識に目を向けてしまう。もしかして、今にも彼女が「ただいま」と帰ってくるんじゃないか。そんな、ありえない幻想が脳裏をよぎる。……死んだ?芽衣が……本当に?彼は慌ててスマホを開き、震える指でアシスタントの番号を探す。その時、望月から電話がかかってきた。彼は無言で切ったが、すぐにまた着信。今度は仕方なく応答した。「神谷さん、もうレストランに着きました。いつ来ますか……?」「今、急用ができた。しばらく行けない」声をできるだけ穏やかに保とうとしたが、頭の中は芽衣のことでいっぱいだった。「でも……ここの予約、すごく取りにくいんです……次はもう取れないかもしれないのに……」望月は泣きそうな声で言った。いつもなら、それが彼の心をくすぐったはずだった。だが今回は、まったく響かなかった。「……同じことを二度言わせるな」「一人で食え」言い終えると、彼は通話を切り、すぐに秘書へ連絡した。「今すぐ芽衣を探せ。何があったのか、すぐ調べろ!」1時間もしないうちに、神谷蓮は火葬場に到着した。途中、何度もメッセージ
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第8話
「あり得ない……そんなはず、あるわけが……!」神谷蓮はよろけるように数歩あとずさった。けれど次の瞬間、何かを振り払うように前に駆け出した。まるで狂ったように、彼は担架の上の白布を乱暴にめくった。周囲からは驚きと困惑の声があがる。「……違う、違う……これは芽衣じゃない……じゃあ、どこに……どこにいるんだ……!」頭の中が真っ白になっていた。混乱の中で、彼は視線をさまよわせた。そして――「遺体安置室」という案内板を見つけるや否や、飛び出すようにそちらへと走った。「関係者の方ですか? 入室には記録が必要です」入り口で職員に制止され、神谷蓮は無意識に唇をなめた。乾ききった喉から絞り出すように名前を告げる。「……神谷芽衣」職員が確認のために端末を操作している間、神谷蓮の心臓は今にも破裂しそうだった。いないでくれ……頼むから、名簿にいないでくれ……!――だが、現実は非情だった。職員は無言で彼を一角へと案内した。そこに――銀色の鉄のベッドに、芽衣は静かに横たわっていた。顔は青白く、両目は閉じられ、まるで痛みすらなかったような穏やかな表情だった。だが、頬はこけ、頬骨が浮き出ていた。胸元までかかった白布の下――肋骨の形がはっきりと浮き出ている。「……どうして、こんなに……痩せて……」彼女が、どれだけ苦しかったのか。なぜ、自分はそれに気づかなかったのか。拳を強く握りしめながら、彼は一枚のカードを見た。【神谷芽衣】まぎれもない現実が、胸を貫く。神谷蓮の心は何度も打ち砕かれた。気づけば、全身が震えていた。――戻れない。もう、二度と。彼女は、自分にとって唯一の存在だった。心臓の一部のような、大切な人だった。それを、自らの手で傷つけ、壊してしまった。「芽衣……冗談だろ?起きてくれよ……俺が悪かった、全部、俺が……」彼は震える手で彼女の頬を撫でながら、膝をついて地面に崩れ落ちた。その時、職員が一枚の紙を彼の前に差し出した。「ご遺族の方、どうかお悔やみ申し上げます。こちらが死亡確認書類になります。内容をご確認の上、火葬の手続きを進めるための署名をお願いいたします」火葬――その言葉に、神谷蓮の身体がびくりと反応した。「……火葬? なぜ……?」
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第9話
芽衣の遺体が、静かに火葬室へと運び込まれた。神谷蓮は、その扉の前に立ち尽くしていた。けれど、涙は一滴もこぼれなかった。「……彼女、どうして亡くなったんですか?」「ステージ4の膵臓がん。――一ヶ月前に見つかったんだそう」その言葉に、胸の奥がずきりと痛んだ。唇をきつく噛み締めたまま、蓮はかすれた声を漏らした。「……どうして……どうして言ってくれなかった……俺が、もしもっと早く知っていれば……!」「芽衣は……あんたなんかに伝えたくなかったんだよ。もしくは、もう完全にあんたに見切りをつけていた」ことりのその言葉に、神谷蓮は雷に打たれたかのようにその場で固まった。――芽衣は、ずっと前から自分に絶望していた。心の中で、彼は繰り返した。自分は理解しているつもりだった。ただ、子どもが欲しかっただけ。望月なんてただの遊びだった。誰も、芽衣の代わりにはなれない。離婚するつもりも、決してなかった。でも、彼女は……諦めていた。死ぬとわかっていながらも、何も言わなかった。それほどまでに、自分に――愛想を尽かしていた。滲んでゆく視界の中、神谷蓮の脳裏に、かつての記憶が浮かび上がった。――「一生愛している。絶対に、お前を悲しませない」それは、彼が芽衣にプロポーズしたときの言葉だった。あのとき、自信に満ちていた。彼女を誰よりも愛していると信じていた。この気持ちは永遠だと、心から思っていた。――けれど、いつからだろう。体外受精の失敗。周囲のプレッシャー。女たちからの誘惑。そして、望月の差し出してきた、あまりにも都合のいい「優しさ」。気づけば、神谷蓮は流されていた。あの頃の真心は、いつの間にか手のひらから滑り落ちていた。彼は、芽衣の疲れた目を見て見ぬふりをした。何度も見ていたはずなのに、自分はまだ愛されていると思い込んでいた。――彼女はもう、限界だったんだ。誰にも言わずに病院に通い、ひとりでお墓を選び、遺影を撮り、静かに最期の準備をしていた。すべては、ずっと前から兆しがあった。けれど――自分は、見ようとしなかった。「……芽衣、ごめん、ごめんな……」神谷蓮は、その場に膝をついて泣いた。目の前の炉の炎が、彼女を飲み込んでいく。「俺が悪か
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第10話
須藤ことりが去ったあと、神谷蓮はどれくらいの時間、火葬場にいたのか分からなかった。ぼんやりとスマホしまい、気づけば、ふらふらと街をさまよい歩いていた。はっと我に返ったとき、彼は――あの家の前に立っていた。あの「思い出の家」。芽衣とふたり、かつて暮らした、最初のマイホーム。見上げた窓は、すでに色あせていた。あの窓辺で、芽衣はいつも自分の帰りを待っていた――……けれど、もう彼女はどこにもいない。蓮はゆっくりと階段を上がり、扉を開けた。中では、工事作業員たちがリフォーム作業を続けていた。部屋は荒れ、生活の痕跡など、もう何も残っていなかった。かつての家具や生活道具は、片隅に無造作に積まれていた。そこには、芽衣が気に入っていた照明、ふたりで選んだ家具、そして一緒に使っていた食器もあった。そのなかに――泥で汚れた一枚の水彩画が目に入った。十八歳の誕生日に、芽衣が描いてくれた絵だった。雪が舞う中、寄り添うふたりの後ろ姿。懐かしい情景に、彼の胸が熱くなった。裏返すと、右下には小さな文字があった。【このままずっと、あなたと年老いていきたい。】神谷蓮は、その文字を指先でなぞる。一字ずつ、一画ずつ。まるで彼女のぬくもりを感じようとするかのように。「……芽衣、ごめん。約束、守れなかった」「……ほんとうに、ごめん」彼は丁寧に袖で絵についた泥を拭い、胸に抱きしめた。そのとき、怒りが湧き上がった。「誰が……誰がこれを捨てろと言った!?」怒鳴った声に、作業員たちは驚き、顔を見合わせた。「……神谷さん、あの……望月さんの指示でした。全部いらないから処分しろと……」「でも……確かに聞きました。ご自宅の改装はすべて彼女に一任すると……」作業員たちは不安そうに視線を交わす。神谷蓮は黙って、積まれた荷物のなかに手を伸ばした。「……全部、戻せ」彼はひとつひとつ拾い上げながら、言葉を絞り出した。「一ヶ月やる。いいか、この家を――あの頃のままに戻せ。一分一秒、寸分も違わずだ」家に戻ると、リビングのテーブルには――離婚届が、まだそこにあった。以前、神谷蓮が帰ってきたとき、無造作に放っておいたもの。今では、それが彼女の「残した最後のもの」になってしまった。彼は椅子
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