LOGIN「神谷さん、検査の結果ですが……ステージ4のすい臓がんです。治療を中止すれば、余命はおそらく一ヶ月もありません。本当に、治療を受けないおつもりですか? ご主人の了承は……?」 「はい、大丈夫です。彼も……きっと、納得してくれます」 電話を切ったあと、私はしんと静まり返った部屋をぐるりと見渡した。 胸の奥が、ひりつくように痛んだ。 ただの胃痛だと思っていた。昔からの持病の悪化だと――まさか、がんだったなんて。 小さくため息をついて、リビングのテーブルに置かれた写真立てに目をやる。 写真の中で、十八歳の神谷蓮がこちらをまっすぐに見つめていた。 あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。 雪の降る帰り道、髪に舞い降りた白い結晶を見つけた彼が、冗談めかして言ったのだ。 「これって、いわゆる『共に白髪の生えるまで』ってやつかな?」
View More気がつけば、また結婚記念日がやってきた。神谷蓮は、事前に予約していたケーキを手に、自宅のドアを開けた。だが、家の中には誰もいなかった。リビング、寝室、ベランダ、風呂場……何度探しても、芽衣の姿はどこにもない。胸の奥に、かつて味わったあの「喪失の恐怖」が冷たい波のように押し寄せてくる。彼は震える手でスマホを掴み、警察に連絡しようとした——そのとき。——「パリンッ!」キッチンから、皿の割れる音が聞こえた。駆け込んだ先で彼が見たのは、目を真っ赤に腫らした芽衣だった。「……蓮。私、ガンだったの」返す言葉も見つからないまま、部屋の光がすうっと消えていった。気づけば、違う方向から芽衣が現れる。その姿は、見るも痛々しいほど痩せこけていた。頬はこけ、目にはかつての温もりはなかった。「……こんなふうに、現実から逃げて……楽しい?」その声は冷たく、突き放すようだった。神谷蓮の脳内に、耳鳴りのような轟音が鳴り響く。そして彼女は、涙を流しながら、最後の言葉を告げた。「ごめんね、蓮。今回はもう、あなたを許せない」「だって……本当に、もう愛してないの」足元が急に崩れ落ち、彼は必死に手を伸ばした。だが、彼女の背中はどんどん遠ざかっていく。掴みたいのに、届かない。どうしようもない恐怖と喪失感が全身を包み込む。もがきながら、彼は再び目を覚ました。傍らにいたのは、芽衣ではなかった。ただの青空、墓碑、そして風に揺れる桜の木々——それだけだった。さっきの出来事は、すべて夢だったのだ。神谷蓮は頬に触れた。そこはすでに、涙で濡れていた。——芽衣……夢の中で彼女が言った言葉が、頭から離れない。彼は焦るように、再び横になった。もう一度、彼女に会いたかった。——謝りたかった。膝をつき、頭を下げて、赦しを乞いたかった。けれど、何度目を閉じても、眠りは訪れなかった。やがて、溢れ出す涙は止まらなくなり、彼は瞳を閉じて嗚咽を漏らした。なぜか、胸騒ぎがしてならなかった。もう二度と——芽衣の夢を見ることはできないような、そんな予感がした。空虚が全身を包み込み、彼は子どものように声を上げて泣き出した。そのとき、不意に電話が鳴った。無理やり感情を押し殺し、画面を確認する。会社からだった。受話ボタンを押すと、受
あの日の午後、神谷蓮はずっとそこに佇んでいた。芽衣のいない空っぽの家に戻る気にはなれず、管理人の目を避けてこっそりとその場にとどまった。日が沈み、夜の帳が降りるころになって、彼はもう一度、彼女の墓標のもとへと戻った。夜風がひんやりと頬を撫で、あたりには冷たい気配が漂っていたが――神谷蓮には、まるで恐怖という感覚がなかった。だって、ここには、彼が心の底から愛し、今もなお愛してやまない人が眠っているのだから。彼は石碑のそばに横たわり、ひんやりとした石を優しく撫でた。そうしているうちに、胸に満ちるのは不思議な安堵感だった。風の音を聞きながら、神谷蓮はいつしか眠りに落ちていった。……目を覚ますと、そこは見慣れた寝室のベッドだった。暖かな日差しが部屋の中に差し込み、家具のすべてが彼に「ここは自分の家だ」と訴えかけている。いつ戻ってきた?自分は確かに墓地にいたはず――ドアの外から足音が聞こえ、数秒後には扉が開かれた。姿を現したのは……なんと、芽衣だった。――芽衣……!?彼女は……死んだはずじゃ……信じられない思いで見つめる神谷蓮に、彼女は微笑みながらそっと彼のそばに座った。「蓮、どうしたの?まるで幽霊でも見たみたいな顔して」彼は何度もうなずいたり、かと思えば首を横に振ったりして、混乱を隠せなかった。芽衣と話しているうちに、彼女が望月寧々という人物を知らないこと、会社にもそんな社員がいないことに気づいた。それに、彼女の顔色はよく、どこから見ても病気には見えない。――まさか、これが夢?神谷蓮は自分の腕を思いきり抓った。痛みが走る。……なら、これは夢じゃない?じゃあ、あの地獄のような日々こそが、夢だったというのか?そう思った瞬間、彼は興奮のあまり芽衣を抱きしめた。夢だったとはいえ、あの絶望はあまりにもリアルだった。その後、芽衣を連れて病院へ行き、徹底的な検査を受けさせた。結果が異常なしと確定するまで、彼は何度も医師に確認を取った。そして、病院を出たその足で、彼はすぐに手続きを進めた。自分名義の不動産、車、すべてを芽衣に譲渡し、公証手続きも完了させた。彼女が戸惑うのも当然だったが、彼は真剣な眼差しでこう言った。「『お金のあるところに愛がある』って言うだろう?俺の覚悟を見せたかったんだ」「芽衣、今度こそ、君を二度
この数日、神谷蓮はずっと彼女と連絡を取ろうとしていた。彼が芽衣に会いたがっていることを、須藤ことりも知っていた。けれど、彼女はずっとその願いを拒み続けていた。まさか、最終的に神谷蓮が警察の伝手を使って自分に連絡を取ってくるとは、ことりは思ってもいなかった。何と言っても親友の夫、完全に突き放すことができなかったのは事実だった。彼が本当に何か取り返しのつかないことをしてしまうのではないか――そんな不安が、ことりを動かした。幸い、大事には至っていなかった。彼女は安堵し、警察署を後にしようとした。――そのとき、「ドサッ」と音がした。振り返ると、神谷蓮がその場に膝をついていた。彼は深く頭を垂れ、肩を震わせている。「……須藤、頼む……頼むから……芽衣に、会わせてくれ……」その姿は、これまで彼女が見てきた誰よりも惨めで、切実だった。どんなに冷たくしても、すみれの胸は締めつけられるばかりだった。芽衣の墓参りの日、神谷蓮はスーツを着て現れた。それは、大学を卒業する際、芽衣が贈ってくれたスーツだった。彼は駅前で白いマーガレットの大きな花束を買い、理髪店で髪を整えた。道中、車内は終始沈黙に包まれていた。二人は言葉を交わすこともなく、ただ時間だけが過ぎていった。車は都心から離れ、二時間かけて、ある山あいの静かな霊園へとたどり着いた。入口の前で、神谷は足を止めた。この場所――彼は知っている。数ヶ月前、芽衣が自宅のテーブルにパンフレットを置いていたのを思い出した。あのとき、自分はただの「かまってほしい」アピールだと思っていた。だが今、すべてが線となって繋がる。彼女は本当に、ここを選んでいたのだ。自分がただ、目を逸らし続けていただけだった。あのとき、ほんのひと言でも声をかけていれば。この結末は、変わっていたかもしれない。胸がきしむように痛んだそのとき――「神谷蓮」と、ことりが声をかけた。「入る前に、ひとつ言わせて」そして彼女は歩み寄り、いきなり彼の頬を張った。思いがけない一撃に、神谷蓮の顔が横へと揺れる。「これは、芽衣の代わりに。『永遠に一緒にいる』なんて、嘘ばっかりのあんたに」ことりの瞳は赤く染まり、もう一発、強く彼の頬を叩いた。「これは、あの子を突き
「ほら見たことか、やっぱり我慢できなかったな!」「一途だなんてウソさ、結局は周りの女がタイプじゃなかっただけだろ?」「でもな、神谷、お前もそろそろ趣味変えたらどうだ? ああいう真面目な女ばっかで飽きないのかよ?」「ま、俺らダチなんだから、似たような女いくらでも紹介してやるって!」個室に男たちの下品な笑い声が響き渡る。神谷蓮の眉間に、鋭い怒気が走った。彼はソファから立ち上がると、隣の女を突き放し、反転してその首を机に押さえつけた。「うっ……!」大きな手がゆっくりと絞まっていく。女の顔が真っ赤に染まり、苦しげにもがき始める。「神谷、やめろ! 殺す気か!」周囲の男たちが慌てて止めに入り、神谷蓮をなんとか引きはがす。女は這うようにしてその場から逃げていった。彼は静かに、だが冷ややかな視線を一同に向ける。「言っとくが――二度と俺の妻に対して無礼なことを言ったら許さない。それから、こんな低俗な手段を使うようなやつもだ。俺の前に現れるな」一瞬、誰もが言葉を失い、ただ沈黙が流れた。「……ったく、女一人のことでよくもまぁここまで気取れるな」どこからか、酔いの回った男の小さな呟きが聞こえた。神谷蓮がその声の主に目を向ける。先ほどから問題発言を繰り返している大森だった。「何が神谷だよ。女なんて掃いて捨てるほどいるだろ? あの女が死んだって、だから何なんだよ?」「それともお前、後を追って死ぬつもりか? まあ、それもそれで羨ましいぜ。もう奥さんに口うるさく言われることもないし、これからは自由に遊べるんだからな」「いっそ、顔が似てる女を何人か連れてこさせてさ、『あの人みたいに振る舞え』って言っときゃそれで済む話だろ?」彼にとって女なんて、ただの消耗品に過ぎなかった。その下卑た言葉が、神谷蓮の中の理性を完全に焼き切った。彼はテーブルにあったウイスキーボトルを手に取り、そのまま大森の頭に振り下ろした。「ッ……!」ガラスが砕け、血が床に飛び散る。大森が叫びながら部下を呼び、神谷蓮も構わず応戦した。彼は泥酔しているにもかかわらず、動きに迷いはなかった。拳は正確に相手の急所を捉え、一発ごとに鈍い音が響く。バーは一瞬で修羅場と化し、店のスタッフは慌てて警察に通報した。そして――午前二
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