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第1011話

Author: 似水
「からかっただけだよ!」

綾人は慌てて弁明した。

かおるは必死にもがきながらも、なかなかその腕から逃れられず、荒い息を吐きつつ彼を睨みつけた。

「こんなことして、何が面白いの?」

綾人はぐっと力を込めて、かおるを胸元に引き寄せ、強く抱きしめながら答えた。

「ごめん。ただ、あの女が何を企んでいるのか見極めたかっただけだ。誓って言うけど、彼女には何一つ触れさせてない」

「じゃあ……机の下に潜って何してたの?」

「ペンを拾ってたんだ」

かおるが机の下に目をやると、確かにペンが落ちていた。

どうやら、かおるが入ってきたのは絶妙なタイミングだったようで、典子が潜り込んだばかりでまだ何も起きていなかったらしい。

怒りが完全には収まらぬまま、かおるは抵抗しながら声を荒げた。

「離して」

「嫌だ、離さない」綾人はさらに強く彼女を抱き締めた。「ちょっと落ち着いてくれ。そういえば、どうしてここに?」

綾人は誰にも聞こえないように、低く、静かに囁いた。

かおるは彼の問いに答えず、じっとドアの方を見据えた。

「先に出てて」

ドアの前にはまだ直樹と典子が立っていた。

「はい」

直樹は頷き、静かにドアを閉めて立ち去った。

かおるはしばし思案し、ぽつりと尋ねた。

「……先に帰る?」

綾人はその言葉の裏にある不安を感じ取り、「そうだね」と静かに答えた。

そして二人はすぐにオフィスを後にした。

車に乗り込むと、かおるが口を開いた。

「直樹が、社長室に直接来いって言ったの。エレベーターを出たとき、あなたがまだ会議中だって言われて、オフィスで待ってろって……」

「ふん……」綾人は冷たく笑った。「身近に裏切り者がいたってわけか」

すべては仕組まれていた。そう確信した。

もし、かおるの到着がほんの少しでも遅れていたら、典子は何かを仕掛けていたかもしれないし、綾人が拒もうとしても間に合わなかったかもしれない。

そうなれば、かおるはきっと誤解し、二人は争い、深い溝が生まれていただろう。それはやがて心に棘となり、決して癒えない傷となる。

月宮家の計画は、かおる一人を標的にしたものではなく、綾人の側近にまで魔の手を伸ばしていた。

「これからどうするつもり?」

かおるは静かに問いかけると、綾人の瞳に冷ややかな光が宿った。

「しばらく泳がせてみよう。次に何
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