LOGIN綾辻月子(あやつじ つきこ)が流産した時、入江静真(いりえ しずま)は初恋の人の帰国を祝っていた。 三年もの間、尽くして寄り添った月子を、彼はただの家政婦か料理人くらいにしか思っていなかったのだ。 月子はすっかり心が冷え切り、離婚を決意した。 友人たちは皆、月子が静真にベッタリで、絶対に別れられないと知っていた。 「賭けてもいいぜ。一日で月子は大人しく戻ってくるさ」 「一日? 長すぎだろ。半日もあれば十分だ」と静真は言った。 月子は離婚した瞬間、もう後戻りはしないと決め、新しい生活に奔走し、かつて諦めた仕事に打ち込み、新しい人との出会いにも積極的になった。 日が経つにつれ、静真は家の中で月子の姿を見かけなくなった。 急に焦り始めた静真は、ある業界のサミットで、ついに人々に囲まれた月子を見つけた。 彼は我を忘れて駆け寄り、「月子、まだ懲りてないのか?!」 鷹司隼人(たかつかさ はやと)は突然月子の前に立ちはだかり、片手で彼を突き飛ばし、冷たく鋭いオーラを放った。「お前の兄嫁に手を出すな」 静真は月子を愛したことは一度もなかった。しかし、彼女を愛するようになった時には、彼女の傍には、もう彼の居場所はなかった。
View More本邸からの呼び出しを知っても、静真の意志は揺るがず、行くつもりは毛頭なかった。月子は彼のその様子を見て言った。「……あなた、お兄さんのこと、本当に嫌いなのね」静真にとって、隼人は今生における最大の障壁だ。幼い頃からずっと、静真のものをすべて奪おうとしてきた男。そんな危険な存在に、どうして自分の愛する月子を会わせたりできるだろうか?たとえ今生では月子と隼人が結ばれる運命にないとしても、自分がコントロールできる限り、絶対に二人の接触は許さない。「ああ、嫌いだ」静真は月子を真っ直ぐに見つめ、微塵の迷いもなく言い切った。月子と静真の関係は、日を追うごとに修復され、深まっていた。もちろん、静真のあの「坊ちゃん気質」が完全に消え去ったわけではない。しかし、彼が根本から変わったことで、かつての「冷酷さ」は、今ではどこか不器用のように見えていた。そんな少し不器用な彼を、月子は愛おしく思っていた。月子は微笑んで頷いた。「分かったわ。うちの入江社長が嫌いなら、私も嫌いよ。行きたくないなら、行かなくていいわ」静真はふっと表情を和らげ、月子を愛しげに腕の中に引き寄せた。彼女の髪から漂う甘い香りを深く吸い込み、こらえきれずにその唇にキスを落とす。月子は頬を赤く染めた。三年間の結婚生活で、こんなに甘く親密な時間を過ごしたことは一度もなかったのだ。静真は、月子の体が完全に回復するのをじっと待っていた。毎晩彼女を抱きしめて眠りながらも、決してそれ以上のことはしなかった。実際には月子の体調はとうに回復していたのだが、静真は強靭な自制心で己を抑え込み、焦って彼女に触れようとはしなかったのだ。そして今、静真は月子の唇を塞いだ。月子は最初こそ恥じらっていたが、やがて不器用ながらも彼に応え始めた。静真はゆっくりと、そして熱くキスを深めていく。しばらく唇を重ねた後、彼はそっと顔を離し、真剣な眼差しで自分の妻を見つめた。欲望を満たすことよりも、今はただ、彼女に伝えたい感情が溢れて止まらなかった。月子は、このまま自然に夜の営みへと移るものだと思っていた。しかし彼が動きを止め、胸が締め付けられるほどに深情な瞳で自分を見つめてくるので、戸惑いながら尋ねた。「……どうして、そんな風に見るの?」静真は低く、甘い声で答えた。「月子……俺の前に現
静真が月子を引き留めるために打った次の一手は、彼女をSグループから退職させることだった。目的は明確だ。今生において彼の最大の「敵」となる男――隼人に、月子を出会わせないためである。静真は分かっている。月子が心底愛した最初の男は、間違いなく自分だったということを。かつての自分が余りにも酷い振る舞いさえしなければ、隼人のような男がつけ入る隙など微塵もなかったのだ。しょせんは血筋の知れない私生児。あいつには常に、決定的な「運」が欠けている。今生では、隼人が月子を奪うチャンスなど、ただの一ミリたりとも与えるつもりはなかった。月子は非常に負けず嫌いな性格だ。彼女が外で働き続けてきたのも、口うるさい義母に嫌味を言われるのを防ぐためだった。「……私、まだ働けるわよ」静真は、月子の本来の才能と仕事における実力を誰よりも知っている。彼自身の独占欲もあるが、それ以上に、彼女が持つ輝かしい未来を本気で誇りに思っていた。「月子、お前は誰よりも優秀だ。だからこそ、自分の専門分野で勝負するべきなんだ。ただの秘書として終わる器じゃない。お前がやりたい仕事なら、俺が全力でバックアップする」月子はこの三年間、静真の世話を最優先にするため、あえて負担の少ない秘書の仕事を選んでいた。そのせいで、親友の彩乃と一緒に起業する夢も諦めざるを得なかったのだ。「これからは、お前が本当にやりたいことをやればいい」静真のその言葉は、月子の胸を強く打った。彼女は元々、離婚した後は自分のキャリアを本格的に再開させるつもりでいた。しかし今、離婚は事実上不可能になり、その上、静真は人が変わったように彼女を尊重してくれている。月子に異存はなく、素直に退職届を提出することにした。本来なら月子自身が会社へ赴いて手続きをするはずだった。しかし、隼人がすでに帰国していることを知っている静真は、万が一の接触を恐れ、部下を向かわせて退職手続きをすべて代行させた。月子の心が完全に自分から離れていない今、静真が少し努力するだけで、隼人の入る余地など一切ないはずだ。それでも彼は決して油断しなかった。今の静真は、全身全霊で月子を愛し抜くと決めている。この世で最高の愛を彼女に捧げる。彼が愛を注ぎ続ければ、月子の目は永遠に自分だけを見つめ続けてくれるはずだと信じていた。また、静真のせい
静真は自分のために涙を流しているのだろうか。月子はそこまで深く考えるのが怖かった。けれど、彼女の心臓は自分でも驚くほど激しく脈打っていた。月子は、静真の今の状態を確かめたくてたまらなかった。何か恐ろしいことでも起きたのではないか、そんな不安が胸をよぎる。結局、これほど傷つけられても、月子は無意識に彼を案じ、世話を焼こうとしてしまうのだ。彼女の中の愛情が完全に枯れ果てるまでは、どうしても彼のことが放っておけなかった。月子がそっと彼を押し戻そうとすると、静真は反射的に彼女をさらに強く抱きしめた。やがて、耳元から規則正しい寝息が聞こえてきた。……寝ちゃったの?月子は毒気を抜かれたような気分だった。眠れる余裕があるのなら、事態はそこまで深刻ではないのだろう。月子は少しだけ安堵した。それにしても、静真の腕の中はひどく暑くて、狭い。彼に抱かれることがこれほどまでに圧倒的な熱量を伴うものだとは、月子は知らなかった。彼の高い体温が伝わり、月子の頭の中までぼうっとしてくる。石鹸やシャンプーの清潔な香りが鼻をくすぐり、それは彼女が以前から密かに好んでいた匂いだった。静真のそばにいるだけで、月子の心はどうしても乱れてしまう。彼という男をどう表現すればいいのか、彼女には分からなかった。かつての彼はダイヤモンドのように、目も眩むほど眩いけれど、その鋭い光で見る者を傷つけ、遠ざけるような存在だった。けれど今の彼は、どこか温かみを帯びた、滑らかな玉のような質感を湛えている。月子はとりとめもない思考を巡らせながら、やがて眠りに落ちた。眠りに就く直前まで、彼女はこう確信していた。これはきっと一夜の夢なのだ。目が覚めれば静真はまたあの冷淡な男に戻り、自分は徹底的に心を砕かれ、そして彼と離婚して、二人の人生は永遠に分かたれるのだと。……しかし翌朝、目を覚ました月子を待っていたのは、全く予想外の現実だった。静真は、まだ彼女を抱きしめていた。それどころか、月子がかつて一度も見たことのないような、深い慈愛に満ちた眼差しで彼女を見つめていたのだ。そのあまりの変化に、月子の心はついていけず、激しい違和感に襲われた。本来の静真は、どこまでも孤高で冷徹な男だ。他人のことなど眼中にないし、彼の心は容易には動かされない岩石のようなものだったはず
神様は、静真にやり直しのチャンスを与えてくれたのだ。今度こそ月子を裏切らず、失った愛をすべて埋め合わせ、二度と彼女を離しはしない。これまで伝えてこなかった愛も、向けてこなかった関心も、そのすべてを彼女に捧げると静真は誓った。強張っていた静真の体は、次第に彼女の細い体温に馴染んでいった。彼は月子の細い腰を引き寄せ、逃がさないようにその腕の中に閉じ込める。鼻先を彼女の肩に埋め、その柔らかな香りを深く吸い込んだ。ずっと、ずっと渇望していた、月子の匂いだ。彼はその温もりに、病的なまでの執着を見せていた。だが、腕の中の月子の体は、凍りついたように強張ったままだった。月子の心には、あまりにも巨大な衝撃が走っていた。恐ろしさのあまり、今すぐ逃げ出したいという衝動に駆られる。三年の結婚生活で、一度も触れたことのないような親密な温もり。その熱は、ずたずたに引き裂かれた月子の心を焼き尽くしてしまうほどに、優しく、そして残酷だった。静寂が支配する夜の闇の中で、過去の記憶が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。月子の思考は、どうしても失ったばかりの我が子のことへと行き着いてしまった。静真との子供を、彼女はどれほど望んでいただろう。どれほど待ちわびていただろう。その悲しみは、月子の人生において永遠に消えることのない、深い深い傷跡だ。しかし今、この瞬間、静真はこんなにも温かく自分を抱きしめている。もし、彼がこれまで通り冷酷な態度を崩さず、あの冷たい背中を向け続けていたなら、月子も心を鋼のように硬くして耐えられたはずだった。けれど、今の彼の態度は、彼女の中に溜まっていた「絶望」を「甘え」と「不条理」へと変えてしまう。長い沈黙の末、月子はついに耐えきれず、押し殺したような震える声で尋ねた。「……静真、もう一度聞かせて。あなたは一体、私に何をしたいの?」その泣き出しそうな声を聞いた瞬間、静真の理性が決壊した。彼女の首筋に顔を埋めたまま、目尻から熱い涙が溢れ出し、月子の白い肌を濡らした。静真は掠れた低い声で、絞り出すように言った。「……俺のそばにいてくれて、ありがとう」その言葉には、失って初めて気づいた悔恨と、言葉にできないほどの後悔、そして今、彼女がここにいるという奇跡への感謝が、痛いほど詰まっていた。まるで、長く険しい死の淵を彷徨っ
一樹も体を鍛えていて、たぶん格闘技も習っているだろう。でも、屈強なボディーガードの前では、武器でもない限り無力だったから当然のように連れて行かれてしまったのだ。一方で、一樹がいなくなっても、誰もその場には近づけなかった。この家の主人である隼人が怒っていたからだ。普段は怒らない人が、ほんの少し怒りを見せただけでも、それはまるで嵐のようだった。月子はK市にいた頃、静真との身分の差を分かっていた。なぜなら彼は、自分の欲望や嫌な部分を隠そうとしなかったからだ。静真の考えは、その横暴な態度に全部表れていた。でも、隼人は違う。彼は落ち着いていて、感情を表に出さない。会社でも部下に対して
陽介は口ごもった。「……クライアントさんと夕食に」 天音はふっと笑った。「随分と慎重な言い回しね。クライアントって、悠真と千遥のことでしょ」 陽介は引きつった愛想笑いを浮かべた。「彼らもクライアントには違いないから」 天音は立ち上がって陽介の目の前まで行くと、笑みを浮かべながら彼の肩をポンと叩いた。「御託はいいから、案内して」 それは実質的な脅しだ。陽介は洵にこっそり知らせようかとも考えたが、今日一日、洵は天音を完全にないがしろにしている。おそらく伝えたところで無視されるだけだろう。 陽介はその考えを打ち消し、天音を連れて洵の元へ向かうことにした。 断り
洵は少し考えてから言った。「人と一緒にいるのが、あまり好きじゃないんだ」天音は小首をかしげた。「どうして?」「人間が好きじゃない」洵は素っ気なく答えた。友達といないと退屈で死にそうになる天音には、洵の感覚が理解できない。「じゃあ、私が遊びに誘っても来てくれないってこと?」「場合による。どんな場所でも行くわけじゃない」少なくとも、竜紀たちのような連中の飲み会に時間を無駄にするつもりはない。無意味だし、とにかくうるさいだけだ。「じゃあ、どんな場所ならいいの?」「人が少なくて、やることに意味があるところだ。時間の無駄遣いはしたくない」「今だって私と時間
天音は次にどう動くべきかと思案していた時に、まさか自分の頭にこんな考えが浮かぶとは夢にも思っていなかった。どうして洵と恋愛したいなどと思ってしまったのか?自分の人生に恋など必要か?まったく必要ない。周囲の人間からどれほど熱烈にアプローチされても一切意に介さず、情を断ち切って生きる側の人間だと思っている。この一生を自由気ままに謳歌し、恋愛も結婚もしない。人生には他にいくらでも選択肢があるというのに、ここへ来て洵と恋をしたいなどと思い始めるなんて、本当に笑い飛ばしてやりたい。しかし、手に残る感触は嘘をつかない。先ほどの恐怖から一転して、ふっと心が落ち着いたあの安心感も本物だ
Ratings
reviewsMore