LOGIN結婚して5年、春日部玲奈(かすかべ れいな)は自分を犠牲にして家庭に全てを捧げてきた。 子供の面倒、義父母の世話、夫である新垣智也(にいがき ともや)にもプライベートな時間を作ってあげた。 彼女は全てを犠牲にしてきたのに、夫は外に愛人を作って、車も家も仕事までもその女のために用意した。その愛人は至れり尽くせりの生活を送っていたのだ。 自分から気持ちが離れてしまった夫を取り戻すため、玲奈は第二子に男子を産もうと決心する。 夫は二人目に積極的で、新垣家の夫人としての立場を認めてくれているものだと思っていたのに、実は智也は愛人が子供を産むのにリスクがあるから、玲奈を子作りの道具としてしか見ていなかったのだった。 夫を失っても、まだ娘だけは自分と一緒にいてくれると思っていたのに、手塩にかけて大事に育てたその娘さえも、よその女に取られてしまったのだ。 そしてようやく玲奈は心を鬼にして、お腹にいる二人目を堕胎し、離婚をすることを決意する。夫と娘などもう必要ないのだ。 しかし、離婚協議中に、以前は家に帰ることすら嫌がっていた夫が珍しくリビングで彼女を引き留めた。「二人目を産むと言ってなかったか?」
View More拓海の顔から、さっきまでの笑みがすっかり消えた。声を落とし、玲奈に問いかけた。「つまり、玲奈が俺に送ったあの女が……俺を助けた本人だって言いたいのか?」玲奈は頷いた。「そうよ」拓海は玲奈の腕をつかんだ。無意識に力が入る。そして、歯の隙間から絞り出すように声を出した。「俺を拒むために、そんな嘘までつくのか?」玲奈は真っ直ぐ彼を見つめた。その目には、ただ真剣さだけがあった。「嘘じゃない。本当のことよ」その言葉に、拓海はふいに顔を背け、大きな声で拒絶した。「信じない」玲奈はなお何か言おうとした。だが拓海は、もうそれ以上聞こうとしなかった。次の瞬間、彼は振り向きざまに玲奈の唇を塞いだ。それは初めてと言っていいほど乱暴な口づけだった。噛みつくように、奪い尽くすように、まるで彼女そのものを呑み込んでしまいたいかのように。玲奈は反射的に彼を押し返した。もう彼に怪我があることなど、気にしていられなかった。それでも、どれだけ力を込めても、拓海は離れようとしない。やがて口の中に濃い血の味が広がったとき、ようやく彼は少しだけ唇を離した。その血が自分のものなのか、拓海のものなのか、玲奈にはわからなかった。拓海の顔は薄暗がりの中に沈み、玲奈が見上げても、おおまかな輪郭しか見えない。長い睫毛に隠れて、その目の奥の感情も読み取れなかった。玲奈は口元の血を手でぬぐい、それでもなお言った。「私が言ったことは、本当よ」その言葉に、拓海は冷たく笑った。「本当だったとして、それが何だっていうんだ」表情は見えない。何を考えているのかも、はっきりとはわからない。ただ、その声の端々から、彼がひどく機嫌を損ねていることだけは伝わってきた。そして拓海は、さらに低く問い詰めた。「もしあのとき、先に俺を見つけたのが玲奈だったら、見捨ててたか?玲奈の性格なら、絶対に助けてたはずだ。だから俺を救ったのは玲奈でしかないし、そうあるべきなんだよ……」そのとき、玲奈が静かに言った。「須賀君、それはわからない。本当に……私にも、自分が助けたかどうかなんてわからない」起きてもいないことに、確かな答えは出せない。玲奈自身にも、自分なら必ず助けたとまでは言い切れなかった。拓海
玲奈自身がそう決めた以上、心晴もそれ以上は何も言えなかった。結局、その夜のテントの割り振りは、明と颯真が一張り、心晴が一人で一張り、そして玲奈と拓海が一張りということになった。決まると、皆それぞれ自分のテントへ戻っていった。玲奈がテントの中に入って腰を下ろすと、すぐに拓海も身をかがめて入ってきた。二人は向かい合って座ったまま、互いを見つめながらも、不思議なほど息を合わせたように黙り込んでいた。しばらくして、玲奈が口を開こうとしたそのとき、先に拓海が言った。「わかってる。玲奈、何か抱えてるんだろ。一日中、ずっと元気がなかった。今日だって、本当はそんなに楽しめてなかったはずだ。みんなの気分を壊したくなくて、泊まるって言っただけなんだろ」そうと知りながら、それでも拓海は彼女の気持ちを優先しなかった。このまま山を下りてしまえば、それぞれまた別々の場所へ帰ってしまう。だからこそ、少しでも長く一緒にいたかったのだ。拓海の言葉に、玲奈は取り繕わなかった。「そうよ」あまりにきっぱりと認められて、拓海は逆に面食らったようだった。それでもすぐに、探るように問いかけた。「そこまでして俺と二人きりになりたかったって、一体何を話すつもりなんだ?」玲奈は顔を上げて彼を見た。けれど、いざとなるとどう切り出せばいいのかわからない。黙り込んだ彼女を見て、拓海はさらに尋ねた。「今日ずっと、知らないやつからラインの友達追加が来てた。あれ、玲奈が送ったのか?」玲奈は頷いた。「そう。私が送ったの」拓海は気にも留めていないように肩をすくめた。「女か?」「ええ」すると拓海はあっさりと言った。「なら、もうブロックした」それを聞いた瞬間、玲奈は思わず身を乗り出した。「須賀君、あなた……」だが次の瞬間、拓海は彼女の手をつかみ、軽く引いて自分のほうへ寄せた。その黒い瞳をまっすぐ見つめながら、低く押さえた声で言った。「相手が女なら、追加したって意味がない。だったら最初からいらない」その視線を受け止めながら、玲奈ははっきりと彼を呼んだ。「須賀君。あの橋の上で――」だが最後まで言い切る前に、拓海は身を翻して彼女に覆いかぶさった。大きな影が、玲奈の上に落ちる。拓海はそのまま顔を
そのころ、山頂では――五人はレジャーシートの上に並んで寝転んでいた。玲奈と心晴が真ん中にいて、その両脇をそれぞれ拓海と明が挟んでいる。空いっぱいに散らばる無数の星を見上げながら、玲奈の目はどこか焦点を結ばず、耳の奥にはただ静けさだけが満ちていた。そんな中、場を和ませるように明が口を開いた。「みんな黙っちゃってるけど、何考えてるんだ?」けれど、誰も答えなかった。全員が口をつぐんだままなのを見て、明は名指しで尋ねた。「颯真、おまえは?」颯真の声はいつもどおり淡々としていた。「あとでテントをどう分けるか考えてた」明は思わず鼻で笑った。「風情なさすぎだろ。こんないい景色を前にして、考えることがそれかよ」すると颯真は、さらりと返した。「あとで一緒に寝ようなんて言うなよ」明は「は?」とでも言いたげに顔をしかめ、それから今度は拓海へ向き直った。「須賀は?何考えてるんだ?」拓海は両手を頭の後ろに回し、星空を見たまま、しゃがれた声で答えた。「俺は俗っぽい人間だからな。頭の中、そういうのでいっぱいだ。俺も同じで、あとでテントをどう分けるか考えてた」明は額に手をやりたくなった。「……ほんと、お前たち二人がいると、こっちの立つ瀬がないよ」拓海はすかさず突っ込んだ。「何が立たないって?」明は慌てて低く怒鳴った。「心晴がいるんだから、そういうこと言うなって!」拓海はそれ以上何も言わなかった。妙な空気がひとまず引いたところで、明はまた玲奈に声をかけた。「玲奈さんは?何考えてるんだい」玲奈はひとつ深く息を吸い、笑みを作って答えた。「私は……別に何も」本当は、頭の中は一華と拓海のことでいっぱいだった。けれど今はまだ口にできない。胸の中に押し込めたままで、息が詰まりそうだった。明も、それ以上しつこく追及はしなかった。心晴にも聞いてみたかったが、気分を害したらと思うと踏み込めない。すると、本人のほうから先に口を開いた。「私はね、この先のことを考えてたの。きっと私たち、これから先、みんな幸せに、楽しく暮らしていけるんじゃないかなって」その言葉に、明もすぐに頷いた。「うん。きっとそうだ。楽しくて、幸せな日々になる」そこからは、自然と会話が続いた。
智也は愛莉の顔をじっと見つめていた。小さな顔の上を、次から次へと感情が移り変わっていく。返事がないままなので、智也は様子をうかがうように声をかけた。「愛莉?」はっと我に返った愛莉は、くりくりとした大きな目で智也を見上げ、素直に答えた。「パパ、どうしたの?」智也は辛抱強く、もう一度尋ねた。「ララちゃんに会いに行きたいか?」愛莉は首を横に振り、唇を尖らせた。「行かない」その返事に、智也は不思議そうに眉を寄せた。「ララちゃんのこと、一番好きだっただろ。どうして行きたくないんだ?」愛莉は目を伏せ、複雑な表情を浮かべた。「好きだよ。でも、雅子おばさん……」思わず、雅子にいじめられていることを話しかけた。けれど言葉はそこで途切れ、その先は飲み込んだ。もし言いつければ、雅子は沙羅に、自分を相手にしないよう仕向けるかもしれない。そう思うと怖くて、それ以上は口にできなかった。智也はその様子を見て、わずかに眉をひそめる。「どうした?」愛莉はにこっと笑って、智也の腕に抱きついた。「ううん、何でもない」智也はそれ以上追及しなかった。ただ頭をそっと撫でて言った。「まだ時間はある。おばあちゃんを呼んで、少し外で遊んでもらおう」愛莉は素直に頷いた。「うん」智也が美由紀に電話をすると、ほどなくして彼女はやって来た。美由紀は、孫娘の愛莉をことさら可愛がっているわけではなかった。本当は欲しかったのは男の子の孫だったからだ。それでも智也の娘である以上、露骨に冷たく当たることはない。だが、特別に愛情を注いでいるわけでもなかった。愛莉のほうも、この祖母にはどこかよそよそしさを感じていた。むしろ宮下のほうが、よほど親しみやすいとさえ思っていた。二人が小燕邸を出るとすぐ、美由紀は不満げに口を開いた。「愛莉、あなたのお母さんは本当に自分勝手ね。今じゃ、娘のあなたのことまで放っておくなんて」なぜだかわからない。その言葉を聞いた瞬間、愛莉は胸の奥が少しざわついた。愛莉は思わず言い返した。「おばあちゃん、ママはちゃんと面倒見てくれてたよ。前は、いつも朝ごはん作ってくれたもん」それを聞いた美由紀は、さらに顔を曇らせた。「じゃあ今は?今でもちゃんとしてく
電話を切ったあと、玲奈はベッドの縁に座り込み、しばらく呆然としていた。愛莉の言葉にも、もう胸は大きく揺れなかった。――どうせ彼女はもう、沙羅を母親だと思いたがっている。理由などどうでもよかった。思考を打ち切り、玲奈は部屋の片づけを始めた。薔薇の花びらも贈り物もすべて箱に収め、ようやく洗面を済ませて眠りについた。翌朝早く、身支度を整えた玲奈は再び家を後にした。目的はひとつ――智也に会って、直接離婚の話をすること。彼女は真っすぐに彼の会社へ向かった。ビルの前に着くと、すぐに智也へ電話を掛ける。だが応答はなく、代わりにメッセージが届いた。【外で会議中だ。
小燕邸に戻ると、愛莉はすでに洗面を終え、寝室で横になっていた。智也は外からドアを叩き、声をかける。「愛莉、パパ入っていいか?」「うん、入ってきて」娘の声が返る。扉を開けると、愛莉はベッドに腰掛け、タブレットでアニメを見ていた。彼の姿を見つけるなり、嬉しそうに声を上げる。「パパ!」智也はベッド脇に座り、娘の髪を撫でながら、優しい口調で尋ねる。「眠くないか?」愛莉は素直に首を振った。「パパ、ぜんぜん眠くないよ」智也は彼女の小さな鼻を軽くつまみ、穏やかに笑う。「じゃあ、パパから話したいことがある」「うん、何?」娘のあどけない顔を見ていると、
玲奈の瞳には、一片の波風も立っていなかった。悲しみも、怒りも、喜びもなく――ただ淡々とした静けさだけがあった。その時、ようやく智也は悟った。彼女が口にしているのは、離婚の話なのだと。助手席に座る玲奈は、静かに顔を上げ、彼を見ていた。智也はまだ信じられず、問い返す。「......今、なんて言った?」結婚して五年。彼女はずっと従順で、全力で愛莉の世話をし、両親に仕え、決して自ら波風を立てることはなかった。智也は、そんな玲奈を好ましく思っていた。大人しく、騒がず――だからこそ、二人の結婚生活は五年も続いたのだ。だが今、その「おとなしい妻」が、自ら離婚を切り
博士課程に進んだ以上、沙羅がすべきことは研究だった。だが彼女には、肝心の研究テーマが定まっていなかった。いくら文献を漁っても、手掛かりとなる課題は見つからない。同じ学年の仲間たちが次々と研究に没頭していく中、自分だけが足踏みしている――その現実は、学問の歩みを大きく遅らせていた。だから沙羅は、学のもとを訪ねる決意をした。学は厳格で、笑うことも滅多にない。学生たちからは「近寄りがたい先生」として畏れられている。沙羅にとっても同じだった。単身では訪ねる勇気が出せず、智也と薫を伴ってここへ来たのだ。沙羅の問いを聞いた学は、表情一つ変えずに言い放った。「医学を学
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