部屋に入ると、雅之がデスクに座り、冷ややかな表情でパソコンを見つめながら仕事をしているのが目に入った。里香は一瞬立ち止まり、まず自分のスーツケースを次の部屋に運んでから、「もう遅いし、先に休んで」と声をかけた。雅之は軽く「うん」と答え、パソコンを閉じて立ち上がり、寝室に向かって歩き出した。雅之が寝室に入るのを見届けて、里香はほっと一息ついた。自分の部屋に戻り、シャワーを浴びてベッドに横になったが、目を閉じるとあの凶暴なチベタン・マスティフの姿が浮かんできて、怖くて眠れなかった。里香はベッドから起き上がり、頭を掻きながらため息をついた。今日の出来事でかなりのストレスを受けたはずだから、ぐっすり眠りたいのに、どうしても眠れない。どうしたらいいのだろう?ふと、リビングのワインラックにたくさんの赤ワインが入っているのを思い出し、里香は布団を跳ね除けてベッドから降り、ワインを取り出してそのまま飲み始めた。少し飲めば、眠れるかもしれないと思ったのだ。しかし、赤ワインの味は特に何も感じず、気づけば一本丸々飲み干してしまった。ソファの横のカーペットに座り、空っぽのワインボトルを手にしながら、里香はぼんやりと「もうないの?」と呟いた。その時、雅之が音を聞きつけてリビングにやって来た。里香が赤い頬をしてカーペットに座り、まるで子猫のように可愛らしい姿をしているのを見て、雅之の目がさらに暗くなった。雅之は里香に近づき、「どうして酒なんか飲んでるんだ?」と尋ねた。以前、里香が酔った時の姿を彼はよく覚えていた。甘えて、べたべたとくっついてくる、あの可愛さにキスしたくてたまらなくなるほどだった。里香は雅之を見て、驚いたように目を大きく開き、「まさくん!」と嬉しそうに叫び、ワインボトルを投げ捨てて彼に飛びつこうとしたが、左足が右足に引っかかり、バランスを崩してそのまま前に倒れそうになった。雅之は慌てて里香を引き寄せ、そのまま腕の中に抱きしめた。「うん」と雅之は短く応え、その暗い瞳はさらに深みを増した。里香は彼をじっと見つめ、突然、ふわっと笑顔を浮かべた。「助けてくれてありがとう。あのままだったら、あの犬に食べられてた」雅之は「口だけでお礼か?」とからかうように言った。里香はぼんやりとした目で瞬きをし、綺麗な瞳には少し涙のような光が浮
翌朝。里香が目を開けると、目の前には男の胸筋が飛び込んできた。瞳孔が一瞬にして縮んだ。慌てて起き上がり、周りを見渡すと、ここは自分の部屋ではなく、主寝室だった。何が起こったの?どうして私がここにいるの?すぐに自分の服を確認し、ちゃんと着ていることを確かめてホッとした。「何心配してんだ?」かすれた、少し気だるげな声が聞こえた。振り返ると、雅之が半分目を閉じたまま、まだ眠そうな顔で里香を見ていた。全身からリラックスした雰囲気が漂っている。「なんで私があなたの部屋にいるの?」と里香が問いかけると、雅之は笑いながら「それは僕も聞きたいね。どうして君が僕の部屋にいるんだ?」と返した。雅之はゆっくりと起き上がり、布団が滑り落ちると、開いた浴衣の襟からしっかりとした筋肉が露わになった。彼は意味ありげな笑みを浮かべ、「まさか寂しくなって、こっそり僕の部屋に来たんじゃないよな?」とからかった。里香の顔が一瞬で曇り、「寂しくても、あなたのところには来ないわよ」と言い返し、布団をめくってベッドから降りようとした瞬間、急に腕を引かれ、そのままベッドに押し倒された。雅之の美しい顔に陰りが差し、「僕のところに来ない?じゃあ、どこに行くんだ?祐介兄ちゃんのところか?それとも哲也か?」と冷たく言い放った。里香は彼の険しい表情を見て、皮肉っぽく「私がどこに行こうが、あなたには関係ないでしょ?」と返した。雅之の声はさらに冷たくなり、「関係あるかどうか、これから教えてやるよ」と言い、キスをしようとした。里香はすぐに抵抗したが、誤って彼の左腕に触れてしまい、雅之は痛みに顔を歪め、その大きな体が重くのしかかった。「お前、僕を殺す気か?」と雅之は歯を食いしばって言った。里香は一瞬固まり、自分が少しやりすぎたことに気づいて、「あなたが悪いんでしょ。少しは落ち着いた?」と、申し訳なさそうに言った。雅之は何も言わず、依然として里香の上に覆いかぶさったままだった。その体はまるで山のように重かった。耐えかねた里香は彼の肩を押しながら「ちょっと、起きてよ!潰されちゃうってば!」と文句を言った。雅之はゆっくりと起き上がり、唇が里香の頬をかすめ、その暗い瞳でじっと見つめながら、「本当に潰してやりたいくらいだ」とつぶやいた。そうすれば、里香はもう自
里香は何度も深呼吸をして、ようやく自分の怒りを抑え、雅之の前に歩み寄り、手を伸ばして浴衣の帯を引き解いた。雅之は里香の動きを見て、少し眉を上げた。次の瞬間、里香の白い顔がだんだんと赤く染まっていくのを見て、雅之の深い目にはわずかな興味が浮かんだ。雅之は動かず、余裕たっぷりに里香の様子を眺めていた。里香は雅之にシャツを着せ、次にズボンを履かせ始めた。しかし、ベルトを通す時、うっかりして雅之の「ある部分」に触れてしまった。雅之は即座に里香の手首を掴み、低い声で「お前、わざとだろ?」と問い詰めた。里香の顔は真っ赤だったが、無理やり平静を装い「自分の意志が弱いだけでしょ?それを私のせいにするの?」と反論した。雅之は里香をじっと見つめ、しばらくしてからようやく手を放し、「続けろ」と言った。里香の長いまつげがかすかに震えたが、里香はそのままベルトのバックルを留め、全てが終わると、里香は背を向けて大きく息を吐いた。やっと終わった。でも、これからしばらくの間、毎日雅之の世話をしなければならないと思うと、里香の眉間にはしわが寄った。本当に気が滅入る!その時、部屋のドアがノックされた。里香はドアを開けに行くと、そこには会所のルームサービスのスタッフが立っていた。里香は道を開け、スタッフが部屋に入って朝食をテーブルに並べた後、退室した。里香は雅之のことなど気にせず、さっさと席に着いて食べ始めた。雅之はその様子を見て、目をさらに細め、里香の隣の椅子を引いて座った。二人の間には一時的に穏やかな雰囲気が漂った。翡翠居 (ひすいきょ)。雅之は非常に忙しかった。今回、安江町に来たのは、ここでの現地視察が主な目的だった。里香に出会ったのは、まったくの偶然に過ぎない。しかし、結果的には収穫があった。雅之はデスクに座り、冷ややかな表情で書類に目を通していた。その姿はまるで高貴な彫像のようだった。一方、里香はソファに座り、退屈そうにスマホゲームをしていた。雅之の左腕は骨折しているわけではなく、ただの皮膚の傷だ。ちゃんとケアすれば、すぐに治るだろう。哲也の件が片付けば、里香は安江町を離れることができる。帰ったら、里香は雅之としっかり話し合って、離婚のことを決めようと思っていた。これまでずっと互いに絡み合ってきたが、いい結果に
里香はスマホを置き、雅之を見つめて言った。「特産品を買うのは、さすがに私の仕事じゃないでしょ?」雅之は静かに言った。「特産品を食べたら、僕の回復が早くなるかもしれない」里香:「......」里香は立ち上がり、「わかったわよ。でも、買ってきたら絶対に食べてもらうからね!」と言い捨て、怒りに満ちた足取りで部屋を出て行った。雅之は里香の背中を見つめながら、イライラした気分に包まれ、ネクタイを引っ張って胸の奥に溜まった鬱屈した感情を吐き出そうとした。以前はこんな風じゃなかったのに。この一年間、二人で過ごした時間は、確かに楽しかったはずだ。雅之は目を閉じ、静かにため息をついた。里香は買い物を素早く済ませ、一時間ほどで戻ってきた。里香は安江町の特産品を雅之の前に並べ、顎を少し上げて「さあ、食べなさいよ」言った。雅之のこめかみの血管がピクピクと跳ねた。「お前、わざとだろ?」里香は真剣な顔で答えた。「これが安江町の特産品よ。見て、この五彩紐、綺麗でしょ?それにこの団扇、両面刺繍が施されていて、国の無形文化遺産なんだから。安江町の特産品が欲しいって言ったから、ちゃんと持ってきたんじゃない」里香は椅子を引いて雅之の前に座り、「あなたの言った通りにしたのよ。もし文句があるなら、それはあなたが理不尽なだけよ」と言い放った。雅之は冷たい目で里香を睨んでいた。しかし、里香の気分は最高だった。雅之が困っている姿を見るのは、何とも言えない快感だった。その時、雅之のスマートフォンが鳴り響いた。雅之は画面を見て一瞬眉をひそめたが、すぐに電話に出た。「もしもし、夏実ちゃん?」里香の笑顔は瞬時に消えた。なんてツイてないんだ!せっかくの良い気分が一気に台無しになった。電話の向こうから、夏実の優しい声が聞こえた。「まだ安江町にいるの?」「うん」と、雅之は淡々と答えた。夏実は続けた。「いつ戻ってくるの?会えなくて寂しいわ」雅之は「こっちの仕事が終わったら帰る」と答えた。夏実は「それなら、そっちに行ってもいい?久しぶりに会いたいの」と甘い声で言った。雅之の視線は里香の顔に向けられた。里香は無表情で、まるで雅之が他の女性と話していることなど気にしていないようだった。最初は夏実の提案に応じるつもりだったが、言葉が口をつく直前に
次の瞬間、また頬がむずむずして、里香は仕方なく目を開けた。「何してんの?」「よく寝てたな」雅之はベッドの横に立って、里香の髪をそっと放しながら、冷たい口調で言った。里香は起こされて、もともと寝起きが悪い性質だ。そんな時に雅之のその言い方を聞いて、さらに不機嫌になり、起き上がって「何か用?」と言った。雅之は仕事で忙しいんじゃなかったの?それなら、外で邪魔しないでおくべきじゃない?この男、一日でも誰かにちょっかいを出さないと気が済まないのか?里香が怒りそうな様子を見て、雅之はふっと低く笑い、手を伸ばして里香の乱れた髪を軽く撫で、「支度して、外に出るぞ」と言った。そう言うと、雅之は次の部屋に向かって出て行った。里香はイライラしながら枕を掴んで、ドアの方に投げつけた。この男、なんでこんなにムカつくんだろう?30分後、里香は次の部屋から出てきて、冷たい声で「どこ行くの?」と尋ねた。雅之はコートを里香に投げ渡し、「行けばわかる」とだけ言った。里香は黙って雅之にコートを着せ、そのまま何の躊躇もなく玄関に向かって歩き出した。雅之は彼女の細い背中を見つめ、目が少し暗くなった。もう夕暮れ時だった。空いっぱいに広がる燃えるような夕焼け雲を見て、悪い気分が一気に吹き飛ばされ、里香はスマホを取り出して写真を撮り始めた。雅之は淡々と言った。「夕焼け雲なんて、撮ってどうするんだ?」里香は「あなたに関係ないでしょ」と言い返した。雅之は薄く唇を引き締めたが、突然里香の手を握り、その手を掲げて言った。「こうやって撮った方がいいんじゃないか?」里香は一瞬驚いたが、すぐに「手なんか撮ってどうするの」と皮肉っぽく言い返した。そう言うと、里香は自分の手を引き抜いて、そのまま前に歩き出した。雅之は指先を軽く撫でながら、怒ることもなく静かに見守っていた。「逆方向に歩いてるぞ」そう言って、雅之は里香とは逆の方向に歩き始めた。里香は顔をしかめながら戻ってきて、雅之の横に並んで歩き始めた。安江町は人が少なく、伝統的でのんびりとした町だ。この時間帯はちょうど仕事が終わる頃で、通りには少しずつ人が増え、道端には小さな屋台が並んでいた。里香は屋台でいくつかの軽食を見つけ、雅之に何も言わずに買って食べ始めた。雅之は里香をじっと見つめ
里香は微笑んで言った。「私、里香だよ。昔、ここでバイトしてたんです」「そうそう、あの小娘か!大学に受かったんだろ?」と、山本は思い出し、すぐに笑顔を見せた。未成年を雇うのは規則で禁止されている。あの頃、この小娘は頑固に店の前に立って、「絶対に問題を起こさない。生活費を稼ぎたいだけなんです」としつこく頼み込んできた。お客さんが来ると、里香は手際よく動いて助けてくれていた。そして、彼女は「私の夢は大学に行って、この安江町を出ることです」と言っていた。山本は心が弱く、結局彼女の頼みを聞き入れたが、その言葉を本気にはしていなかった。今どきの若者で、どれだけの子が本当に苦労を耐えられるんだ?もしかしたら、ここで数日働いて、疲れたら辞めるんだろうと思っていた。ところが、里香はなんと3年も働き続けたのだ。山本は里香が大好きだった。自分には娘がいなくて、息子しかいなかったから、里香をまるで娘のように可愛がっていた。時々、何か美味しいものを作ってあげたりもした。「うん、大学に受かったよ」里香は頷き、目が少し潤んだ。里香の人生で、数少ない温かさを感じた場所がここだった。毎日忙しかったけれど、山本一家には色々と世話になっていた。山本は嬉しそうに頷き、「いいね!やっぱり里香ちゃんはやればできる子だと思ってたよ。さあ、来たからには家に帰ったようなもんだ。くつろいでいいよ。お金なんて取らないから、食べたいものは何でも頼んでいいぞ」里香は感激しながらも、「それは結構ですよ。商売は商売ですし、しかも私一人じゃないですから」と言った。山本の目は隣にいる雅之に移り、またもや頷きながら言った。「いいね、この若者、なかなかのイケメンじゃないか。里香ちゃんの彼氏か?お前、目がいいな」里香は否定せず、にこにこしながら手伝いに行った。雅之は一方で、少し見慣れない里香の姿をじっと見つめ、この焼き鳥屋を改めて見回した。店は大きくなく、少し古びている。里香はここでバイトしてたのか?雅之の眉は少ししかめられた。里香の身の上を調べたことがあった。それは疑念から来るものだったが、実際に里香の過去に向き合ったことはなかった。だが今、雅之は急に彼女の過去をもっと知りたくなった。里香が忙しく働く姿を見ていると、雅之の目には自然と柔らかい感情が浮かんできた。里
雅之は言った。「お前の口から聞く方が、もっと面白いだろ」里香は突然笑い出して、「いいよ、じゃあ私が一つ話すから、あなたも一つ話してよ、どう?」と言った。雅之は彼女の目に浮かぶ明るい笑顔を見つめ、その目が少し暗くなり、「いいだろう」と頷いた。里香はすぐに立ち上がり、「話すならお酒がないとね、そうじゃないとつまらないでしょ」と言った。雅之は、里香が嬉しそうにお酒を取りに行く様子を見て、少しだけ目を細めた。彼女が酔った姿を思い浮かべ、特に止めることはしなかった。里香はすぐにビールを一ダース持って戻ってきて、彼の前に一本、そして自分の前にも一本置いた。そのまま一本を開け、一口飲んで目を閉じ、「これこれ、この味!」と満足そうに言った。雅之もプルタブを開けて一口飲むと、普段は見せない穏やかな表情が少しだけ浮かんだ。里香は言った。「じゃあ、私からね。私は、幼い頃から孤児院で育ったの」そう言って、彼女は挑戦的な目で雅之を見た。雅之は薄く笑いながら、「それで終わりか?」と聞いた。里香は頷いて、「そうだよ」と答えた。雅之は低く笑い、「僕は昔、記憶を失ったことがある」と言った。なんだよ、それ。もっと特別な話を聞き出そうと思ってたのに、雅之がこんな意地悪で腹黒い性格だってことを忘れてた。いつも他人を困らせるのが好きで、自分が損することなんてないんだ。里香は串焼きを一口食べ、続けて言った。「中学に上がってから、院長が私の面倒を見てくれなくなって、それで廃品を集めて自分で学費を稼いでたの。ありがたいことに、院長は私を追い出さなかったけどね」雅之はその言葉に少し驚き、静かに言った。「僕がまだ小さい頃、母親が目の前でビルから飛び降りたんだ」里香の長いまつげがピクッと震え、驚いて彼を見た。「雅之......」雅之が自分の母親の自殺を目撃していたなんて。それは彼にどれほどの深い心の傷を残したんだろう?雅之はビールを一口飲み、「次はお前の番だ」と言った。里香は唇を少し噛みしめ、「私の話なんて、あなたのに比べたら大したことないけど......高校に上がった時、院長に追い出されて、それでここに来てバイトを始めたの。で、その後、大学の合格通知を受け取ったんだ」雅之は淡々と「そうか」と言い、「その後、僕の兄貴たちも二人とも死んだ」と続け
雅之は暗い目で里香をじっと見つめていた。里香の目はすでに少しぼんやりとしている。雅之は静かに言った。「それってそんなに大事なことか?」愛しているかどうかなんて、結婚に本当に関係あるのか?里香は意識がぼやけてきたものの、まだわずかに理性が残っていて、「もちろん大事だよ。もしあなたが夏実を愛しているなら、私たち......私たち......」と口にした。里香はお酒が本当に弱い。たった半分のビールを飲んだだけで、もう意識が朦朧としてきた。雅之はそんな彼女を見つめ、「それで、私たちがどうなるんだ?」と問いかけた。里香はそのままテーブルに突っ伏し、「私たちはもうおしまいだよ......」と呟いた。雅之の顔が一瞬で暗くなった。里香の頬は赤く染まり、そのまま眠りについてしまった。いつもなら酔うと絡んでくるのに、今日はそうしない。それが少し物足りなく感じた。だが、「おしまいだ」なんて、あり得ない。雅之は手を伸ばし、里香の頬にかかる髪を耳の後ろに優しくかき上げ、彼女をじっと見つめながら低く囁いた。「もしあの時、お前がすんなり離婚に同意してたら、今頃もっと自由だったかもな。でも、もう遅いんだよ」ちょうどその時、山本がやってきて、二人の様子を見て笑いながら言った。「お兄さん、里香は昔からお酒が弱いんだよ。これからは気をつけて、あまり飲ませないようにしてくれ。酔っ払うと厄介だからさ」「わかったよ」雅之は淡々と頷いて立ち上がり、財布を取り出して会計しようとしたが、山本は手を振って言った。「お金なんていらないよ。この子は我が娘みたいなもんだし。家でご飯食べてお金払うなんておかしいだろ?早く里香ちゃんを連れて帰りな。風邪ひかせちゃダメだよ!」雅之は軽く頷いて、「わかった、おじさん」と答えた。山本は嬉しそうに笑いながら見送った。雅之は片手で里香を軽々と抱き上げ、そのまま外へ出た。桜井はすでに車を路肩に停めて待っていて、雅之が里香を抱えて出てくるのを見ると、すぐに車から降りて後部座席のドアを開け、心配そうに尋ねた。「社長、傷は大丈夫ですか?」「問題ない」雅之は車に乗り込み、淡々と「帰るぞ」と言った。「かしこまりました」桜井はすぐに返事をした。運転席に座りながら、桜井は少し迷った末に口を開いた。「社長、東雲が傷を治して、すでに
真剣な表情ではあったけれど、言っていることは、ある意味いちばん臆病なセリフだった。里香はぱちぱちと瞬きをしながら雅之の顔を見つめ、ふと、何かがおかしいことに気づいた。……どこか変。何だろう、この違和感。そっと自分の手を引き抜いて、試すように問いかけた。「何のこと?」それを聞いた雅之は一瞬動きを止めたが、すぐに何かに気づいたような顔をした。「……お前さ、僕が何の話をしてると思った?」彼の視線は彼女の顔をじっと見つめ、最後には赤く染まった耳に止まった。その様子に、ふっと口元を緩める。「ってことは……したくなったんだ、セックス」「う、うるさいっ!」里香は慌てて彼の口を手でふさいだ。「な、何言ってんのよ!? 私がそんなこと思うわけないでしょ!」雅之はそれでも逃げず、ただそのまま彼女の柔らかい手が唇を覆っているのを受け入れていた。彼の浅い呼吸が指先に触れ、その温もりがじんわりと伝わってくる。その感覚が、まるで糸のように心に絡みついて、胸をざわつかせた。ビクッとして思わず手を引っ込めた里香は、さっと布団をめくって横になり、背を向けた。「寝る!寝るから。眠いの」「……うん、寝よう」雅之もそう答えたが、その瞳の奥はさっきよりもさらに深く、暗く沈んでいた。電気が消えると、部屋は静かな闇に包まれた。いつものように、雅之はそっと里香を抱きしめて、そのぬくもりを感じていた。けれど、里香の体はほんの少し緊張していた。認めざるを得ない。妊娠してからというもの、確かに欲が出てきた。しかも、その気持ちはかなり強い。……でも、それを口に出す勇気はなかった。暗闇の中で唇をぎゅっと噛みしめながら、無理やりでも眠ろうと目を閉じた。だけど、そんなふうに意識すればするほど、逆に眠れなくなっていく。そのときだった。彼の大きな手は、いつもならおとなしく下腹部に置かれていたのに……突然落ち着きをなくし、衣服の中へと忍び込み、滑らかな肌に触れながらゆっくりと上へと移動していく。「ちょ、なにしてるの……?」里香はとっさに彼の手を押さえた。けれど、タイミングが悪く、ちょうど胸に手が当たってしまう。雅之はそのまま口元を緩めて言った。「へえ、こんなに積極的だったんだ」「違うってば!手、どけてよ!
雅之は彼女を一瞥して、ふっと口を開いた。「お前にとって、俺が薄情じゃないとき、あったっけ?」かおるは何も言えず、沈黙した。……そう言われてみれば、確かに反論できない。それを見て月宮がくすっと笑い、「まあまあ、元気になってから好きなだけ言えばいいじゃん。今はちょっと勘弁してやんなよ」と軽く言った。かおるはじろっとにらみ返しながら、「そんなひどいこと言った覚えないんだけど」とぶつぶつ。夜も更け、遠くで花火が次々と打ち上げられている。里香は雅之の整った顔を見つめながら、ふと静かに口を開いた。「雅之、お正月のプレゼント、あげる」「ん?なに?」不思議そうに彼女を見る雅之。里香はお腹に手を当て、にっこり笑って言った。「妊娠したの」その言葉に、雅之の顔に驚きが一瞬で広がる。黒い瞳が信じられないという色に染まり、交互に彼女の顔とお腹を見比べた。「……本当に?」声はとても小さく、まるで夢を見ているような響きだった。里香はそっと近づき、彼の手を取って自分のお腹に当てた。「感じる?」雅之はおそるおそる手を置いたが、押す力も加えられず、ただそっと触れるだけ。もちろん、まだ何も感じられなかった。それでも、気持ちは確かに変わった。里香が妊娠した。それも、自分の子どもを――彼らにはもう、子どもがいる。これから、自分たちは父親と母親になるんだ。「うぅ……」その時、不意に場違いなすすり泣きが響いた。かおるが口を押さえたまま、勢いよく病室を飛び出していく。月宮は驚いて「あれ、どうした?」と声を上げ、慌てて彼女の後を追った。景司は肩をすくめ、軽く首を振ると、その場を離れて二人に時間と空間を譲った。雅之は里香の手をしっかり握りしめ、その手を自分の額に当てた。表情は真剣そのものだった。「里香……ありがとう。もう一度愛してくれて」まだかすれた声だったが、目のふちがたちまち赤く染まっていた。里香は両手で彼の顔を包み、そっと額にキスをしてから、まっすぐに彼の瞳を見つめた。「雅之、私は頑張って、もう一度あなたを愛する。でもね……もう二度と嘘はつかないで。もしまた嘘ついたら、子ども連れて出ていくから。しかも、子どもには『おじさん』って呼ばせるから!」雅之は彼女の後頭部に腕を回し、唇を重ね
もういい。帰ってきてくれただけで十分。帰ってきてくれた、それだけでいい。少なくとも、今こうして二人が同じ場所にいれば——雅之が目を覚ました時に、ちゃんと説明できるはずだから。里香は帰らず、そのまま病院に泊まり込むことにした。雅之が目を覚ますのを、ここで待つつもりだった。かおるも仕方なく一緒に残ることにした。やっぱり心配だったのだ。何と言っても、里香は今、妊娠中なのだから。翌日。景司が病室にやってきた時、里香は丁寧に雅之の身体を拭いているところだった。優しい眼差しで、根気よく、ひとつひとつ心を込めて世話をしていた。「里香、家に電話しとけよ。今日は大晦日だし」「うん、わかった」頷いた里香は、身体を拭き終わるとスマートフォンを取り出してソファに腰掛け、グループチャットを開いてビデオ通話をかけた。すぐに繋がり、画面には眼鏡をかけた秀樹の姿が映った。「お父さん、大晦日おめでとう!」にこっと笑いかけると、秀樹もにこやかに頷いた。「おめでとう。お前もな。それで、雅之はどうだ?」「危険な状態は脱したよ。あとは、目を覚ましてくれれば大丈夫」秀樹は安心したように頷いて、「里香ちゃん、無理すんなよ。ちゃんと休めよ、いいな?」と声をかけた。「うん、わかってるよ、お父さん」そのあと賢司も少しアドバイスをくれて、瀬名家のほかの家族たちも次々に顔を出して声をかけてきた。今の里香は、瀬名家にとっていちばん大切な存在。みんなが自然と彼女に気を配っていた。里香は一人ひとりに丁寧に応じ、ほぼ一時間ほど通話してから、ようやくスマートフォンを置いた。外はすっかり車通りが少なくなり、街は静けさに包まれていた。みんな、家で年越しをしているのだろう。昼頃、かおると月宮がやって来た。「特別においしい料理、用意してきたのよ。場所が病院でも、お正月はお正月!おいしいものたくさん食べて、元気つけなきゃ!」かおるはにこにこしながら声を弾ませた。「うん。彼が退院したら、今度は私がご飯作ってあげるね」その言葉に、かおるはぱっと顔を輝かせた。「わあ、いいね!どんな腕のいいシェフが作っても、あなたのご飯には敵わないわよ!」月宮も穏やかに頷いた。「うん、確かに」里香の視線は自然と、病室のベッドの上に向かった。雅之はまだ昏睡状態
里香はなんとか感情を抑えながら、月宮に尋ねた。「中に入ってもいい?」ここまで来て、断れるはずがなかった。月宮はすぐに人を手配してくれた。里香は防護服を身に着け、病室へと入った。マスク越しでもわかるほど、消毒液のきつい匂いが鼻をついた。そんな中、彼のもとへ一歩一歩近づいていく。雅之の周囲には数々の医療機器が並び、顔には酸素マスク。整った顔立ちは青白く、やせ細っていた。里香はそっと歩み寄り、触れようと手を伸ばしかけたが、ふと自分の手袋に気づき、手を止めた。これじゃ、何の感触も伝わらない。「雅之……」手を下ろし、ベッドのそばに立ったまま名前を呼んだ。その声は鼻が詰まっているような、こもった声だった。瞬きを繰り返しながら、必死で感情を抑えようとした。「なんで……なんで何の連絡もなしに消えたの?メッセージのひとつもなくて、私がどれだけ怒ってたか、わかってる?それに……聡があなたの人間なら、なんでもっと早く教えてくれなかったの?ちゃんと説明してくれてたら、私、あんなに怒らなかったのに……」ねぇ、わざとでしょ?わざと目を覚まさないで、わざと私に会わなかったんでしょ?私が焦ってるの見たかったんでしょ?私に折れてほしかったんでしょ?」だんだんと声が震え、最後には嗚咽混じりになっていた。けれど、涙を拭くこともできなかった。ただ、頬を伝う涙が視界を曇らせるのを、なすがままにするしかなかった。「雅之……お願いだから目を覚まして。それだけでいい。それだけで……全部、許すから」その言葉が終わった直後だった。突然、荒い呼吸音が響き、すぐそばの医療機器が警報を鳴らし始めた。医者と看護師が飛び込んできて、里香は外へと押し出された。「どうしたの!?彼、どうなったの!?」里香が必死に問いかけると、医者は手短に告げた。「今すぐ検査をしますので、外でお待ちください!」廊下へ押し出された里香のもとに、かおるが駆け寄って支えた。「どうしたの!?何があったの!?」里香は混乱したまま首を振り、まつ毛にはまだ涙が残っていた。「わたしにも……わからないの……今、彼と話してたのに、急に外に出されて……」かおるはそっと彼女を抱きしめた。「大丈夫、大丈夫。きっと大丈夫だから。たぶんね、雅之が里香ちゃんの
里香が突然帰ると言い出したことで、瀬名家の人々は驚きを隠せなかった。賢司と秀樹が慌てて里香の部屋に駆けつけると、彼女はすでに荷物をまとめ終えており、二人とも不安げな表情を浮かべていた。「里香、一体どうしたんだ?なんでそんなに急いでるんだ?」秀樹が一歩前に出て問いかけると、里香は深く息を吸い込み、落ち着いた声で答えた。「雅之がケガをしたんです。どうしても会いに行かなきゃって思って……」「な……」秀樹は一瞬言葉を失った。つい最近まで、彼女は雅之のことをひどく嫌っていたはずだ。顔も見たくないって言っていたのに……どうして突然、気持ちが変わったんだ?秀樹をまっすぐ見つめながら、里香は目を潤ませて言った。「お父さん、ごめんなさい。一緒に年越しできなくて……でも、行かなきゃ。行かなかったら、きっと後悔する。きっと一生悔やむと思うの」その様子は、あまりにも切実だった。秀樹は「年越してからにしろ」と言いかけたが、結局その言葉を飲み込んだ。代わりに賢司が口を開いた。「まず、こっちでも状況を調べてみるよ」もはや、二人にも彼女を引き止めることはできなかった。なにしろ、雅之は里香のお腹の子の父親なのだから。秀樹は小さく息を吐いて言った。「せっかく帰ってきてくれたし、みんなで久しぶりに団らんの年越しかと思ってたんだが……来年までお預けになりそうだな」「彼が無事なら、すぐ戻ってきます」里香がきっぱりとそう答えると、「うん、無理するなよ。子どもの父親でもあるし……」と、秀樹もそれ以上は何も言えなかった。景司はすぐにプライベートジェットの運航ルートを手配し、里香はスーツケースを持って飛行機へと乗り込んだ。景司も同乗していた。「一人で帰らせるのは心配だしな。俺も一緒に行くよ」「そうだ、それがいい」秀樹も頷いた。「何かあったら、景司に全部任せておけ」賢司も一言添えた。「里香のこと、頼んだぞ」ここまで言われて、里香もさすがに断れなかった。「できるだけ早く戻ります」家族の顔を見つめながら、涙ぐんでそう言った。飛行機は滑走路を離れ、夜の空へと飛び立っていった。冬木。二宮グループ傘下の病院内。集中治療室の明かりは、いつもどおり、こうこうと灯っていた。桜井はいつものように様子を見に
里香はまだ少し半信半疑だったが、景司の落ち着いた表情を見て、彼が否定しないことに気づいた。……本当なの?もしこれがかおるの耳に入ったら、喜びすぎて気絶するんじゃないか?そう思いながら、里香は鼻を軽くこすってから視線をそらした。夕方。秀樹が帰ってきた。明日は大晦日。瀬名家の人たちも次々と集まり始めていて、リビングはいつも以上ににぎやかだった。里香はかなり疲れていて、二階で少し眠ったあともそのままベッドで横になっていた。ときどき、階下から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。外では子どもたちが雪遊びをしているらしく、にぎやかな声が混じっていた。でも、里香の心はぽっかりと穴が空いたようで、どこか現実感がなかった。ふいに月宮に言われた言葉を思い出し、唇をきゅっと引き結んだ。スマホを手に取り、ロックを解除して、スクリーンセーバーの写真を見つめながら、お腹にそっと手を添えた。そのとき、スマホが震えた。かおるからのメッセージだった。【大変!!】【里香ちゃん、雅之が銃で撃たれて、ずっと昏睡状態なんだよ!】【ねえ、見た!?メッセージ見た!?】立て続けに三通。尋常じゃない内容に、里香は思わず体を起こした。顔から血の気が引いていくのが、自分でもはっきり分かった。文字は読めるのに、意味が頭に入ってこない。銃で撃たれた?長い間昏睡状態って、どういうこと?そんなはずない。雅之が撃たれただなんて……なんで……!?震える指で、かおるの番号をタップした。なんとか発信できたものの、声を出そうとしても、うまく出なかった。「……もしもし、かおる?さっきの……どういうことなの……?」なるべく冷静に話そうとしたけど、声の震えは止められなかった。電話の向こうのかおるも、明らかに動揺していた。「私も、さっき聞いたばっかりなの!あのね、瀬名家であなたの歓迎会が終わった後、雅之、何も言わずに帰ったでしょ?それで、その夜に冬木に戻って、いきなり撃たれたんだって!しかも心臓をかすめたって言うから、本当に危なかったらしくて……今も集中治療室にいて、まだ意識が戻ってないの!」「どうしてそんなことに……」里香の顔は信じられないというより、恐怖に染まっていた。かおるは焦りながら、なおも言葉を重ねた。「詳しいことは全然わか
月宮の目を見つめながら、かおるはしばらく黙っていた。――月宮と縁を切る?無理に決まってる。月宮家は冬木じゃいろんな人脈が絡んでて、普通の集まりでも顔を合わせることなんてざらにある。だから、唯一の方法は距離を取ること。あとは冷たくするしかない。それに、こんなことで月宮と揉めたくもなかった。「じゃあ、それで決まりね。あの人からまた連絡きたら、すぐ教えて」かおるは、本気でこれ以上この話を引きずる気はなかった。月宮は口元に微かに笑みを浮かべ、「もちろん」と答えた。そして、かおるのそばに腰を下ろし、じっと見つめながら聞いた。「一緒に帰るか?」明日は大晦日。結婚してから初めての年越しで、年が明けたらすぐに式も控えている。かおるは「うん」と頷き、立ち上がりながら言った。「ちょっと、里香に声かけてくるね」月宮も頷いた。「一緒に降りようか」玄関に向かって歩きながら、かおるはふと思い出したように聞いた。「そういえばさ、雅之って今何してるか知ってる?全然連絡ないし、音沙汰なしじゃん」月宮はどこか意味ありげな目でかおるを一瞥し、「さっき里香と話したけど、彼女、雅之には全然興味なさそうだったよ」と言った。かおるはその言葉に少し違和感を覚えた。でも、里香の最近の様子を思えば、あながち間違いとも言えず、それ以上は何も言わなかった。「じゃ、その話は置いとこっか」階段を降りたかおるは、里香に冬木へ帰ることを伝えた。「ほんと、あんたって根性ないんだから」里香は笑ってからかうと、それを聞いた月宮は眉をひそめた。「かおる、やっと機嫌取れたばっかなんだから、邪魔しないでくれる?小松さん」里香はそれを無視して、かおるに持たせる荷物を用意させた。かおるは遠慮なく、それらを全部受け取った。玄関まで来て、かおるは里香をぎゅっと抱きしめた。「じゃ、数日後に戻ってくるから。外寒いし、見送りはいいよ」「うん」里香は頷き、二人の背を見送った。ふと振り返ると、賢司が階段から降りてきた。黒のタートルネックニットがよく似合っていて、姿勢もしゃんとしていた。「お兄ちゃん」里香が声をかけると、賢司はそれに応えて尋ねた。「もう帰ったのか?」「うん」里香が頷いた。「誰が?」ちょうどそのとき、景司
かおるは思わず目を見開いた。賢司は立ち上がり、彼女のほうへ歩いてきながら尋ねた。「離婚するのか?」かおるは首を横に振った。「別にケンカしたわけでもないのに、なんで離婚しなきゃいけないのよ」賢司はすでにかおるの目の前に立っていて、その言葉を聞くなり、ふいに手を伸ばした。かおるはとっさに身構えて二歩後ろに下がり、背中がドアにぶつかった。そのまま彼を警戒するように睨みつけた。「なにするつもり?」賢司はじっとかおるの目を見つめ、その緊張感を察すると、さらに冷たい表情になってドアノブに手をかけ、そのままドアを開けて彼女を外へ押し出した。「人妻が俺の部屋にいるとか、どう考えてもアウトだろ」そう言い残して、さっさとドアを閉めた。「ちょ、ちょっと、あんた……!」かおるはその場で呆然と立ち尽くした。閉まったドアを見つめながら、何も言い返せなかった。こ、こんな人……どうしてこうなのよ。でも、まぁ、言ってることは正しい、かも。「かおる」そんなことを考える間もなく、月宮の声が聞こえてきた。振り返ると、彼が階下のリビングに立ち、上を見上げてかおるを見ていた。今さら隠れても無意味だし、逃げるタイミングも失っていた。かおるはそのまま階段を下りて、「なによ」と声をかけた。月宮は、どこか冷めた表情をしたかおるを見つめながら近づいてきて、手を取り、真剣な眼差しで言った。「話をしよう」かおるは手を振り払おうとしたが、月宮の力は強くて引き抜けなかった。「手を放して」にらみつけながらそう言うと、月宮はきっぱり言った。「無理だ。一生、放さない」その言葉は強引で、少し傲慢だった。そして、その瞳には、はっきりとした独占欲がにじんでいた。ずるい。こんなふうにされるの、なんか……嫌いじゃないかも。「何を話すのよ?」「どの部屋に泊まってる?」月宮が尋ねた。その言葉を聞いたかおるは、一気に目を見開いて彼をにらんだ。「はぁ!?どういう意味よ?まだ話す前から、もうそういうこと考えてんの?つまり、あたしに会いに来た理由って、それ!?」月宮はすかさず、かおるの口を手でふさいだ。目を閉じると、リビングにいた里香を見て「彼女の部屋はどこだ?」と尋ねた。里香はぽかんとしながらも、指で部屋の
一言で、その場に火薬の匂いが立ち込めたような緊張が走った。月宮はほんの少し眉を上げ、凛とした表情の里香を見つめながら、ぽつりと聞いた。「……俺、巻き込まれてる感じ?」「えっ?」里香は一瞬、その意味がつかめず、きょとんとした。けれど、月宮の笑みはすぐに消え、声にも冷えた色が混じりはじめる。「おかしいと思わなかったか?なんで雅之が急に錦山を離れて、しかもずっと連絡してこないのかって」その言葉に、里香の表情もさらに冷たくなった。「それは彼の問題よ。私には関係ないわ」「はっ」月宮は小さく冷笑した。「関係ない、ねぇ……よく言うよ。俺はずっと、あんたら二人が揉めたり、傷つけあったりしてるのを黙って見てきた。口出しは一切しなかった。でも、雅之には何度も言ってきたんだ。本心から目をそらすなって。後悔するようなことはするなって。アイツもちゃんと変わろうとしてた。それくらい、あんたもわかってたろ?でも……お前、もう雅之のこと、愛してないんだろ?」月宮の視線が鋭く突き刺さった。その言葉に、リビングは一瞬、重い沈黙に包まれた。里香は何も答えなかった。「……そうか。もう本当に気持ちはないんだな」それ以上は追及せず、月宮は話を続けた。「だったら、雅之のこれからがどうなろうと、お前には関係ない。俺もこれからは、雅之のことでお前を巻き込むようなことはしない。今日ここに来たのは、かおるを連れて帰るためだ。戻るかどうかは、本人とちゃんと話して決めたいと思ってる」「彼女、会いたくないって言ってたわ」「それでも構わない。ここで待たせてもらうさ。恋愛ってやつはな、結局、腹割って話さなきゃ始まらない。誰も何も言わなかったら、口なんてあっても意味ねぇからな」その言葉に、里香の胸がわずかに揺れた。腹を割って話す――……そうだ、自分も雅之に、ちゃんと聞くべきなのかもしれない。少なくとも、彼に説明の機会くらいは与えるべきだ。その頃、二階の部屋では、かおるは、浴室から出てきた大柄な男を目にして、思わず目を見開いた。広い肩幅に引き締まった腰、はっきりと浮き出た筋肉のライン。短髪をタオルで拭うたびに、その腕の筋肉がぐっと浮かび上がり、ただ立っているだけでも圧を感じる。濡れて乱れた髪。額の下からのぞくその瞳は、どこか冷たく、じっとこち