登入中堅商社で社内SEとして働く白石澪は「パソコン係」と軽く扱われていた。三年連続営業トップの恋人・久我蒼真を陰で支えていたのは、澪が個人開発した営業支援AIだった。しかしある日、蒼真から「社内SEじゃ釣り合わない」と婚約破棄を告げられる。澪は静かに退職願を出し、月額1円で提供していたAIの利用契約を打ち切った——。翌日から会社が崩壊していくとも知らずに。財閥御曹司・鷹司怜央に才能を見出された澪は、初めて正当な評価を受け、本当の居場所を見つけていく。
查看更多白石澪がキーボードを叩く音だけが、薄暗いサーバールームに響いていた。
時刻は午後八時を回っている。オフィスフロアはとっくに閑散としているはずなのに、澪はまだここにいた。三台のモニターを前に、コードの一行一行を丁寧に確認しながら、微調整を続けている。 画面には、澪が二年かけて構築してきた営業支援AIの管理ダッシュボードが広がっていた。顧客の購買傾向、過去の商談履歴、季節変動の予測グラフ――。膨大なデータが整然と並び、システムは今この瞬間も静かに学習を続けている。 (また精度が上がった) 澪は小さく息を吐いた。満足感というより、安堵に近い感覚だった。このシステムが正しく動いている限り、会社の営業部は順調に回る。 正確には――久我蒼真が、順調に回る。 そう思った瞬間、スマートフォンが震えた。 「澪、まだ会社か?」 蒼真からのメッセージだった。 「うん。少し作業が残ってて」 「はやく帰れよ。俺はもう飲み会終わって家に帰るとこ」 それだけで、会話は終わった。「お疲れ」の一言もなければ、「気をつけて」もない。澪はスマートフォンをポケットにしまい、再びモニターに向き直った。 白石澪、二十六歳。オーシャン商事株式会社の情報システム部に所属する社内SEだ。 入社四年目の今も、社内での扱いはほとんど変わらない。「パソコン係」「便利屋」。誰かのPCが不調になれば呼ばれ、プリンターが紙詰まりを起こせば呼ばれ、Excelの関数がわからないと言われれば呼ばれる。それが澪の日常だった。 本来の業務――社内インフラの管理やシステム開発――をこなしながら、そういった雑務も引き受けてきた。断れない性格が災いしているとわかっていても、困っている人を見ると放っておけなかった。 情報システム部は五人で構成されている。部長の浅野を筆頭に、先輩社員が三人、そして澪。規模の割に仕事量は多く、全員が常に手一杯だった。 だからこそ澪は、残業を厭わなかった。自分が処理できることは自分で片づける。そうすることで、チームの負担を少しでも減らしたかった。 ただし、今夜の残業は情報システム部の仕事ではない。 澪が今いじっているシステムは、会社の資産ではない。澪個人が、個人のサーバーで動かしているAIエンジンだ。会社にはライセンスとして月額一円で使用権を提供している。法的には澪の所有物であり、契約を終了すれば即座に止まる。 (この契約書を蒼真が読んだことは、たぶん一度もない) 澪はそっとため息をついた。 サーバールームの空調が低く唸っている。澪は両手を膝に置き、天井を仰いだ。 入社当初は違った。エンジニアとして貢献したい、会社のシステムをもっとよくしたいという気持ちで溢れていた。大学でコンピュータサイエンスを学び、プログラミングを武器に、新卒でオーシャン商事に飛び込んだ。 ところが現実は想像と異なっていた。情報システム部の仕事は、システム開発よりも保守と雑務の比率が圧倒的に高かった。「DXなんて夢物語」と先輩たちは笑った。「うちは商社だから、ITはあくまでもサポート」と浅野部長は繰り返した。 それでも澪は諦めなかった。業務時間外に、こっそりと開発を続けた。 営業支援AIは、その結晶だった。 最初は単純な顧客管理ツールとして作り始めた。だが澪のアイデアはどんどん膨らんだ。機械学習のアルゴリズムを組み込み、過去の取引データを食わせ、成約パターンを学習させた。顧客ごとに最適なアプローチ方法を提案する機能も加えた。商談の成功率が高い時間帯まで予測できるようにした。 完成したシステムを、澪はひとり静かに営業部に提供した。 正式な申請は通さなかった。「月額一円」という形式的なライセンスを設けることで、私的流用との線引きはした。でも澪の上司も、経営陣も、このシステムの本当の姿を知る人間はほとんどいない。 手を挙げたのが、久我蒼真だった。 当時、蒼真は営業成績が伸び悩んでいた。三年目で結果を求められ、焦りが顔に出ていた。「使えるものは何でも使う」という実利主義から飛びついた彼は、AIの提案を試すうちに成績を上げていき、翌年には部内トップに輝いた。 そしてその流れで、ふたりは付き合いはじめた。 (私が好きだったのか、AIが気に入ったのか) 今となっては、澪にもわからない。 モニターの光が澪の眼鏡のレンズに反射する。彼女はため息を押し込め、最後の確認を終えた。明日も営業部のみんながこのシステムを使う。データは蓄積され、予測精度は上がり、成約数は増える。 誰も澪の名前を呼ばなくても、システムは動き続ける。 パソコン係は、今日も静かに仕事を終えた。 オフィスを出ると、六月の夜風が頬を撫でた。澪はコートの前を合わせながら、駅へ向かう道を歩いた。街灯の下、自分の影が長く伸びている。 スマートフォンを取り出して、蒼真との会話を見返した。「はやく帰れよ」。それだけ。 (彼は今日、何件商談があったんだろう) AIが提案した順番通りに客先を回っているはずだ。成約率は先月より高いはずだ。澪はその数字をダッシュボードで確認しているが、蒼真の口からその話を聞いたことは、最近ほとんどない。 代わりに聞くのは、自分の武勇伝だ。 「今日も俺の読みが当たってさ、あの客先、絶対このタイミングだと思ってたんだよ」 蒼真はそう言って笑う。AIの提案を自分の「読み」だと思っている。いや、知っていても、そう言いたいのかもしれない。 澪はそれを指摘したことがない。指摘する意味を見出せなかった。 (私は所詮、裏方だから) そう思いながら駅の改札をくぐる。澪の足取りは、いつも少しだけ重い。 その夜、帰宅した澪はシャワーを浴びながら、ふと考えた。自分が今やっていることは、正しいのだろうか。こっそりと作ったAIを、こっそりと使わせている。法的な問題はないとしても――自分はこのまま、ずっと誰にも見えない場所で動き続けるのだろうか。 鏡に映る自分の顔は、少し疲れて見えた。 明日もきっと、誰かにパソコンの設定を頼まれる。明日もきっと、蒼真はAIの提案通りに商談を進め、好成績を上げる。明日もきっと、澪は誰にも気づかれないまま、このシステムを動かし続ける。 それでいい、と思う自分がいた。 本当にそれでいいのかと、問い返す自分もいた。 答えは出ないまま、澪は眠りについた。六月の夜は、静かに更けていった。第127話 影の中の協力者「澪さん、いつも本当に助かります! この『ルミナス・グリッド』の最新行政パッチのおかげで、デジタル庁のセキュリティ負荷が大幅に削減できましたよ!」ネクスト・AIの応接室。爽やかな笑顔で澪に深々と頭を下げているのは、政府デジタルインフラ推進室の若き技術顧問——神楽坂(かぐらざか)蓮(れん)、20歳。彼はかつて国家が極秘裏に進めた極限人財育成計画「50人のサーキュラー計画」に選ばれた天才児(ギフテッド)の一人であり、唯一「政府公認」として表舞台での活動を許された規格外の存在だった。「いえ、神楽坂さんが提案してくれた官民連携プロトコルのアイディアが素晴らしかったからです。おかげで今日も、早く帰って陽ちゃんとお風呂に入れそうです」澪が屈託のない笑顔で応えると、隣に座っていた怜央が鋭い眼光で蓮をじっと見つめた。「神楽坂顧問。政府主導のデジタル網へのルミナス連携は順調だが……先日現れた『アニマ』と名乗るギフテッドたちの不穏な動きについて、政府側に何か情報は入っていないか?」「ええ、僕の方でも独自に追っています」蓮は少し困ったように眉を下げ、申し訳なさそうな表情を作ってみせた。「ルナたち『50人のサーキュラー計画』の脱走組は、僕にとっても元同胞であり、過去の遺物です。彼女たちが澪さんやネクスト・AIに迷惑をかけているなら、僕が責任を持って穏便に処理してみせます。澪さんはどうか、お子さんとの温かい日常を大切にしてください」「ありがとうございます、神楽坂さん。本当に頼もしいです!」笑顔で感謝を伝える澪。——だが、二人はまだ何一つ気づいていなかった。神楽坂蓮という青年が浮かべる「完璧な善意の笑顔」の裏側に、どれほど恐ろしい企みが隠されているかを。その夜。陽を寝かしつけた後、澪と怜央はリビングで静かに紅茶を飲みながら、日常のウイルス退治のログを確認していた。「神楽坂さんが裏で警戒してくれているおかげで、行政インフラを経由した『アニマ』の軽微な悪戯も、すべて未然にブロックできているね」「……ああ。非常に優秀な男だ。だが……」怜央は紅茶に口をつけながら、一瞬だけ思索に耽る。「50人のサーキュラー計画の生き残りでありながら、あれほど素直に国家に従順なものだろうか」「怜央さんたら、考えすぎですよ。神楽坂さんは本当に親身になって手
第126話 離乳食と未知のプロトコル「あー……あむっ!」「陽ちゃん、すごい! ほうれん草のペースト、残さず食べられたね!」港区の鷹司邸。朝の柔らかな光が差し込むダイニングで、澪はパステルカラーの離乳食スプーンを手に、愛おしそうに陽の口元を拭っていた。「澪、コーヒーを淹れたよ」「あ、ありがとうございます、怜央さん!」エプロン姿の怜央が、完璧な温度で抽出されたエスプレッソをテーブルに置く。世界規模のセキュリティ企業を率いる冷徹なCEOも、家の中では妻を労わり、我が子の成長を温かく見守る一人の父親だ。そんな穏やかな家族の朝の空気を切り裂くように、テーブルの上の端末が「チリン……」と可憐な鈴の音を鳴らした。ディスプレイに浮かび上がったのは、昨日届いた悪戯のような幾何学模様。しかし、今回は模様が生き物のように蠢き、離乳食のレシピアプリの裏側へとそっと滑り込んでいく。WARNING: UNKNOWN BIOLOGICAL-LIKE CODE INJECTED.「……っ!」澪の目が素早くエンジニアのそれに切り替わる。スプーンを置き、すさっと左手で抱っこ紐を引き寄せて陽を抱きかかえながら、右手で瞬時に端末の仮想キーボードを展開した。「またあのコードです……『アニマ』。今度は東京の家庭用スマート家電ネットワークの『余剰電力』だけを狙って、侵入してきています」「生活インフラの末端か。大規模なシステム破壊ではなく、意図的に『日常の隙間』に入り込んできているな」怜央も一瞬で表情を引き締め、澪の背後に回ると、その肩をそっと支えながら画面を覗き込む。「被害規模は?」「実害はありません。ただ……トースターの焼き加減が少し焦げやすくなったり、お掃除ロボットの巡回ルートがハート型を描くようになったり……まるで、子供が落書きをして面白がっているようなコードです」「……人を舐めた真似を」怜央の漆黒の瞳に冷ややかな光が宿る。「だが、油断はさせるな。攻撃の意図が見えないサイバー兵器ほどタチの悪いものはない。ブラック・レギオンに送電網のバックアップ出力を——」「ううん、怜央さん。大丈夫です!」澪は陽をあやしながら、トントンと軽快なリズムでキーボードを叩いた。「このコードを書いた子……ものすごく頭が良いけれど、精神的にとっても『甘やかされたがっている』気がします。ロ
第125話 蠢く「天才」たちの領域ヨーロッパを揺るがしたヘキサゴンとの死闘から、さらに一年——。ネクスト・AIが主導する世界規模の平和維持ネットワーク『ルミナス・グリッド』は、人類のあらゆるインフラを完璧な調和の下で保護し、世界はかつてない平穏と発展の時代を迎えていた。鷹司財閥の最高幹部としての重責を果たしつつ、澪と怜央、そしてすくすくと育つ陽の三人は、温かな家庭の幸せを噛み締めていた。……だが、デジタル世界の極限の安寧は、ある「異分子」たちの退屈と狂気を呼び覚ますこととなる。「ねえ、見た? ネクスト・AIの『ルミナス・グリッド』。完璧すぎて、反吐が出るほど退屈なんだよね」ネオンが不気味に揺らめく地下の極秘実験室。 モニターの前で足を組み、キャンディを舐めながらあくび噛み殺す少女——白銀の髪に異彩を放つオッドアイの瞳を持つ14歳の天才少女、ルナ。その背後には、世界中の国家や企業から「存在しない」として追放された、生まれながらの規格外の能力を持つ少年少女たち——通称【天才者(ギフテッド)】が集っていた。「ヘキサゴンだかロシアのカオス暗号だか知らないけど、大人の作ったシステムなんて、ただの理屈と過去の焼き直し。私たちが本気を出せば、あんなおもちゃ、一瞬で書き換えられるのに」「……ルナ。鷹司澪は、旧時代の天才・白石由紀子の娘だ。彼女の構築したコードは、理論上スキがない」影の中から声を発したのは、18歳にして数理物理学の未解決問題をすべて一人で証明し尽くした天才青年、カイ。「スキがない? だから面白いんじゃない! 完璧な数学的調和で作られた『ルミナス・グリッド』に、私たち『存在してはならない天才』の感性をぶつけたら……どんな綺麗な花火が打ち上がると思う?」ルナの指先がキーボードの上を優雅に滑る。そのコードは、既存のプログラミング言語とも、カオス理論とも異なる——脳の神経伝達物質のパルスをそのままデジタル変換したような、前代未聞の「生体感性プロトコル【アニマ】」。「さあ、始めようよ。世界で一番愛されてる『社内SE上がりのお姫様』に、本当の天才ってものを教えてあげる」——チリン。ネクスト・AI本社のCTOオフィスで、澪のプライベート端末が異様な高周波音を鳴らした。「……何……これ……!?」画面に映し出されたのは、攻撃でもハッキングでもない。
エピローグ 家族の明日と未来の輝きスイスでの壮絶な激闘と「ヘキサゴン」の完全解体から、一年が経過した。秋晴れの心地よい風が吹き抜ける、東京・港区の超高層タワー。ネクスト・AIの本社CTOオフィスでは、優しい光が差し込む大きなデスクの上で、幼い笑い声が響いていた。「まんま! ぬーぬー!」「ふふ、陽ちゃん。それは『ルミナス・グリッド』のホログラムだよ。壊さないでね」二歳を迎えた陽が、澪の膝の上で楽しそうに手を伸ばし、空間に揺らめく光のノードを無邪気に叩いている。すっかり言葉を覚え始めた陽の愛くるしい姿に、澪の頬が緩みっぱなしだ。中国、そしてヨーロッパを揺るがした世界規模のサイバー戦争の嵐は去り、現在『ルミナス・グリッド』は世界中の通信インフラや医療・交通システムを支える「真の平和の盾」として定着していた。ガシャリとドアが開き、仕立ての良いスーツを纏った怜央が入ってくる。「澪、そろそろ役員会……と思ったが、陽が邪魔をしていないか?」「怜央さん! 全然大丈夫ですよ。陽ちゃん、将来はエンジニアになるのかなって、今から楽しみにしているんです」怜央は柔らかい笑みを浮かべると、歩み寄って陽を抱き上げ、澪の腰にそっと手を添えた。「俺としては、母さん譲りの天才的な頭脳を持ってくれるのは頼もしいが……あまり根を詰めすぎて、澪のように社内SE時代に無茶をしないかだけが心配だな」「もう、怜央さん! その節は大変お世話になりましたけど!」澪が頬を膨らませると、怜央は心底愛おしそうに澪の唇へ軽い口づけを落とした。かつて、身勝手な元婚約者と悪徳な元勤務先に技術を搾取され、捨てられたしがない社内SEだった鷹司澪。自らが作ったAIを止めたことで元勤務先は自業自得の崩壊を迎え、そこから始まったのは、世界最強のCEO・鷹司怜央との運命的な出会いと、世界の命運を賭けた戦いの日々だった。トラウマを乗り越え、母の遺した過去と向き合い、自らの手で掴み取った本物の愛と絆。「さあ、行こうか。世界が待っている」「はい、怜央さん!」陽の小さな手を握り、怜央の隣で堂々と歩き出す澪。かつて暗闇の中にいた少女は、今、愛する家族と共に、どこまでも続く未来の光の中をまっすぐに進んでいく——。
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