姉上の代わりに嫁いだ私を、辺境伯は最初から見抜いていた

姉上の代わりに嫁いだ私を、辺境伯は最初から見抜いていた

last update最終更新日 : 2026-07-06
作家:  なつめたった今更新されました
言語: Japanese
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概要

強いヒロイン

溺愛

おとなしい子

ヒーロー

ざまぁ

身代わり

スピード婚

ヴァルダンジュ伯爵家の次女セレフィアは、華やかな姉オルフィーヌの陰で、礼状も詩文も婚約者への返書も代筆してきた。だが婚礼直前に姉が失踪し、家の面目を守るため“姉の代わり”として、冷酷無比と噂される辺境伯ゼルヴァンへ嫁がされる。怒り、追い返されるはずだった偽りの花嫁。けれど彼は初対面で、彼女こそ手紙を書いていた相手だと見抜いた。断罪ではなく保護され、セレフィアは初めて誰かの代わりではない自分として扱われ、失っていた心を取り戻していく。王都の実家と姉が再び迫り、隠された代筆の真実が波紋を広げる中、静かな執着とざまぁが交差する、切なくも甘い王道の逆転ロマンス。

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第1話

登場人物

セレフィア・ヴァルダンジュ

年齢は19歳。ヴァルダンジュ伯爵家の次女。

淡い灰金色の髪を胸元までゆるく流し、瞳は薄い雨青。華美ではないが、近くで見るほど整っている静かな美貌。姉のような強いきらめきではなく、冬明けの光のようなやわらかな印象を持つ。

性格は慎重で控えめ。人の機嫌や空気の変化を読むのがうまく、自分を後回しにする癖がある。

けれど芯は細くなく、理不尽を前にしても完全には折れない粘り強さがある。

得意なのは文筆、会計整理、礼法、薬草の知識、茶の調合、実務補佐。

社交界で目立つ才能ではないが、暮らしを支える能力に長けている。

幼い頃から姉の代筆をしてきたため、「自分の言葉」を引っ込めるのが癖になっている。

その一方で、文章の中には本来の聡明さや優しさがにじむ。

ゼルヴァン・グランザイア

年齢は30歳。北境を治めるグランザイア辺境伯。

黒曜石のような黒髪に、冷えた銀鉄色の瞳。長身で鍛え抜かれた体躯を持ち、左の眉尻からこめかみにかけて古傷が一本走る。軍装と濃紺の毛皮外套が似合う、近寄りがたい美丈夫。

性格は寡黙で観察眼が鋭く、感情をむやみに見せない。

だが公平で、守るべき相手には徹底的に責任を負う。

口数が少ないぶん、決めたことを裏切らない男。

特技は戦術、統治、交渉、情報の精査、剣術である。

虚飾や上辺の社交を嫌い、実務能力のある人間を高く買う。

婚約者オルフィーヌから届く手紙に早い段階で違和感を持ち、文面の奥にいる“別人”に気づいていた。

実際に現れたセレフィアを見て、その違和感が確信に変わる。

主要サブキャラ

オルフィーヌ・ヴァルダンジュ

セレフィアの姉。22歳。

華やかな美貌と人を惹きつける話術を持つが、中身は虚栄心が強く、面倒や責任から逃げる傾向がある。

妹を便利な影としか見ていなかったが、奪われる側に回って初めて自分の足元の薄さを知る。

バルタザル

辺境伯家の老執事。

無駄口は少ないが忠義が深く、ゼルヴァンの意図もセレフィアの苦しさも早い段階で察する。

屋敷全体の空気を整える渋い支柱。

ネリサ

侍女長。

温かく気丈で、セレフィアが“奥方様”としてではなく“一人の女性”として息をつけるよう支える。

辺境の女たちの逞しさを体現する存在。

リュゼル

若い騎士。

セレフィアへ素朴な敬意を向けるため、ゼルヴァンの静かな嫉妬を呼ぶ役回り。

恋敵というより、ヒーローの感情を見せるための鏡。

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29 チャプター
第1話 姉が消えた朝① 
夜明けより少し遅れて、屋敷の空気が壊れた。 いつもなら、ヴァルダンジュ伯爵家の朝は、磨き上げられた銀器のように静かに始まる。まだ陽の色が薄い時刻、東棟の長い廊下には淡い金色の光が斜めに差し込み、窓硝子の向こうで白く霞んだ庭木が、朝露をまとってじっと息を潜めている。侍女たちは靴音を立てぬよう細心の注意で行き交い、暖炉にくべられた薪は小さく鳴って、台所からは焼きたてのパンと溶かしバターの匂いが流れてくる。誰もが決められた持ち場で、決められた速度で、決められた朝を作る。 けれどその日は違った。 どこかで扉が勢いよく開く音がした。続けて、押し殺しきれていない悲鳴のような声。階下から駆け上がってくる足音が、いつもの抑えた歩調を忘れたまま、廊下の空気を荒く震わせていく。銀盆の上で何かが触れ合い、甲高い金属音が短く鳴った。そのひび割れたような響きが、まだ寝台の上にいたセレフィアの胸を、薄い氷の針みたいに掠めた。 寝台の天蓋越しに見える薄青い朝の気配は穏やかなままだったのに、部屋の外だけが、急に違う屋敷になってしまったようだった。 セレフィアは、掛布の上に置いていた手をそっと握る。指先が冷えている。春が近いとはいえ、朝方の空気にはまだ冬の名残があった。肌着の上から羽織った薄い寝衣の裾を寄せながら身を起こすと、枕元の卓上時計が、普段よりほんの少し遅い時刻を指していた。姉の婚礼を三日後に控えたこの時期、屋敷の朝が乱れることなど、本来ならあり得ない。 胸の奥で、よくない予感が、音もなく沈んでいく。 すぐに扉が叩かれた。「お嬢様、失礼いたします」 いつもの控えめな調子ではなかった。切羽詰まった、けれど必死に整えようとしている声だ。「……入って」 返事をすると、侍女のミレナが顔色をなくして入ってきた。栗色の髪をきちんと結い上げたはずなのに、耳の脇が少しだけ乱れている。呼吸も浅い。彼女は盆の上に洗面用の水差しを載せていたが、その銀の縁が、かすかに震えていた。「何かあったの」 問うた声は、自分で思っていたより落ち着いていた。けれどミレナはすぐには答えなかった。喉の奥で一度息を詰まらせてから、慎重に言葉を選ぶように唇を開く。「オルフィーヌ様が……お部屋に、いらっしゃらないのです」 最初、その意味がわからなかった。「……え?」「昨夜のうちに、お部屋を出られたようで。
last update最終更新日 : 2026-06-20
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第1話 姉が消えた朝②
「お顔色が……」「大丈夫」 ミレナの小さな声を遮って、セレフィアは立ち上がった。足首に触れるスカートの布地が、まだ少し冷たい。 扉を開けると、廊下はすでに朝の静けさを失っていた。侍従が早足で角を曲がり、向こうではメイドが青ざめた顔で囁き合っている。窓から差す春先の光はいつもと変わらずやわらかいのに、屋敷の中だけが針を飲み込んだみたいに張りつめていた。花瓶の白百合の香りが濃く、息をするたびにその甘さが喉の奥に沈んでいく。 大広間の扉の前には、すでに二人の侍従が立っていた。片方は父付き、片方は母付きだ。二人とも顔を硬くしている。セレフィアが近づくと、扉の片方が無言で開かれた。 中に入った瞬間、熱と香りが肌に触れた。 大広間の暖炉にはすでに火が強く入れられていた。まだ朝だというのに、燭台にも明かりが灯されていて、赤い絨毯と濃緑の壁布が、重たく沈んだ色合いで浮かび上がっている。その中央に、父と母がいた。 父、レオンハルト・ヴァルダンジュ伯爵は、いつもより一層濃い紺の室内着の上にガウンを羽織ったまま、窓際からこちらを振り返った。髪は整えられているが、顎の線は妙に硬く、指先には苛立ちが滲んでいる。母、エルヴィラは、まだ朝の装いだというのに襟元に真珠をつけ、扇を持った手を震わせていた。頬に血の気がなく、その代わり、目ばかりが異様に鋭い。 その場には他に、家令と、母付きの年嵩の侍女、それから父の側近の一人が控えている。全員が口を閉ざしていた。「参りました、お父様、お母様」 セレフィアが礼をすると、母は返礼もせず、鋭く言った。「大変なことになったわ」 娘の顔を見る言い方ではなかった。災害か、火事か、帳簿の穴でも見つかったかのような声音だ。「お姉様のことは、聞きました」「聞いた、ですって?」 母の唇が、ひきつった笑いのように歪んだ。「聞いた、で済む話ではありません。オルフィーヌが消えたのよ。三日後に婚礼を控えておいて、あの子は、家に泥を塗ったの」 泥を塗った。 その表現に、セレフィアは胸の奥を薄く削られる。姉の安否ではなく、まずそこなのだと思い知らされてしまう。「どこへ行かれたかは」「わからないわよ」 母が言葉を切った。苛立ちを隠しもしない。「けれど、おおよその見当はついているわ。どうせ、あのつまらない男のところでしょう」 あのつまらない男
last update最終更新日 : 2026-06-20
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第1話 姉が消えた朝③
 ぞっとした。皮膚の内側に冷たい水を流し込まれたみたいに。「お待ちください」 セレフィアの声は、かすれそうになりながらもどうにか形を保った。「そんなこと……できません。私はお姉様ではありません」「だから何だ」 父の返答は早い。「辺境伯はお前たちを見分けるほど、細かく顔を覚えているわけではない。婚約からこれまで、実際に顔を合わせたのは数度。しかも挨拶程度だ。問題ない」 問題ない、という言葉が、ひどく気味悪く響いた。 たしかに、オルフィーヌと辺境伯ゼルヴァンの対面は多くなかった。婚約成立後に行われた顔合わせ、冬の夜会での短い挨拶、それから王宮主催の祝宴で一度、遠巻きに並んだだけ。辺境伯は頻繁に王都へ滞在するような男ではなかったし、婚約後も実務を理由に北へ戻っていた。 だが、だからといって。 それで欺けると、本気で思っているのか。 いや、違う。父と母は、欺けるかどうかなど、本当はどうでもいいのだ。婚礼の当日まで、あるいは辺境へ送り込むまで、体面が持てばそれでいい。あとの混乱は、その時点でどうにかするつもりなのだろう。あるいは、どうにもならなければその時はその時で、責任のいくつかをセレフィアへ押しつければいいと、どこかで考えている。「嫌です」 言った瞬間、空気が止まった。 自分でも驚いた。はっきりと、言葉になったことに。今までなら、喉の奥で消していた声音だった。 母の目が見開かれ、すぐに細まる。「何ですって」「嫌です」 もう一度言う。今度は唇が震えた。それでも、引っ込めたくなかった。「私にはできません。辺境伯様を欺くことになりますし、お姉様が戻られた時にだって――」「戻らないかもしれないでしょう!」 母が叫んだ。扇を握る手が大きく震え、骨ばった指の白さが際立つ。「戻る戻らないの話ではありません!」 思わず声が強くなる。普段なら決してしない言い返しだった。けれど止められなかった。「これは、お姉様の婚礼です。私がその代わりになど」「代わりにしかならないからよ」 母の言葉が、ぴしゃりと落ちた。 その声音は、不思議なほど静かだった。怒鳴り声よりも、ずっと深く刺さる静けさだった。「……お母様」「お前は昔から、あの子の代わりでしょう」 呼吸が止まる。 母の顔には、激情よりもむしろ、当然の理を述べる冷たさがあった。長年胸の内で
last update最終更新日 : 2026-06-20
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第1話 姉が消えた朝④
 理解できることと、従えることは違う。「……だからといって」「だからといって、何だというの」 父の声が、少しだけ低くなった。「お前は何も失わん。むしろ、辺境伯夫人という立場を得るのだ。北辺とはいえ辺境伯家は大きい。伯爵家の次女としては十分すぎる縁だろう」 その言葉に、思わず顔を上げた。 何も失わない? 立場を得る? 喉の奥が熱くなる。けれど怒りなのか、悲しみなのか、自分でもよくわからなかった。「お父様は、私が何も失わないとお思いなのですか」 問いかけると、父の眉がわずかに動いた。意外そうですらあった。まるで、反論そのものが予想外だったかのように。「私の名前ではない名で嫁ぐのに。最初から嘘で始まる結婚なのに。辺境伯様がそれをお知りになった時、私がどうなるかもわからないのに」「だから、知られぬようにするのです」 母が即座に言う。「そして、いずれ機を見て説明すればよいでしょう。情が移ったあとなら、男は案外どうにでもなるものよ」 その口調のあまりの軽さに、胃の奥が冷えた。 母は、本気でそう考えている。男はどうにでもなる。夫婦になってしまえば、女は受け入れられる。そんなふうに。「私は……」 次の言葉が出てこなかった。 怒りも、恐怖も、屈辱もあるのに、うまくまとまらない。胸の中にはただ、濁った水のようなものが溜まっていく。 母は一歩近づき、セレフィアの顎を指先で持ち上げた。その手は冷たかった。宝石のついた指輪の角が、肌に硬く触れる。「よくお聞きなさい」 至近距離で囁かれた声は、静かで、ぞっとするほど整っていた。「お前はそのために育てたのです」 呼吸が止まった。 その言葉は先ほどよりも近く、もっとはっきりと、逃げ場なく耳へ落ちてきた。「オルフィーヌが光るために、影を整える娘が必要でした。あの子の足りないところを補う手が、頭が、気づかいが。お前はそれをちゃんと果たしてきたでしょう」 母の指先が、セレフィアの顎を離れて、頬を撫でる。慈しみのふりをした確認の手つきだった。「今さら何を怯えるの。いつもと同じことよ。少し役目が大きくなるだけ」 違う、と叫びたかった。 いつもと同じではない。礼状でも詩でもない。婚礼だ。人生だ。知らない土地へ、知らない男のもとへ、姉の名を被って差し出されるのだ。 けれどその叫びは、喉の奥で凍った。
last update最終更新日 : 2026-06-20
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第1話 姉が消えた朝⑤
 セレフィアは、頬に残る熱を感じながら、ゆっくり唇を閉じた。言いたいことはまだあった。あるはずだった。けれど今この場でそれをぶつけたところで、何も変わらないとわかってしまったからだ。変わらないどころか、もっとひどい形で押し潰されるだけだ。 悔しさが遅れて喉に込み上げ、飲み込むたびに苦い。 父が、話は済んだとでも言うように言った。「今日から花嫁教育をやり直す。とはいえ大半は身についているな。もともとお前が裏で整えていたのだから」 その言い方がまた、胸に刺さる。「衣装も一部はそのまま使えるでしょう」 母はもう頬を打ったことなど忘れたように、冷静に段取りを口にしていた。「髪型を少し変えれば問題ありません。口数は減らしなさい。辺境では寒さと旅疲れを理由に、表に出る回数を絞るの。余計なことは喋らない。笑みは浅く。オルフィーヌの癖は、あなたが一番知っているでしょう」 セレフィアは返事をしなかった。 すると父の声が落ちる。「返事は」 唇がこわばる。顎に力を入れなければ、震えが見えてしまいそうだった。「……承知、しました」 それを口にした瞬間、自分の声がひどく遠く聞こえた。 母はようやく息を吐き、扇を閉じた。「最初からそう言えばいいのです」 その口調には、安堵よりも、道具が予定どおり動き出したことへの満足があった。 父は家令へ視線を向ける。「誰にも余計なことは言うな。公式には、オルフィーヌは体調を崩しており、花嫁支度のためしばらく私室に籠るとする。花嫁の顔を見せるのは最低限で構わん」「かしこまりました」 家令が深く頭を下げる。 それから母はセレフィアの頬を見て、ようやく少しだけ眉をひそめた。「冷やしておきなさい。跡になると困るわ」 心配しての言葉ではなかった。花嫁としての見栄えを損ねるからだ。それがあまりにも明白で、逆に笑いそうになった。もちろん笑えなかったけれど。「もう下がっていい。昼までにオルフィーヌの筆跡を再確認しておきなさい。念のため、辺境伯家へ送る礼状も一通書かせます」 礼状。 今さらなお、その言葉が出るのか。 胸の中で何かがからりと乾いた気がした。涙も出なかった。 セレフィアは深く礼をした。立っていられるぎりぎりの角度で、きちんと。伯爵家の次女として、習い込まされたとおりに。「失礼いたします」 顔を上げると、母
last update最終更新日 : 2026-06-20
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第1話 姉が消えた朝⑥
 あの目をごまかせるのだろうか。 ごまかせたとして、その先は。 北辺へ着き、姉の名で夫人となり、嘘のまま日々を積み重ねるのか。いつか真実が露わになった時、自分はどう扱われるのだろう。怒りを買うだけならまだいい。侮蔑され、軽蔑され、嘘つきの女として追われるのかもしれない。それとも、母の言うように、既成事実のあとなら何とかなるのか。そんな都合のよい望みに、縋れるはずがなかった。 怖い。 その感情を認めた途端、指先がさらに冷えた。 怖い。家を出ることも、嘘を抱えて嫁ぐことも、辺境伯の前に立つことも、全部怖かった。けれどいちばん怖いのは、そのどれを選んでも自分の意思ではないことだった。 踊り場の小窓から、春先の風がわずかに入り込んでくる。湿った土の匂いがした。庭では若い葉が開きかけているのだろう。季節は確かに進んでいるのに、自分だけが凍った水の底に沈んでいくようだった。 ふと、昨夜机の引き出しへしまったままの手紙を思い出した。 辺境伯家から届いていた、婚礼前最後の確認の書簡。北辺はまだ寒いので、到着後すぐに厚手の外套を用意すると書かれていた。旅路の疲れを気づかう文が一行。飾り気はないが、たしかに相手を思いやる文字だった。 その返書も、結局はセレフィアが整えた。姉は封をする前に一度だけ目を通し、いつものように言ったのだ。 ――こういう実務的な文、あなたのほうが得意でしょう。助かったわ。 助かったわ。 その一言で片づけられてきた何年もの積み重ねが、今は鉛みたいに胸の底へ沈んでいる。 踊り場の下から、誰かの足音が近づいてきた。セレフィアは慌てて姿勢を正す。やがて現れたのは、年若い下働きのメイドだった。籠を抱えた彼女は、セレフィアの顔を見てはっとし、すぐ深く頭を下げる。「失礼いたしました、お嬢様」「……いいえ」 メイドはそれ以上何も言わず、そそくさと去っていく。その背中を見送ってから、セレフィアはもう一度だけ壁へ額を寄せた。大理石の冷たさが、火照った頬に気持ちよかった。 泣きたくはなかった。 ここで泣いたら、本当に終わってしまう気がした。惨めで、哀れで、誰にも選ばれなかった自分を、認めてしまうことになるようで。 だから泣かないまま、セレフィアは背筋を伸ばした。呼吸を整え、乱れた袖口を直す。頬の熱はまだ消えない。鏡を見ればきっと薄く赤くなっている
last update最終更新日 : 2026-06-29
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第2話 私の文字、姉の名①
 その日の午後、セレフィアの机の上には、白い便箋が幾重にも重なっていた。 窓の外は、朝の騒ぎが嘘のように穏やかだった。薄曇りの空から落ちる光は柔らかく、庭の砂利道は淡く濡れた色をしている。剪定された低木の影は細く長く伸び、噴水の水音だけが絶えず静かに続いていた。季節は確かに春へ向かっているのに、部屋の中だけは、どこか冷えた水に浸かっているみたいだった。 頬の赤みは、冷やした布のおかげで目立たなくなっていた。けれど皮膚の奥に残る鈍い痛みは、まだ消えていない。何かの拍子にそこへ意識が触れるたび、母の指先と声が蘇る。 お前はそのために育てたのです。 その言葉を思い出すたび、胸の真ん中に薄いひびが増えていく気がした。 セレフィアは机に向かい、指先で封蝋の跡をなぞった。封を解かれ、広げられ、また整えられた手紙の束が、そこにある。濃紺のリボンでまとめられていたそれを、母付きの侍女が先ほど無言で運んできた。「奥様から、筆跡と文体を今一度お確かめになるようにと」 そう言って。 筆跡と文体。 まるで花嫁衣装のレース模様でも確認するような口ぶりだった。 だが机の上に並んでいるそれらは、オルフィーヌのために届き、オルフィーヌの名で返されてきた、婚約中の手紙だ。ゼルヴァン・グランザイアからの書簡。そして、ヴァルダンジュ伯爵家長女オルフィーヌ・ヴァルダンジュの返書。 もっとも、その返書のほとんどを実際に書いたのは、オルフィーヌではない。 セレフィアだった。 部屋の空気は薄く温められていた。暖炉には控えめに火が入っていて、薪の焼ける匂いが、インクと紙の匂いに溶けている。壁際の書棚、レースのかかった窓辺、使い込まれた小さな筆記机。そのすべてが見慣れたはずなのに、今日は妙に遠かった。昨日までここは、姉のための返書を整える場所でしかなかった。けれど今日からは、姉の名をまとって辺境へ向かう準備室でもある。 机の端に置いた銀のペーパーナイフが、窓から差し込む光を受けて細く光った。セレフィアはそれを手に取るでもなく、ただ見つめる。 読み返さなければならない。 オルフィーヌの癖を確かめるために。いざという時、言葉尻を間違えぬように。母はそう言った。父も、辺境伯に不審を抱かせるなと繰り返した。 だが本当に怖いのは、口調や筆跡の違いではない。セレフィアにはわかっている。 怖い
last update最終更新日 : 2026-06-29
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第2話 私の文字、姉の名②
 その声音まで、思い出せる。 セレフィアはまぶたを伏せた。記憶が、紙の匂いとともに自然と立ち上がってくる。 あれは冬の終わりの午後だった。西日がまだ早く傾きはじめる時刻、姉の私室では暖炉の火が明るく燃えていた。金糸のクッションが並ぶソファにオルフィーヌはだらりともたれ、膝の上には開きかけの雑誌、卓上には食べ散らした蜜菓子の皿。室内は甘ったるい香料と焼き菓子の匂いで満ちていた。 セレフィアが呼ばれた時、オルフィーヌは面倒くさそうに封を切ったばかりの手紙を持ち上げ、ひらひらと振った。「辺境伯様からよ」 姉はそう言って、唇を尖らせた。「読んでごらんなさいよ。きっとまた、雪だの風だの、北辺がいかに大変かって話よ。どうしてああいう男って、女に向ける手紙まで仕事みたいなのかしら」「お姉様のお相手なのですから、そういう言い方は……」「いいのよ、どうせここにはあなただけだもの」 オルフィーヌは肩をすくめて笑った。その笑いはいつも軽かった。羽飾りでもひらつかせるみたいに、責任から遠い場所でだけ可憐に見える笑いだった。「ほら、読んで」 手紙を押しつけられ、セレフィアは受け取った。開いた瞬間に漂った、インクと封蝋のきりりとした匂いを覚えている。目を通すうち、そこにあるのが単なる連絡ではないとわかった。花嫁の体調を最優先に考え、寒さの厳しい地へ迎える以上、準備不足で苦労させたくないと、遠回しにだがはっきり書かれていたからだ。 オルフィーヌはそのあいだ、菓子をつまみながら鏡台の前で髪をいじっていた。「ね? つまらないでしょう」「……実務的ではありますけれど、誠実な方なのだと思います」「そういうところが嫌なの」 姉は即答した。「もっとこう、婚約者への手紙なら、あなたを想っておりますとか、会える日を楽しみにしておりますとか、そういうことを書くものでしょう?」 そう言ってから、オルフィーヌはふと思いついた顔をした。「返事、あなた書いて」 その言い方はあまりにも自然で、呼吸をするのと同じくらい当然そうだった。「私が?」「だって面倒だもの。あなた、こういう堅い文得意でしょう。私が書くと、どうしてもふわふわしたものになってしまうのよね。北辺の男には、そのほうが却って変に思われるかもしれないし」「けれど、お姉様ご自身の言葉でお返事なさったほうが」「あら、最後
last update最終更新日 : 2026-06-24
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第2話 私の文字、姉の名③
 そのたびにセレフィアは机へ向かい、姉の名で文章を書いた。北辺の気候への礼、祭礼への関心、体調への気づかい、旅路への不安、辺境伯家への敬意。オルフィーヌなら決して気に留めないような実務的な話題にも、花嫁として失礼のない程度に応答した。 そして気づけば、ただ礼儀を整える以上のものが、そこに混ざり込むようになっていた。 セレフィアは現実のゼルヴァンを知らない。顔を合わせたのもほんのわずかで、その時の彼は遠く、王都のざわめきの中にいた。けれど文面だけは、まっすぐだった。 北辺では雪解けが遅く、橋の補修が必要であること。 昨冬に風邪が流行ったため、春先の薬草備蓄を増やしたこと。 王都の劇場で流行っている歌劇の題目は知らないが、もし好むならこちらで楽師を手配することはできるかもしれないこと。 華やかな愛の言葉は少ない。それなのに、どの一通にも、迎える相手を軽んじない気配があった。遠い土地へ来る女が困らぬように。寒さで震えぬように。よそ者として孤立しないように。そういう現実的な思いやりが、飾りではなく文の骨に入っていた。 それは王都の男たちとは違っていた。 舞踏会の席で耳にする甘い台詞や、詩集から抜き出してきたような陳腐な比喩ではなく、もっと地に足のついたもの。たとえば足元に敷く毛皮の厚みや、道が凍った朝に手渡される温かい飲み物のような、生活へ触れる優しさ。 セレフィアは、その手紙を読む時間だけ、少しだけ楽だった。 姉の影ではなく、自分ひとりで静かに向き合える相手が、紙の向こうにいる気がしたからだ。 机の前で、セレフィアは便箋から目を上げた。部屋の中は変わらず静かで、暖炉の火が低く鳴っている。ミレナは気配を消して離れた場所に控えていたが、必要以上に近寄ってこない。その沈黙がありがたかった。 セレフィアは二通目、三通目と順に目を通していく。『王都では早咲きの花が並ぶ季節でしょうか。こちらではまだ雪が残っております。そちらの春を思うたび、気候の違いに驚かされます』 これはオルフィーヌの名で返した文だ。だが実際には、セレフィアが窓辺に飾られた白い花を見ながら書いた。春を思う時、自分は香りや風の温度から考える。それが無意識に文へ滲んだ。『もし馬を苦手とされるのであれば、移動の際は箱馬車を増やします。無理に慣れる必要はありません。こちらに合わせるより、まずは
last update最終更新日 : 2026-06-24
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