着信はすべて幸美からだった。舞子の目に、かすかな嘲笑が浮かんだが、それもすぐに諦めの色へと変わった。どれだけ抗ったところで、結局は思い通りにはならなかったのだ。結果として自分は、賢司と関わることになってしまった。これが一回目。まだ、あと九回残っている。すぐに全てを終えなければ、その期限は果てしなく延びていく。そうなれば、彼との関係も、終わりが見えなくなる。それは、両親の思惑通り。これ以上抗っても、結局は滑稽なだけ。そんな思いが胸をよぎり、舞子は目を閉じ、電話をかける代わりにメッセージを送った。【友達と遊びに行ってた】返ってきた返信はすぐだった。【じゃあ、なんで電話に出ないの?何かあったかと思ったわ】その言葉を目にした瞬間、舞子はふっと笑ってしまった。心配なんて、するわけがない。どうせ、「賢司と一緒にいるのでは?」と確かめたかっただけ。だから、数回かけただけであっさり引き下がった。本気で心配していたなら、天地をひっくり返してでも自分を探し出したはずだ。【別に。遅くまで遊んでて、スマホをマナーモードにしてたの。気づかなかっただけ】【そう。じゃあ早く帰ってきなさい】【うん】やりとりを終え、スマホをバッグにしまう。体を動かしてみると、朝よりは少し楽になっていた。洗面所へ向かうと、そこには新品の洗面用具が揃っていた。しかも、それは賢司の私物の隣に、並べるように置かれていた。理由のない親密さ。舞子は眉をひそめ、無言のまま自分のものをすべて、賢司の私物から少し距離を取って並べ直した。ああいうさりげない距離の詰め方が、舞子はどうしても好きになれなかった。賢司と将来を共にするような関係になるつもりなんて、あるわけがないのに。寝室を出ると、食卓には朝食が用意されていた。肉まんにお粥。温めればすぐに食べられる状態だった。舞子は簡単に食事を済ませると、すぐにその場を後にした。この空間自体に、どこか居心地の悪さを感じていた。だから、賢司の家の造りやインテリアがどうだとか、そんなことには一切興味を持たなかった。帰り道、薬局の前を通りかかったとき、舞子はふと立ち寄り、避妊薬を購入した。子どもという形で絆を作るなんて、絶対に嫌だった。そんなの、あまりにも恐ろしい。薬局を出たところで、一台の車が通
ひどい男だ……本当に、この男は最低だ。気を失う直前、舞子は彼に噛みついた。怒りをぶつけようとしたけれど、あまりにも無力で、何の効果もなかった。翌朝。自動で開くカーテンの音とともに、強い陽光が寝室を満たした。眩しさに眉をひそめながら、舞子はうっすらと目を開け、手で光を遮った。見覚えのない天井。昨夜のクラブの個室ではなかった。白と黒を基調にしたモノトーンのインテリア。広く、簡素で、どこか冷たい印象を与える空間。一目でわかった。ここがどこか。こんなにも退屈で味気ない色使いの部屋に住める人間なんて、一人しかいない。体をひねって寝返りを打とうとした瞬間、思わず小さな呻き声が漏れた。腰が痛い。脚も、太ももの内側の筋肉までもが震えている。唇を噛みしめた拍子に、目尻から涙がじわりと滲んだ。その時だった。ドアが開き、賢司が入ってきた。彼の視線が、布団に包まれた白く滑らかな肌に、無防備に露出した肩に残されたキスマークに、そっと注がれた。舞子はゆっくりと起き上がろうとし、その目には涙と、どこか子どもじみた切なさが浮かんでいた。賢司は何も言わず、表情も変えず、淡々と問いかけた。「……マッサージ、いるか?」「いらない!」舞子は食い気味に言い返し、賢司に一瞥もくれずに拒絶した。ぎこちなく体を起こし、ベッドから降りようとした。だが、足が床に触れた瞬間、目を見開いた。……歩ける気がしない。舞子は怒りをあらわにして賢司を睨みつけ、再びベッドに倒れ込むようにして布団をかぶった。「もう、起きませんから!」布団越しに、低く押し殺した笑い声が聞こえた。舞子はびっくりして布団をめくり、怪訝そうに彼を見つめた。賢司の唇の端が、ほんのわずかに持ち上がっていた。その笑みは、舞子の目にもはっきりと映った。「……笑うんだ、あなた」舞子はぽつりと呟いた。賢司と出会ってから一度も、そんな表情を見たことがなかった。「どうして、笑えないと思った?」彼の声は相変わらず低く、静かだった。「……わざとでしょ。いつも深刻そうな顔して、格好つけてるだけ」舞子は鼻を鳴らした。普段の彼は、常に無表情で近寄りがたい雰囲気を漂わせている。「横になってていい。これから会議だ。何かあったら電話しろ。腹が減ったら、起
舞子が震える睫毛を上げると、男の深く暗い瞳に吸い込まれた。そこには微塵の感情も浮かんでいない。舞子は呆然と唇の動きを止めた。思わず後ずさりしながら、訝しげに彼を見つめて問いかけた。「女が欲しいんじゃなかったの?」なぜ自ら近寄ったのに、彼はまるで無反応なのか?何を考えているの?この男のことがますます理解できなくなる。そして、ますます嫌いになっていく。本当に鬱陶しい。賢司は片手にグラスを握り、もう一方の手はポケットに突っ込んでいた。濃灰色のシャツを着こなし、最上段のボタンまできちんと留められた襟元にはネクタイが端正に結ばれている。全身から漂うのはストイックな気配だった。たとえ今、舞子が彼に寄り添っていたとしても、この冷徹な自制心はただ無限の距離感を感じさせるばかりである。舞子は彼から離れ、一歩後退した。先ほどの荒々しいキスのせいで、彼女の唇は幾分潤っていた。「私を弄ぶのが楽しいの?」しかし賢司は淡々と言い放った。「これは本来楽しい行為だ。だが、お前はまるで死を覚悟したような顔をしている。俺との行為が刑罰だとでも思っているのか?」賢司は端的に言い切り、舞子の心の内を見透かした。舞子は彼の目を直視できず、「そんなことないわ」と弱々しく答えた。「そうか?」賢司の視線はグラスに落ち、もう一口飲み干した。喉仏が上下に動き、彼は平静を保ったまま言った。「なら、最高の姿を見せてくれ。本当のお前を見せてほしい」舞子は驚いて賢司を見つめた。いや、どうして難易度が上がっているの?舞子は怒りで目頭を赤く染め、唇を噛みしめて言い放った。「私が嫌がっているのを知っていながら、無理難題を押し付けるなんて。あの時、あなたが楽しんでいなかったなんて信じられない。約束なんか破ってやる!もう付き合っていられない!」簡単に済むはずだったことを、彼はくどくどと要求ばかりしてくる。自分を願い事を叶える亀だと思っているのか?何もかも彼の言いなりにならなければならないなんて!妄想もいい加減にしろ!舞子は本気で怒り、踵を返して歩き出した。しかしその時、彼女の細い手首が突然掴まれ、続く強い力によって引き戻された。舞子の柔らかな肢体は男の胸板にぶつかった。その筋肉は硬く、一定の張りがあり、衝撃で思わず眉を顰めた。「
舞子:「……」彼女はスカートの裾をきつく握りしめ、薄暗い照明の中で、整った顔立ちの男を見つめていた。賢司は何の感情も浮かべぬまま、まるで舞子の浅はかな策をすべて見透かしたような目をしている。その視線は無言のまま、彼女の身の程知らずを冷ややかに嘲笑っているようだった。舞子は息を吸い込み、意を決したように問う。「……一度で済むの?」賢司の漆黒の瞳が静かに光り、淡々とした口調で言った。「あの時、俺がいなければ、お前は恥を晒していた。桜井家の面子も地に堕ちていただろう」その言葉に、舞子の顔から表情が消え、眉をひそめて怒気を帯びた声を返した。「それで、火事場泥棒を気取ってるつもり?」だが賢司の表情は変わらない。「『恩返しする』と言ったのはお前だ」舞子:「……」その一言で、彼女は言葉を失った。がっくりとソファに腰を下ろし、彼から視線を逸らしてぽつりと訊ねた。「……じゃあ、どうすれば満足するの?」「十回だ」淡々と、まるで日常の雑務でも告げるような調子で賢司は言った。舞子は驚愕のあまり彼を凝視した。「あなた……」言葉の続きが出ない。その小さな顔に、羞恥と怒りがないまぜになった赤みがさした。賢司はそんな彼女の反応を、まるで楽しんでいるかのように、瞳の奥にわずかな愉悦を浮かべた。「――承知するか?」舞子は奥歯を噛みしめて答えた。「……五回」「十回と言った。値引き交渉は嫌いなんだ」その瞬間、舞子の拳が膝の上でぎゅっと握り固められた。本当に、心の底から後悔していた。どうしてこんな傲慢な男に助けを求めてしまったのか。今日という日がこんな展開になると分かっていれば、あの時、くだらない御曹司に辱められていた方が、まだマシだったかもしれない。関わりたくないと思っていた男ほど、今では深く絡みついて離れない。「……わかった」舞子は一つ深く呼吸を整え、すべてを飲み込むように静かに答えた。「十回終わったら、あなたと私はもう他人。それでいいのね?」「いいだろう」賢司はあっさりと頷いた。その態度に、舞子はわずかに肩の力を抜いた。そして、席を立つと、きっぱりと言い放つ。「今夜はもう遅いから、帰らせてもらうわ……さようなら」そのまま部屋の出口へと向かったその時だった。
舞子は胸の奥に重苦しい息詰まりを感じていた。女の子たちの方に目を向けると、どの子も落ち着かない様子で、それでも探るような期待の眼差しを賢司に注いでいる。まったく、あんな男のどこがいいのよ。内心で毒づきながら、舞子は言った。「もう、帰っていいわよ」その一言に、女の子たちは程度の差こそあれ落胆の色を浮かべつつ、静かに部屋を後にした。全員が去るのを見届けてから、舞子は賢司に向き直った。「今後の参考にしたいので、条件の基準を教えていただけませんか?これでは手探りで探すだけになってしまって、効率も悪いですし、何より……あなたのご期待に添えません」賢司はタバコを灰皿に押しつけ、低く静かな目で彼女を見た。「そこまで手間をかけなくていい」彼の言葉に、舞子はすぐさま反応した。「手間だなんて思っていません。ご要望をおっしゃっていただければ、それに応えるまでです」しかし賢司は何も言わず、ただ重く舞子に視線を落とすだけだった。その視線には、慣れすぎたほどの圧があった。自分は彼の部下じゃない。なのに、なぜいつも上司のような目で見下されなければならないのか。ほんと、ムカつく。内心を押し殺しながら、舞子は作り笑いを浮かべた。「こちらへ来い」突然の命令。舞子と賢司のあいだには、まだテーブル一つ分の距離があった。舞子はその場に立ったまま、笑みを保ちながら言った。「賢司様、何かご用ならこのままで結構です。ちゃんと聞こえてますから」その言葉に、賢司はぽつりと何かを呟いた。「……え?」聞き取れずに舞子が聞き返すと、彼はただ無言で彼女を見つめ返した。まるで「聞こえるって言ったんだろ?」と無言で突きつけるように。この男、ほんとに呆れる。だが、借りがあるのは自分。ここで引けば、また何を言われるかわかったものではない。覚悟を決め、舞子は静かに彼の元へと歩き出した。まだ二メートルほど手前で足を止めた。「何かご用でしょうか?」彼は何も答えない。ただ、視線を逸らさずに彼女を見つめていた。舞子は深く息を吸い、さらに一歩進んだ。もう、手を伸ばせば届く距離。「何かご用でしょうか?」再度訊ねる声には、かすかな苛立ちが混じっていた。まるで皇帝に仕える宦官じゃない。私、いつからこんな立場に?そ
「どうしたの?」幸美が、急ぎ足で歩み寄ってきた舞子に気づき、不思議そうに声をかけた。「ちょっと、用事で出かける」舞子は短く答えた。「でも、まだパーティーは終わっていないでしょう?」眉をひそめる幸美。舞子は一瞬、言葉を詰まらせたが、この場を乗り切るには、彼の名を出すしかなかった。「賢司様のご用なの」その瞬間、幸美の顔にはぱっと花が咲いたような笑顔が広がった。「ああ、それなら早く行きなさい。きちんと応対して、賢司様をがっかりさせないようにね」「わかったわ」簡潔に答え、舞子は背を向け、階段を上がっていった。その頃、賢司は裕之に礼を述べ、別れを告げようとしていた。裕之は慌てて彼を引き止めた。瀬名賢司のような人物が桜井家のパーティーに足を運んだという事実は、彼にとって誇らしい出来事であり、できるだけ長く滞在してほしかった。幸美もそれに気づき、舞子が「先に帰る」と言っていたことを思い出し、ふと思いついたように口を開いた。「では賢司様、お時間をこれ以上取らせるのも申し訳ありません。今度、ぜひまたお越しくださいませ。うちの舞子、料理が得意なんですよ。腕前をぜひご賞味ください」「そうか?それは楽しみだな。次の機会にぜひ」「はい、ぜひ」黒いマイバッハが走り去るのを見送りながら、裕之は眉をひそめて幸美に尋ねた。「なんでもう少し引き止めなかったんだ」幸美は小さく笑って言う。「だって、舞子がさっき『賢司様の用事で帰る』って言ってたでしょう?そのあとすぐ賢司様も出ていったし……もしかしたら、二人でお出かけかもしれないじゃない」その言葉に裕之の表情が緩み、得意げに言った。「さすが、私の娘だな」幸美も満足げに頷き、すでに心の中では、錦山で一、二を争う名家の夫人としての将来に思いを馳せていた。舞子は裏口から出て、自らハンドルを握り、住宅街を抜けた直後、賢司から位置情報が届いた。示されたのは、とある会員制のクラブだった。はっきりした意図。「条件に合う女を連れてこい」──それが、彼の言わんとすることだった。舞子は口を尖らせながらも、「了解」とだけ返信し、車を走らせた。道中、舞子は何人かの知人に電話をかけ、「清潔感があって綺麗な子を探してるんだけど、誰かいない?」と尋ねた。クラブに着く頃には