右耳の奥から、じわりと生温かいものが流れ出すのを感じた。紗枝は、その場で凍りついたように動けずにいた。これほどか弱く、役立たずな娘を持った自分が、美希は心底哀れになった。彼女はローテーブルに置いてあった書類を掴むと、紗枝の目の前に突きつけた。「よく読みなさい」「お母さんが、あなたのために選んであげた『次』の道よ」書類を受け取った紗枝の目に、『婚前契約書』という四文字が飛び込んでくる。中を開くと、そこには……「……夏目紗枝嬢は、中村龍介氏を夫とし、生涯添い遂げ、その最期を看取ることを自発的に誓う……」「……中村龍介氏は、夏目紗枝嬢の実家である夏目家の今後の生活を保障し、資金として60億円を援助するものとする……」中村龍介。桃洲市の重鎮として知られる実業家。御年七十八歳。紗枝の頭の中で、ぷつりと何かが切れる音がした。母の言葉が、追い打ちをかける。「中村様はね、あんたがバツイチなのも気にしないそうよ。あんたがあの方に嫁げば、夏目家を立て直すのを手伝ってくださるって」美希は期待に満ちた眼差しで紗枝を見つめると、一歩近づき、その肩にそっと手を置いた。「ねえ、いい子でしょう?お母さんと太郎をがっかりさせたりしないわよね?」紗枝の顔から、さらに血の気が引いていく。手の中の契約書を強く握りしめた。「私、まだ啓司さんと…正式に離婚したわけじゃ……」美希は、そんなこと、と一笑に付した。「中村様は、式を先に挙げて、入籍は後からでも構わないとおっしゃってるわ」「どうせ啓司さんはあんたを愛してなんかいないじゃない。お母さんは、あんたの選択を尊重して、離婚を許してあげたのよ」紗枝と啓司の結婚生活がもう修復できないと悟った美希は、息子の言葉に従うことにした。娘がまだ若いうちに、その最後の価値を最大限に搾り取ろう、と。母の魂胆を知り、紗枝は喉に何かが詰まったようだった。「一つ、聞いてもいいですか」彼女は一呼吸おいて、続けた。「……私、本当にお母さんの子供なんですか」その問いに、美希の表情がこわばった。取り繕っていた穏やかな仮面は綺麗さっぱり消え失せ、今度は紗枝を責め立てる。「あんたなんか産んだせいで、私の体型は崩れて!世界の舞台から引きずり下ろされたのよ!本当に、がっかりさせる子!」小さい頃
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