All Chapters of Once more with you もう一度あなたと: Chapter 41 - Chapter 50

50 Chapters

四十一話

「帰らないでほしい」――初めて聞いた日向の弱い部分に触れ、思わず頷いてしまったけれど――。今からどうしていいのか、正直よくわからなかった。日向と私は、恋人でも夫婦でもない。けれど、まったくの他人……そういうわけでもない。そんな曖昧な関係の私たち。何かを話さなければ。そう思いつつも、結局リビングのソファに座り、日向が何気なく再生した映画を見つめるしかなかった。けれど、ストーリーはまったく頭に入ってこなかった。日向の気持ちは、こないだ少し聞くことができた。私のことが大切だったということもわかったし、彼にも事情があって姿を消すしかなかったこと。そして今、その原因を取り除こうとして、忙しい日々を送っていること。そんな彼に、私は何ができるのだろう。そう思う反面――泊まるということは、もしかしたら何かあるのかもしれない……そんなことも思ってしまう。……ダメだ、考えるのはやめよう。そう思って、私は映像に集中しようとした。日向も映画に集中しているのか、黙ったまま、目線だけを画面に向けていた。しばらく映像に意識を向けようと頑張ってみたものの――やっぱり無理。触れそうで触れないこの距離が、余計に緊張する気がする。『私はソファで眠るから、日向はベッドで休んで』そう言おうとした。けれど、そのとき――ふっと、右の肩に重みを感じた。「……日向?」思わず小さな声で呼びかけてみるが、返事はない。そしてその代わり、かすかな寝息だけが耳に届く。「寝てる……?」息をのむようにして、私は日向の方を見た。穏やかな表情を浮かべて、今、自分の肩にもたれかかって眠っている。心臓がどくん、と大きく跳ねる。見てはいけないものを覗き込むような気持ちで、私は彼の横顔をじっと見つめていた。長く伸びた睫毛。眠っているときだけが見せる、無防備な表情。昔から大好きだった彼――不意に、胸の奥がきゅう、と苦しくなった。いつも完璧で、誰からも尊敬される日向の、少し垣間見える弱さを知ってしまった今、どうしても彼の隣にいたい。少しでも支えたい。そんな気持ちになる。いなくなってしまった日向を信じるのは、やっぱり怖い。でも、だからといって日向から離れたいとは思わない。「日向のバカ……」そう呟いても、日向は夢の中だ。これで今までのことは許してあげるから、どうか頑張って。そう思
last updateLast Updated : 2025-06-07
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第四十二話

今朝、彩華は早くに帰っていた。それでも、彼女と入れた時間は俺に気力を与えてくれた。副社長という肩書きは残っていても、もう何の意味も持たない。経営会議から外され、重要な案件の決定権も取り上げられた今、俺は社内で“お飾り”のような存在だ。それでも、まだ終わりだとは思っていない。社内には、父のやり方に不満を持つ人間がいる。数は少ないが、その中で一番のキーマン――坂本部長。かつては経営戦略を担い、社長とも対等に意見を交わせる存在だった。今では意図的に部署から外され、冷遇されている。夜の9時を回った社内。人気の少ない小会議室に、坂本部長と俺、ふたりだけ。「久しぶりですね、副社長」「会議に呼ばれなくなったから、名前を呼ばれることも減りましたよ」皮肉っぽく言ってみせると、坂本部長は薄く笑った。「……まあ、今の会議は聞くだけ無駄だ。社長とその腰巾着連中で、全部決まってる」それには同感だった。俺は黙ってカバンから一枚の資料を取り出し、テーブルの上に置いた。「これ、見てください。社長が極秘で進めている来季の組織案です」坂本部長の表情が変わる。資料に目を落とし、読み進めるにつれて、彼の眉間に皺が寄っていく。「……これは……“戦略室”を直属に? しかも、全権を委ねる構造? つまり、取締役会すら形だけにする気か」「はい。このまま進めば、社長の独裁体制が完成します。反対意見はすべて排除され、組織は完全に息のかかった人間だけで構成される」坂本部長がゆっくりと顔を上げた。「俺のチームがバラバラに異動されたのも……この布石か」「あなたの存在が、父にとっては目障りだったんです」それを伝えるのは少し心苦しかったが、事実だ。「だから、お願いがあります。……俺に力を貸してくれませんか?」一拍、間を置いてから、俺はまっすぐに言った。「社長を取締役会で退陣させます。そのための動議を起こす。証拠も、必要な根回しも始めています。……けど、俺ひとりでは難しい。だから、あなたの力が必要です」重い沈黙が落ちた。けれど、逃げるつもりはない。もしここで退いたら、それこそ全部無駄になる。彩華との未来も、瑠香を守る覚悟も――そのための戦いを、投げ出すわけにはいかない。「……本気なんだな?」坂本部長が低く言った。「はい。俺はもう、父のやり方には従いません」坂本部長が立ち
last updateLast Updated : 2025-06-08
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第四十三話

昼下がり、いつもより人の少ない社員食堂の一角。俺は宮島人事部長に時間をもらい、向かい合っていた。彼は50代半ば。几帳面で冷静、誰に対しても一定の距離を保つ人物として社内では知られている。ただその一方で、現場社員の声に耳を傾け、理不尽な異動や評価には必ず疑問を呈する、硬派な“現場肌”の人間でもある。「副社長がこうやって人事の私に話を持ちかけてくるとはな。何かあったんだろうなとは思っていたよ」「正直に言えば……俺は社長と戦おうとしています。組織の流れを変えたい。そのために、宮島さんの力が必要です」単刀直入に切り出すと、宮島は眉間に軽くしわを寄せた。「戦う、か……。それはまたずいぶんと思い切ったことを」「宮島さんも気づいているはずです。ここ数年、会社の方針は現場を無視して突き進んでいる。社員の声は届かず、不満だけが溜まっている。でも、誰も声を上げられない」「それは、“お前の父親”が社長だからだ」宮島は静かに言った。「君自身が長年その“傘”の中にいた。その君が今さら“改革”を言い出したところで……本気だと、誰が信じる?」その指摘は、痛いほど正しかった。俺は今まで、父の庇護のもとで副社長という肩書きをもらってきた。それが現場にどう映っていたか、考えなかったわけじゃない。だからこそ、今、自分の足で立たなければ意味がない。「信じてもらうには、“行動”しかありません。社長が進めてきた無謀な人事や、実態のない外注プロジェクト。調査を進めて形にします。現場の声が、それを支える後ろ盾になる」「……具体的には?」「まず、“営業二課の統廃合”と、“関東支店の一部業務外注化”の件。あれは現場を混乱させただけで、何の改善にもなっていないと聞いています。社長直轄で進められた案件ですが、裏で高木家の関連会社が絡んでいるという情報もある」宮島の表情が変わった。「そこまで調べているのか」「ええ。ただ、俺一人では証明できません。宮島さん、あなたの立場で見えている“実際の社員の声”を、俺に貸してもらえませんか?」しばらく沈黙が続いた。そして――。「……お前、本気でこの会社を変える覚悟があるのか?」問われて、俺は迷いなく頷いた。「この会社で働いていることを、胸を張って言えるようにしたい。それができない会社なら、変えるしかないんです」宮島はじっと俺を見つめ、最後
last updateLast Updated : 2025-06-16
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第四十四話

取締役会当日。いつもより早く目が覚めた。眠っていたはずの身体は妙に軽く、反対に、心のどこか深いところがじっとりと重たく、言いようのない緊張が、体温と一緒にじわじわと肌に滲んでくる。その感覚だけが、今日という一日の意味を、静かに確かなものにしていた。会議室のドアを開けた瞬間、冷えた空気と鋭い視線に迎えられる。すでに数人の役員たちが着席し、無言のまま書類に目を落としたり、視線を交わしたりしていた。そしてその中央――会議室の誰よりも早く、そして変わらぬ姿勢で椅子に腰掛けていたのは、他でもない、俺の父だった。その表情は、何ひとつ変わっていなかった。まるで感情を持たない仮面のように無表情で、何が起きても動じないという強さをまといながら、ただひとり静かに座っている。俺の姿を捉えても眉ひとつ動かさず、目の奥で何かを計算しながら、黙ってこの場を支配していた。自分の勝利を疑っていないような態度――けれど、その沈黙の奥に、ごくわずかに、だが確かに滲んでいたのは、焦りにも似た緊張の色だった。坂本、宮島、橋口。視線を交わすと、三人はそれぞれ小さく頷く。その動作は控えめだったが、そこに込められた意思ははっきりしていた。敵か、味方か――この空間においては、言葉よりも先に交わされる視線や身じろぎ一つひとつが、あまりにも重く、鋭く響く。油断すれば飲み込まれそうな空気の中、俺は静かに椅子を引き、そのまま席に着いた。会議が始まると、議題はいつも通り、淡々と進んでいった。設備投資計画、新規人事、業績報告――一見すればどれも穏やかな、予定調和のような内容ばかり。だが、この場にいる誰もが、その裏にある今日の“本題”を意識していた。そしてついに、最後の議題。その空気の隙間を縫うように、俺はゆっくりと立ち上がった。「すみません。一点、議題に追加があります」父の眉が、わずかに動く。「……議題は事前提出制だ。何のつもりだ」低く、重たい声だった。それでも俺は、声を揺らさずに返す。「例外として、緊急性の高い案件は追加可能と、社内規程第十五条に明記されています」その言葉にすぐさま反応したのは坂本だった。まるで準備していたかのように、淡々とした口調で補足を加える。「議題追加の動議は、出席取締役の三分の二の賛成で認められます。規定に沿った手続きです」会議室に、
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第四十五話

その日も、朝は変わらず始まった。洗濯機を回しながら、朝食をテーブルに並べる。「瑠香、ゆっくりたべてね」いつも通りの朝の風景の中で、心のどこかがざわついていた。何かが起こっている。言葉にはならないけれど、確かに胸の奥にひっかかっている、直感に近い予感。昨夜、日向は言った。「明日は大事な会議がある」と。それ以上は何も語らなかったし、私も「教えて」とは聞かなかった。聞いたところで、私にできることは何もない。でも――もし知ってしまえば、もっと不安になることも、私は分かっていた。「ママ、えほんー、よむー!」「はいはい、じゃあ片付けたらね」瑠香に笑いかけながらも、意識のどこかでは、ずっと日向の顔が浮かんでいた。彼が、自分の人生を懸けて何かと戦っている。そう思うようになったのは、あの夜、彼が「全部片付ける」と言ったあの言葉が、ずっと心に残っているからだ。日向が本気で誰かに立ち向かっているとき、私は何もできない。ただ家で、待っているしかない。けれど、その“待つ”という時間が、こんなにももどかしく、切ないものだなんて――知らなかった。彼が誰と向き合っていて、どんな壁にぶつかっているのか。何ひとつ知らされていないまま、私はただ、今日という一日を過ごしている。キッチンで洗い物をしながら、スマホに目を落とす。新着通知はない。もちろん、日向からの連絡も。「……バカだな、私」ふと漏れた呟きは、カチリと鳴った食器の音にかき消された。「何もないのが、きっとうまくいってる証拠。そう思わなきゃ」自分に言い聞かせるようにつぶやいても、心はざわざわと騒がしいまま。不安と信頼が交互に押し寄せて、感情が波のように揺れていく。何もしていないのに、胸がぎゅうっと締めつけられて、気がつけば洗い終えた皿を拭く手が止まっていた。「ママ、だいじょぶー?」小さな声に、はっと我に返る。「うん、大丈夫だよ。ちょっと考えごとしてただけ」そう言って笑ってみせたけれど、その笑顔がどこかぎこちないことに、自分でも気づいていた。会議室には、静寂が満ちていた。いつもなら、プロジェクターの光と資料をめくる音が行き交うはずのこの場所には、今日に限ってそのどれもなかった。ただ張り詰めた空気だけが、沈黙のなかでじっと息を潜めていた。――ついに、この時が来た。テーブルの向こう
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第四十六話

夜の街は、思っていた以上に静けさを湛えていた。窓を少しだけ開けると、初夏の涼しい風が部屋に入り込み、レースのカーテンがやわらかく揺れた。瑠香はすでに眠っていて、私はそっと寝室を抜け出し、リビングのソファに腰を下ろす。時計の針は、まもなく二十三時を指そうとしていた。この時間に誰かと連絡を取ることなど、普段はまずない。けれど今日は、スマートフォンを手放すことができず、画面を見ては閉じて、また見て――そんなことを繰り返している。信じているつもりだった。待つと決めたはずだった。それでも胸の奥に残るざわつきは、なかなか消えてくれない。テーブルの上で、スマートフォンが小さく震えた。表示された名前を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。《東雲 日向》深呼吸をしようとしたけれど、指はすでに画面をスライドしていた。「……もしもし」「彩華」その一言だけで、胸がいっぱいになる。かすかに掠れた声。でも、間違いなく――日向の声だった。「ごめん、遅くなって」「ううん……それで、どうだったの?」そう尋ねると、少しだけ沈黙が落ちた。やがて、言葉を選ぶように、彼は静かに告げた。「終わったよ。全部」その言葉が胸に届いた瞬間、不意に視界がにじんだ。ほっとしたような、うれしいような、それだけでは言い表せない感情が、波のように押し寄せてくる。気づけば、涙が一筋、頬を伝っていた。「……ありがとう、日向」震える声でそう伝えると、電話の向こうで彼が小さく息を吐いたのがわかった。「俺こそ、ありがとう。彩華がいてくれたから、ここまで来られた」「……私は何もしてないよ」「してくれた。何も言わずに待ってくれた。それが、俺には本当に――力になった」その静かな言葉に、また胸が熱くなる。私はただ、待っていただけ。でも、それでもよかったと思えた。「……彩華、今すぐ会いたい」その声は低く、けれど迷いのない響きをもっていた。「……私も、会いたい」「迎えに行く。少しだけでもいい。顔を見たい」「うん……待ってる。家のそばの公園にいるね」通話を終えたあと、私はティッシュで涙をぬぐい、立ち上がった。すっかり化粧は落ちてしまっているけれど、それでも鏡の前で髪を整え、少しでもまともな顔にしようとする。泣いていたことなど、隠しようもない。でも、それでも――今夜だけ
last updateLast Updated : 2025-06-25
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第四十七話

支度を整えたあと、私はキッチンで朝の片付けをしていた母に声をかけた。「お母さん……帰ってきたら、全部話すから。もう少しだけ、待ってくれる?」日向は今日、両親にきちんと会って話したいから、迎えに行くよと言ってくれた。でも私は、それより先に――すべて自分の中で整理をつけてからにしたくて、直接会うのではなく、待ち合わせがいいとわがままを言った。そして、日向はその気持ちを尊重して、うなずいてくれた。今日の話次第で、これからのことが決まるのだと思う。どうなるかわからない以上、今の段階では両親に何をどう話せばいいか、自分でもまだはっきりしなかった。母はふと手を止めて、私の顔を見つめた。ほんの少しだけ、不安そうな表情を浮かべたけれど――やがて、ゆっくりとうなずいた。「……わかった。楽しんできなさい」それだけを言って、母は笑って背を押してくれた。きっと、母なりに今の私を信じて、見守ってくれているのだと感じた。待ち合わせ場所に着くと、日向はすでに到着していて、車のそばに立っていた。いつもはスーツ姿の彼が、今日は珍しくカジュアルな服装をしている。柔らかなグレーのシャツに、淡いベージュのパンツ。気取らない雰囲気が、思いのほか彼によく似合っていて、胸がわずかに高鳴った。週末の朝、空はどこまでも澄み渡り、お出かけ日和だった。「瑠香、靴はいた? 今日はお出かけするって言ったでしょ?」「はいたー!」リュックを背負った瑠香は、玄関でぴょんぴょんと跳ねていた。朝からすっかり上機嫌で、その姿に思わず笑みがこぼれる。「お待たせ」そう声をかけると、日向は穏やかに笑い、まず瑠香に視線を向けた。「瑠香ちゃん、おはよう」「ひなたー! ひなた、おでかけ!」「うん。今日はたっぷり遊ぼうな」差し出された手を、瑠香は迷うことなく握った。たったそれだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。この光景を、ずっと見ていたい――心から、そう思った。昼食をとり、パレードを見て、キャラクターのぬいぐるみを買った帰り道。瑠香がそのぬいぐるみを大切そうに抱えたまま、「きょう、たのしかったね」とつぶやいたとき、私も日向もつい顔を見合わせて笑ってしまった。「じゃあ、帰る?」話をするとは聞いていたが、瑠香ももう眠そうで私がそう問いかけると、日向は思案するような表情を浮か
last updateLast Updated : 2025-06-25
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第四十八話

何から話そうか……。話を聞く、そう言ったけれど、何を聞いて、私は何を話すべきなのか。 いろいろまとめていたはずなのに、言葉が出てこない。 それでも、まずはこれだけは伝えないと。 そう思って、日向に視線を向けた。「瑠香は、俺の(=日向の)子――」まったく同時に、そう口にしていた。 もちろん、日向がそう思っていることは、なんとなくわかっていた気がする。 でも、改めてお互いの口から確認する必要があった。私の言葉を聞いて、日向は顔を手で覆ったあと、これでもかというくらい、私に深々と頭を下げた。「本当に、俺の無責任な行動のせいで……彩華にひとりで出産させて、辛い思いをさせて……。どうやって償えばいいかわからない」沈痛すぎるその言葉に、私は「日向だけが悪いわけじゃない」って、そう伝えようとした。 でも、すぐに日向は私の手を強く握りしめてきた。「その謝罪は、一生かけてさせてほしい」「え?」言われた意味がすぐには分からず、私はキョトンとしてしまったのだろう。 日向が責任を感じて、何かと戦ってくれていることは、私も分かっていた。 でも――「彩華が許してくれるまで、俺はどんなことをしてでも、彩華の信頼を取り戻して、ふたりを幸せにするって誓う。だから、ずっとそばにいてほしい」……でも、それはあくまで瑠香のため? そう思うのに、まるで愛の告白のようにすら聞こえる言葉と、日向の真剣な瞳に、頭が混乱する。私はもちろん、ずっとずっと日向が好きで、どんなことをされても、結局嫌いになんてなれなかった。 周りにいた素敵な人たちにも、心が動かされることはなかった。 でも、日向は?そんな思いが溢れて、言葉が口をつく。「でも、日向。瑠香は、私が勝手に産んだの。それに……“抱いて”って、あの日迫ったのも私。もし、罪悪感からなら、それでいいんだよ。瑠香の父親ってことだけは、ちゃんと認めてほしい――」そこまで言ったとき、不意に強い力で引き寄せられた。 気づけば、私は日向の胸の中にいた。「そんなこと言うな。俺は、彩華がいないと……俺でいられない」「日向……?」「小さいころから、彩華だけが俺の光で、彩華の前でだけ本当の自分でいられる――。ずっと好きなんだ」泣きそうにも聞こえるその声には、決して嘘や偽りなど感じられなかった。 その瞬間、私はギュッと心臓をつ
last updateLast Updated : 2025-06-25
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第四十九話

「マーマー」「瑠香? もう起きたの……早いね……」柔らかな光に目を細めながら、いつも隣にいるはずの瑠香に手を伸ばそうとする。……が、触れたのは、思いがけない“硬い感触”。「え? あれ?」急に覚醒した頭で、私は勢いよく身体を起こした。昨日はたしか、日向と身体を重ねて、そのまま眠って――。一気に顔が青ざめそうになったが、下に視線を移すと、ちゃんとホテルのパジャマを着ていた。……ほっと胸をなでおろす。「彩華、おはよう」そして手が触れたのは、ベッドの上で胡坐をかいて座っていた日向の足だった。彼の膝の上には、ちょこんと笑顔で座っている瑠香の姿。その光景に、なぜか泣きそうになってしまう。こんな朝を迎えられる日が来るなんて――ほんの少し前まで、思いもしなかった。そんな私の表情に気づいたのか、日向がそっと私の頭をなでてくれた。その日向を見つめていると、瑠香が不意に口を開く。「おなかちゅいた」「瑠香ちゃんは、何が好き? ここはね、クマさんの絵のパンケーキがあるぞ」そう言って、日向はベッドから降りると、瑠香を軽々と抱き上げた。「彩華、ルームサービス頼んでおくよ。ゆっくり起きておいで」昔から面倒見がよくて、優しい日向。どんなにいなくなっても、彼の根底にあるその優しさだけは、私には疑うことができなかった。だから――私はきっと、ずっと日向を待っていたのだと思う。そして、日向もずっと、私を待っていてくれた。「日向。ありがとう」今までのすべての思いを込めて、私はそう答えた。それからの日向の行動は、こちらが思っていた以上に早かった。ホテルを出たあと、日向が「少し寄らせてほしい」と言った。その言い方があまりに自然で、私は反射的に頷いていたけれど、玄関の前まで来てみれば、胸の奥がざわついているのを隠せなかった。昨日、日向が母に連絡を入れてくれていたはず。私が彼と一緒にいることも、少しは伝わっているだろう。それでも、こうして三人で並んで立つ玄関の前は、思っていた以上に緊張する場所だった。「たらいまー!」私の躊躇などまるでおかまいなしに、瑠香が元気よくドアを開ける。その声に反応するように、中から軽い足音が響き、扉の向こうに、両親の姿が現れた。母と、父。並んで立つその姿に、一瞬、時間が戻ったような錯覚を覚えた。母は私たちの姿を見て、ど
last updateLast Updated : 2025-06-26
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第五十話

「それで? これからはどうするの?」母の問いに、私はちらりと隣の日向を見つめた。気持ちは、もうお互いに伝え合った。けれど、これからのことまでは、まだ話していなかった。しかし、このタイミングでこの問いは、親として当然だろう。私は少しだけ視線を落としながら、「それは、おいおい……」と曖昧に口にした。けれど、その隣で日向が私を見る。そして、はっきりとした声で言った。「一緒に住みたいと思っています」言い切った日向の表情は、迷いのないものだった。父と母は顔を見合わせて、それぞれ小さく笑った。微笑んではいたけれど、その奥に、ほんの少しだけ寂しさがにじんでいる気がした。それも、当然だ。生まれてからこれまで、瑠香の面倒を見てくれたのはこの二人だった。娘と孫が、急に出ていくとなれば――気持ちが揺れるのは、私だって同じだった。そんな空気を察したのか、日向はふっとやわらかい笑みを浮かべ、穏やかな声で言った。「隣の家に越そうと思ってます。……彩華の仕事もあるし、瑠香のことも、今までどおり頼らせてもらえると助かります」その言葉に、私は思わず目を見開いた。父と母もまた、驚いたように日向を見て、そしてすぐにうれしそうに頷いた。「そうなの、それはいいわね。もちろん瑠香のことは任せて。ねえ、お父さん」「うん、ああ。そりゃあもう、大歓迎だよ。……さ、昼にしようか」どこか気恥ずかしそうに言いながら、父は立ち上がって、母を連れだって台所へと歩いていく。そんな二人を見ながら、私は隣に座る日向の袖をそっと引いて、声を潜めて聞く。「……いいの? 隣で」日向は「なにが?」とでも言うように首をかしげた。「いや、だって。職場にも近いとか、いろいろあるかなって……」そう言うと、日向はちょっとだけ笑った。「俺にとっては、これがいちばん現実的だし、いちばん幸せだと思っただけ。……ダメ?」「ダメなんて、言ってない」素直にそう返すと、日向は私の髪にそっと手を伸ばし軽く撫でた。瑠香の笑い声が、廊下の奥から聞こえてくる。母と父の笑い声も混ざってあたたかい音になっていた。「母たちのこと、考えてくれてありがとう」素直な気持ちを伝えると、「俺とっても大切な家族だからな」そう口にした。複雑な過程で育った日向だからこそ、これからは穏やかに過ごしてくれたらいい……そう思った。
last updateLast Updated : 2025-07-01
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