卓也が直人を見つけた時、彼はビルの屋上でタバコを吸っていた。足元には吸い殻が散乱し、靄のような煙が立ち込める中、その姿はまるで天に昇る仙人のように浮かび上がっていた。「いつまで引き延ばすつもりだ?」卓也は眉を顰め、近づきながら低い声で詰め寄った。「千春さんとの婚約発表から何ヶ月経った?形だけのアナウンスで具体策も示さぬとは」直人は細めた瞳の奥に微かな揺らぎを宿し、タバコの火を指先で転がした。喉の奥から絞り出すような声が夜風に溶けた。「……まだだ」「『まだ』だと!?」卓也の拳が柵を叩きつけた。「高梨夏希を逃がした件は黙って見過ごした。だが幸子の願いを忘れたか?あの方が望んでいたのはお前が幸せな家庭を築くことだ。今もあの女の影に囚われているなら、幸子だって黄泉で目を瞑れまい」吐息と共に零れた言葉に、直人の長い睫毛が震えた。掌に刻まれた爪痕が、過去の記憶を疼かせる。「一ヶ月」砂を嚙むような嗄れ声が夜色を切り裂いた。「あと三十日……くれれば」その期間で全てを葬り去る--高梨夏希への想いを、胸に刺さった棘ごと引き抜き、世間が求める「普通」の人生に戻ると。「馬鹿げている!」卓也が荒々しく踵を返す。残された神尾のコートの裾が、冬の風に翻った。『幸せな家庭を築くこと……か』記憶の断片が視界を掠める。リビングルームの暖かい灯り、ソファに腰掛ける姉が夏希の肩を抱きながら笑っていた。「やっとプロポーズしたのね。もう少し遅ければ、うちの夏希ちゃんが逃げ出してたわよ」「冷たい顔してるけど、本当は繊細なの。夏希ちゃんに出会うまで、この子が結婚する日が来るなんて思ってなかった」「二人が幸せな家庭を築く姿を見られて……本当に良かった」瞼を閉じた瞬間、頬を伝う一滴が星屑のように消えた。かつて誘拐事件に加担していた若い男が、直人の元に戻ってきたのは先月のことだ。功績があると評価され、今や秘書として側近の座に収まっている。新米秘書は連日続く過酷な勤務に暗中模索していた。社員たちが「社長が帰らない限り我々も……」と青ざめる中、ついに決意を固める。「本日の予定は全て消化済みです」書類を置く手が微妙に震える。直人は書類に目を走らせたまま「うむ」とだけ応じる。「あの……本日はバレンタインデーでして」机を叩く指の音が止
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