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君は時の流れに消えていく

君は時の流れに消えていく

By:  身不二Completed
Language: Japanese
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高梨夏希(たかなし なつき)は三本の肋骨を折って、ようやく精神病院から逃げ出した。 逃げ出した後、真っ先に向かったのは遺体提供の同意書にサインするためだった。 「高梨さん、ご説明しておきますが、これは特殊な提供です。新型化学侵食剤の実験にご遺体が使われます。最終的には骨の欠片さえ残らない可能性が……ご理解いただけますか?」 胸の鈍痛を押さえながら、夏希は息を詰ませた。折れた肋骨が呼吸を邪魔し、声は擦れた送風機のようだった。 「……願ってもないことです」

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Chapter 1

第1話

高梨夏希(たかなし なつき)は三本の肋骨を折って、ようやく精神病院から逃げ出した。

逃げ出した後、真っ先に向かったのは遺体提供の同意書にサインするためだった。

「高梨さん、ご説明しておきますが、これは特殊な提供です。新型化学侵食剤の実験にご遺体が使われます。最終的には骨の欠片さえ残らない可能性が……ご理解いただけますか?」

胸の鈍痛を押さえながら、夏希は息を詰ませた。折れた肋骨が呼吸を邪魔し、声は擦れた送風機のようだった。

「……願ってもないことです」

彼女は引きつった笑みを浮かべた。泣いているような表情だった。

どうせ余命幾ばくもない。国の役に立てるなら本望だ。

診断書には「筋萎縮性側索硬化症」--通称ALSの文字が躍っている。さらに合併症で肺感染症を併発し、余命は一ヶ月を切っていた。

担当者の目に憐憫が滲んだ。

「科学研究へのご協力、感謝いたします。これは微々たるものですが……」

痙攣する手でお金入りの封筒を受け取った。神経薬の過剰摂取の後遺症で、指が勝手に震える。このお金は児童養護施設に寄付し、最後に墓参りを済ませたら、あとは静かに死を待つつもりだ。

よろめきながら外へ出ると、樹木の陰で待ち伏せていた男たちと目が合った。

「いたぞ!こっちだ!」

「逃げやがって……戻ったら電気ショックでぶっ殺すぞ!」

血の気が引く。反射的に走り出す。胸腔に鋭い痛みが走り、鉄の味が喉に広がる。恐怖で筋肉が硬直し、警備員の多いビルへ必死で駆け込んだ。

勢いあまって誰かにぶつかり、封筒の中のお金がばら撒かれた。

硬い胸板に顔を打ち付け、耳元に騒ぎ声が響く中、冷たい薫りが鼻腔を刺した。

「高梨夏希」

低音の声が宣告するように名前を呼ぶ。凍りついた彼女の眼前には、五年ぶりの神尾直人(かみお なおと)が立っていた。

より鋭くなった眉尻、冷徹さを纏った貴公子然とした顔。だがその視線には、紛れもない嫌悪と憎悪が渦巻いている。

心臓を掴まれたような痛み。目頭が熱くなる。

「神尾……社長」

追ってきた男たちが直人の姿にたじろぐ。直人は夏希を睨みつけ、声を絞り出した。

「誰の許可で戻ってきた?」

俯いたまま答えない。あの夜、資産家の息子に精神病院へ押し込められ、五年間虐待されたことは、彼には伝わっていないのだ。

直人の視線が男たちへ移ると、彼らは地面の札束を見て慌てて叫んだ。

「社長!こいつが俺たちの金を盗んだんです!」

「……高梨夏希」

直人が嗤った。

「ここまで堕ちたか」

痙攣する手を抑え、必死で首を振る。違う、違うんだ、あのお金は--

「直人さん」

甘い声が響く。妖艶な肢体の女性が直人の腕に軽く絡みつき、夏希を見て目を見開いた。

「まあ……高梨夏希!?」

血液が逆流するような感覚。眼前に立つのは小山千春(こやま ちはる)--かつて彼女を地獄に突き落とした張本人だ。

中学時代、両親の事故死で受験に失敗した夏希は底辺校に進学した。そこから悪夢が始まった。破られた教科書、謎の液体をぶっかけられた机、切り裂かれた制服、閉じ込められたトイレ……

鬱の発作に苦しんだ頃、千春は常に彼女を追い詰めた。恐怖と憎悪の化身だった。

転機は幼馴染の直人がいじめを知った時だ。

彼は進学校を退学し、夏希の学校に転入。いじめた連中を片っ端から叩きのめし、千春を退学に追い込んだ。

パニック発作で震える夜は、直人が「俺がいる」と繰り返し手を握り、再び光の中へ連れ出してくれた。

十年前に交わした初めてのキス。八年前に経験した疼くような夜。六年前に決めた結婚の約束。そして五年前--彼の姉を焼き殺した罪で、恋人関係は断絶した。

今、最愛の人と最憎の敵が、腕を組んで立っている。

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