All Chapters of 君が織った、愛という名の嘘: Chapter 1 - Chapter 10

21 Chapters

第1話

神崎啓介(かんざき けいすけ)と付き合って三年目のことだった。盛大なプロポーズが行われ、悠はまさに幸せの絶頂にいた。……そのはずだった。けれど――思いがけず耳にしてしまった、彼とその友人たちの会話が、すべてを壊した。「啓介さん、まさか本当にあの女と結婚するつもりっすか?」「ありえねーだろ。あいつなんて、真雪(まゆき)に許してもらうためのただの道具だよ」その言葉に、朝霧悠(あさぎり ゆう)の心臓はぎゅっと締めつけられた。握っていたドアノブの手が、細かく震えはじめる。中では、ソファにだらしなく腰掛けた啓介がスマホをいじりながら、ニヤリと笑っていた。否定の言葉は……どこにもなかった。「どういうこと?」別の男が興味津々に口を挟む。どうやら事情は知らない様子だった。「お前ら知らねえの?あれだよ、真雪と啓介さんがケンカ別れしたときの話。真雪が啓介さんに言ったんだ。悠を99回傷つけたら、戻ってやるってな」「ってことは、今ので何回目?」「最初はさ、あいつの親の形見がなくなったってウソついて、冬の屋外プールに飛び込ませたんだ。あのバカ、8時間も探して、挙げ句の果てに一週間も高熱で寝込んでやんの。27回目は、わざと絵をダメにしたやつな。卒業危なくなるくらい大事な作品だったのに、あいつ泣きもせずに啓介さんを慰めてんの。マジ、笑える。92回目は、車に轢かせようとしたのを庇って、本人がICU行きだっけ?半月も昏睡してて、手もやられて、もう絵は一生ムリらしいぜ」「っははは!ざまぁねーな、真雪さんに楯突くからそうなるんだよ、バーカ!」全員が笑い声に包まれる中、さっきの男がふと思い出したように顔を上げ、啓介の方を見てニヤリとした。「そうだ啓介さん、最後の一撃、俺めっちゃいい案思いついた。結婚式で薬盛ってさ、スクリーンでライブ配信しちゃうの。盛り上がること間違いなしっしょ?」その瞬間、グラスを揺らしていた啓介の手がピタリと止まり、顔にうっすらと影が落ちた。「えっ、まさか……啓介さん、情が移ったとか言わないでくださいよ?真雪さんにどう約束したか忘れてないっすよね?まだ許してもらいたいんじゃなかったっすか?」すぐに反応しなかった啓介の様子に、男はちょっと驚いたように振り返る。「ありえねーだろ。どうやったら完璧
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第2話

「何が『問題ありません』って。誰と電話してた?」電話を切った瞬間、背後から穏やかな声が響いた。次の瞬間、涼やかな香りのする上着が、そっと悠の肩にかけられる。……啓介だった。いつものように優しく、いつものように完璧な恋人のふりをして――今日の会話を聞いていなければ、悠はきっとまたその優しさにすがっていたかもしれない。「なんでもないよ……有希奈(ゆきな)に呼び出されて。ちょっと買い物でもって」無理やり笑みを浮かべて、ありふれた嘘でごまかす。啓介は特に疑う様子も見せず、黙って彼女の上着をもう一度整えた。――そして、帰宅。啓介がバスルームに入ってシャワーの音が響くと、悠は固く唇を噛み締めながら、ベッドサイドに置かれた彼のスマホに手を伸ばした。啓介は、彼女にはまったく警戒心を持っていなかった。だから、ロックも何もかけずに使わせていた。画面を開いた瞬間、目に飛び込んできたのは――どうやって薬を盛り、人を使って自分を辱めるかを話し合うグループチャットが映っていた。悠の心臓が、ぎゅっと握り潰されるような痛みに襲われた。呼吸が浅くなり、指先が震え、必死にそれらのメッセージを自分の端末に転送する。……そのとき、ふと目に入ったのがひとつの暗号フォルダだった。Aphrodite――ギリシャ神話の愛と美の女神の名前。恐る恐るパスワード入力欄に「真雪」と打ち込むと、フォルダはあっさりと開いた。そこには、数えきれないほどの真雪の写真が並んでいた。その一枚一枚に、日付と甘ったるい愛の言葉が添えられていた。三年前、啓介と出会ったあの日。「真雪のためなら、嫌いな女に近づくことだってできる」ナイフで刺された日。「真雪、演技は成功。やっとあいつが付き合ってくれた。痛かったけど、君の望みなら嬉しいよ」今日、プロポーズのパーティーの日。「やっと99回目だよ、真雪。早く会いたい」シャワーの水音が止まった。現実に引き戻された悠は、慌ててスマホを元の場所に戻し、目を閉じて寝たふりをした。啓介は何も気づかず、いつものようにベッドに入り、彼女を抱きしめようとした。……けれど、悠はさりげなくその腕をかわした。彼の寝息が静かに響く中、悠の唇から血がにじんでいた。どれだけ歯を食いしばっても、目尻
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第3話

悠の身体が一瞬で硬直した。でも、背後の男は気づく様子もなく、一人で勝手に語り続ける。「久しぶりだな、こうやって抱きしめるの。真雪……知らないだろ?この三年間、どれだけ辛かったか。毎日、愛してもいない顔を見て過ごすのが、どんなに苦痛だったか」その一言一言が、悠の心に鋭く突き刺さる。まるで刃物で刻まれるように、心が血まみれになっていく。「でももう大丈夫。もうすぐ、君はまた俺のもとに戻ってくるから……見てくれよ、これ。三年間、俺が少しずつデザインして作った指輪なんだ。ずっと、君の指につける日を夢見てた」そう言って啓介は、懐から小さな箱を取り出した。まるで自慢するように、それを悠の目の前でパカッと開く。中には、宝石がちりばめられたまばゆいばかりの指輪。暗闇の中でも、まるで星のように輝いていた。そして、悠の目はその指輪に刻まれた文字を捉える。「K&M」その瞬間、彼女の中で何かがぷつんと切れた。胸の奥から、引き裂かれるような痛みが湧き上がる。あまりの衝撃に、足元がふらつく。彼女はこの指輪を、見たことがあった。三年もの間、夜な夜な啓介がこのデザインを何度も何度も描き直していた姿を、隣でずっと見ていた。そのたびに、胸をときめかせていた。――この指輪は、きっと私のためのものなんだって。けれど、プロポーズの日に差し出されたのは、既製品の指輪だった。しかもサイズが合っていなかった。それでも、悠は自分を納得させた。「本番の式でちゃんと渡したいって思ってるんだよね」と。でも、今――もう、何一つ、自分を騙すことはできなかった。――この指輪は、最初から自分のものじゃなかったんだ。そう思った瞬間、悠の口元に苦い笑みが浮かぶ。目の前の、あまりにも見慣れた顔を見つめながら、こみ上げる感情を押さえきれず、問いかけた。「啓介……ちゃんと見て。今、目の前にいるのは誰?」その一言で、啓介の酔いは一気に吹き飛んだ。目を見開き、目の前に立つ青ざめた悠を見て、彼の動きが止まる。視線が自然と、自分の手にある指輪の箱へと向かう。そして、ハッとしたように顔をこわばらせる。「ゆ、悠、さっきのはその……酔ってただけだ。だから、あれは本気じゃなくて……この指輪だって、君に渡そうと思ってたんだ」
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第4話

墓地で両親に語りかけたあと、悠は家へと戻った。玄関をくぐった瞬間、目に飛び込んできたのは――庭で婚礼の撮影をしている啓介と真雪の姿だった。二人は寄り添い合い、カメラマンの指示に従って、いくつもの甘いポーズを取っていた。まるで本物の恋人同士のように。「悠!?違うんだ、誤解しないでくれ。真雪が来たのは、衣装が似合うかどうか、お前の代わりに試着するためで――」慌てて説明に駆け寄ってきた啓介の手を、悠はさっと避けた。「うん、分かってる。気にしてないよ。撮影を続けて」両親の墓参りを終えたばかりで、心も体もすでに限界だった悠は、早く休みたい一心で言葉を切り上げ、そのまま階段へと向かった。――けれど、その途中でふと視界に入った、真雪の衣装を見た瞬間、足が止まった。そして、次の瞬間――全身から怒りが噴き出すように、彼女は真雪のもとへと駆け出していた。「返してよ!」勢いよく手を伸ばし、真雪が身にまとっていた服を引き剥がそうとする。「きゃっ!」悲鳴を上げた真雪は、恐怖に顔を引きつらせ、必死に抵抗した。けれど、華奢なその体で、怒りに燃える悠の力に敵うはずもない。服はすぐに裂け、白い肩が露わになった。それを見て、悠の目にさらなる怒りの色が灯る。手元はさらに乱暴になり、叫ぶ。「脱げって言ってるでしょ!」その瞬間、啓介がようやく正気に戻ったかのように駆け寄ってきた。そして、悠を強く突き飛ばし、震える真雪を守るようにその背後に立った。「悠!お前、正気か!?完全に頭おかしいぞ!」その一撃には、迷いも加減もなかった。不意を突かれた悠は、まともに地面に叩きつけられる。膝と手のひらに、激しい痛みが走った。なんとか立ち上がろうとしたその時、足首に鋭い痛みが走り、動けなくなる。彼女はその場に座り込んだまま、顔を赤く染め、真雪の服を睨みつけて、怒声をあげた。「その服、返して!」悠の怒りが止まらない中、なおも反省の色を見せない彼女に、啓介はついに堪忍袋の緒を切った。怒りに震える笑みを浮かべたその瞬間――彼は迷わず手を振り上げ、彼女の頬を打った。乾いた音が響き、悠の視界が一瞬揺れる。強すぎる衝撃に、頬はすぐに感覚を失い、唇の端からは血が滲み出す。耳もジンジンと鳴り続けていた。
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第5話

次に目を覚ましたとき、鼻を刺すような消毒液の匂いが鼻腔を満たしていた。真っ白な天井をぼんやりと見つめながら、悠はしばしの間、現実感を失っていた。けれど、看護師の驚いたような声がその静寂を破った。「目が覚めたんですね!よかった……!」手当てを終えたあと、看護師は軽く微笑みながら部屋を後にした。悠は枕元のスマホを手に取り、画面を点ける――そこには、何の通知も表示されていなかった。不在着信も、メッセージも、ゼロ。「ふっ……」思わず苦笑が漏れる。スマホを握る手に、自然と力が入った。――でも、まだやるべきことがある。そう思った瞬間、彼女は顔を上げ、退院の準備を始めた。手続きの順番を待っていたとき、近くから小さな会話が耳に入る。「ねえねえ、聞いた?17階に入院してる奥さん、ほんのちょっと擦り傷があるだけなのに、旦那さんが大騒ぎしてさ。病院中の専門医を呼び集めて、毎日その人を抱っこして移動してるんだって。床に足もつかせない勢いらしいよ」「それって、あの神崎グループの社長の奥さんじゃない?マジで羨ましい……うちの病室にいたあの人なんか、あんなに重傷だったのに、誰も見舞いに来なかったって話だよ。ほんとかわいそう」会話の最後に、もう一人の看護師がそっとその子の腕をつついた。悠の顔が真っ青なのに気づいたのだ。「あ、あの、ごめんなさい!そんなつもりじゃ……!」「……大丈夫です」悠はかすかに笑って見せた。心ではわかっている。彼女たちは何も悪くない。ただ、言っていることが「事実」であるだけだった。無理に微笑みながら書類を受け取り、その場を離れる。――けれど、胸の奥にひりひりと広がる痛みは、どうしても無視できなかった。病院を出たそのとき、スマホが突然鳴った。電話の向こうから、興奮気味の声が飛び込んできた。それは、以前に出した絵画コンクールの審査員からだった。「朝霧!この前出した絵、受賞したよ!しかも一等賞!今夜、授賞式があるから絶対に来てよ!」その言葉に、悠の胸がふわっと軽くなった。何度も念押しして、本当に自分が受賞したのだと確信した瞬間――彼女の顔には、何日ぶりかの、心からの笑顔が浮かんでいた。スマホの画面に表示された会場の住所を確認すると、彼女は急いでタクシーに乗っ
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第6話

司会者の一言が、悠の笑顔を凍りつかせた。「綾瀬真雪」、その名前が、頭の中で何度も何度も反響する。胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく感覚。壇上で笑顔を浮かべながらスピーチする真雪の姿を見つめながら――悠は悔しさに唇を噛み、拳をぎゅっと握りしめた。そして、席を立つ。――あの女の化けの皮を、今すぐ引き剥がしてやる。「彼女は――」その瞬間だった。どこからともなく現れた黒服の男たちが、彼女の口を押さえ、無理やり会場の外へと引きずっていった。必死にもがくが、力では敵わない。けれど、視界に入った顔――その顔を見た瞬間、全てが繋がった。もはや、説明など必要なかった。悠はふらつきながらもその手を振りほどき、震える声で叫んだ。「なんで……!なんで、あの賞を彼女に渡したのよ!」目にはすでに涙が浮かび、頬を赤く染めながら問いかける。だが、啓介はうんざりしたような顔で彼女を見下ろした。「たかがコンクールの賞だろ?前に真雪を傷つけたお前への埋め合わせだよ。これくらいで済んで良かったと思え。これからいくらでもチャンスがあるじゃない」「これから?」その言葉を繰り返した悠は、口元に虚ろな笑みを浮かべた。そのまま、力が抜けたように後ろへと二歩下がる。啓介は眉をひそめ、不機嫌そうに声を荒げた。「もういい。そんなに欲しいなら、次のコンクールでお前にも賞を用意してやる」――賞の問題じゃない。悠は心の中で叫んだ。けれど、その思いを口にする間もなく、啓介の部下が慌ただしく駆け寄ってくる。「大変です、神崎社長!綾瀬さんが、倒れました!」その報告に、啓介は一瞬も迷わず、その場から駆け出していった。残された悠は、冷たい壁にもたれかかりながら、彼の背中が遠ざかるのを見つめていた。目には涙がにじみ、震える唇から、かすれた声が漏れる。「……でも、啓介……私には、もう『これから』なんて……ないんだよ……」半年前、悠は啓介を庇って交通事故に遭った。命に別状はなかったが、手は深刻な後遺症を残し、もう二度と絵筆を握れないかもしれない。だからこそ――あのコンテストが、彼女にとって最後のチャンスだったのだ。なのに、その一縷の希望すらも、啓介は真雪のために奪い去った。――涙が止まらなかった
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第7話

どれくらい経っただろうか――悠はぼんやりと目を覚ました。耳に入ってきたのは、病室の中で交わされる小さな声。音量は抑えられていたが、その声に込められた怒気は隠しきれていなかった。「誰が、あそこまでやれって言った?」啓介の声だった。「え?でも啓介さんが、『真雪の受賞の邪魔はさせるな』って……」電話の向こうの男は、戸惑ったように応じる。「だからって、手まで潰すなとは言ってない!なんでそこまでやるんだ!」啓介の声は一気にトーンが上がり、怒気が滲み出していた。その剣幕に相手も驚いたのか、困惑したように返す。「ええ……だって、そもそも傷つけろって話じゃなかったんですか?手が潰れたくらいで、そんな怒ること?」その言葉に、啓介は言葉を詰まらせた。――なぜ怒っているのか。自分でもはっきりとは答えられなかったが、胸の中のざわつきはどうしても抑えられなかった。悠の、あの涙に濡れた瞳と、ぐったりと地面に倒れていた姿を思い出すたびに、胸が苦しくなる。彼女は絵を描くのが大好きだった。話すだけで、瞳がきらきらしていた――けれど、もう二度と筆を握れない。それを知ったとき、どんな顔をするのだろう。想像するだけで、啓介の中に怒りが再び燃え上がる。彼は低く、冷たい声で電話の相手に釘を刺した。「もう二度と、あんなことはするな。絶対にだ」「え……啓介さん、なんか変っすよ。まさか本気であの女のこと……好きになったとか?」「ありえない」即座に否定したが、胸の奥に沈んだ妙な感情は、そう簡単には消えてくれなかった。そのとき――電話の向こうから、真雪の声が聞こえてきた。「啓介。今の会話、全部聞こえてたよ。もう彼女を傷つけたくないっていうなら……いいよ、計画、前倒しにしよう?」「だめだ、今の彼女は身体が弱ってる。リスクが大きすぎる」啓介は即座に拒絶した。「啓介!『私のためなら何でもする』って言ったじゃない!」真雪の声には、はっきりと涙がにじんでいた。啓介の額には青筋が浮かび、拳を握りしめる力が強まる。けれど、その声は冷たく硬かった。「今は無理だ……あと二日だけ、待ってくれないか」「やだ!今すぐじゃなきゃ、一生許さない!」そのまま電話を切ろうとする真雪を、啓介は慌てて呼び止め
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第8話

結婚式について、悠は何の条件も出さなかった。ただひとつ、海辺のホテルに場所を変えたいとだけ言った。啓介は、ためらうことなくそれに頷いた。その後の数日間――啓介は病院で昼夜問わず悠のそばにつきっきりで看病を続けた。悠に関することなら、どんな些細なことも自ら手を動かした。その献身ぶりに、看護師たちからは「まるで理想の夫だ」と称賛の声が上がるほど。でも、悠はただ微笑むだけで、その言葉には一度も同意しなかった。――もし、毎晩こっそり病室を出て、真雪に電話して「おやすみ」を囁く姿を知らなければ。それでも「愛されてる」と、信じていたかもしれない。けれど今の悠は、スマホに届いた「すべて準備完了」のメッセージを見つめながら、静かに唇を吊り上げた。そして――ついに、結婚式当日がやってきた。白いウェディングドレスに身を包み、ホテルの一室でその時を待つ悠。そこへ啓介が現れ、思わず目を奪われたように彼女を見つめた。「悠、朝早かったしお腹空いたろ?牛乳、飲むか?」差し出されたグラスを受け取った悠は、それを口にせず、ただ指先でカップの表面をなぞる。しばらくの沈黙ののち――彼女はようやく口を開いた。声はかすかに震えていた。「啓介、私ね……あなたのことが、本当に好き。いや、『愛してる』って言った方がいいのかも。あなたが私を追いかけてきた時、心が動かなかったわけじゃないの。でも……怖かったの。もし遊びだったらって、そう思ってたから。でも、あなたが迷いなく私を庇って刺された時……もう、自分の気持ちを抑えられなくなったの。この人と一緒に生きていくんだって、そう思った。たとえ、あとで傷つけられることがあっても……それでも、構わないって」啓介は何も言わなかった。けれど、呼吸は明らかに乱れ、手も強く握り締められていた。悠はふっと笑って、話を続ける。「だから、あの時、あなたを庇って手を怪我した時も……私は後悔してなかった。あなたが無事でいてくれたことが、何より嬉しかったから。……ねぇ啓介、今ここで、私に言っておきたいことって……ある?」悠は首をかしげ、まっすぐな瞳で啓介を見つめた。だが啓介は、その視線を受け止めることができなかった。顔を伏せ、目を逸らしたまま、しばらく黙り込んでいた。や
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第9話

「悠、行かないでくれっ……!」啓介は夢でも見ていたのか、突然がばっと起き上がり、大きく息を吸い込んだ。視界に飛び込んできたのは、真っ白な病院の天井。数秒固まった後、隣にいた仲間の腕をがしっとつかんで、声を荒げた。「悠は!?悠はどこに行ったんだっ!」「啓介さん、落ち着いてください!今、救助隊に捜索頼んでるっす。すぐ連絡が来るはずから!」その言葉を聞くなり、啓介は点滴の針を引っこ抜き、ベッドから飛び降りて病室を飛び出した。信号なんか無視して何本も赤を突っ切りながら、着いたのは……すっかり焼け落ちた、あのホテルの跡地だった。火はもう消えていた。けれど、立ち込める黒煙が、ここで何があったかを物語っている。救助隊は装備を手に、崩れた瓦礫の中を必死で捜索していた。啓介はふらつきながら現場に近づき、真っ赤に充血した目でその様子を見つめた。病院を飛び出してきたとき、靴なんて履いてる余裕はなかった。無数の瓦礫が容赦なく足の裏を切り裂いていく。血が溜まり、地面ににじむ。それでも啓介は痛みなんて気にせず、膝をついて瓦礫に手を伸ばした。まだ熱を残した破片に触れて、思わず手がびくっと震える。けれど、それでも彼は掘り続けた。何も考えず、ただただ無心に。一度、また一度――そのときだった。視界の片隅で、何かがきらりと光った。啓介はぴたりと動きを止め、それをそっと拾い上げた。泥と灰を指で丁寧に拭い取る。それは――指輪だった。表面には「K&M」の刻印。「……っ!」その瞬間、啓介の瞳が揺れた。手も小刻みに震え出す。忘れるわけがない。あの日、自分が酔った勢いで口にしたあの言葉。その隣には、半分焦げた紙切れが落ちていた。――「返すね」「返すね」って、何を――?一瞬、啓介の思考が止まった。でもすぐに理解した。それが何を意味していたのか。その瞬間、顔から血の気が引いた。……そうか。だからあの日から、悠はまるで心が壊れたみたいに、自分と関係する全てのものを――写真も、服も、想い出も、全部――捨ててしまったんだ。もしかして……あの日から、彼女はもう決めていたのか?そう思った途端、啓介の手に力が入り、握りしめた指輪の硬いダイヤが、無情にも掌を深く切り裂いた。赤い血がじ
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第10話

「啓介さん、そんなに落ち込まないでくださいよ……まさか急に火が出るなんて、誰が想像できたっすか?」いつの間にか、啓介のまわりには仲間たちがぞろぞろと集まってきていた。その一言を聞いた瞬間、啓介の意識がハッと戻る。充血した真っ赤な目で、彼はその男を鋭く睨みつけた。そして、そっと――腕の中にいた悠の身体を、地面に優しく横たえた。ぎゅっと歯を食いしばりながら立ち上がり、一歩、また一歩と、無言で男のもとへ歩いていく。「……啓介さん?な、なんすか……?」男が一歩、じりじりと後退した瞬間――啓介の手が、彼の襟をがしっと掴んだ。そして次の瞬間、拳が音を立てて顔面にめり込む。「なんでだっ……!なんで……演技だけで終わるはずだったのに、本当にやらせた……お前が呼んだのか!?俺が、あれほど余計なことはするなって言っただろ!!なんでだ、答えろ!!」啓介は怒号とともに、拳を振り下ろす。一発。二発。三発――言葉を吐くたびに、男の顔が血と腫れでぐちゃぐちゃになっていく。まるで、何かを壊すことでしか、自分を保てないかのように。あまりの勢いに、周囲の仲間たちも凍りついた。見たことのない表情だった。まるで、血の海に沈む鬼のように見えた。「やめてください!啓介さん、落ち着いてください!!」ようやく七、八人がかりで、どうにか啓介を引きはがす。「そ、そうっすよ啓介……こんなこと、誰も望んでたわけじゃ……!」そのとき――一歩離れた場所から様子を見ていた真雪の目が、ほんの一瞬だけ細められた。悠のあまりにも惨たらしい最期を見たはずなのに、その瞳には、ほんのわずかな満足の色が滲んでいた。だが、表情をすぐに作り直し、悲しげな顔で啓介に歩み寄る。「啓介……落ち着いて。お願い、もうやめて」そう言って、そっと手を伸ばそうとした彼女だったが――「どけッ!!」啓介はその手を乱暴に払いのけた。ばちん、と乾いた音が鳴った。思い切り弾かれた手のひらには、じんわりと火傷のような痛みが残る。真雪は目を伏せながら、唇をきゅっと噛んだ。心の奥で、不安がじわじわと広がっていく。でも、すぐにかき消す。自分に言い聞かせるように、頭の中で繰り返した。――大丈夫。啓介はきっと、まだ私を愛している
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