LOGIN啓介と付き合って三年目のことだった。 盛大なプロポーズが行われ、悠はまさに幸せの絶頂にいた。 ……そのはずだった。 けれど――思いがけず耳にしてしまった、彼とその友人たちの会話が、すべてを壊した。
View More真雪の動きはあまりにも速かった。悠は、一瞬、何が起きたのか理解できなかった。「――悠、危ない!」声が飛んだ直後、啓介が彼女を強く抱きしめていた。そのまま、自らの体を盾にするようにして――次の瞬間。肉を裂く鋭い音が、耳元で生々しく響いた。そして、悠の頬に、ぴちゃりと温かな感触が飛び散る。彼女は恐る恐る後ろを振り返った。そこにいたのは、傷ついた啓介の姿だった。冷たかったはずの心に、小さなひびが入る。「啓介。なんで、こんなことを……」「……これが、俺の……償いだよ。悠、あのとき……俺が間違ってた。……これで、許してくれる……かな……?」啓介の問いかけに、悠は一瞬だけ動揺した。けれど、すぐに顔を引き締めて、はっきりと首を横に振った。「無理よ」「……そうか」啓介は、ふっと微笑み――そのまま力を抜いて崩れ落ちた。目の前が暗転し、意識が完全に途切れた。騒然とする中、真雪はすぐに警察に取り押さえられた。一方、翔真もまた、啓介の企業が長年行っていた脱税の証拠を集め、警察に提出していた。その結果、啓介は逮捕され、収監された。そして、長年の虐待と精神的な負荷により、真雪は精神病院に収容されることとなる。悠自身も、身体に大きな異常がないとわかると、翔真と共に再びイタリアへ戻った。彼女の人生は、また動き始めたのだった。もともと支援を申し出てくれていた出資者の協力もあり、念願だった個展の準備が進められていた。そして、3ヶ月後。悠の初の個展が、イタリアで華やかに開催された。かつての顧客たちも駆けつけ、会場はにぎわいを見せた。その結果、予想以上の成功を収めることができた。さらには、世界規模で巡回展を開くための新たな支援の申し出まで届いた。悠は、素直に――心から嬉しかった。その最中、彼女のもとに一通の手紙が届く。差出人は、海を越えて。――神崎啓介。その名を目にした瞬間、胸の奥がざわついた。けれど、迷いながらも彼女は、封を開けた。【悠、この手紙を読んでいるということは、俺は、もうこの世にはいないかもしれない。俺は……この一生で、お前に一番ひどいことをしてしまった。お前が死んだと思い込んでいたあの二年間、俺はずっと後悔してた。なんであの日、あの瞬
会場の装飾は、まさに「豪華絢爛」という言葉がふさわしかった。空輸された一万本以上のルイ十四世のバラが、辺り一面を彩っている。どこを見ても、悠が好きだと言っていたモチーフで埋め尽くされていた。それだけじゃない。啓介は、ビジネス界の全パートナーをこの場に招待していた。さらに、式はネットで生中継されており、祝福メッセージを送った人には、彼が用意した総額20万円相当の引き出物が贈られるという破格の仕掛けまで。彼は、本気で思っていたのだ――この愛を、全世界に証明したいと。画面のコメント欄には、祝福の言葉が次々と流れていく。やがて、結婚行進曲が静かに流れ始める。そして――白く輝くウェディングドレスに身を包んだ悠が、ゆっくりとバージンロードを歩いてきた。そのドレスは、他でもない啓介の手によって作られたものだった。その姿は、まるで夢の中で何度も繰り返し見た光景と、寸分違わぬ完璧なもの。啓介は息をするのも忘れ、ただ、目の前の彼女を見つめていた。手が重なったその瞬間、彼は現実に引き戻されるように、彼女の手をしっかりと握りしめた。心の中で、固く誓った。――もう絶対に、二度とこの手を離さない。司会者の問いかけが、式場に響く。啓介の瞳が、うっすらと潤んでいた。「神崎啓介さん。あなたは、貧しさの中でも、富の中でも。病める時も健やかなる時も、困難なときも順調なときも――朝霧悠さんを妻として迎え、一生を通じて愛し、敬い、守り、永遠に誠実であることを誓いますか?」一度は永遠を失った彼にとって、この問いはあまりにも重く、尊かった。震える手でマイクを握り、啓介はかすれた声で答える。「……誓います」その言葉に、全員が拍手を送った。そして――次は、朝霧悠の番だった。「朝霧悠さん。あなたは、貧しさの中でも、富の中でも。病める時も健やかなる時も、困難なときも順調なときも――神崎啓介さんを夫として迎え、一生を通じて愛し、敬い、守り、永遠に誠実であることを誓いますか?」悠は静かにマイクを受け取った。視線の先には、希望に満ちた瞳で自分を見つめる啓介の姿。……その眼差しが、かえって胸を締めつけた。もしも、あのとき。彼が真雪のために自分を傷つけなければ――自分は、素直に「はい」と言えたのかもしれない。
悠が頷いたのを見て、啓介はたちまち歓喜に顔を輝かせた。約束どおり翔真を解放すると、彼女の手を引いて戻ろうとする。今度は、悠も抵抗しなかった。ただ、去り際に――彼女は翔真に、ひとつだけ目線を送った。それから数日間、啓介はずっと浮かれたような様子で、婚礼の準備を語り続けた。「悠、結婚式のテーマはどうしたい?お前、ピンクが好きだったよな?」「……なんでもいいわ。疲れたから、休ませて」そっけなく返す悠に、彼はまったく怒る様子もなく、むしろ甘い視線を向ける。「わかった。じゃあ、俺に任せとけ。お前は早く休めよ」そのまま啓介は部屋を出ていき、足音が次第に遠ざかっていく。静かになった室内で、悠はそっと立ち上がった。そして、あの日と同じように、再び地下室へと足を運ぶ。その空間に足を踏み入れたとき、彼女の心に一つの確信が生まれた。――この男と、まともに別れることなんて、きっとできない。自分が本当に自由になるには、神崎啓介という存在を、法の裁きに委ねるしかない。そのために必要なものは、ここにある。この地下室こそが、そのすべてを物語る証拠だった。真雪をどう説得するか、頭の中で言葉を練って、彼女のもとへ向かった。……けれど、それは杞憂だった。悠が口を開くより先に、真雪はすべてを察したように、静かに頷いた。その様子に、少しだけ不信を抱いた悠に対し、真雪はかすかに笑ってみせた。その笑顔には、もうかつての余裕も、気品もなかった。ただ、弱く、悲しく――「今の私の姿、見たでしょ?あんたの頼みを断ったら、あと二日も生きられないかもしれない。でも、私、まだ……死にたくないの。生きたいのよ」しばらく沈黙したあと、悠は真雪とともに計画の確認を始めた。細部まで抜かりなくすり合わせ、漏れがないことを確認した彼女は、再び部屋を出る準備をする。そして――ドアを閉める寸前、ついにその背を向けられず、振り返って言った。「安心して。私、あんたをここから出してみせるから」ドアが静かに閉じられると同時に、真雪の希望を宿したその瞳は、完全に暗闇に取り残された。そして――時は流れ、ついに結婚式当日。悠は、まるで人形のように、化粧師たちの手にすべてを委ねていた。そこには、花嫁が纏うはずの喜びや期待など一片もなか
彼女は、誘拐された。正確には――啓介によって「監禁」されたのだ。場所は、かつてふたりが一緒に暮らしていた、あの家。「悠、お粥を作ったんだ。お前が一番好きだったやつ。ちょっとだけでも食べてくれないか?」優しげに語りかける啓介を見て、悠は眉をひそめる。そして、その手で――その碗を思いきり叩き落とした。熱々の粥が彼の手にこぼれ落ち、たちまち真っ赤に腫れあがる。それでも啓介は、まるで痛みなど感じていないかのように、そっと彼女の顔についた汚れを拭ってきた。まるで、いたずらをした子どもを諭すかのように、柔らかな瞳で彼女を見つめて、苦笑する。「いいよ……食べたくないなら、それで。じゃあ、何が食べたい?言ってくれたら、何でも作るから」「啓介……もうやめて。私は……出て行きたいって、何度も言ってるでしょ!」「他のことなら何でもする。でも……それだけはダメだ」啓介の声は優しかった。でも、その優しさには逃げ道がなかった。悠はその顔を睨みつけながら、吐き捨てる。「……あんた、狂ってるわよ」「そうだ、俺は狂ってる!あの男がお前の部屋に一晩中いたのを見た時……俺は完全に狂ったんだ!!」「だから何?彼は私の恋人よ。いずれは私の夫になる人――私の子どもの父親になる人よ」「やめろっ!!もうやめろっ!!」「バチン」という音が部屋に響いた。顔を真っ青にした啓介は、信じられないという表情で自分の手を見つめ、二歩ほど後ずさる。「……違う、悠……今のは……俺、そんなつもりじゃ……」焦ったように彼女へと近づこうとしたそのとき――悠の冷たい視線が、その足をぴたりと止めた。その目には、愛など、もうかけらもなかった。あるのは、憎しみ、嫌悪――彼がどれほど求めても得られなかった感情ばかりだった。そして――悠は、静かに目を閉じた。もう、彼に語る言葉すら残っていなかった。啓介は、力なく両手を垂らしながら苦笑いを浮かべた。「……じゃあ、お前はゆっくり休めよ。俺、行くから」ドアが閉まる音が響くと同時に、悠はそっと目を開けた。頭の中をぐるぐると、さまざまな思考が駆け巡る。今日で、監禁されてから5日目。翔真たちは、私の失踪に気づいてくれただろうか。心配してるかな――彼女は目線を伏せ、どうやってここ