All Chapters of 初恋は白く、傷痕は紅く: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

その言葉に応じる者は、誰一人いなかった。沈黙を受けて、怜はグラスを空け、ふらつく足取りで立ち上がる。「怜さん、どこへ行くんすか?」猿田の問いに、怜は淡々と答えた。「帰る。晴美に子供を諦めさせて……千尋を探しに行く」「……でも、千尋さんが今どこにいるかなんて……」「知らない。でも……見つかるまで、俺は探し続ける」その声音には静かな狂気が混じっていた。「千尋はまだ……俺の妻なんだ。離婚届は出されていても、俺はサインしていない。だから、まだ終わっていない」その言葉を残し、怜は振り返ることなくバーを出た。帰宅した彼が目にしたのは、晴美が千尋の荷物をゴミ箱に捨てようとしているところだった。包装された美しい箱たちが、無造作に汚れへとまみれていく。怜は駆け寄り、晴美の手をつかんだ。「……何してる」「怜……?」晴美は驚き、ぎこちない笑みを浮かべた。「もう、必要ないと思って……」「誰がそんなことを言った」怜の声が一段高くなる。「これは千尋の物だ。彼女は……戻ってくる。お前に、それを捨てる権利はない」「戻ってくる……?」その言葉に、晴美の表情が一変した。涙をぽろぽろと零しながら、お腹を抱えてしゃがみ込む。「怜……あんまりだよ……千尋さんとはもう……離婚したじゃない……戻ってこないよ……」「黙れ!」突如響いた平手打ちの音。怜も晴美も、その音に一瞬動きを止めた。怜は沈黙の後、低く呟く。「すまない、晴美……だが、子どもは諦めてくれ。補償はする」「……赤ちゃんを、堕ろせっていうの?」晴美の瞳が狂気を帯び始める。「怜!私はあなたの初恋よ!千尋さんがいなくなった今、結婚するのは当然じゃない!どうして……どうしてあの人のことばかり……」「……俺は、千尋を愛している」その一言に、晴美は叫び声を上げる。「怜!最低よ!」晴美の手が震えながら、怜の襟元を掴んだ。「どうして全部、変わってしまったの……?」怒りと悲しみの入り混じる彼女の瞳は、深い闇のようだった。「千尋さんがいなくなって、やっと私たちの時間が来たと思ったのに……どうして……」「私は……絶対に諦めない。江藤家の妻になるのは、私なのよ」晴美は目を拭いながら、冷たい声で言い放った。「怜、私はこの
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第12話

「……千尋の居場所を知ってるの?」その一言が、まるで護身符のように晴美の唇からこぼれた。彼女は怜の手を振り払い、その場に崩れ落ちるように座り込んで激しく咳き込んだ。「もちろん知ってるわ。ただ居場所だけじゃない……彼女が今、何をしているのかも全部」「言え、どこにいる?」「そんなに知りたいの?」晴美は怜の首筋にそっと口を寄せ、吐息を吹きかける。淡いクチナシの香りが怜の鼻をくすぐった。かつては心を掴まれたその香りも、今となってはただただ不快なだけだった。怜は彼女を強く突き放す。「……教えろ。千尋はどこだ」「教えてあげてもいいわよ。でも――怜、私、あなたと結婚したいの」「それは無理だ」怜は一瞬の迷いもなく答えた。晴美の顔色が見る見るうちに険しくなるが、彼は目も合わせずに淡々と続けた。「俺は千尋とは離婚していないし、するつもりもない。江藤家の妻の座は、いつまでも千尋のものだ。お前には……せいぜい中絶を強制しないことを約束するくらいだ」晴美は不満げに眉をひそめたが、怜の冷たい眼差しに反論を呑み込み、わざとらしく肩をすくめて笑ってみせた。「実は偶然見ただけなのよ。千尋さん、もう一ヶ月も前に海外に行く決意をしていたの」「……海外?どこの国だ?」「さぁ、それはね……」晴美は腹をそっと撫でながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。「怜……私が無事にこの子を産んだら、ちゃんと教えてあげるわ」その言葉に、怜の怒りが一気に燃え上がる。彼は晴美を鋭く睨みつけ、低く静かな声で告げた。「……わかった。今日からお前はここに住め。ただし、俺と千尋の寝室と書斎には入るな。それ以外は好きにすればいい。……元気な子どもを産めるよう、祈ってるよ」「ふふ……ありがと、怜」その日を境に、怜は家に帰らなくなった。彼は自力で千尋の行方を探そうとしたが、どんな手を尽くしても何の手がかりも掴めなかった。千尋はまるでこの世から忽然と姿を消したかのようだった。怜は探し疲れ、やがて酒に溺れるようになる。最初のうちは友人たちも付き合ってくれたが、彼が酔うたびに千尋の名を繰り返す姿に、皆うんざりして一人、また一人と離れていった。いつしか、怜は一人で酒を飲むようになり、仕事も手につかなくなっていった。母親が叱っても、彼は耳を貸そ
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第13話

怜にとって晴美は――結局のところ、かつて成就できなかった初恋の執着にすぎなかった。今、彼の心にいるのは、ただひとり千尋だけだった。だが、晴美はあの写真を握っていた。それがあるせいで、怜は思うように動けないでいた。交渉の末、結婚の話はとりあえず婚約に格下げされた。――そして、三年の月日が流れた。怜は一向に晴美との結婚を望まず、その一方で千尋を探すことを決して諦めなかった。周囲からは何度も「もう忘れろ」と言われたが、怜は一度として耳を貸さなかった。そんなある日。怜の視線は、スマホに映っているXのトレンド画面に釘付けになった。『#G&R新作発表会デザイナー・相原千尋、会場にてデザインの意図を語る』その内容自体は特筆すべきものではなかったが、「相原千尋」の名前――その四文字が、怜の胸に火を点けた。何のためらいもなく、彼は運転手に命じて車の方向を変えさせた。目的地はG&Rの発表会場。この時、怜の脳裏には、午前中に控えていた重要会議のことなどまったくなかった。幸運なことに、発表会の会場までは車でわずか十数分。しかも到着した時点では、まだ千尋はステージに上がっていなかった。怜はその場で息をつき、胸を撫でおろした。――間に合った。まだ、すべてが終わったわけじゃない。彼は会場の喧騒に紛れて、こっそりとバックグラウンドに忍び込んだ。そして、狂おしいほどに恋しいあの姿を必死に探し回った。「千尋さん、おめでとう!」誰かの声が聞こえた瞬間、怜の意識がその方向に引き寄せられた。彼の胸は高鳴り、手のひらには冷たい汗が滲む。――そして、彼女が振り返った。その顔を見た瞬間、怜はまるで夢の中にいるようだった。震える手を差し出し、千尋の前に立つ。「千尋……やっと……やっと会えた……!」しかし。「こちらは関係者以外立ち入り禁止区域です。ご退出をお願いします、江藤さん」千尋の声は冷ややかで、感情の一切が削ぎ落とされたような響きだった。まるで、氷水を頭から浴びせられたかのように、怜の熱は一気に冷めていく。彼は唇を震わせながら言った。「千尋、もう三年も会ってないんだ……言いたいことが山ほどある……!それに……俺たちは夫婦だろ?どうしてそんな冷たい目で俺を見るんだ……」「夫婦?」
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第14話

千尋が、まだ自分を愛しているかもしれない――その考えがよぎった瞬間、怜の心臓は制御不能なほど激しく脈打ち始めた。震える指先をぎゅっと丸め、叫び出しそうになる衝動を抑えるのがやっとだった。彼こそが千尋の創作の源泉であり、かつて彼女の「夫」だったのだから!しかし、怜が胸の内を吐き出すより早く、ステージ上から彼女の感謝に満ちた声が響いた。「私が海外に渡ったばかりの頃は、前の結婚の失敗にばかり囚われていました。そのとき、ずっとそばにいてくれたのが、私の恋人である榊原清人(さかきばらきよと)さんでした。彼はかつて私にこう言ってくれたんです。『君はいつまでも、僕にとって一番大切な人だ』って……」それ以降の言葉は、怜の耳にはもう届かなかった。耳の奥がキーンと鳴り、周囲の音が一瞬で遠のく。彼はぐらりと身体を揺らし、視線を第一列に座る清人に釘付けにした。そのまま駆け寄って問い詰めたい衝動に駆られる。どうして彼女を奪ったのか。どうして――けれどそれは叶わなかった。ここはG&Rの新作発表会。他人の舞台をぶち壊すような真似はできない。そして何より――清人は、そう簡単に敵に回せる相手ではなかった。同じ業界の人間とはいえ、江藤ホールディングスと榊原家とでは天と地の差がある。怜にとって、清人は絶対に逆らえない相手だった。だが、ここで引き下がるなど、到底できるはずがない。怜は群衆の影に身を潜め、千尋がステージを降りてバックヤードへと戻るのを見届ける。そして記者たちに紛れて、彼もそのままバックヤードへと向かった。記者たちに混ざって立ち尽くす中、彼は喉を鳴らし、抑えきれない想いを込めて声を絞り出す。「千尋……どうして、君は――」「相原千尋!この泥棒猫!」鋭い声が怜の問いを遮った。晴美が、怒りを爆発させながら乱入してきたのだ。そして彼女は千尋を指さし、罵声を浴びせた。「そんなに男に飢えてるわけ?前の旦那にまで手を出すなんて、どれだけ浅ましいのよ!」「晴美、やめろ!何を言ってるんだ!」怜も予想していなかったこの登場に顔を紅潮させ、必死に晴美を押し返そうとする。「どうして君がここにいるんだ?すぐに帰れ!」「帰る?なんで私が?」晴美は千尋を睨みつけ、怒りを滲ませながら怜を問い詰め
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第15話

「……乗れ」その一言だけで、怜がこの三年間で晴美に向けて発した、唯一といっていいほど穏やかな言葉だった。不意を突かれたように晴美は目を丸くし、次の瞬間には喜びを隠しきれない表情で助手席に座り込んだ。その様子を見た瞬間、怜の胸に何かが詰まるような違和感が走った。それが何に起因するものかは、自分でも分からない。ただ――不快だった。彼は苛立ちを紛らわすように窓を開け、煙草に火を点ける。煙が車内に立ち込める中、彼はまるで息を吐くように――しかし晴美が最も聞きたくなかった言葉を、静かに告げた。「晴美。……千尋が戻ってきた。婚約は、解消しよう」「――なんで?」全身を震わせながら、晴美は怜の手を握ろうとした。だがその手は触れた瞬間、激しく振り払われた。彼女は唇を噛み、離れていく車を指さして叫ぶ。「見たでしょう!?相原千尋、あの車に乗ってたのよ?彼女にはもう恋人がいるじゃない!どうしてまだ彼女のことを想ってるの?私の何がいけないの!?」「……君は悪くない。ただ、もう愛してないんだ」「……ハッ」晴美は鼻で笑った。次第にその笑いは嘲りに変わり、声もどんどん大きくなっていく。「そう……愛してない、ね。あんたが私に執着してたのは、私が海外に行ってた時でしょう?千尋にプロポーズする時の指輪だって、元々私たちのペアリングとしてデザインしたものでしょう?千尋がいなくなってからようやく気づいたフリして、あの人を『特別な存在』扱いするなんて――それが、あなたの言う『愛』なの?」彼女は一歩ずつ詰め寄る。「答えてよ、江藤怜。それが『愛』だと言えるの?あなたは誰も愛してなんかいない。愛してるのは、自分自身だけ!全部、自分に酔ってるだけなのよ!!――っ!」その言葉が引き金だった。次の瞬間、怜は晴美の首を掴んでいた。冷ややかな視線で彼女を見下ろし、絞り出すように言った。「……よくも、そんな口が利けたな。お前が俺を誘惑しなければ……俺と千尋は、今も幸せに夫婦でいられたはずなんだ」「怜、あんた……!」晴美が苦しそうにもがく姿を、怜はしばらくの間無表情に見つめていた。そしてようやく手を放し、煙草の灰を弾いて一言。「……分をわきまえろ。俺と婚約を解消しろ。でなきゃ……どうなるか分かってるよな
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第16話

千尋と怜のゴシップが世間を賑わせたタイミングは、G&Rの新作発表とまさに同時だった。そのせいで、G&R自体にもかなりのバッシングが飛び火した。中でも一番槍玉に挙げられたのは、もちろん相原千尋だった。正義を掲げたつもりのネット民たちは、彼女のSNSを特定しては炎上させ、G&Rの公式サイトにまで苦情を送りつける始末だった。もし榊原家がG&Rに強い影響力を持っていなかったら、千尋はとっくに解雇されていたかもしれない。だが、当の本人たちはまったく動じなかった。清人も千尋も、何も語らず、これまで通りの生活を続けていた。平日は仕事に通い、週末は一緒に出かけ、日々を穏やかに過ごす。その様子を陰から見ていた晴美は、まさに歯噛みするほどの怒りに駆られていた。千尋の失脚を楽しみにしていたはずが、悔しさに満ちたまま別荘に戻ることになった。だが、その怒りをさらに煽るニュースが、彼女を待ち受けていた。江藤怜――彼は自身の認証済みアカウントで、千尋との「婚姻届」の写真を堂々と投稿したのだ。しかも、それだけではなかった。件のゴシップ投稿に引用リツイートまでしていた。【私と妻が交際を始めたとき、双方とも独身でした。不倫や道義に反する行為は一切ありません】さらにその投稿は、江藤ホールディングスの公式アカウントによっても拡散された。この「公認」が引き金となり、ネット上の風向きは一変。千尋に対する批判は鳴りを潜め、むしろ「誤解していた」と謝罪する者も現れた。あのゴシップ記者でさえ、該当ツイートを削除する始末だった。怒りを抑えきれず、晴美が五十嵐に連絡を取ろうとした矢先、先に連絡が来た。「本人が否定したら手出しできねえよ。金は返さねえけどな。ま、常連ってことで、今度は安くやってやるよ」そのメッセージを見た瞬間、晴美はスマホを床に叩きつけた。画面は砕け、バッテリーが飛び出した。彼女が怒りに震えていたその頃、怜はどこか誇らしげな様子で、千尋の元を訪れていた。スマホを片手に、まるで褒めてほしい子どものように胸を張っていた。「千尋……」「……江藤さん、何か御用ですか?」何度も耳にしてきたはずの「江藤さん」という呼び方。それでも、怜の胸には痛みが走った。彼は視線を落とし、自分の投稿を千尋に見せる。
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第17話

五十嵐とのやりとりがスクリーンに映し出された瞬間、怜の表情が一変した。彼はスマホの画面を見つめ、それから清人の顔を見て、しばらく沈黙した後、かすれる声で言った。「……どこから、その情報を……?」「それは君が気にすることじゃない」清人は淡々とスマホをしまい、冷ややかな声で釘を刺す。「怜。僕たちは子供の頃からの知り合いだ。だからこそ忠告するけど――晴美をちゃんと制御してくれ。彼女がこれ以上千尋ちゃんに手を出すなら、少し手荒な方法も辞さないから」彼はにこやかに、だが重く肩を叩く。「この業界、みんなつながってるだろ?僕の言いたいこと、分かるよね?」「……分かった。俺が彼女を止める」怜はしばし沈黙し、そして清人を真っ直ぐに見つめて言った。「でもな、榊原清人。勘違いするなよ。俺と千尋は六年間一緒にいた。彼女のすべてを知ってる。まだ君と結婚してない限り、俺にだってチャンスはある」その言葉は挑発のようでもあり、自分への慰めのようでもあった。だが清人は、まったく動じなかった。肩をすくめて、軽く笑いながら千尋の肩を抱いて家の中へ入っていく。「……どうぞ、好きにすれば」玄関のドアが閉まる。すべてが自然な動きだった。怜は、ただ呆然とそれを見つめるしかなかった。彼は――本当に千尋を愛していた。彼女と、永遠に一緒にいると思っていた。なのに、どうしてこんなことになったのだろう?彼は玄関の前に立ち尽くし、夜が更けるまでその場を動けなかった。そして、気がつけば車を走らせていた。向かったのは会社ではなく、長らく足を踏み入れていなかった別荘だった。到着した別荘は明かりが灯り、食事の香りが漂っていた。懐かしい匂いに、一瞬だけ心が過去に戻った気がした。けれど、扉を開けた瞬間、その幻想は打ち砕かれる。リビングには誰もおらず、千尋に関するすべての痕跡は跡形もなく消えていた。――全部、夢だったんだ。現実に引き戻された怜は、顔をしかめながら玄関に出迎えた星野晴美を見下ろした。彼は、彼女に言葉をかけることすら惜しいと感じていた。九年前、彼を熱烈に愛した晴美は、もうとっくに死んだのだ。彼は彼女を無視して、ただ冷たく言い放った。「くだらない真似はやめろ。……これ以上千尋を狙うなら、生
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第18話

千尋は、同僚から渡された最後のバラを見つめ、ふっと笑みを浮かべた。花の根元には、彼女と清人のツーショット写真が貼られたカードがそっと添えられていた。……これは、間違いなく彼からのサプライズだ。朝露に濡れた花弁に指をそっと触れながら、千尋はわずかに頬を紅らめ、足取りも軽く歩を進めた。彼女が通るたびに、同僚たちが次々とバラを手渡してきた。そのすべてに、二人の思い出の写真が添えられていた。そして、自身のオフィスの前までたどり着いた時――今度は、彼女の秘書が一輪のバラと一枚のカードを差し出した。今回のカードに写真はなく、代わりに小さな鍵が貼りつけられていた。そこに書かれていたのは、たった一行のメッセージ。「その鍵で、扉を開けてください」「相原部長、中に入ってください。……すごいサプライズが待ってますよ」秘書はにっこり笑って扉を指差し、そのまま立ち去った。千尋は、閉ざされた扉を見つめながら、口元をほころばせた。あの扉を開けるということ――それは、清人の愛を真正面から受け入れるという意味だ。かつての自分なら、まだ少し躊躇ったかもしれない。でも今は違う。彼は惜しみない愛を注いでくれた。だからこそ、千尋は迷うことなく、その扉に鍵を差し込んだ。扉の向こうは、花で埋め尽くされていた。千尋は驚きに目を見張り、しばらく立ち尽くしていたが、周囲の歓声に背を押されるようにして、一歩、また一歩と足を踏み入れる。「相原千尋さん――僕と結婚してくれませんか?」燃えるような真紅のバラが彼女の目の前に差し出された。彼女はその向こう、緊張した面持ちで立つ清人を見つめた。千尋はバラを受け取り、ふっと微笑む。「本当に……私と結婚するつもり?私は、バツイチだよ?」「それがどうした?むしろ僕は、君に比べて経験がなくて不安だよ」清人は肩をすくめ、真っ直ぐに、情熱的なまなざしを千尋に注ぐ。そしてポケットから指輪を取り出し、片膝をついてもう一度問いかけた。「だから、千尋ちゃん……僕と結婚してくれませんか?」「――はい、喜んで」千尋は手を差し出し、彼に指輪をはめさせた。額にそっとキスをされ、まわりからは拍手と歓声が沸き起こる。千尋はそれを止めることなく、ただ幸せそうに清人を見上げた。左手
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第19話

「……はぁ……」千尋の冷たくも距離を置いた表情を見て、江藤夫人は深いため息をついた。もうこれ以上、昔の話を蒸し返すことはせず、別の話題へと切り替える。「今日はね、千尋さんにちょっとお願いがあって来たの」「江藤さん、その『お願い』って、内容次第ですよ。千尋はいま僕の婚約者です。場合によっては、お手伝いできません」清人がにこやかに言いながらも、言葉の端々に釘を刺す。その言葉に、江藤夫人の顔色が変わった。まるで今になって初めて清人の存在に気づいたかのように、彼女は気まずそうに笑い、カップを持ち上げて口元を隠す。「……そうね、ごめんなさい。ちょっと焦ってたの。大したことじゃないのよ。ただ、怜がね……」江藤夫人は言いよどみ、咳払いを一つして言葉を継いだ。恥ずかしさと情けなさが滲み出る声だった。「最近、怜が少し精神的にまいってて……毎日お酒ばかり飲んで、持病の胃が悪化して……今は病院にいるの。それで……千尋さんに会いたいって……」「……私に?」千尋は一瞬戸惑い、つい清人の方を見た。それは、かつて怜と付き合っていた頃に身についた癖だった。当時、千尋のそばに他の男性がいるだけで、怜は機嫌を損ねた。だから今でも、無意識にパートナーの反応を確認してしまう。清人は千尋の視線を受けて、少しおかしそうに笑った。「そんな顔しないで。千尋ちゃんがそうしたいなら僕は何も言わないよ」「……怒らないの?」「怒るようなことでもないでしょ?」清人は肩をすくめて、当然のように続けた。「……まさか、会っただけでまた彼を好きになるわけじゃないと思うから、ね?」千尋は慌てて首を振り、その含みのある言葉に気づいて、ふっと笑った。向かいに座る江藤夫人は、そんな二人のやりとりを見ながら、複雑な思いを抱えていた。――もう、怜と千尋は戻れないのだと。用件を済ませたあと、江藤夫人は何かを悟ったように、そっと席を立った。その日の夕方、千尋は清人と共に病院を訪れた。病室には、千尋だけが一人で入った。ベッドには、怜が横たわっていた。彼女の姿を見ると、彼は慌てて上体を起こした。「千尋……来てくれたんだ……」「うん。お義母さんから、体調が悪いって聞いて」千尋はそう言って、リンゴをひとつむき始めた。
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第20話

「……何のつもり?」怜の突然の問いかけに、江藤夫人は一瞬手を止めた。彼が何を考えているのかすぐに察したが、あえて無関心を装うように、声のトーンを変える。「そんなこと、訊いてどうするの?」「……俺は……」「怜!」息子が何を言おうとしたのか、母親にはもう分かっていた。だからこそ、遮るように声を張った。「あなたと千尋さんは、もう離婚したのよ!二人の関係は、完全に終わったの!だから……もう、彼女のことは忘れなさい!」「……母さん、俺は忘れられないんだ……千尋は、俺の妻なんだ。六年間、一緒にいたんだぞ!」怜の目は赤く染まり、低く怒鳴るように声を荒げる。「……もし、もしあの時、晴美が現れなければ、俺と千尋は……きっと、今ごろ子どもがいてもおかしくなかったはずなんだ!」――パチン。頬に走った鋭い痛みが、怜を我に返らせた。「……母さん……どうして……」彼が顔を上げた先にいたのは、怒りと失望に震える母親だった。「……叩かれて当然よ」夫人は声を震わせながら、目に滲む涙を必死に堪えていた。「怜……今になってようやく分かったわ。千尋さんがどうして、海外赴任まで選んで、弁護士を立ててまで離婚したのか。あなたたちが別居して、もう三年。千日以上もあったのに……あなたはまだ、自分がどこで間違ったか気づいていない!」「でも……でも、全部晴美のせいじゃないか……!あいつが急に帰国して、近づいてきたから、俺は……!」怜の呟きは、もはや言い訳以上の何物でもなかった。――千尋は、もう彼にとってただの愛ではなく、執念に近い存在となっていた。その歪な執着を前にして、江藤夫人の胸にもまた苦しみが押し寄せた。だが、母親として、強く言い放つしかなかった。「怜……あなたは人のせいにばかりしてる。まるで、自分には何の非もないみたいに。晴美ちゃんが無理やり連絡してきた?あなたが彼女を庇って、千尋に冷たい言葉を浴びせたのは、誰?」「でも……」「すべての原因は、あなた自身にあるのよ!」その言葉の後、夫人の声はやや柔らかくなった。「あなたは千尋さんを傷つけてしまった。……でも、彼女はもう、自分の幸せを見つけたの。だからこそ、もう彼女を解放してあげなさい」「母さん……」「怜
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