LOGIN「千尋(ちひろ)、よく考えなさい。このチャンスは滅多にないわ。ヴェルナ芸術学院があなたの作品を見て、名指しで入学して欲しんだよ。一度諦めたことがあったけど、もう二度と逃してほしくないのよ。しっかり考えてから返事をちょうだいね」 薄暗いリビングのソファに座り、離婚届を指でそっとなぞりながら、相原千尋(あいはら ちひろ)の決意は固まった。 「先生、もう決めました。おっしゃる通りです。このチャンスを無駄にはできません。ただ、少しだけ片付けなければならないことがあるので、一か月後にヴェルナへ行かせてください」 「そうね、あなたがそう決めたのなら安心だわ」 スマホの画面がゆっくりと消え、真っ暗になった部屋の中で千尋はぼんやりと虚空を見つめていた。その静寂を破ったのは、玄関の扉を開ける音だった。 「千尋?なんで電気もつけずにいるんだ。暗い中でスマホを見ると目に悪いぞ。それにこんな時間まで起きてなくていい、先に寝てろって言ったろ?」 帰宅した江藤怜(えとう れい)は千尋の額に軽くキスを落とし、そのまま抱き寄せて二階の寝室へ向かう。 「まったく、あいつらは俺が早く家に帰りたいって言ってるのに、毎晩毎晩飲み会だのカラオケだのって引っ張りまわしてさ」 「ただ歌ってるだけなら……別にいいけど」 千尋は怜の横顔を見つめながら視線を下げていき、彼の顎の下に残されていた薄いキスマークをじっと見ていた。 彼女の唇が皮肉げに歪み、自嘲気味な笑いが漏れた。 怜が本当に友人たちと飲み歩いているのか、それとも、実際には星野晴美(ほしの はるみ)のそばにいるのだろうか?
View More江藤ホールディングスの後ろ盾を失い、さらに晴美の罪を立証する証拠が揃ったことで、清人が手配した弁護士はほとんど労もなく、彼女に「無期懲役」という名の贈り物を届けた。晴美が収監される際、最後まで気にかけていたのは千尋のことだったという。彼女は看守の前で千尋の名を叫び、罵声を浴びせた。その話を聞いた清人は、ただ静かに笑っただけだった。何も言わず、だがその足で看守に一言――彼女には「特別な配慮」を、と。全てが過去となったのは、それから一年が経った頃のことだった。清人がオーダーメイドのウェディングドレスを完成させると、彼は我慢できないとばかりに日取りを決めた。結婚式の招待状に関しては、清人と千尋の間で特に言葉を交わさずとも意思が一致していた。――江藤怜を、招かないという点で。だが、怜は現れた。友人の手から無理やり奪ったという招待状を手に、よく仕立てられたスーツ姿で、式場の扉をくぐった。その姿に、会場にいた誰もが息を呑んだ。まさか清人が彼を招待したとは。そしてまさか、彼が本当に来るとは。とはいえ、注目が集まったのはほんの一瞬のことだった。参列者の視線は、すぐにこれから登場する花嫁・相原千尋へと移った。怜のことなど、すぐに記憶の片隅へ押しやられた。やがて、千尋が姿を現すと、会場のどこかから小さく「わぁ……」という声が漏れた。怜はそちらを振り向こうともせず、ただ黙って千尋を見つめていた。今日の千尋は、特別に美しかった。清人は、彼女を本当によく愛していた――そう思った。愛する人を、まるで花のように育むとしたら。千尋は、清人のもとで見事に咲き誇る紅薔薇となったのだ。指輪の交換、そして祝福のキスを交わすふたりを見つめながら、怜の胸の奥に、つい抑えきれない想いが芽生えた。――もし、あのとき晴美の誘惑に屈しなければ。今、隣に立っていたのは自分だったのではないか?けれど、その「もし」はもう過去のもの。千尋は、永遠に自分の手の届かないところへ行ってしまった。披露宴の中盤、ふたりが参列者に挨拶をして回る最中。怜は手の中の小さな箱を、緊張のあまり何度も握りしめていた。そして、千尋が彼の前に立つと、怜は咳払いをして、ぎこちなく口を開いた。「……千尋、幸せになってくれ」「ありがとう」彼女は微笑んで軽く会釈をした。まるで旧い
怜のそんな様子を見て、清人はまたしても鼻で笑った。もとより、彼にとって怜は眼中にない存在だった。「安心して。君に手出しはしないよ。千尋ちゃんを救ってくれた恩は認めている。だからこそ、今回は大目に見る。でも──」清人はふっと声の調子を変え、晴美の名を口にした。「星野晴美は許さない。江藤夫人にも覚悟してもらわないとね。彼女には……きっちり償ってもらおう」怜は何も言わなかった。この時点で、彼にとって晴美の今後などどうでもよかった。ただ、胸にあるのは深い敗北感だった。あれほどの手を尽くして清人と千尋の結婚を妨げようとしたのに、一度たりとも清人に相手にされなかったのだ。怜は口元を歪めると、低く答えた。「晴美がどうなろうが、俺は構わない。母さんだって、あの女に思い入れなんてない。ただ──」彼は顔を上げ、冷たい目で清人を睨みつけた。「あの腹の子は俺の子だ。俺たちが晴美を庇わなくても、せめて子どもは守らないといけない。榊原清人、もし江藤家が本気で晴美を守ると決めたら、さすがのお前でも簡単には動けないはずだ」今にも取っ組み合いになりそうな二人を見て、千尋は眉をひそめ、心配そうに清人の手首を掴んだ。病床に腰掛けた怜は、千尋と清人が親しげに並ぶ姿を見つめながら、胸が針で刺されるような痛みに襲われた。ようやく彼は、自分が本当に千尋を失ったという事実を受け入れた。千尋は怜の表情を見ることなく、眉を寄せながら言った。「……江藤さん、一度お母さんと話してみた方がいいと思います。晴美さん……妊娠してないかもしれません」「何……?」清人と怜が同時に声を上げ、二人して千尋を見た。信じられないといった顔だった。千尋は静かに頷いた。言葉を選びながら告げる。「清人さんとあなたの身にあの事件が起きた日、私は晴美さんのズボンに……少し、血が付いているのを見ました」その言葉に二人は一瞬言葉を失った。先に動いたのは清人だった。眉を上げると、黙って病室を出て電話をかけた。しばらくして、黒いスーツの男たちが、もがく晴美を産婦人科へと連れて行った。妊娠しているかどうかの確認は簡単だった。尿検査をすれば、すぐに結果が出る。たった三十分後、検査結果が届いた。清人の秘書が結果を手に持ち、清人に渡しながら首を横に振った。「榊原様、
江藤夫人の言葉に、思わず足を止めた千尋は、戸惑いの色を浮かべながら振り返った。「お義母さん……江藤家の評判や名誉を気にされてるのはわかります。ですから、私も極力この件が外に広まらないよう配慮するつもりですが……」「そうじゃないのよ」江藤夫人は気まずそうに手を振った。「千尋……あなたが気分を害するのは無理もない。でも……晴美ちゃん、あの子、妊娠してるの。だからお願い、彼女を訴えるのは……やめてくれない?」そう言いながら、江藤夫人はすぐに「情」に訴えかけてきた。「千尋、あなたも知ってるでしょう?怜はこれまで一度も子どもを授からなかったの。……それが今、やっと……」千尋は何も言わなかった。怒っていたわけではない。ただ、思い当たることがありすぎて、言葉を選んでいたのだ。――今日、たしかに自分は見た。晴美のズボンの後ろに滲んだ、明らかな「血の痕」。女であれば、あれが何であるかは一目瞭然だった。……彼女、本当に妊娠してるの?それを言いかけようとして、やめた。江藤夫人はもう何も聞き入れられる状態ではなかった。「大丈夫、あとは私たちが責任を持って晴美ちゃんをきちんと管理するわ。二度と、あなたに近づけたりしない」そこまで言われて、千尋もそれ以上押すことはできなかった。ただ、静かに頷いた。清人と一緒に病院で半月ほど療養したあと、ようやく退院の日を迎えた。そしてその日、江藤怜が目を覚ましたという知らせが入る。ほどなくして、江藤夫人がまた訪ねてきて、「ぜひ一目だけでも見舞いに」と頼んできた。千尋は額に手をやり、疲れたように微笑んだ。「お義母さん……申し訳ありませんが、私は……」「千尋ちゃん、これを言うのも癪だが、何がどうあれ怜はあなたを助けたんだ。直接礼を言いに行くのが筋だと思う」静かに、けれどきっぱりと清人が口を挟んだ。千尋は不思議そうに彼を見たが、それ以上何も言わず、うなずいた。病室の前に立った時、清人は珍しく、強く千尋の手を引いて中へと踏み込んだ。千尋は驚きつつも、それを咎める間もなく、部屋に引き込まれる。ベッドでは怜が半身を起こしていた。その顔が清人を見るや否や、険しく歪む。「……榊原、ちょっと外してくれないか?千尋と二人きりで話したい」「まあまあ、焦らないで
救急車とパトカーは同時に現場へ到着し、そのまま二台とも病院へと向かった。清人の傷は幸いにも致命的ではなかったが、犯人の顔を確認する間もなく、逃げられてしまった。一方、怜と車を運転していた犯人の両名は意識不明のまま搬送され、事情聴取は後日へと持ち越された。千尋は病室の椅子に腰を下ろし、ベッドで横になる清人の顔をじっと見つめる。その視線には、明らかな痛ましさと心配の色が浮かんでいた。「清人さん……傷、まだ痛むの?」「平気だよ。あんなの、大したことないさ。数日も休めば治るよ」清人は千尋の手を軽く握り返しながら、少しだけ残念そうな声で続けた。「ただ……式は、延期になっちゃうね」「そんなの、全然気にしてないわ。あなたが無事でいてくれる、それだけで充分よ」千尋は彼の手を頬に当てる。けれどその柔らかい仕草のあと、表情を少しだけ強張らせた。「でも許せない……誰なのよ、車を取りに行ってたあなたを、そんな卑怯なやり方で……!」怒りに震える千尋を、清人は優しくなだめた。彼の中にはすでに疑いを持っている人物がいたが、それはあえて言わなかった。代わりに話題を変えて、千尋に言う。「怜のこと、見舞ってきたら?……君を守ったのは、彼なんだから。僕も、あとで礼を言いに行くよ」千尋は頷き、果物や補品の入った袋を持って病室を出た。江藤家の病室に着いた時、そこには江藤の両親、そして晴美の姿があった。千尋が入ってくると、彼らの表情に一瞬の緊張が走る。特に江藤の母親――その顔には、どこか責めるような色さえ浮かんでいた。まるで、千尋がこの場に来なければ、怜が怪我をすることもなかったかのように。――彼を招待したのは、あなたたちだったでしょう?そんな思いを胸の内に収めながら、千尋は言葉を選ぶ。「お義父さん、お義母さん。怜の容態……いかがですか?」「運が良かったのよ。あの車、ブレーキが間に合って……命に別状はないって、お医者さんが……」江藤夫人はそう言いながらも、ハンカチで涙を拭った。隣に立つ晴美は、すでにウェディングドレスを脱ぎ、薄手のカーディガンに着替えていた。そして、冷え切った目で千尋を見下ろす。「怜があんな目に遭ったっていうのに、千尋さんは傷一つないのね。運が良い人って、やっぱり違うわよね……う