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初恋は白く、傷痕は紅く

初恋は白く、傷痕は紅く

By:  雷鳴の虎(らいめいのとら)Completed
Language: Japanese
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「千尋(ちひろ)、よく考えなさい。このチャンスは滅多にないわ。ヴェルナ芸術学院があなたの作品を見て、名指しで入学して欲しんだよ。一度諦めたことがあったけど、もう二度と逃してほしくないのよ。しっかり考えてから返事をちょうだいね」 薄暗いリビングのソファに座り、離婚届を指でそっとなぞりながら、相原千尋(あいはら ちひろ)の決意は固まった。 「先生、もう決めました。おっしゃる通りです。このチャンスを無駄にはできません。ただ、少しだけ片付けなければならないことがあるので、一か月後にヴェルナへ行かせてください」 「そうね、あなたがそう決めたのなら安心だわ」 スマホの画面がゆっくりと消え、真っ暗になった部屋の中で千尋はぼんやりと虚空を見つめていた。その静寂を破ったのは、玄関の扉を開ける音だった。 「千尋?なんで電気もつけずにいるんだ。暗い中でスマホを見ると目に悪いぞ。それにこんな時間まで起きてなくていい、先に寝てろって言ったろ?」 帰宅した江藤怜(えとう れい)は千尋の額に軽くキスを落とし、そのまま抱き寄せて二階の寝室へ向かう。 「まったく、あいつらは俺が早く家に帰りたいって言ってるのに、毎晩毎晩飲み会だのカラオケだのって引っ張りまわしてさ」 「ただ歌ってるだけなら……別にいいけど」 千尋は怜の横顔を見つめながら視線を下げていき、彼の顎の下に残されていた薄いキスマークをじっと見ていた。 彼女の唇が皮肉げに歪み、自嘲気味な笑いが漏れた。 怜が本当に友人たちと飲み歩いているのか、それとも、実際には星野晴美(ほしの はるみ)のそばにいるのだろうか?

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Chapter 1

第1話

「千尋、よく考えなさい。このチャンスは滅多にないわ。ヴェルナ芸術学院があなたの作品を見て、名指しで入学して欲しんだよ。一度諦めたことがあったけど、もう二度と逃してほしくないのよ。しっかり考えてから返事をちょうだいね」

薄暗いリビングのソファに座り、離婚届を指でそっとなぞりながら、相原千尋(あいはら ちひろ)の決意は固まった。

「先生、もう決めました。おっしゃる通りです。このチャンスを無駄にはできません。ただ、少しだけ片付けなければならないことがあるので、一か月後にヴェルナへ行かせてください」

「そうね、あなたがそう決めたのなら安心だわ」

スマホの画面がゆっくりと消え、真っ暗になった部屋の中で千尋はぼんやりと虚空を見つめていた。その静寂を破ったのは、玄関の扉を開ける音だった。

「千尋?なんで電気もつけずにいるんだ。暗い中でスマホを見ると目に悪いぞ。それにこんな時間まで起きてなくていい、先に寝てろって言ったろ?」

帰宅した江藤怜(えとう れい)は千尋の額に軽くキスを落とし、そのまま抱き寄せて二階の寝室へ向かう。

「まったく、あいつらは俺が早く家に帰りたいって言ってるのに、毎晩毎晩飲み会だのカラオケだのって引っ張りまわしてさ」

「ただ歌ってるだけなら……別にいいけど」

千尋は怜の横顔を見つめながら視線を下げていき、彼の顎の下に残されていた薄いキスマークをじっと見ていた。

彼女の唇が皮肉げに歪み、自嘲気味な笑いが漏れた。

怜が本当に友人たちと飲み歩いているのか、それとも、実際には星野晴美(ほしの はるみ)のそばにいるのだろうか?

星野晴美――怜の忘れられない初恋の人。かつて怜と晴美が婚約するという噂は、この界隈では誰もが知っていることだった。しかし晴美が海外へ留学したため、その話は立ち消えとなった。

落ち込んだ怜は癒しを求め、彼に片思いをしていた千尋との電撃結婚を決めた。以来、六年の月日が流れた。

あの日の結婚式を千尋は鮮明に覚えている。タキシード姿の怜がひざまずき、自分がデザインした指輪を差し出した。

「千尋、愛してる。俺は一生、君だけを愛する。俺の心にまだ晴美がいると思っているかもしれないけど、大丈夫だ。この先の人生で必ず証明する。俺の心には相原千尋しかいないってな。結婚してくれないか?」

その言葉は決して嘘ではなかった。

結婚してからの六年間、怜は本当に千尋だけを愛していた。彼女が不安にならないよう、女性がいる飲み会には一切参加しなかった。記念日やイベントごとには必ず彼女が喜ぶサプライズを用意し、毎朝二人の写真を撮り、老後に振り返る楽しみにしていた。

――三か月前に晴美が帰国するまでは。

晴美の帰国を千尋も承知していた。怜が彼女を手伝いに行くのも千尋自身が認めたことだった。

だが次第に怜の様子がおかしくなり、帰宅が遅れる日が増えていった。

二か月前、結婚六周年の記念日。

「千尋、会社で大きなプロジェクトがあるから、終わったら改めて祝おう」

しかしその日、晴美のSNSにアップされた写真を見て千尋は初めて眠れない夜を過ごした。そこに写る指の小さなほくろは、間違いなく怜のものだった。

一か月前のバレンタインデー。

「特大の花火をあげるよ。帝都中に俺が千尋を愛してると知らせるんだ」

だが花火を見ている途中、怜は電話一本でまた去った。

その夜、晴美から怜とベッドで過ごした写真が千尋に送られてきた。

『私が帰ったのよ。いつまで江藤怜の妻でいるつもり?』

怜が言う「仕事」や「トラブル」は、いつも晴美に会いに行くための口実だった。

晴美がいない間は、自分を騙せた。だが晴美が戻ってきた今、もう自分を騙すことはできない。

千尋は美しい夢から目を覚ましたのだ。

手放すことを恐れない。もう怜はいらない――

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第1話
「千尋、よく考えなさい。このチャンスは滅多にないわ。ヴェルナ芸術学院があなたの作品を見て、名指しで入学して欲しんだよ。一度諦めたことがあったけど、もう二度と逃してほしくないのよ。しっかり考えてから返事をちょうだいね」薄暗いリビングのソファに座り、離婚届を指でそっとなぞりながら、相原千尋(あいはら ちひろ)の決意は固まった。「先生、もう決めました。おっしゃる通りです。このチャンスを無駄にはできません。ただ、少しだけ片付けなければならないことがあるので、一か月後にヴェルナへ行かせてください」「そうね、あなたがそう決めたのなら安心だわ」スマホの画面がゆっくりと消え、真っ暗になった部屋の中で千尋はぼんやりと虚空を見つめていた。その静寂を破ったのは、玄関の扉を開ける音だった。「千尋?なんで電気もつけずにいるんだ。暗い中でスマホを見ると目に悪いぞ。それにこんな時間まで起きてなくていい、先に寝てろって言ったろ?」帰宅した江藤怜(えとう れい)は千尋の額に軽くキスを落とし、そのまま抱き寄せて二階の寝室へ向かう。「まったく、あいつらは俺が早く家に帰りたいって言ってるのに、毎晩毎晩飲み会だのカラオケだのって引っ張りまわしてさ」「ただ歌ってるだけなら……別にいいけど」千尋は怜の横顔を見つめながら視線を下げていき、彼の顎の下に残されていた薄いキスマークをじっと見ていた。彼女の唇が皮肉げに歪み、自嘲気味な笑いが漏れた。怜が本当に友人たちと飲み歩いているのか、それとも、実際には星野晴美(ほしの はるみ)のそばにいるのだろうか?星野晴美――怜の忘れられない初恋の人。かつて怜と晴美が婚約するという噂は、この界隈では誰もが知っていることだった。しかし晴美が海外へ留学したため、その話は立ち消えとなった。落ち込んだ怜は癒しを求め、彼に片思いをしていた千尋との電撃結婚を決めた。以来、六年の月日が流れた。あの日の結婚式を千尋は鮮明に覚えている。タキシード姿の怜がひざまずき、自分がデザインした指輪を差し出した。「千尋、愛してる。俺は一生、君だけを愛する。俺の心にまだ晴美がいると思っているかもしれないけど、大丈夫だ。この先の人生で必ず証明する。俺の心には相原千尋しかいないってな。結婚してくれないか?」その言葉は決して嘘ではなかった。結婚してから
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第2話
「千尋、朝だよ」翌朝、千尋は怜のキスで目を覚ました。彼女が目を開けると、怜はいつものようにベッドサイドのカメラを持ち上げ、横たわる二人を写真に収めた。怜の笑顔は輝いていて、瞳には星が散りばめられているようだった。「今日は随分寝坊したね。さあ起きて。会社は休みを取ったんだ。千尋に小さなサプライズを用意してあるよ」千尋はベッドに横たわりながら、怜の首筋に残る薄くなったキスマークをじっと見つめ、素直に頷いた。「うん」身支度を整えると、千尋は怜に手を引かれて家を出た。玄関を出る前に、怜は彼女を抱き上げ、優しく車まで運んだ。「目隠ししてね。秘密の場所に行くんだ。きっと気に入ると思うよ」車は街を抜け、三十分後に静かに停まった。怜はドアを開け、千尋の手を取り、優しく彼女の頭を守りながら車外へ導いた。「目隠しを取っていいよ、俺のお姫様」目隠しを外した瞬間、視界いっぱいに広がる薔薇の花畑が目に飛び込んできた。「気に入った?」怜は期待に満ちた表情で尋ねた。「綺麗だね」千尋はただそれだけを答えた。実際のところ、この場所のことは既に知っていた。数日前、晴美から写真が送られてきたのだ。『綺麗でしょう?大学時代、怜が私のために作ってくれた秘密の薔薇園なの。ずっと残しておいてくれたのね』千尋は何も返事をしなかったが、今、晴美の言葉の意味をようやく理解した。自慢げに語る怜の横顔を見て、千尋はそっと目を閉じた。怜は千尋の沈黙には気付かず、嬉しそうに続けた。「これからはここが俺たちの秘密基地だよ。子供が生まれたら一緒に来ようね」そんな未来はもう来ない。そのとき、怜のスマホが鳴った。画面に映ったのは『最愛』と書かれた名前だった。怜は千尋の反応を伺い、彼女が平然としているのを確認すると安心したように微笑んだ。「秘書からだ。会社の急用かな、ちょっと待ってて」「うん」千尋は静かに答え、薔薇の海を眺め続けた。離れた場所で電話を取った怜の表情は柔らかく、愛おしげだった。風に乗って、途切れ途切れに怜の声が聞こえてくる。どうやら晴美は悪夢を見ただけで電話をかけてきたらしい。『ピコン』千尋のスマホに通知が届いた。彼女はゆっくりと視線を落とし、震える手でスマホを握りしめた。胸が締め付けられ、まるで地獄へ引きずり込まれるよう
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第3話
『妊娠したの、怜の子よ』短いその言葉は、鋭い矢のように千尋の胸を貫いた。彼女はスマホを閉じ、それをポケットにしまうと、こちらに戻ってくる怜を無言で見つめた。喉に綿でも詰まったかのように言葉が出てこない。怜の顔には罪悪感とわずかな苛立ちが浮かんでいた。「千尋、先に戻ろう。会社のことで急用ができたんだ。今度またちゃんと時間作るからさ、な?」本当に会社の用事なのか。それとも、晴美が寂しがっているのだろうか。千尋は問い詰めたかった。だが、その言葉は喉元で凍りついたまま出てこなかった。ただ静かに頷き、内心では皮肉を含んだ笑みを浮かべていた。あの結婚式で、「一生千尋だけを愛す」と誓った男は、もうどこにもいなかった。もしも六年前の怜が今の怜を見たら、どうするだろう。拳を振るうのか、それとも晴美をもう二度と手放すなと背中を押すのか。怜は言い訳を用意していたに違いない。だが、それを口にする暇もなかった。素直に頷いた千尋を見て、怜の胸には言いようのない不安が広がった。まつ毛に涙を宿す千尋を見て、怜は慌てたように声を上げた。「千尋、どうしたの?誰かに何か言われた?」千尋は何も言わなかった。自分で口を開けば、浮気の理由を問い詰めてしまいそうで、それがもう意味のないことだとわかっていた。静かに首を横に振り、冷たく言った。「ううん、何も」その反応を、怜は自分の約束を守れなかったことへの怒りだと誤解した。彼は千尋の腰に腕を回し、甘えるように耳元で囁いた。「ごめん、千尋。今日は本当に予想外だったんだ。君の誕生日には、絶対に特別なサプライズを用意するよ。楽しみにしてて」千尋が返事をする間もなく、怜のスマホが再び鳴った。内容は見えなかったが、彼の呼吸が乱れるのを千尋は感じ取った。怜はもう千尋の表情すら気にせず、彼女の手を引いて車に戻ると、自宅まで送り届けた。「今夜は先に寝ててね。ソファで待ったらだめだよ。君が疲れちゃうと、俺、すごく心配になるから」別荘が見える場所で車を停めると、怜は「じゃあね」とだけ言って車を飛ばしていった。千尋は無言でその車を見送り、一台のタクシーを止めて運転手に言った。「さっきの車、追ってください」タクシーは路地を曲がりながら怜の車を追いかけ、やがて一軒の一戸建の前で止まる。怜が慣
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第4話
翌朝、怜が戻ってきたとき、千尋は朝食をとっていた。床には昨日の灰がまだうっすらと残っていた。「千尋、昨日何か燃やしたのか?」怜が尋ねる。「うん、あなたの誕生日も近いから、何か作ってみたの。でもあまりにも出来が悪くて、燃やしちゃったの」「千尋が作るものが下手なわけないよ。どんなものでも、俺は大好きだよ」そう言って怜は千尋の後ろからそっと抱きしめ、甘い言葉をささやいた。かつてはその行為に千尋も微笑み返していた。でも今は、ただ吐き気しか感じなかった。クチナシの香水の匂いが鼻をつき、千尋は怜の服に視線を落としたまま、しばらく黙っていた。その視線に気づいた怜は、わざとらしく咳をして言い訳を始めた。「昨日、助手がコーヒーをこぼして、仕方なく着替えたんだ」「そう……別に説明しなくてもいいわ」「どうして説明しないでいられるんだ?」怜は気が緩んだように微笑み、千尋の鼻先をつついた。「うちの千尋は焼きもち焼きなんだから。説明しなかったら、また怒るだろう?」それ以上話が広がるのを避けるように、怜は話題を変えた。ふと家の中を見回し、怜は違和感に気づいた。「あれ?写真が全部ない。カップやクッションも……どうしたの?」「埃がたまるからしまったの。カップもクッションも古くなったから同じくね」「そっか……」怜は何かがおかしいと思いながらも、はっきりとは気づけず、それ以上問い詰めることはなかった。彼は千尋の指を絡めながら言った。「千尋、もう誕生日プレゼント用意してあるんだ。きっと気に入るよ、楽しみだろ?」千尋はその言葉に期待などしていなかった。怜の心はもうここにはない。どんな贈り物も、千尋には無意味だった。それでも、千尋はゆっくりと頷いた。その無言の返答に怜は安心し、未来の計画を楽しそうに語り出す。「千尋、ずっとオーロラを見たいって言ってたよね?今度一緒に見に行こうよ」千尋は何も答えず、怜の描く「もう存在しない未来」をただ黙って見つめていた。そのときスマホが震え、怜はちらりと千尋を見てから電話に出た。かすかに聞こえる女の声。「怜、赤ちゃんがあなたに会いたがってるの。来てくれる?」晴美の声だった。怜は眉をひそめた。断ろうとしたが、「初めての子ども」の七文字が喉をふさぎ、結局「わかった」とだけ返した。
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第5話
——そう、私はただの代役だった。たった六年大事にされたからといって、怜が晴美を忘れてくれるとでも?一生私だけを愛してくれると、どうして思ってしまったのだろう。「だから言ったのに、自分の気持ちを預けちゃだめだって……ほら、また聞かなかったんだから」空虚な別荘に、千尋の苦い独り言が響く。それからの日々、千尋と怜の間には、まるで無言の取り決めでもあるかのような静かな日常が続いた。千尋は静かに荷物をまとめ、怜はもはや言い訳すらしない。朝早く出かけて、夜遅く帰る彼の体からは、いつもクチナシの香りが漂っていた。気づけば半月が過ぎ、千尋の誕生日がやって来た。怜は今回は約束を忘れていなかった。彼は千尋を新しく購入した別荘に連れて行った。いつものように優しい眼差しで言った、「千尋、この別荘、君が好きだって言ってたろ?だから買ったんだ。誕生日プレゼントさ。どう?」千尋は何も言わず、静かに周囲を見渡した。煌びやかな照明、天井から垂れ下がる彩色のリボン、ホールの中心には巨大なバースデーケーキ。「おいおい、怜さん、愛が重すぎるって!別荘丸ごと誕生日プレゼントって、涙出るよな、奥さん!」「お前は黙って酒でも飲んでろ、千尋が驚くだろうが」怜は笑いながらたしなめるが、その言葉を否定はしなかった。かつてなら、千尋は顔を赤らめて笑い、怜を褒めていた。だが今の千尋には、もうそんな気持ちは湧いてこなかった。何を褒めるというのだろう。罪滅ぼしで買ったこの別荘を?それとも、晴美と逢瀬を重ねながら巧みに時間をやりくりしていることを?ただ、微笑むだけ。その千尋の表情に、怜は何かを感じ取ったが、考える間もなく会場が静まり返った。「遅くなってごめんなさい。千尋さん、誕生日おめでとう」女の声が響く。——晴美だった。千尋と怜は思わず入り口を振り向く。晴美は美しく着飾り、まるで主役のような輝きを放っていた。堂々と歩み寄ってきた彼女は、挑発めいた笑みを浮かべながら口を開いた。「千尋さん、今日はあなたの誕生日。私からのプレゼントは……そうね、怜の好み、全部教えてあげるわ。七年付き合ってたから、全部知ってるの」「晴美、やめろ」怜の声には戸惑いと苛立ちが混ざっていた。「もう、怜ったら」晴美はふわりと笑い、小腹をなでな
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第6話
千尋は晴美を連れて二階へ上がった。二階に到着した途端、晴美は足を止め、お腹に手を添えながら柔らかな笑みを浮かべて千尋を見つめた。彼女は千尋の周りをぐるりと一周しながら、舌打ちまじりに言う。「千尋さん、誰かに言われたことない?あなた……私とよく似てるって」千尋は黙って晴美を見つめる。ただ、この女がどこまで言うつもりなのか、見届けたかった。沈黙に動じることなく、晴美はため息混じりに言葉を続けた。「前にも言ったけど、怜の心から私のことが消えたことなんてないの。あなたはただの代用品。もし私があなただったら、とっくに身を引いてるわ」彼女は首をかしげて笑った。その笑顔には、確かな勝利の色があった。「そういえば、あなたたち六年間も結婚してるのに、一度も妊娠してないのよね。千尋さん、それっておかしいと思わなかった?」「……何が言いたいの?」千尋の心はずんと沈んだ。これから晴美が語ろうとしていることが、決して耳に優しいものではないと、直感的に分かった。止めたかった。でも、体に力が入らなかった。そんな千尋の様子を見て、晴美は優越感たっぷりに笑った。「怜、あなたに言わなかったのかしら?実は結婚する前に、彼、自分から結紮手術を受けたのよ。他の女に子どもなんて絶対産ませたくないから、って」「だからあなたは六年も妊娠できなかった。でも私は?帰国してたった三ヶ月で、もうお腹に赤ちゃんがいるの」彼女は千尋の耳元で、毒のような声を囁いた。「まだわからないの?千尋さん」千尋は晴美の顔を見ようとしなかった。力の抜けた足を支えるために手すりを握りしめる。その体は、夏なのに冷たい氷に閉ざされたようだった。——六年。何度も自分を責めた。病院にも行き、怪しげな薬にも手を出した。ただ、怜との子どもがほしかった。でも、違った。できなかったんじゃない。最初から、怜が望んでいなかった。涙がこぼれ落ちる。千尋はそれを一息で拭き取ると、無表情な声で問い返した。「……結局、何が言いたいの?」「別に。ただ真実を伝えたかっただけ」晴美は艶やかに笑いながら、千尋の頬に触れて涙を拭った。「怜が、私とこの子をどれだけ大事にしてるか、もう見ればわかるでしょ?——もし、あなたが私たちに何かしようとしたら、怜はどうすると思う?」「……
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第7話
晴美と怜を乗せた救急車は、サイレンを鳴らして別荘を離れていった。怜の友人たちも、彼の後を追うように次々と姿を消していく。いつもなら「奥さん!」と声高に千尋に呼びかけ、親しげに振る舞っていた男たちも、今はまるで彼女がそこにいないかのように、笑い声を交わしながら素通りしていった。一瞥さえくれないままに。賑やかだったホールは、あっという間に静まり返り、千尋はぽつんと中央に立ち尽くしていた。目の前にはまだ切り分けられていない五段重ねのバースデーケーキ。彼女はゆっくりとその場にしゃがみ込み、顔を両手で覆った。嗚咽が、指の隙間から漏れ出した。しばらく泣いていた千尋は、ふらふらと立ち上がり、外へと歩き出した。外に出ると、怜の友人たちの車はすでに一台も残っていなかった。別荘は山奥にあるためタクシーも呼びづらく、そこへ追い打ちをかけるように、ぽつぽつと雨が降り始めた。軒下に立ち尽くし、千尋は振り返って豪奢な別荘を見つめた。たしかに美しい場所だった。でも——ここは、彼女のものではない。怜がどれほど優しくしてくれたとしても、彼そのものが千尋のものだったことは一度もなかったのだ。「ここには泊まらない」そう心に決めた千尋は、雨の中へと駆け出した。容赦なく叩きつける雨が、肌に冷たく、痛かった。彼女は記憶を頼りに、国道を目指してひたすら歩いた。どれほど歩いたかもわからない頃、やっと車のヘッドライトが見え始めた。千尋は何度も手を上げ、ようやく午前二時過ぎ、一台の車が停まってくれた。びしょ濡れのまま帰宅したとき、千尋の体はすでに限界を迎えていた。頭はぼんやりと重く、手足には力が入らない。ふらふらとベッドに腰掛け、スマホを手に取って長い間スクロールした。でも、怜からのメッセージは一通も届いていなかった。視界が二重になり、手は震え、体は小刻みに震え出す——これは、熱が出る前の兆候だと分かった。助けを呼ぼうと、千尋は震える手で「119」を押すつもりだったが、間違えて怜に電話をかけてしまった。……プルル、プルル……わずかな期待が、胸の奥で微かに芽生えた。一度でいい。怜が電話に出てくれれば、誤解を解くチャンスがあるかもしれない——そんな小さな望みだった。だが、返ってきたのは冷たい機械音だった。『おかけになった電話番号への通話はお繋
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第8話
けれど結局、千尋は晴美に謝ることはなかった。怜と千尋が一緒にいるのを見た瞬間、晴美はお腹を押さえて「痛い」と叫び出したのだ。怜は千尋に言葉をかける間もなく、宝物のように大事にしている晴美の元へと駆け寄った。千尋はその場にしばらく立ち尽くし、やがて一度も振り返ることなく、静かに歩き去った。怜が我に返ったときには、千尋の姿はすでに遠くに消えていた。家に戻った千尋が最初にしたことは、怜から贈られたすべての品々をひとつひとつ整理することだった。——プロポーズの時に贈られた、彼がデザインした指輪。——結婚式のために作ってくれたティアラ。——毎年の記念日に届いた数々の贈り物。——一度も欠かしたことのない、誕生日のサプライズ。……怜は、いつも心を込めてくれた。それこそが、千尋が怜を疑わなかった理由でもあった。けれど、ずっと後になって千尋は知ることになる。——あの指輪は、本当は晴美のためにデザインされたもの。——ティアラは、晴美が「欲しい」と言ったから作られたもの。——記念日のギフトの一つ一つが、晴美の好みに基づいて選ばれたもの。——誕生日のサプライズすら、実はすべて晴美の希望だったのだ。千尋は、それらを一つにまとめて大きな段ボールに入れた。中には、署名済みの離婚届も。そして、箱の一番上にはメモを一枚貼った。『これらはすべて、晴美さんのために用意されたもの。お返しします。怜も、一緒に返します。私はもういりません』彼女はその箱を宅配サービスの営業所に託し、倍額を支払って一時保管を頼んだ。発送のタイミングを待つのみだった。出発の朝、怜が帰宅した。連れていたのは、もちろん晴美。晴美は腰に手を当て、気遣わしげな様子でリビングのスーツケースに目を留めた。そして、そっと唇に手を当てる。「千尋さん……どこか行くんですか?私が来たから……嫌になっちゃいました?」そう言って、怜の袖をつかむ。弱々しく、哀れで、男心をくすぐるような仕草。「ねえ、怜……私、帰った方がいいかな?二人の関係を壊すわけにはいかないし……」「帰るなんて、何を言ってるんだ」怜は不機嫌そうに眉をひそめ、千尋に向き直る。その目には、失望の色がにじんでいた。「千尋、お前さ、いつまで子供みたいに拗ねてるつもりなん
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第9話
千尋が飛行機に乗ったその時刻、怜と晴美は病院の廊下を歩きながら、検査結果の紙を手にしていた。晴美はどこか申し訳なさそうな表情を浮かべつつ、わずかに誇らしげな笑みを隠しきれない。「怜、赤ちゃんが無事で本当によかった……ごめんなさい、私がちょっと神経質すぎただけ。……千尋さん、怒ってないかな?」「怒る理由があるか?お前を階段から突き落としたのは千尋だ。お前が心配になるのは当然だろう」怜の眉間には深いしわが寄っていた。なぜか胸の奥に、不安が重くのしかかってくる。何か大切なものが、取り返しのつかない場所へと消えていったような……そんな気がしてならなかった。その不安を押し込めたまま、怜は晴美と共に半日を過ごし、午後になってようやく二人で別荘へ戻った。時刻は午後一時。玄関前に、見慣れない男と大きな段ボール箱がひとつ。怜の胸がざわめき、早足で駆け寄った。「誰だ、お前……」言い終わる前に、その男が嬉しそうな表情で振り返った。「江藤怜さんと星野晴美さんで間違いないですね、おふたりにお届け物です。相原千尋さんから直接預かって、必ず手渡しするよう言われまして」「電話もしたんですけど、ずっと繋がらなくて……」後半の言葉は怜の耳には入らなかった。彼は段ボールを指さし、苛立ち混じりの声を上げた。「これが千尋から?また何のつもりだ?」「……申し訳ありませんが、私はただ配達するだけでして。受領のサインだけお願いします」「怜……これは……」晴美が不安そうに唇を噛みしめる。「千尋さん、怒って家を出たのかしら……?私のせいで……」「怒っていようがいまいが、俺は謝罪なしに許す気はない」怜はそう言い捨て、乱暴にサインして箱を開けた。箱の中には、見覚えのある品々がきれいに収められていた。婚約指輪、ウェディングドレス、ぬいぐるみ、ドライフラワー……そして、その上に置かれていた一枚の紙と、離婚届。『これらはすべて、晴美さんのために用意されたもの。お返しします。怜も、一緒に返します。私はもういりません』その一文を見た瞬間、怜の中で何かが崩れ落ちた。これは、ただの駆け引きでも、気まぐれでもない。——千尋は本気で、終わらせようとしている。怜は手の中の離婚届を強く握りしめ、耳鳴りがした。晴美の呼びか
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第10話
その二日間、晴美は何度も書斎のドア越しに声をかけた。「怜、お願い、少しでもいいから顔を見せて……ご飯だけでも……」けれど怜は、ただひとり、離婚届を手に座り続けていた。まるで彫像のように、一切動かず、ただそこに居続けていた。——ブゥゥゥ……沈黙の書斎に、突然スマートフォンの振動音が響く。怜の目がぱっと見開かれ、即座に応答ボタンを押した。ずっと考えていた。どう謝ればいいか、どんな言葉を選べば千尋に許してもらえるか。けれど……「怜さん、今ひま?久しぶりに飲みに行こうぜ」電話越しに聞こえてきたのは、親友・猿田(さるた)の声だった。胸の奥に小さな期待を抱いていた分、それが崩れたときの喪失感は深かった。怜はかすかに唇を引き結び、「ああ」とだけ返事をした。千尋が姿を消してから三日目、怜はようやく書斎から出てきた。晴美がすかさず駆け寄ってくる。「怜、ご飯、全然食べてないでしょ?お粥作ったから、少しだけでも……」「……いらない」怜はかぶりを振り、短くそう告げた。「ちょっと出かける」「怜……」晴美の呼び止める声を振り切るように、怜はそのまま家を出た。彼女はその背中を見つめながら、わずかに唇を歪めた。バーのカウンター、怜は無言で酒をあおっていた。猿田をはじめ、かつての仲間たちは彼の様子に眉をひそめる。誰もが口に出せないでいたが、やがて猿田が意を決して尋ねた。「怜さん、最近……千尋さんとケンカでもしたんすか?」「してない」グラスの動きが止まり、怜はまた一口、酒を流し込む。喉に染みるアルコールが胃を焼き、目頭に熱がにじむ。「なんでそんなことを聞く?」その問いに、猿田は一瞬言葉を詰まらせる。「いや……あの、その、別荘でのパーティーのとき、俺……見ちゃって……」「何を」怜の目が据わる。赤く充血した視線に、猿田は思わず身をすくめた。「……その……晴美さんが階段から落ちたときのこと、全部、見てたんす」「それがどうした」「千尋さん、何もしてなかった。突き飛ばしてなんか、いない。晴美さん……自分で、わざと……」一瞬、怜の時が止まった。次の瞬間には、猿田の襟元を掴み、怒りに満ちた顔を近づけていた。「なんでそのとき言わなかった!なぜ今になって言う!」
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