「石川社長、奥様の腕はもう壊死寸前です。本当にこのまま黙って、薬もビタミン剤にすり替えたままにするおつもりですか?」ドアの内側では、プライベートドクターが慎重に目の前の男に諫めていた。矜持に満ちたその男、石川啓介(いしかわ けいすけ)の表情は冷たかった。「あの事故で奥様の腕を負傷させてから、彼女はもう筆を握ることさえ難しくなりました。今では玲奈様が奥様の代わりに有名な画家となっています。それでも、奥様の治療はしないおつもりですか?」啓介は苛立ったように指先で机をリズムなく叩き、低く口を開いた。「玲奈を『天才画家』として確立させるためには、こうするしかない。……志保のことは、俺の余生で償うしかない」窓の外に無意識で視線を送りながら、どこか寂しげに呟いた。「母が亡くなったあの時、俺を救ってくれたのは玲奈がくれた一枚の絵だった。あの暗い日々を乗り越えられたのは、あの絵のおかげだ。だから、玲奈のためなら、結婚だろうが、人生だろうが、何を犠牲にしてもいい」その言葉を、石川志保(いしかわ しほ)は、扉の陰で聞いてしまっていた。耳鳴りがし、胸が締めつけられるような痛みに襲われた。信じていた人に三年間も騙されていたなんて、どうして信じられるだろうか。三年前、志保は結婚式の前日に、婚約者である浅倉慎吾(あさくら しんご)が、親友だった水原玲奈(みずはら れいな)と浮気していたことを知った。――その後、彼女は浅倉玲奈になった。そのことで、上流社会で志保は笑いものになった。絶望の中、志保を救ったのが啓介だった。突然現れ、指輪を差し出してプロポーズし、「ずっとお前が好きだった」と告白してきたのだ。その誠意に心を打たれ、志保は彼と結婚する決意をした。だが、結婚してまもなく、啓介は起業に失敗し、高利貸しに借金を抱えることとなる。志保は彼のため、昼も夜も働き詰めで借金を返す日々を送った。だがある日、職場で落下した荷物に腕を直撃され、彼女は二度と筆を取れなくなった。啓介はそのとき、涙ながらに誓った。「いつか絶対に成功して、お前の腕を治してみせる」――と。けれど今、志保は気づいてしまった。あの涙も、誓いも、すべてが嘘だった。啓介の優しさは、すべて演技。玲奈のために、志保という最大のライバルを排除する計画だ
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