LOGINある日、石川志保は偶然、夫・石川啓介と秘書の会話を耳にする。 「社長、あの事故で奥様の腕を負傷させてから、彼女はもう筆を握ることさえ難しくなりました。今では玲奈様が奥様の代わりに有名な画家となっています。 奥様の腕はもう壊死寸前です。それでも、本当にこのまま黙って、奥様の治療はしないおつもりですか?」 啓介の冷ややかで情のない声が響く。 「玲奈を『天才画家』として確立させるためには、こうするしかない。 ……志保のことは、俺の余生で償うしかない」 その言葉を聞いた瞬間、志保は絶句し、何歩も後ずさった。 彼が「救い」だったと信じてきた三年間は、すべて偽りだった。 だったら、去るしかない。 愛が嘘だったのなら、執着する意味なんてない。
View More玲奈は口から血を吐き、顔中あざだらけになりながらも、狂気の笑みを浮かべた。「啓介……志保を助けるつもりなら、あんたもここに残りなさい。一緒に地獄へ堕ちましょ!」啓介は彼女を蹴り飛ばそうと必死だったが、玲奈は歯を食いしばって絶対に離さなかった。そのとき、焼け焦げた梁の一本が真上から崩れ落ち、三人のすぐそばに激しく落下した。啓介は拳を握りしめ、志保に最後の深い眼差しを向けた。志保はすでに煙に目を焼かれ、激しく咳き込んでいた。そのとき、耳元で優しい声が囁かれた。「志保……お前は絶対、生きて……」次の瞬間、背後から強く押され、志保の体は前へと飛び出した。彼女は震える足を必死に動かし、燃え盛る炎の中を外へ走った。前方からは星也の叫ぶ声が聞こえた。扉を出たその瞬間、背後で轟音と共に爆発が起きた。「志保!」志保は足がもつれ、星也の腕の中に倒れ込んだ。彼女は病院へ緊急搬送され、三日三晩昏睡状態が続いた。その間、栄蔵と星也はずっとそばで彼女を見守っていた。彼女がようやく目を覚ましたとき、栄蔵は震える手で志保の手を握りしめた。「かわいそうな志保……どうしてこんなにも辛い運命ばかり背負わなきゃいけないんだ……」志保の記憶が少しずつ戻ってくる。玲奈に拉致されたこと、そしてあの窮地で自分を救ってくれた「清掃員」の正体が啓介だったこと。でも、あの後は?何があった?かすれた声で、志保は口を開いた。「……二人は……?」星也はその意味をすぐに理解し、目を閉じて重く口を開いた。「火の勢いが強すぎて、消防が来た頃にはもう……現場からは焼け焦げた遺体が二体だけ……すでに本国に運んでいた」志保の体がぴたりと固まった。しばらくして、顔を横に向け、頬を伝って静かに涙が一粒こぼれ落ちた。それからさらに一ヶ月後。志保の体はすっかり回復し、ついに退院の日がやって来た。荷物を整え、カーテンを開けると、あたたかな日差しが病室を満たした。「志保」その澄んだ声とともに、星也がバラの花束を持って入ってきた。「志保……伝えたいことがあるんだ。実はね、再会したあの日から、ずっと君に惹かれてた。でも君は心に傷を抱えていて、人を信じることすらできない状態だった。だから焦らず、少しずつ近づいていこうと思ったんだ
志保が反応する間もなく、背後から何か濡れた布が口元に押し当てられた。ツンと鼻をつく異臭を吸い込んだ瞬間、志保の体から力が抜け、その場に崩れ落ちた。次に目を覚ましたとき、志保は柱に縛り付けられていて、見慣れない場所にいることに気がついた。「志保……ようやく私の手に落ちたわね」その声に驚いて顔を上げると、そこにはすっかり別人のようにやつれ果てた玲奈が立っていた。彼女は皮と骨ばかりの姿になり、額には大きな傷痕が残っていた。おそらく、以前警察が話していたあの啓介による怪我だろう。志保は無意識に喉を鳴らした。「何がしたいの?お金が欲しいの?いくらでも払うから」玲奈は狂気の笑みを浮かべながら近づき、いきなり志保の頬を平手打ちした。「誰があんたの汚い金なんか欲しがるのよ!あんたさえいなければ、啓介は私の元を離れることなんてなかった。慎吾とも離婚しなかった。私は今でも、賞賛される画家のままでいられたはずなのよ!全部あんたのせい!あんたが全部壊したのよ!お金で済ませるなんて思ってる?夢見ないで!あんたが奪ったもの、今日は命で返してもらうから!」玲奈はますます狂気じみた笑みを浮かべ、近くのガソリンの入ったバケツを掴み、床にぶちまけた。そして、ライターを手にして不敵に笑う。「どう?自分がどう死ぬか、もう想像できた?」志保は怯えた声で叫んだ。「……正気じゃない!殺人は罪になるのよ!落ち着いて!」しかし玲奈はまるで意に介さず、火を点けようとする手を止めない。そして、妖艶な目で志保を見つめながら冷たく言い放った。「何を怖がってるの?どうせ死ぬなら、一緒に地獄へ行ってくれた方がマシ。私はそれで十分満足よ」ガソリンに火が灯される寸前、けたたましい怒声が場を切り裂いた。「やめろッ!!」あの清掃員の男がドア口に現れ、帽子とマスクを勢いよく取り外す。「志保を放せ!怒りなら、全部俺にぶつけろ」志保はその顔を見た瞬間、驚きのあまり目を見開いた。その男の正体は、まさか啓介だった。玲奈は彼を見た途端、怒りで体を震わせながら、言葉を絞り出した。「……啓介、アンタ、よくも来れたわね」啓介は両手を挙げ、慎重に一歩一歩近づきながら、必死に玲奈をなだめようとする。「俺を恨むのはわかってる。だから、俺に何をしてもいい
志保はその場に呆然と立ち尽くし、しばらくしてようやく我に返った。啓介は本当に正気を失ったのだろうか?まさか事態があそこまで行くなんて、志保には想像もできなかった。やがて、彼女は深く息を吐き、栄藏と星也に付き従い、屋敷へと戻った。啓介が逃げたことで、きっとこれからは流浪の日々が待っているだろう。でも、それで彼がもう自分の前に現れなくなるのなら、それもまた、悪くないことかもしれない。それから一ヶ月が経ち、志保の入学日がやってきた。出発のために家を出ると、すでに身支度を整えた星也が玄関で待っていた。「わざわざ送ってくれなくても大丈夫だよ。野中さんに運転してもらえば十分だから」ケンノア芸術大学は家からそれほど遠くないし、何より最近の星也は病院の仕事で目が回るほど忙しいと聞いていた。少しでも彼に休んでほしかったのだ。だが、目の下にくっきりとクマを作った星也は首を振った。「いやいや、大丈夫。ちょうどその方面に用があるし、行こう」結局、志保は星也の強引さに負け、彼の車に乗り込んで夢の学び舎へと向かった。ケンノア学院の校内制度は整っており、手続きもスムーズに済んだ。志保は指定された教室に入り、初めての講義を待った。この授業は特別講師によるものだと聞いており、学生の間でも期待が高まっていた。そして、講師が姿を現した瞬間、志保はあまりの驚きに椅子から転げ落ちそうになった。なんと、特別講師の正体は、朝会ったばかりの「蒼井一星」こと、星也だったのだ!授業後、志保は講義内容を尋ねるという名目で星也に駆け寄った。「なんで最初に言ってくれなかったの?あなたが特別講師だなんて!」「だって、ほんとに『ついで』だったんだよ?」と星也は涼しい顔で答える。「でも、病院の仕事忙しいって言ってたじゃない!」星也は考え込むふりをしながら言った。「うーん、そうだったかも。でもね、部下たちをさっさと育てて、ここでバイトできるように段取りしたんだよ」志保は吹き出し、思わず星也にパンチをかまそうとした。ふたりがじゃれ合っていると、不意に廊下のゴミ箱を蹴飛ばしてしまった。慌てて志保が身をかがめると、彼女より先に一人の清掃員が飛び込んできて、テキパキとゴミを片付け始めた。その人物は帽子とマスクで顔を覆い、視線を上げることもな
箱の中に入っていたのは、またしても一通の書類だった。開けてみると、なんとそこにはケンノア芸術大学の入学許可通知書が入っていた。志保の瞳がふと揺れ、思わず星也を見つめた。どうして彼が、ずっと夢に見てきたあの芸術大学を知っているの?このところ、志保はケンノア芸術大学の入試に向けて準備を続けていた。画力を磨くだけでなく、理論を学び、美術史を体系的に理解したい。ケンノア芸術大学の入試は極めて厳しく、学長もまた一癖も二癖もある人物だ。権力や金だけでは決して門をくぐれない。実力のない者には縁のない場所。なのに星也は、いったいどうやって?志保の驚きと喜びが入り混じった表情を見て、星也は彼女のために選んだこのプレゼントは、やはり正解だと分かった。星也はふわりと彼女の頭を撫でながら微笑む。「安心して。これはちゃんと正当な手続きを経た合格通知だよ。僕はただ君の作品を学長に届けただけ。彼はすぐにその絵の中に宿る才能を見抜いた。その場で『ぜひ入学させたい』って言ってくれたんだ」それほどまでに評価されたことが、志保の胸を熱くする。思わず、心からの笑顔がこぼれた。「このプレゼント、すごく嬉しい。ありがとう、星也さん」今年の誕生日。栄蔵は彼女に「自由」を、星也は「夢を追いかける翼」を与えてくれた。こんなに幸せだと感じた誕生日は、初めてだった。「旦那様、大変です!」そのとき、執事の野中が息を切らして駆け込んできた。「旦那様、石川さんがまた来ました!今度はどういうわけか激しく取り乱していて、『絶対に離婚しない』と門の前で大声を上げています!」栄藏は袖を払って立ち上がり、鼻で笑う。「ほう、まだそんな夢を見ているのか。……行くぞ、様子を見に」一方その頃――門の前では、啓介が複数の警備員に押さえつけられながらも、必死に叫び続けていた。「志保!俺は離婚なんて絶対に認めない!お前を失いたくないんだ!」その時、完璧に着飾った志保が、冷たい表情で彼の前に現れた。「離婚はもう決定事項よ。あなた、いつまで騒ぎ続けるつもり?」啓介は警備員を振り払って、よろよろと志保の前に歩み寄り、夢にまで見た顔を飢えるように見つめながら、掠れた声で言った。「どんな罰でも受ける。でも、離婚だけは認めない…頼む!」その時、星