高級オートクチュールドレスに、ほんの少し触れただけだった。それだけで早川咲良(はやかわ さくら)の母は、手足を折られ、海へ突き落とされ、命を奪われた。そして、娘である咲良が傲慢な令嬢を告訴したその日。法廷で下されたのは――まさかの無罪判決だった。なぜなら、被告側の弁護人は、水原市で敵なしと名高い大手法律事務所の創設者にして、咲良の夫――久我慎也(くが しんや)だったからだ。裁判が終わると、端正で品のあるその男は、静かに被告席を離れ、咲良の目の前に一通の謝罪文を置いた。「咲良、これにサインしてほしい。名誉毀損で訴えられて、牢に入るなんて君だって望んでいないだろう?」声音はあくまで穏やかだった。まるで彼女のことを気遣っているかのように。だが、金縁の眼鏡の奥で光るその目は、冷たく、鋭かった。涙で潤んだ瞳で彼を見上げながら、咲良はかすれた声で問いかけた。「……どうして、慎也?」彼女には、どうしても理解できなかった。自分こそが、彼の妻だったはずなのに。彼は自分を、誰よりも愛してくれていたはずなのに。彼はかつて、一家の財産を捨て、久我家に軟禁されながらも、元は介護士だった自分を選んでくれた。なのに、母が亡くなったあと、彼女は何度も泣いて縋った。今日の朝に至っては、九十九度目の嘆願だった。彼の足元に膝をつき、離婚すら持ち出して、どうかこの裁判だけは手を引いてほしいと願った。だが、彼の返事はこうだった。――「咲良、俺を追い詰めないでくれ」苛立ったようにネクタイを緩めながら、慎也は静かに言った。「玲奈は違うんだ。彼女は十年も俺を想い続け、命まで救ってくれた」「だから俺は、守らなきゃいけない。たとえ相手が、世界でいちばん愛してる妻であっても」そう言うと、彼は手にしていたタブレットを操作し、画面を咲良に突きつけた。「考える時間は二分。……自分のためじゃなくても、お母さんのことを思って、サインしてくれ。そうしたら、お母さんの遺骨を返す」その画面の中では、海の上で、数人の屈強な男たちが檀木の骨壺を掲げている。その手が緩めば、骨壺は海に――咲良の目から、涙が溢れ出た。「……あなた、本気なの?」彼は眉ひとつ動かさず、冷ややかに言い放った。「無駄なことはやめよう。君の母さんが、ずっと海に沈んだままでいいのか?」「慎也っ!」
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