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君といた、朝露と蛍火の頃

君といた、朝露と蛍火の頃

By:  燃灯Completed
Language: Japanese
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高級オートクチュールドレスに、ほんの少し触れただけだった。それだけで早川咲良(はやかわ さくら)の母は、手足を折られ、海へ突き落とされ、命を奪われた。 そして、娘である咲良が傲慢な令嬢を告訴したその日。法廷で下されたのは――まさかの無罪判決だった。なぜなら、被告側の弁護人は、水原市で敵なしと名高い大手法律事務所の創設者にして、咲良の夫――久我慎也(くが しんや)だったからだ。 裁判が終わると、端正で品のあるその男は、静かに被告席を離れ、咲良の目の前に一通の謝罪文を置いた。 「咲良、これにサインしてほしい。名誉毀損で訴えられて、牢に入るなんて君だって望んでいないだろう?」 声音はあくまで穏やかだった。まるで彼女のことを気遣っているかのように。だが、金縁の眼鏡の奥で光るその目は、冷たく、鋭かった。 涙で潤んだ瞳で彼を見上げながら、咲良はかすれた声で問いかけた。「……どうして、慎也?」

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Chapter 1

第1話

高級オートクチュールドレスに、ほんの少し触れただけだった。それだけで早川咲良(はやかわ さくら)の母は、手足を折られ、海へ突き落とされ、命を奪われた。

そして、娘である咲良が傲慢な令嬢を告訴したその日。法廷で下されたのは――まさかの無罪判決だった。なぜなら、被告側の弁護人は、水原市で敵なしと名高い大手法律事務所の創設者にして、咲良の夫――久我慎也(くが しんや)だったからだ。

裁判が終わると、端正で品のあるその男は、静かに被告席を離れ、咲良の目の前に一通の謝罪文を置いた。

「咲良、これにサインしてほしい。名誉毀損で訴えられて、牢に入るなんて君だって望んでいないだろう?」

声音はあくまで穏やかだった。まるで彼女のことを気遣っているかのように。だが、金縁の眼鏡の奥で光るその目は、冷たく、鋭かった。

涙で潤んだ瞳で彼を見上げながら、咲良はかすれた声で問いかけた。「……どうして、慎也?」

彼女には、どうしても理解できなかった。

自分こそが、彼の妻だったはずなのに。彼は自分を、誰よりも愛してくれていたはずなのに。

彼はかつて、一家の財産を捨て、久我家に軟禁されながらも、元は介護士だった自分を選んでくれた。

なのに、母が亡くなったあと、彼女は何度も泣いて縋った。今日の朝に至っては、九十九度目の嘆願だった。彼の足元に膝をつき、離婚すら持ち出して、どうかこの裁判だけは手を引いてほしいと願った。

だが、彼の返事はこうだった。

――「咲良、俺を追い詰めないでくれ」

苛立ったようにネクタイを緩めながら、慎也は静かに言った。「玲奈は違うんだ。彼女は十年も俺を想い続け、命まで救ってくれた」

「だから俺は、守らなきゃいけない。たとえ相手が、世界でいちばん愛してる妻であっても」

そう言うと、彼は手にしていたタブレットを操作し、画面を咲良に突きつけた。

「考える時間は二分。……自分のためじゃなくても、お母さんのことを思って、サインしてくれ。そうしたら、お母さんの遺骨を返す」

その画面の中では、海の上で、数人の屈強な男たちが檀木の骨壺を掲げている。その手が緩めば、骨壺は海に――

咲良の目から、涙が溢れ出た。「……あなた、本気なの?」

彼は眉ひとつ動かさず、冷ややかに言い放った。「無駄なことはやめよう。君の母さんが、ずっと海に沈んだままでいいのか?」

「慎也っ!」咲良は彼を睨みつけ、唇を血が滲むほど強く噛みしめた。「……私はあなたと離婚する」

けれどその言葉にも、彼の表情は変わらなかった。

「残り、三十秒だ」

その瞬間、咲良の心臓は、何本もの針で刺されたような痛みに襲われた。

――なんて、皮肉なんだろう。この男も、かつては彼女を命よりも愛していたのに。

八年前、慎也は咲良に一目惚れをした。

当時、咲良は慎也の祖父の介護士であり、身分差は天と地ほどあった。それでも彼は、百回にも渡って想いを伝えた。

彼女がキキョウの花を一瞥しただけで、庭のバラをすべて植え替えたこともあった。

足を捻った彼女のために、病院のワンフロアを丸ごと貸し切ったこともあった。

そして、あの頃、彼女は知った。慎也の背後には、幼なじみの令嬢・白石玲奈(しらいし れいな)の存在があることを。彼女は財閥の娘であり、彼を一途に想い続けていた。

けれど慎也は、決して目移りしなかった。

――「咲良、俺が愛してるのは君だけだ。玲奈と釣り合うかどうかなんて、関係ない。彼女には嫌悪しか感じないよ」

久我家は、そんな息子を諦めさせようと彼の持ち株を取り上げ、さらには海外の孤島に強制的に送り込んだ。

それでも慎也は、二十日間の絶食という手段で周囲を屈服させた。咲良の心をも完全に打ち抜いた。

そして、ふたりは結婚した。慎也は、言葉通り彼女を命よりも大切にした――

半年前、すべてが変わるまでは。

長らく海外にいた玲奈が、突然帰国したのだ。

彼は国際会議をキャンセルしてまで空港に迎えに行き、三日間家に戻らず、彼女のために豪華な帰国パーティーを開いた。

咲良が悲しげに見つめる中、彼はこう言った。「一年前、俺はイギリスで事故に遭った。……玲奈は俺を助けて、丸一年昏睡状態だったんだ」

「咲良、俺が愛してるのは君だけだ。けど、彼女には借りがある。……一年だけ、時間をくれないか」

咲良は、その言葉を信じた。

だが、玲奈の帰国パーティー当日。咲良は持病の発作で倒れ、緊急搬送された。何度連絡しても、慎也とは繋がらなかった。

連絡がつかず、やむなく咲良の母が代わりに会場の豪華クルーザーまで向かった。

……そしてそのまま、帰ってこなかった。

誰もが「自殺だった」と口を揃えた。

現場にいなかった慎也さえも、その説を信じてしまった。

だが、救急室から出た直後、咲良は、一本の電話を受けた。電話の向こうから聞こえたのは、混乱した騒音、玲奈の怒声、そして、母の悲鳴だった。

――母は、殺された。誰かに追い詰められ、海に落ちたのだ!

この半年、咲良は自責と悲しみに押し潰されながら、それでも必死に証拠を探した。ようやく一人の元乗組員から証言を得ることができた。

そして慎也に、何度も何度も助けを求めた。

けれど彼は、咲良の願いを突き放し、母を殺した張本人を守る側についた。

彼は、母を殺した相手をかばい、証言するどころか、咲良を逆に追い詰めた。「謝罪文」へサインするよう迫り、挙句の果てには母の骨壺を利用して脅してきたのだった。

目の前の男が、まるで地獄からやってきた悪魔のように思えた。

絶望と諦めの中、咲良は震える指で、謝罪文にいびつな署名をした。

「……これで満足でしょ。早く、海から引き返させて」

かすれた声で言い終わるより先に、法廷内がざわめいた。

玲奈が突然、頭を抱えてうずくまったのだ。「慎也……助けて……また、頭が……」

その瞬間、慎也はタブレットを放り出し、彼女のもとへ駆け寄った。

だが画面の向こうでは、すでにカウントダウンが終わっていた。命令がなかったため、護衛たちは骨壺を開け――

「やめて!サインしたじゃない!慎也、早く止めて!」

咲良が叫んでも、彼女の言葉に誰も耳を貸さなかった。

彼の心は、玲奈しか見えていなかった。咲良を押しのけ、彼女を抱えて法廷を出ようとした。

彼の肘が咲良にぶつかり、彼女は床に倒れ込んだ。額が机の角にぶつかり、タブレットの上に涙が落ちていった。

遅かった。

船の上から、母の遺骨が撒かれていく。冷たい海風にあおられ、灰は波の中へと消えていく――

心を引き裂くほどの後悔と絶望が、咲良を飲み込んだ。

母は、寒いのが苦手だった。冷たい海が、大嫌いだった。そんな場所に、彼女を閉じ込めてしまった。

「……ごめんなさい、お母さん……」咲良は泣き崩れた。

ああ、どうしてあの男を愛してしまったのか。どうして彼と、結婚なんかしてしまったのか。

後悔の鐘が、頭の奥でひたすら鳴り響いた。

視界がぐらりと揺れ、世界が暗く沈んでいく――耳に届いたのは、遠くで聞こえる彼の声だった。

「玲奈、頑張れ……お願いだから、君が元気でいてくれれば、俺は何だってする!」
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第1話
高級オートクチュールドレスに、ほんの少し触れただけだった。それだけで早川咲良(はやかわ さくら)の母は、手足を折られ、海へ突き落とされ、命を奪われた。そして、娘である咲良が傲慢な令嬢を告訴したその日。法廷で下されたのは――まさかの無罪判決だった。なぜなら、被告側の弁護人は、水原市で敵なしと名高い大手法律事務所の創設者にして、咲良の夫――久我慎也(くが しんや)だったからだ。裁判が終わると、端正で品のあるその男は、静かに被告席を離れ、咲良の目の前に一通の謝罪文を置いた。「咲良、これにサインしてほしい。名誉毀損で訴えられて、牢に入るなんて君だって望んでいないだろう?」声音はあくまで穏やかだった。まるで彼女のことを気遣っているかのように。だが、金縁の眼鏡の奥で光るその目は、冷たく、鋭かった。涙で潤んだ瞳で彼を見上げながら、咲良はかすれた声で問いかけた。「……どうして、慎也?」彼女には、どうしても理解できなかった。自分こそが、彼の妻だったはずなのに。彼は自分を、誰よりも愛してくれていたはずなのに。彼はかつて、一家の財産を捨て、久我家に軟禁されながらも、元は介護士だった自分を選んでくれた。なのに、母が亡くなったあと、彼女は何度も泣いて縋った。今日の朝に至っては、九十九度目の嘆願だった。彼の足元に膝をつき、離婚すら持ち出して、どうかこの裁判だけは手を引いてほしいと願った。だが、彼の返事はこうだった。――「咲良、俺を追い詰めないでくれ」苛立ったようにネクタイを緩めながら、慎也は静かに言った。「玲奈は違うんだ。彼女は十年も俺を想い続け、命まで救ってくれた」「だから俺は、守らなきゃいけない。たとえ相手が、世界でいちばん愛してる妻であっても」そう言うと、彼は手にしていたタブレットを操作し、画面を咲良に突きつけた。「考える時間は二分。……自分のためじゃなくても、お母さんのことを思って、サインしてくれ。そうしたら、お母さんの遺骨を返す」その画面の中では、海の上で、数人の屈強な男たちが檀木の骨壺を掲げている。その手が緩めば、骨壺は海に――咲良の目から、涙が溢れ出た。「……あなた、本気なの?」彼は眉ひとつ動かさず、冷ややかに言い放った。「無駄なことはやめよう。君の母さんが、ずっと海に沈んだままでいいのか?」「慎也っ!」
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第2話
目を覚ましたとき、そこは病院だった。ベッドの傍らには、若いパラリーガルが立っていた。彼は困ったように眉を寄せながら言った。「咲良さん……この案件はすでに確定しています。あまりご無理なさらず、まずはご自身のお身体を大事にしてください」咲良は、胸の奥に残る痛みに意識を引き戻され、腕に刺さった点滴も構わず、がばりと身を起こした。すぐにバッグを開け、必死で中身をかき回した。「これ……この離婚届、有効か見てもらえますか?」手が震え、声もかすれたまま、ようやく取り出した書類を差し出した。相手は素早く内容を確認し、うなずいた。「咲良さん、ご主人の慎也さんの署名がすでにあります。あとはあなたが署名して提出すれば、一ヶ月後には正式に離婚が成立します」──今朝、咲良はこの書類を持って、慎也の前にひざまずいた。あまりに急いで家を出たせいか、あるいは、まさか本当に彼女が離婚を望んでいるとは思わなかったのか――彼は一瞥すらくれず、「偽物だろ」と決めつけたまま、すんなりとサインした。だけど彼は、永遠に知ることはないだろう。彼女の言葉が、全部、本当だったということを。咲良は一刻も無駄にしたくなかった。自ら針を引き抜くと、すぐさま水原市の市役所に向かい、離婚届を提出した。手続きを終えたあと、彼女は最後に海辺へ向かった。冷たい霧雨のなか、波打ち際で真っ直ぐ膝をついた。「お母さん……これからは、海のある場所に行くね。ずっと、あなたのそばにいるから」返ってくるのは、冷たい潮風だけだった。どれほどそこにいたのか、わからない。ようやく咲良は濡れた頬をぬぐい、震える指で電話をかけた。「……すみません、死亡偽装サービスの予約をしたいのですが」その声には、決意しかなかった。「一ヶ月後、死因は他殺としてください。場所は私が用意します。あなたたちは、新しい身分を整え、私を国外へ送ってくれればいいです」──そう、彼女はただ離婚するだけじゃない。一ヶ月後、必ず自分の手で真実を暴き、慎也に生涯忘れられない贈り物を残すつもりだった。すべてを終えて別荘に戻った頃には、すでに夜になっていた。リビングには灯りがともり、慎也が椅子に腰かけ、スープを玲奈の口へ運んでいるところだった。「慎也、あの謝罪文、ネットに載せたわ」玲奈はそう言うと、甘えるように彼の肩
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第3話
その後の数日間、慎也が毎晩そばにいてやったおかげで、玲奈はみるみる元気を取り戻した。退屈すると、たまに女友達を呼んで、優雅にアフタヌーンティーまで楽しむほどだった。「ねえ玲奈、慎也さんってやっぱりあなたのこと、ずっと想ってたんだよ。あなたが昏睡してたあの一年、彼、しょっちゅうイギリスまで飛んで来てたの。しかもさ、『玲奈が目を覚ますなら、妻と離婚してもいい』って神様に誓ったらしいわよ?」咲良はちょうどその言葉を耳にしてしまった。胸の奥に、鋭いナイフで切り裂かれたような痛みが走る。慎也の姿はなく、玲奈ももう仮面を被る気すらないのか、わざとらしく鼻を鳴らして咲良を呼び止めた。「咲良、このコーヒー……まるで出がらしみたい。見てるだけで気持ち悪くなりそうなんだけど?」咲良は無表情のまま、黙ってカップを手に取ろうとした。だがその手首を、誰かが乱暴にひねり上げた。「ちょっと何その態度?玲奈のお世話係のくせに、玲奈を気分悪くさせるなんて最低。土下座して謝りなさいよ、ほんとムカつく女!」玲奈の目配せを受けた女友達の一人が、怒鳴り声を上げた。咲良が反応する間もなく、その女に髪を掴まれ、直後、熱々のコーヒーが咲良の顔に向かってぶちまけられた――「やめろ!」その瞬間、玄関から低く怒鳴る声が響いた。帰宅したばかりの慎也が、冷たい顔で駆け寄り、咲良を背後にかばうように立ちはだかる。「誰が彼女に手を出していいって言った?」怒声が飛んだ次の瞬間、玲奈はまるでスイッチを切り替えたように、目に涙を浮かべ、腹を押さえて苦しげに身を縮める。「ちがうの、聞いて慎也!……彼女たちを責めないで、全部、私のためなの。咲良が、私のコーヒーに乳製品を混ぜたの。だから……お腹がすごく痛くて!」慎也の動きがぴたりと止まった。彼の目が、咲良に向けられる。その視線は、冷たい氷のように突き刺さった。乳製品?「咲良……俺、ちゃんと言ったよな。玲奈は乳糖アレルギーなんだって」……なんて滑稽だろう。彼女をかばっていた男が、たった一言の嘘で手のひらを返すなんて。「私はやってない!彼女、嘘をついてるの!」熱いコーヒーが髪を滴らせる中、咲良の声は震えていた。けれどその声は、玲奈の完璧な演技と、彼女の友人たちによる見事な「証言」にかき消されていった。慎也は怒りを爆発
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第4話
「慎也、今の私がどんな状態か……本当に見えていないの?」咲良は震える声でそう言いながら、腫れ上がった腕をゆっくりと持ち上げた。そこには一面、赤黒く腫れあがった皮膚と、生々しい傷痕が広がっていた。元の肌の色など、もうどこにも残っていない。だが、慎也はしばし黙り込み、やがて冷酷に言い放った。「玲奈はもう丸一日休まずに作業してるんだ。数珠は今夜中に仕上げなきゃいけない」咲良の目にうっすら涙が浮かんだ。それでも、もう泣けるほどの力すら残っていなかった。「……もし、私が嫌だって言ったら?また禁固室に閉じ込めて、あの毒虫に私を噛ませるつもりなの!?」慎也は咲良の痛みに耐える顔から目を背け、しばらく目を閉じていたが、やがて低く言った。「咲良、少しだけ……ほんの少し、我慢してくれ。玲奈の身体が完全に回復するまで――そして、俺が命の恩を返し終えるまで。そしたらまた、昔みたいに戻れるから」それは約束のようでもあり、願望のようでもあった。そして彼は冷たく態度を切り替えると、数本の太いイバラの枝をベッド脇に置き、静かに言い添えた。「言っておくけど、やらなきゃ、護衛が力づくでやらせるぞ。人の血を吸った手作りの数珠が一番効く――そう言われてるんだ」ドアが「バタン」と重い音を立てて閉まった。すぐに数名の護衛がベッドのそばに並び、無表情で告げた。「奥様、お時間がありません。旦那様のご指示で、イバラの棘はすべてご自分の手で抜き取っていただきます。珠は一粒ずつ、すべて紙やすりで磨いていただくことになっております」その夜、咲良はベッドから引きずり下ろされ、一睡も許されなかった。イバラの棘が指に食い込み、紙やすりで何度も擦られた指は、裂けて血を流し、動かすたびに焼けつくような激痛が走った。そして、ようやく朝日が差し込むころ、主寝室から玲奈の満足げな声が聞こえてきた。「慎也、この数珠……本当に効くわ。つけた瞬間、ふわっと頭が軽くなったの」慎也は優しく応じた。「よかった。少し眠ろう、傍にいるから」咲良はひっそりと自分の身体をベッドの隅に縮こまらせ、傷だらけの手を握りしめた。その指先から滴る血が、シーツにゆっくり染みこんでいった。それを見ているうちに、涙も出ず、胸の奥がひどく乾いていくのを感じた。かつては、たった一度バラの棘で指を傷つけただけで、慎也はあん
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第5話
慎也が帰国したその夜、水原市の上流階級の間で催されるチャリティー晩餐会があり、咲良も同席することになっていた。夕方、彼らを乗せたロールスロイスは会場へ向かう前に、一度スタイリングサロンに立ち寄った。慎也はわざわざ車を降りて咲良を迎えに行った。玲奈は、何千万もするオーダーメイドのドレスに身を包み、希少な皮革とダイヤモンドをあしらったバッグを手にしながらも、ただその場に立ち尽くしていた。慎也は気まずそうに後部座席のドアを開けた。「咲良、ほら……」だが、彼が言い終わる前に、咲良は無言で車を降り、そのまま助手席へと乗り込んだ。チャリティー晩餐会は郊外の別荘で開かれた。1階のホールでは、七宝焼きのシャンデリアが煌めき、光と影が交錯していた。玲奈が慎也の腕を取って姿を現した瞬間、会場の視線が一斉に彼女へと注がれた。社交界の令嬢たちはすぐさま集まり、口々に賞賛の声をあげた。「玲奈さん、慎也さんって本当にあなたに夢中なのね!このドレス、世界で初めて着たのってあなたなんでしょ?」「そうよ、この間も彼、海外にいたとき、パリの富豪からこのドレスを勝ち取るためにカーレースの賭けまでしたって聞いたわ。しかも、腕までケガして……」——まさか、そのケガはこのドレスのためだったなんて……話を聞きながら、玲奈の目にはうっすらと涙がにじんだ。「やめてよ……思い出すだけでつらいの。血もたくさん流したのよ。私が『これ好き』って一言言っただけで、彼ったら……」「ふふっ、それって、命を懸けてまであなたを愛してるってことじゃない!」みな一斉に羨望の声を上げ、誰かが冷笑を浮かべて咲良を一瞥した。「どこかの誰かさん、何年も前の型落ちしたドレスなんか着て、自分がシンデレラにでもなったつもり?お嬢様の靴磨きにも及ばないのにね!」咲良はふと、自分が着ているドレスに目を落とした。それは慎也が用意させたものだった。だが、咲良は何も言わず、ただ強く指先を握りしめていた。やがて晩餐会が本格的に始まり、中盤にはチャリティーオークションのコーナーが設けられた。玲奈にとっては取るに足らない品ばかりだったが、慎也は彼女の顔を立てようと、毎回惜しげもなく札を上げていた。けれど、翡翠の指輪だけは間に合わず、別の買い手に先を越されてしまった。ところが玲奈は、その指輪だけはどう
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第6話
カシャッ――突如、照明用の強いライトが点き、咲良は眩しさに目を細めながらゆっくりと目を開けた。そこは完全に遮光された部屋で、彼女は裸のまま、柔らかな布の上に横たわっていた。冷たい空気が一瞬で身体中を駆け巡った。咲良は慌てて身をすくめ、細い腕で胸元を覆ったが、そんな仕草はまるで意味をなさず、全身から力が抜け、起き上がることすらできなかった。「咲良さん、本当に美しい。特に、僕のカメラ越しで見るあなたは最高だよ」男の不気味な笑い声がカメラの向こうから聞こえてくる。黒いレンズが咲良に向かって無慈悲に突きつけられていた。まるで人を喰らう獣のように。「この変態!通報してやる!これは犯罪よ!」咲良は声を振り絞って叫んだ。すると男は冷たく鼻で笑い、こう言った。「へえ?じゃあ僕を訴えるって?それとも…君の旦那をか?」男は嘲るように続けた。「ここは僕の敷地だ。ちょっとヌードモデルとしてアートに貢献してもらっただけ。慎也との約束どおり、撮るだけで触れはしないさ。でも、もし君のほうから他の希望があるなら……」「ふざけないで!!」咲良は限界だった。涙がとめどなく溢れ、裸のまま、まるで逃げ場のない小動物のように、柔らかな布の上で震えていた。だが男は執拗に続けた。「いいね。泣いてる顔、もっと魅力的だよ」カメラのフラッシュが、鋭く咲良の心を切り裂いていく。何度も何度も。どれほどの時間が過ぎたのか――ようやく、撮影は終わった。咲良はどうやって服を着たのか、自分でも覚えていない。ただ、重い身体を引きずるようにして、あの部屋から出た。まるで糸の切れた操り人形のように、足取りは鈍く、屈辱に満ちていた。「咲良さん、僕はこれまで一万人以上の女性を撮ってきたが……自分の夫に差し出された女は、君が初めてだよ」背後から皮肉めいた声が投げつけられた。咲良の指は、ドアノブを握りしめたまま真っ白になっていた。今は反撃するときじゃない。乾いた笑みとともに、決然とした声で告げた。「私はもう離婚したの。慎也は――もう、私の夫じゃないわ」そして、背後の扉がようやく閉まった。咲良は全身を震わせながら、両腕で胸を抱いた。少しでも寒さを和らげたかった。ちょうどその頃、一階のパーティーは終盤を迎えていた。咲良が無表情のままホールを出ようとしたとき――「ド
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第7話
別荘に戻ったときには、すでに深夜を回っていた。リビングのテーブルには、吹き消されたろうそくの残るケーキが置かれ、慎也は玲奈とソファに並んで座り、プレゼントを開けていた。咲良が全身びしょ濡れで戻ってくるのを見て、慎也の手がぴたりと止まった。「咲良……迎えの車を出したはずだろ?」眉をひそめ、彼はすぐに立ち上がってタオルを掴み、咲良の髪を拭こうとした。けれど、咲良の視線はあまりにも冷たかった。彼女は一瞬の迷いも見せず、その手を振り上げた。そして、彼女のその手は鋭い音を立てて、彼の頬を打った。その刹那、誰かの影が勢いよく割り込んで、慎也を庇うように立ちはだかった。パシッ!乾いた音がリビングに響く。玲奈が頬を押さえ、悲鳴をあげた。「きゃっ!」彼女の白い頬には、みるみるうちに赤い掌の跡が浮かび上がり、彼女はそのまま慎也の腕の中に崩れ落ちた。涙で濡れた瞳が、どこまでも儚げだった。「玲奈、大丈夫か?」慎也は彼女をしっかりと抱きしめ、その頬にそっと手を伸ばす。その指先は微かに震えていた。やがて彼の指が腫れ上がった頬に触れたとき、怒りが爆発した。彼はタオルを振り上げ、それを咲良の額に向かって勢いよく振り下ろした。「咲良、君は……気がおかしくなったのか!」タオルの端が鞭のように風を切り、咲良の濡れた巻き髪を乱した。彼女の体はよろめき、倒れそうになる。「慎也……私、あなたを見誤ってた」涙をこらえながら、咲良はかすれた声でつぶやいた。その言葉には皮肉の色が滲んでいた。「たった一つの、何の意味もない指輪のために、私を他人に渡そうとするの?そんなあなたって、本当に最低だわ」慎也の表情が一瞬だけ揺らいだ。言葉を失い、胸の奥のかすかな良心が疼いたその瞬間――玲奈が、またしても慎也の前に立ちふさがった。泣きそうな声で言った「慎也をそんなふうに言わないで。咲良、怒るのはわかる。でも、もし気が済まないなら……私を叩けばいい!」まるで純粋な愛情を貫く乙女のように――完璧な演技だった。慎也の中に残っていたためらいは、その一言で粉々に砕け散った。彼は玲奈を抱きかかえながら言った。「玲奈、任せろ。俺が何とかする」そして、咲良に冷たい視線を向ける。「写真は……半年後にオークションに出されるはずだ。百億だろうが千億だろうが、必ず取り戻す。
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第8話
咲良は、その場に漂う悪意にすぐ気づき、きっぱりと言い放った。「そんなくだらないゲーム、私はやらない!」そう言って二歩後ずさった瞬間だった。先ほど話していた若い御曹司が突然立ち上がり、彼女が反応する間もなく、頬に思い切り平手打ちを食らわせた。すると周囲は一斉に笑い声を上げた。「ざまぁみろ!玲奈をぶった報いだ!」玲奈は無邪気な笑みを浮かべたまま、まるで何事もなかったかのように言った。「咲良、気にしないで。ただのゲームよ?」そして彼女の隣にいた慎也は、冷ややかな視線を投げたまま、黙ってまた酒瓶を回しながら、低く一言放った。「続けて」その瞬間、咲良はようやく悟った。彼らが自分をこの場に呼び出した、本当の意味を。あの雨の夜、跪いた程度ではまだ足りなかったのだ。彼女が玲奈を平手打ちしたその代償を、慎也は人前で、何倍にもして返させようとしていた。酒瓶は、何度も何度も彼女を指し続けた。十回。最後の一発が頬に響いたあと、護衛はようやく彼女の腕を離した。咲良はぼうっとする意識と耳鳴りが続く中で、頬に手を当てた。腫れあがった感触が指先に伝わってきた。そのとき――「ねぇ、慎也。今夜は私のために、手作りのバースデーケーキを作ってくれるって約束したわよね?」玲奈が急に甘えるような声を出して言った。慎也は微笑みを浮かべ、すっと立ち上がった。「待ってて、今行くよ」その場を立ち去る前、彼は咲良をじっと見つめた。しかし、言葉を交わすことは一切なかった。彼が去った後、玲奈の態度は一変していた。もう、さっきまでの柔らかい笑顔などどこにもなかった。「どう、咲良?ぶたれた気分は?」だが咲良は挑発に乗らず、肩をすくめるように薄く笑って立ち上がり、何も言わずその場を後にした。――彼女には分かっていた。勝ち誇ったように笑う令嬢が、必ず後を追ってくることを。予想通り、彼女がヨットの最上階へ足を踏み入れたとき、背後から高いヒールの音が響いてきた。「玲奈――まさか、本気で勝ったと思ってるの?」咲良はふいに口を開き、手すりの前で足を止めた。ふっと笑って、続ける。「知ってる?慎也が言ってたの。あんたの身体が完全に回復したら、借りを返して――すぐに家から追い出すって」「……黙れ!」玲奈が声を荒げる。「ただの下品な介護士が、私の敵になるなんて
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第9話
玲奈の心臓の鼓動は激しく波打っていた。荒れ狂う気持ちを必死に押さえ込みながら、彼女はヨットの下に広がる暗く深い海面に視線を落とした。そこには、誰の姿もなかった。ただ、まるで何も起こらなかったかのように、静寂だけが広がっていた。しばらくして、玲奈はゆっくりと背を向けた。「咲良、せいぜい天国に行きなさい……これが、あなたにふさわしい結末よ」夜の闇に紛れて、彼女の口元に浮かんだ笑みは、冷ややかで残酷なものだった。二階のデッキでは、慎也が6号サイズのシフォンケーキを手にしていた。彼は玲奈が戻ってきたのを確認すると、ケーキのキャンドルに火を灯した。「食べてみて。牛乳は使ってないし、ラズベリーは今朝ヨーロッパから空輸したばかり。砂糖は控えめにしてあって、ダイエット中でも安心だよ。きっと気に入ると思う」玲奈は微笑を浮かべながら火を吹き消し、瞳を輝かせた。「ねぇ、あーんしてくれる?」途端に、まわりの若者たちから茶化すような声が飛び交う。「こりゃ完全にイチャつき目的のパーティーだな!」「はは、慎也、お前あの下働きの女といつ離婚するつもりだよ?そろそろ玲奈を嫁にもらってやれって!」「俺に言わせりゃ、今ここで結婚しちゃえばいいのに。この間のチャリティパーティーで指輪渡しただろ?」笑い混じりの軽口はどんどん過激さを増していった。だが、慎也の表情はいつの間にか曇っていた。焦ったように顔を上げ、人混みの中を見渡す。――咲良の姿が、どこにもなかった。その瞬間、胸の奥に得体の知れない不安と苛立ちが、じわりと広がった。「ねえ、聞いてる?あーんしてってば」玲奈が彼の腕にすがりつき、不満げに揺さぶった。慎也はようやく我に返り、玲奈に小さくすくったケーキを食べさせると、まるで火傷でもしたかのように手を引っ込め、周囲に向かって真剣な口調で言った。「……もう、やめてくれ。冗談なのはわかってるけど、限度がある。俺は既婚者だ。家庭があって、妻がいる。玲奈は……独身だし」「こんなふうに騒がれたら、玲奈の評判にも傷がつくよ……」そのひと言で、空気が一気に凍りついた。玲奈の笑顔は固まり、伸ばしかけた手は中途半端に宙を彷徨い、そのまま指先をきゅっと握りしめた。やがてヨットは海岸に戻り、パーティーの客たちは次々と船を降りていった。だが、慎也
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第10話
朝方、胸元にひんやりとした感触が走った。熱を帯びながらもどこか浅い、それはキスのようだった。慎也はまだ眠りの中にいたが、無意識のうちに胸元の気配を抱き寄せ、そっとその指先を握った。そして、かすれた甘い声で囁く。「……咲良、やめろよ、くすぐったい……」しかしその瞬間、彼の身体がぴたりと止まった。――この手は、違う。咲良はかつて住み込みの介護士として働き、幼い頃から苦労の絶えない生活を送ってきた。そのためか、彼女の手には薄く硬いタコが残っていた。慎也はどれだけ愛情を注いでも、そのざらつきを癒すことができなかった。特注のハンドクリームを贈っても、それは消えなかった。まるで時間が刻んだ記憶のように。だからこそ、夜になるたび彼女の指を撫でながら、彼は胸を締めつけられていた。だが今、自分の手に触れているのは――不自然なほど、滑らかな肌だった。何かが脳裏で「ドン」と弾け、慎也は反射的にベッドから飛び起きた。目に映ったのは、荒れ果てた室内の光景。男物と女物の服が無造作に床に散らばり、ベッドには昨夜の痕跡が赤裸々に残されていた。その中央で、玲奈が裸のままシーツを胸元に巻きつけ、はにかむようにこちらを見つめていた。「起きたの? 早いね……もうちょっと、一緒に寝てたかったな」慎也の血の気が、サッと引いた。「……どうして、こんなことに?」「はあ? それ、こっちの台詞なんだけど」玲奈は唇を尖らせ、むくれたように言った。「昨日なんてさ、ドア開けた瞬間に押し倒されて……私、全身痕だらけよ? 体もまだだるくてたまんないんだから」恨み言のように聞こえたが、言葉の端々には妙に甘ったるい満足感がにじんでいた。その瞬間、慎也の目が鈍く曇った。彼はゆっくりと目を閉じ、低い声で尋ねた。「玲奈……昨夜、飲み物に何か混ぜただろ」問いかけの形を取ってはいたが、答えなど初めから分かっていた。昨夜、彼女が差し出したカクテル――あれには、何かが混ぜられていた。だから、記憶が……。だが、それが初めてではないことも彼は知っていた。玲奈は、十年にもわたって彼を追い続けてきた。高校ではラブレターを手渡し、大学を卒業した後は、なんと南国の島を買い取って告白。あのときも薬を盛って無理やり彼を部屋に連れ込み、自分のものにしようとした。だが慎也は激怒し、グラスを握り
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