高級オートクチュールドレスに、ほんの少し触れただけだった。それだけで早川咲良(はやかわ さくら)の母は、手足を折られ、海へ突き落とされ、命を奪われた。 そして、娘である咲良が傲慢な令嬢を告訴したその日。法廷で下されたのは――まさかの無罪判決だった。なぜなら、被告側の弁護人は、水原市で敵なしと名高い大手法律事務所の創設者にして、咲良の夫――久我慎也(くが しんや)だったからだ。 裁判が終わると、端正で品のあるその男は、静かに被告席を離れ、咲良の目の前に一通の謝罪文を置いた。 「咲良、これにサインしてほしい。名誉毀損で訴えられて、牢に入るなんて君だって望んでいないだろう?」 声音はあくまで穏やかだった。まるで彼女のことを気遣っているかのように。だが、金縁の眼鏡の奥で光るその目は、冷たく、鋭かった。 涙で潤んだ瞳で彼を見上げながら、咲良はかすれた声で問いかけた。「……どうして、慎也?」
View More咲良は手足を縛られ、身動き一つできず、絶望の中、そっと目を閉じた。だがその瞬間、慎也が這うようにして彼女のもとへやってきた。どこからか、倉庫の隅に捨てられていた防毒マスクを見つけてきたらしく、残された力のすべてを使って、それを咲良の顔に被せてくれた。「慎也、そんなことしたら……あなたが死んじゃう……」咲良の体はわずかに震えていた。彼女は自分でも気づかないうちに、涙を流していたのだ。その涙を、彼の指がそっと拭った。彼はうっすら笑みを浮かべながら言った。「でも、君は生きられるだろう」人間というものは、時にとても矛盾した感情を抱える生き物だ。愛と憎しみが同時に存在することもあれば、拒絶と渇望が存在することもある。咲良はこのとき流した涙の意味を、何年経っても完全には理解できなかった。汚染された有毒ガスが空気中に立ち込めるなか、慎也は床に倒れたまま動かなくなった。咲良の意識も次第に薄れていき、それでも彼を揺り起こそうと手を伸ばし続けた。そのとき――倉庫の外から、サイレンの音がはっきりと響いてきた。どれほど眠っていたのかはわからない。咲良が目を覚ましたとき、そこは病室だった。指先がかすかに動き、隣を見ると将玄が椅子に腰掛けていた。咲良は咄嗟に上体を起こす。「怖がらなくていいですよ、咲良さん。もう全部終わりました」将玄は彼女の手を取って優しく言った。「彼も死にませんでした。ただ、有毒ガスを大量に吸い込んだせいで内臓に深刻なダメージが残ってね。今後、回復はしても後遺症が残る可能性が高いです」その言葉を聞いた瞬間、咲良はようやく自分が生き延びたという現実を実感した。「……あの日……」と咲良が口を開くと、将玄は少し肩を落としながら言った。「私が通報しましたよ。あなたと連絡がつかなくなって、電話も通じなかったから。現地の知人に頼んで、二人の居場所を突き止めてもらいました」咲良はその後、一週間ほど病院で静養した。退院する日に、慎也はすでに集中治療室で目を覚ましていた。彼女は、ひと目彼に会いに行った。病室のベッド脇には、白いキキョウの花束が置かれていた。咲良はそれに目をやると、淡々と告げた。「あなたの体は、しばらく療養が必要よ。時期が来たら、将玄さんの手配で帰国することになってるわ」「咲良……俺たち、また会えるか
目を覚ましたとき、咲良の目はすでに布で覆われていた。麻酔の残りが体を蝕み、全身がだるく力が入らない。両手は後ろに縛られていた。頭の中が「キーン」と鳴り響き、咲良は咄嗟に、自分を拉致した犯人の可能性を探り始めた。――慎也じゃない。彼が私を連れ去るつもりなら、こんな雑なやり方は絶対にしない。そのとき、すぐそばで誰かが動く気配がした。「誰……そこにいるの?」「……咲良?」かすれた、けれど聞き覚えのある声が返ってきた。「咲良、君か?」まさかと思ったが、声の主は慎也だった。そして驚くことに、彼もまた咲良と同じように、縛られたまま床に転がされていた。二人とも同時にさらわれたと知った瞬間、慎也は激昂したように叫ぶ。「出てこい、玲奈!……お前だろ、やったのは!」慎也が言い終えたその時、広い空間に響き渡るように、ハイヒールの鋭い足音が近づいてきた。「まさかね、こんなにも長く想い続けた男に、こんな形で再会するなんて」その声には、どこか狂気をはらんだ憎しみが滲んでいた。目隠しが剥がされ、眩しさに目を細めた咲良の視界に現れたのは――かつては誰もが憧れる存在だった令嬢・玲奈。だが今の彼女は、見る影もない。顔色は青白くやつれ、まるで長く苦しみ続けた末の姿だった。咲良がじっとその姿を見つめた瞬間、何かに触れたように、玲奈の目が鋭く光った。次の瞬間――容赦なく平手打ちが飛んできた。「何見てんのよ、クズ女が!」その瞬間、慎也が半狂乱のように叫びながら立ち上がろうとする。「やめろ、玲奈!これ以上ふざけるな!お前を絶対に許さない、やめろって言ってるだろ!」玲奈はかすかに笑い、乾いた声で言い返した。「そうね。あなた、本当に私を許さなかったわよね」彼女の表情はどこか虚ろで、それでいて底知れない怒りがにじんでいた。「不思議じゃない?あんたに手渡されて刑務所に入った女が、どうして今ここにいると思う?」ふっと息を吐き、目を細めて続ける。「刑務所で自殺未遂を起こしてね。家の弁護士がうまく動いてくれたおかげで、病院に移送されたの。……うちは水原市でも指折りの資産家よ。病院を抜け出すなんて、簡単な話でしょう?」「正直言ってね、私、あなたたち二人を生きて帰すつもりなんて最初からなかった」そして、玲奈はまるで何気ない動作のように、小さなナイフを
慎也が今回帰国していたのは、ちょうど一週間。そして四日目の夜、オークションを主催したあの佐原という男が、突如として通報された。未成年の少女を唆し、撮影させた証拠が大量に発覚したという。あの夜のうちに警察に連行され、取り調べを受けた。おそらく――もう二度と外の空気を吸うことはないだろう。禁固室から出てきた慎也の姿を見て、付き添いの秘書は思わず目を背けた。傷ついた腕は見るに堪えないほどだった。「慎也先生……調べがつきました。あの佐原さんを通報した方は、やはり将玄さんでした。病院へお連れしましょうか?」慎也の身体はふらついていた。だが、虫に食われたような激しい痛みと痒みを、必死にこらえていた。「いい。代わりに、最短の便でイタリア行きのチケットを取ってくれ」衰弱しきった体とは裏腹に、その目には確かな意志が宿っていた。「それから……ついでに、イバラの枝と、手作業用のサンドペーパーも用意してくれ」それから二日後。咲良は野良猫にケーキを分けようと家を出たほんの数分で、その姿を見つけてしまった。あの、見るも無惨な姿の男を。わずか一週間で、慎也はまるで別人のように痩せ細っていた。スーツのズボンは風に吹かれてぶかぶかで、まくった袖から覗く皮膚は赤く腫れ、見るも痛ましかった。その傷を、咲良はよく知っている。禁固室に棲む虫に喰われた跡だった。「……咲良。あの写真、持って帰ってきたぞ」慎也はおずおずと、牛革の封筒を差し出した。咲良は黙ってそれを受け取る。彼は、ふうっと息を吐いたあと、さらにもうひとつ差し出した。――血に染まったイバラの数珠。「家の禁固室に三日間、籠ってた。咲良、俺、あの痛みを知らないなんて言えない。今はもう……わかってる」彼の目は、今にも涙で滲みそうだった。「このイバラの数珠……悪かった、君に受け取ってほしい」咲良は冷たく一瞥し、拒むように首を振った。「いらないわ。この写真は、あなたが私に返すべきものだから、受け取る。でもそのブレスレットは……一日でも身につけたら、一日中悪夢にうなされそうだわ」慎也はそれを聞いて、手にしていたブレスレットをそのまま近くのゴミ箱に放り投げた。「じゃあ今は?……今の君の心に、まだ引っかかってるものがあるなら、言ってほしい。俺はなんだってするから」咲良が背を向けようとした瞬間、
「どうして言っちゃダメなの?もうそれすら我慢できないの?」「ふふ、口では愛してるって言いながら、平気で妻を皆の前で順番にビンタさせるような男が、よく言うわ。結局は玲奈のために私に復讐したかったんでしょ?あんな人殺し、死んで償っても足りないわ。あなたも同類よ――最低のクズ!」咲良の言葉は容赦なく、冷えきった声がまるで鋭利な刃物のように慎也の心臓を突き刺した。彼女はその場から目を逸らし、ボロボロになった彼を一瞥すらせずに言い捨てた。「慎也、もう二度と私の前に現れないで。少しでも恥という感覚があるならね」助手席の窓がゆっくりと上がり、車はそのまま走り去っていった。慎也はその場に崩れ落ち、両手で顔を覆いながら、指の隙間から抑えきれない嗚咽を洩らす。こうして彼は、咲良の後ろ姿とともに、バックミラーの中で徐々に小さくなり、ついには消えていった。車内は、嘘のように静まり返っていた。咲良は胸元のシートベルトを握り締め、荒ぶった感情を必死に鎮めようとしていた。今の気持ちを言葉にするなら、長年心にのしかかっていた大きな石を、自ら砕いたような解放感があった。胸の奥が、久しぶりにすっと軽くなった。しかし運転席の将玄の表情は明らかに重く、先ほど咲良が吐き出した言葉のひとつひとつが、彼の胸にも鋭く突き刺さっていた。傍観者の立場でありながら、それは彼にとっても衝撃であり、同時に怒りにも似た苛立ちと息苦しさをもたらしていた。車は急ブレーキをかけ、海沿いの道路の脇で勢いよく停まった。将玄はハンドルをぎゅっと握り締め、ちらりと助手席の彼女を見やった。言葉を選びながら、やがて口を開いた。「……咲良さん、あなたは……」「慰めはいらないし、同情も求めてないです。私は、もう大丈夫だから」咲良は穏やかな口調で、きっぱりと彼の言葉を遮った。将玄は一度喉を鳴らし、静かに言った。「ひとつ、知らせておきたいことがあります。――例の写真のことですが、国内でオークションに出すって話があるんです」「でも安心してください。私が落札します。絶対に世間に流出なんかさせません」だが、咲良は一瞬驚いたものの、すぐに薄く笑って肩をすくめた。「心配しないで。どうせ誰かが競り落とすわ。言葉だけの復讐じゃ、満足できません」遠く、遥か彼方の水平線に、いつものように陽が昇ろうとし
咲良にはわかっていた。慎也が、そう簡単に諦める人間ではないことを。彼はあの晩、アパートの下で、ただひたすら膝をついて朝まで立ち上がらなかった。翌朝、咲良はわざと早く家を出た。だが、レストランへ向かう道を歩いていると、突如として赤いスポーツカーが現れ、まるで亡霊のように彼女の背後をぴたりとついてきた。「咲良……お願いだ、俺に償わせる機会をくれないか?」「俺なんて、赦される資格もないクズだ。どれだけ土下座しても、自分を罰したとしても、きみが味わったあの絶望の、ほんの一割にも満たないだろう」「でも、俺は離婚するつもりなんて一度もなかった。玲奈はもう精神病院に入れた。最初から、彼女のことなんて好きじゃなかったんだ」懇願するような言葉に、咲良は眉をひそめた。――うるさいだけで、反吐が出るほどに耳障りだった。咲良は足を止め、腕を組みながらスポーツカーの男を見下ろして、冷笑を浮かべた。皮肉の一つでも言ってやろうと口を開きかけたそのとき――後方から一台のロールス・ロイス・ファントムが突如加速し、赤い車のリアに思いきり衝突した。「ガンッ!」という鈍い音が響く。スポーツカーの後部は激しく歪み、そのまま勢いよく滑りながら街路樹にぶつかって停止した。加害車両の運転席からは、一人の男が降りてくる。淡いグレーのスーツに身を包み、颯爽と歩み寄ってきた。将玄は身をかがめて運転席を覗き込み、呆然とした慎也の顔を見ると、名刺を一枚、車内に放り込んだ。「申し訳ない、そこの方。こんなところでノロノロ走って道をふさいでたら、誰だって迷惑しますよ。見ていて気分が悪くなりました」将玄は整った顔立ちに、薄く笑みを浮かべながら続けた。「修理の件はうちの助手に連絡してください」呆気に取られたような表情は、慎也だけではなかった。咲良もまた、あわてて小走りに将玄のもとへ駆け寄った。「どうしてここに?大丈夫ですか?ケガしてないですか?」将玄は落ち着いたまま、咲良を見つめて答える。「昨夜、あなたのルームメイトからメッセージが来ました。あなたがちょっとしたトラブルに巻き込まれたかもしれないって」咲良の胸の奥がふっと温かくなる。少し気恥ずかしそうに笑いながら言った。「でも、もう大丈夫みたいです。さあ、行きましょう」そう言って、咲良は将玄の車に乗ろうとする
半年後。イタリア南部、海辺のケーキ店にて。もう閉店時間を過ぎていた。咲良は制服を脱ぎ、今日使い残した材料を丁寧に整理してから、店の鍵を閉めた。そこからは、静かな海岸線をひとり歩いて家へ向かう。ここは水原と違って雨が少なく、太陽がよく照る土地だ。道沿いにはレモンの木がいくつも植えられていて、海水までほんのり暖かく感じられるほどだった。咲良がこの地に来て、もう半年が経っていた。気候にも、生活にもすっかり慣れ、失っていた視力も完全に回復した。今ではパティシエとして仕事も見つけ、充実した日々を送っている。ひと月ほど前、店のオーナーが店舗を手放したいと言い出し、同僚とともに共同出資で引き継ぐことにした。今ではハーフオーナーの立場になった。穏やかで整った日常。――けれど今夜、その日常を揺るがす一通のメッセージが届いた。国内にいる将玄からだった。【咲良さん、心の準備をしておいた方がいいかもしれません。慎也が多額の資金を使って海外の探偵を雇ったらしいです。どうやら本当にあなたの居場所を突き止めたかもしれない】この日が来ることは、いずれ覚悟していた。あの海辺で偶然目撃されて以来、慎也は彼女が生きていると確信し、毎日、あらゆる手段を使って行方を追い続けていたのだ。咲良は考えごとにふけり、前方の信号を見落としていた。――そのとき、オープンカーが猛スピードでこちらへ突っ込んできた。危機一髪の瞬間、強い腕が彼女の身体を抱き寄せた。「咲良、危ない!」――聞き覚えのある声だった。気づけば地面に倒れ込んでいた。全身を覆うように彼女を庇ったその男は――慎也だった。車両はそのまま走り去り、止まる気配すらなかった。彼の身体に守られていたおかげで、咲良に怪我はなかった。ただ、額のあたりに、彼の血が少しだけついていた。状況を理解する間もなく、彼は咲良を強く抱きしめた。その腕はまるで彼女を離すまいとするかのように、痛いほどに強く。「咲良……本当に、君なんだな……生きててくれて、よかった……」喉を詰まらせながら、彼は泣いていた。氷のように冷たい涙が、咲良の首筋を流れていった。――慎也だ。将玄の言葉通り、彼は本当に咲良を見つけ出したのだ。咲良は数秒間、まるで時間が止まったように動けなかった。心臓が、どくんと大きく跳ねた気が
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