All Chapters of これで、後悔のない別れになった: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

穂香、階段、道路、救急車、そして翠の子宮摘出。すべてが繋がった瞬間、湊の身体はその場に崩れ落ちた。胸を引き裂かれるような痛みが、彼を容赦なく襲う。自分だ。自分の手で、ふたりの唯一の子どもを殺してしまったのだ。「湊!どうしたの?」診察室から出てきた穂香は、床に倒れている湊を見て驚き、慌てて駆け寄った。だがその手に触れた瞬間、彼は彼女の手を乱暴に振り払った。その目は、氷のように冷たかった。「触るな」穂香は何が起こったのか理解できず、呆然と立ち尽くす。彼の目と視線が交わったとき、彼女は唇を噛みしめた。「湊、私はただ、あなたを起こそうとしただけよ。どうしたの?」だがその表情には、密かな満足感が浮かんでいた。今さらどれだけ翠を想ったところで、もう遅い。彼女は湊とは何の関係もない存在になったのだから。しかも、自分のお腹にはまだ子どもがいる。湊は目の前の穂香を見て、黙って立ち上がり、彼女の手にある診断書に目をやった。「医者はなんて?」その問いに、穂香はすぐに笑顔を作って答えた。「まだ初期だから、何も分からないけど、大丈夫だって」そう言って、彼の腕に手を添える。「湊、帰ろう?」二人で数歩進んだところで、湊はその場に立ち止まった。彼は隣を歩く穂香を見つめながら、ふいに思い出した。以前も、彼女は「お腹が痛い」と言って、自分に選択を迫った。翠と、彼女自身のどちらを選ぶのかと。翠が流産したあの日、車中でも、穂香はずっと「痛い」と訴えていた。なのに病院に着いたら、何事もなかったかのようにケロッとしていた。あの時の自分は、ただ焦りと不安に飲まれて、何一つ疑わなかった。だが、今は違う。「本当に、何もなかったのか?」湊は聞いた。湊の真剣な眼差しに、穂香は一瞬たじろぐ。だが、心配してくれていると都合よく解釈して、笑顔を見せた。「本当に何もないってば。先生の言葉、信じてないの?もう、心配しないで。さっき義母さんから連絡来たの。スープ作ってくれたって。早く帰ろ?」湊はそれ以上何も言わず、二人は車で家へと戻った。家に着き、穂香が車から降りようとしたその時、湊が突然口を開いた。「穂香さん。最初から、翠が妊娠してたって知ってた?」その一言に、穂香の動きが止まる。ドアノブを握ったまま、手がびくりと震えた。「そ、そんな
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第12話

書斎の扉を閉めると同時に、穂香は素早く鍵をかけた。パソコンにはパスワードがかかっていなかった。彼女は夢中でファイルを探す。どこ?監視映像は、どこにあるの?焦りと不安で指が震える中、突然パソコンの画面に、人影が映り込んだ。「きゃああああああ!」穂香は悲鳴を上げ、その場にへたり込む。湊は無言で彼女を見下ろし、ゆっくりと目を閉じたあと、静かに笑った。「何を探してるんだ?」「な、なにも」湊は膝を折って目線を合わせる。間近で見るその姿は、記憶の中にある優しい穂香とはまったく違っていた。今そこにいるのは恐ろしい女だった。彼は低く、悪魔のような囁き声で言う。「穂香、翠が妊娠してたこと、知ってたよな。階段から突き落としたのも、お前だろ」彼の言葉に、穂香の目が大きく見開かれる。全身が止められないほど震えていた。「ち、違う!私じゃない!わざとじゃないの」見苦しい言い訳を聞きながら、湊の声はさらに静かになる。「じゃあ、ここで何してる?監視映像を消そうとしてたんじゃないのか」「ち、ちょっと気になっただけよ!」穂香は唾を飲み込み、お腹を押さえながら、必死に自分に言い聞かせる。自分は妊婦だ。湊は、自分に手出しなんてできないはず。「そうか?」湊は冷たく笑った。「じゃあ、一緒に見ようか。その監視映像を」彼の指がパソコンのフォルダに触れた瞬間、穂香は飛びかかるようにして彼を抱きしめ、わんわんと泣き出した。「ごめん、湊!あなたのことが好きすぎたの。全部、私が悪かったの!魔が差したのよ。こんなことになるなんて、もう後悔してる!」湊の手が止まる。その言葉を耳にした瞬間、心が千本の針で突き刺されたような痛みに襲われた。あのときの翠は、どれほど苦しかったのだろう。彼女が一番つらいときに、自分は翠を捨てて、他の女の方へ行ってしまった。彼女を裏切り、見捨て、奈落の底に突き落としたのだ。大粒の涙が次々と彼の目からこぼれ落ちる。なんて愚かだったのか。こんな女に、完全に翻弄されていたなんて。彼はゆっくりと視線を落とし、穂香の首を、強く締め上げた。「穂香、俺の子どもを返せ!」穂香は、彼と翠の子供を殺した。穂香の首は瞬時に赤く腫れ、顔はみるみる紫色に染まっていく。彼女は必死に彼の腕を叩き、瞳が恐怖
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第13話

部屋を出る前に、湊は床に座り込んだままの穂香をちらりと見て、ゆっくりと言った。「首の痕、ちゃんと隠せよ。母さんに怪しまれたら面倒だからな」その一言に、穂香は慌てて襟を引き上げた。怯えきった瞳で、「う、うん」と頷く。湊は満足げに頷き、ドアを開けた。外で待ち焦がれていた母は、ようやく安堵の息を吐く。「まったく何してたのよ、返事もしないで。さっきの音、なに?」湊は軽く笑いながら言う。「パソコン、うっかり落としちゃってさ」中に倒れているパソコンを見た母は、特に疑うことなく頷き、中の穂香を呼んだ。「穂香、スープできてるわよ、早くおいで」穂香は小刻みに震えながら、慎重に歩き出す。ちらりと湊の様子をうかがうが、彼の表情は何も変わらない。それを確認してようやく、か細い声で返事をした。「うん」夕食を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。穂香は焦るように口を開いた。「お義母さん、最近ずっとこっちに戻って来てなかったから、しばらくここに住もうかなって」湊はもう、狂ってる。絶対一緒に戻っちゃダメ!彼女の言葉に、湊は薄く笑みを浮かべる。母は少し驚いた様子だった。「どうして急に?まさか湊が何かした?お母さんが叱ってあげる。湊、ちゃんと穂香に優しくしてるの?」湊はゆっくりと顔を上げた。「まさか、母さんだって知ってるでしょ?穂香さんをどれだけ大事にしてるか」母は納得したように頷いた。「そうね。小さい頃から、穂香の後ろをずっとついて回ってたもんね。本当に聞き分けのいい子だった。だから、この二人のことだけは安心してるのよ」「だよね」湊は意味ありげに穂香を見つめる。「ねえ、穂香さん、俺、何かまずいことでもした?不満に思うようなことでもあった?」その視線に気づいた穂香は、びくっと震えた。「な、ないないわ」湊は口元を緩めた。「それなら、俺と一緒に帰ろう。穂香さん、お腹には俺の子どもがいるんだから」その一言に、穂香の心臓が大きく跳ねた。思わず自分の腹を抱きしめるようにして、身を守る。「そうね、穂香。湊と一緒に戻った方がいいわよ。お腹の子のこともあるし、湊がちゃんと面倒見ないと」母もその言葉に頷いた。穂香は何か言おうとしたが、次の瞬間、湊が彼女の手を握りしめ、ぐいと引き寄せる。「行こう、穂香さん。遅くなると真っ暗になっちゃうよ」
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第14話

イタリア!その言葉を聞いた瞬間、湊の胸は歓喜で膨れ上がり、無意識に外へ駆け出した。だが、二歩ほど走ったところで立ち止まり、すぐに冷静さを取り戻した。ダメだ、今はまだ行けない。「湊さん、今すぐイタリア行きのチケット、まだ間に合う。手配しようか?」湊はしばらく考えた。「いや、まだやるべきことがある」電話を切った湊は、庭に立ち尽くしていた。一晩のうちに秋が終わり、冬が訪れていた。薄着のままの彼の肩に、毎年この季節になると、翠が強引に厚手のコートを掛けてくれたものだ。文句ひとつ言わず、何度でも。「外は寒いのに、本当に自分の体を大事にしない。私がいなくなったら、どうするつもり?」あの時の自分はただ笑っていた。彼女が自分を愛していると信じて疑わず、決して離れられないと高をくくっていた。そして、その自信のまま、何度も彼女を傷つけてしまった。湊は階段を上がっていく。部屋の中では、穂香が何度もドアを叩き、声が枯れるほど叫んでいた。「出してよ!出してってば!私は湊の子どもの母親よ!出して」ドアの外で控えていた警備員たちは、その叫びを無言で聞きながら、社長の様子を伺う。湊が一切の表情を見せなかったことで、彼らの中で判断が下された。たとえこの子が本当に社長の子であっても、湊はもはや何も感じていない。湊はドアの前にじっと立ち続けていた。1時間後、電話がかかってくる。彼が手を上げると、警備員たちはすぐにドアを開けた。ドアが開くや否や、中から穂香が飛び出してくる。すぐに警備員たちが押さえつけた。穂香が湊を見上げ、今まさに絶叫しようとした瞬間、湊は唇に指を当てた。そのジェスチャーで彼女は声を止めた。湊は彼女が沈黙したのを確認し、満足そうに通話ボタンを押した。向こうから報告が届く。「社長、穂香さんの妊娠に関する情報が確認できました」報告の詳細が語られる前に、穂香が突然叫び出す。「嘘よ!全部嘘!湊、信じないで!あれは全部嘘なの」彼の目がわずかに動くと、警備員たちは即座に彼女の口を塞ぎ、うめき声しか出せなくなった。「調査の結果、穂香さんはすでに妊娠してから、二ヶ月ほど経過していると判明しました」「二ヶ月」その言葉を聞いた瞬間、穂香の瞳は大きく見開かれ、激しく首を振った。違う!そんなはずない!湊は短く「わかった」と
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第15話

穂香は全身を縛られ、口も布で塞がれたまま、車の後部座席に投げ込まれていた。車が向かう先を見た瞬間、突然激しく身をよじって暴れ出す。目には恐怖の色が浮かんでいた。「んーっ!んんーっ!」湊、気が狂ったの?彼は彼女を殺すつもりなんだ!後部座席の騒ぎを耳にしながら、湊は、彼女が目的地に気づいたのだと悟った。しかし、心は微塵も動かなかった。彼女がどれだけ暴れようと、関係ない。目的地に着くと、すでに人が待っていた。彼の姿を見るなり、ためらいがちに口を開く。「湊さん、船、準備した。本当に行くつもり?」彼は以前から湊の片想いをずっと見てきたひとりだった。ようやく両思いになれたと思ったのに、まさかこんな結末を迎えるなんて。彼の視線は穂香に向けられ、やるせなさそうに首を振る。まさかまさか、穂香が翠を追い出すために、こんな非道なことを次々と仕掛けていたなんて。湊の子まで、あんなことにするなんて。「乗せろ」穂香はそのまま船に投げ込まれた。船はどんどん岸から遠ざかっていき、ついには人の気配もない海域で停止した。湊は、懐かしい海を見つめて言った。「捨てろ」あの時、翠が味わった苦しみをいや、それよりも百倍、千倍の苦しみを彼女にも味わわせなければならない。穂香は激しく叫ぼうとするが、口は布で塞がれ、声にならない。彼女の体にはロープが括りつけられ、警備員たちがその体を海へと引きずる。全身全霊で抵抗したが、足元の靴さえ脱げてしまっても、無意味だった。海へ落とされた瞬間、冷たい海水が鼻や耳に一気に流れ込み、手と足は拘束されたまま、体はどんどん海底へ沈んでいく。極限の恐怖の中で、穂香は必死にロープを外そうとするが、びくともしない。息が続かなくなり、意識が遠のきそうになったその瞬間、ロープが引かれた。体は再び船上に引き上げられた。まるで地獄から這い上がったかのように、彼女は苦しげに咳き込み続けた。助かったとそう思った瞬間、またしても体は海へと投げ込まれた。上げては沈め、沈めては上げる。「湊さん、もうそろそろいいんじゃ。これ以上は身体がもたない」湊は返事をせず、画面に映る一枚の写真をじっと見つめていた。それは、スマホのアルバムを何度も見返して、ようやく見つけた、たった一枚のツーショットだった。画面の中で、翠は花
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第16話

ここ数日、穂香にとってはまるで終わりの日のようだった。湊の姿を目にした瞬間、全身が無意識に震え出す。五日後、また海へ連れて行かれると思った矢先、意外にも何の動きもなく、彼女は病院へ連れて行かれた。検査室のベッドの傍で、湊は彼女の腹の中の子どもの心音を静かに聞いていた。「先生、子どもの状態はどう?」医師は丁寧にモニターを見ながら答えた。「成長も順調です。定期的に健診を受けていれば問題ありませんよ」「それは良かった」湊は自ら穂香の腕を支え、ベッドから下ろした。その声はあくまで優しかった。「よく育っているみたいだな」穂香は力の入らない足取りで湊を見上げ、その先の展開が全く読めなかった。彼女が叫んで助けを呼ぼうかと考えたその時、耳元で彼の声が響いた。「叫んでも無駄だよ。外は全部、俺の人間だ」案の定、この私立病院には彼の部下以外誰もいなかった。「いったい何がしたいのよ」穂香は絶望の面持ちで彼を見つめた。湊は小さく笑みを浮かべ、指先で彼女の腹に触れようとする。穂香は反射的に身を引き、彼の手は宙を切った。しかし彼は特に気に留めなかった。「一緒に、ある場所に行こう」湊は言った。穂香は車に乗せられた。車は郊外へと向かって進んでいくが、どこに連れて行かれるのか全く分からなかった。ドアにはロックがかかっており、逃げ道はなかった。辿り着いたのは墓地だった。湊は階段を一段一段ゆっくりと登りながら、ある空き地の前で立ち止まり、指を差した。「見てごらん」彼の指差す先を見た瞬間、穂香はその場に崩れ落ちた。「あ……あなた」湊は彼女の反応に構わず、無言で墓碑の前に歩み寄る。【沖田湊と花岡翠の子】彼はその子のために墓碑を建てたが、何も納められていない。「跪け」彼の声は低く優しかったが、穂香には逆らうことができず、体を震わせながら跪いた。「湊、私が悪かったの!全部私のせい!私が翠を追い詰めて、ごめんなさい。なんでもするから!なんでも」湊は静かにしゃがみ込み、持参したハンカチで墓碑の埃を丁寧に拭き取りながら、呟くように語った。「穂香さん、よくもそんなことができたな。あれも命だった。お前の腹の子と、何も変わらなかったんだ」「全部私のせいよ!だから、謝るから!頭を下げるから!」彼女はその場に額を打ちつけ、
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第17話

飛行機に乗る前、湊は何度も何度も身なりを整えながら、小さく震える声で呟いた。「これで、大丈夫かな?」その様子を見ていた隣の男が、思わず吹き出す。「湊さん、何年も前から翠さんに何度も会ってるじゃないか。裸の姿まで見られてるくせに、今さら緊張するなんて遅すぎじゃない?」湊は首を振った。彼らには、わからないのだ。飛行機の中で過ごす一秒一秒が、まるで季節のように長く感じられる。彼は一刻も早くイタリアに着きたかった。飛行機を降りた瞬間、彼はすぐに車に乗り込み、興奮気味に叫ぶ。「早く行ってくれ!」今すぐにでも翠に会いたい。異国の地、見知らぬアトリエの前で、湊は窓越しに中を覗き込み、その奥の隅に座る人影を食い入るように見つめていた。たった少ししか離れていなかったはずなのに、まるで何年ぶりに見るかのように感じられる。初めて彼女に出会った時と同じように、美しく、静かで、時の流れが彼女には一切影響していないかのようだった。白いニットのロングワンピースに、髪を無造作にまとめて、横顔までもが息をのむほど美しい。彼の視線に気づいた人が、こっそりと彼女に囁いた。「ねぇ、外にすっごくイケメンの人があなたのこと見てるよ」翠はふと顔を上げ、透明なガラス越しに湊の姿を目にした。その瞬間、一瞬だけ動きが止まる。だが彼の喜びに満ちた視線とは対照的に、彼女はすぐに視線を逸らし、まるで何もなかったかのように、目の前の作品を彫り続けた。湊はその目が合った一瞬に、歓喜を覚えた。けれど次の瞬間、彼女がまるで知らない人を見るかのように目を逸らす姿に、彼の身体は固まってしまった。焦りが胸に走るが、すぐに自分に言い聞かせる。翠はまだ怒っている、それは当然だ、全部自分が悪いんだ。きちんと謝って、償って、やり直せば、翠はきっと、許してくれるはず。彼はアトリエの外で、日が暮れるまでじっと待ち続けた。やがてスタッフたちがぞろぞろと出てくる。翠の姿を見つけた瞬間、湊はすぐに駆け寄り、彼女の手を取り、切羽詰まったように叫ぶ。「翠!全部、俺が悪かった!本当に反省してるんだ!俺のそばに戻ってきてくれ」目の前の湊を見つめる翠は、かつてなら憎しみで震えていたはずの心が、もう何の感情も湧かないことに気づいた。六年の愛情も、一瞬で消えてしまうんだ。彼女は
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第18話

湊の動きが止まり、目の前の翠を驚いたように見つめた。「翠……」翠はごく淡々と彼を見つめたまま、言葉を続けた。「湊、昔私たちが一心同体だと思ってた。あなたがいなきゃ生きていけないし、私がいなきゃあなたもダメだって」「でも、それは間違いだった」彼女はふっと笑い、どこか晴れやかな表情を浮かべた。「私たちは元々、別々の人間だった。あなたはあなただし、私は私。誰かがいなきゃ生きられないなんてこと、ないのよ。この食事、私のおごりってことで。食べ終わったら帰りましょ」そう言って、彼女は立ち上がり、レジへ向かった。会計を終えると、湊がすぐに追いかけてきて、彼女の手をぐっと掴んだ。目には赤みが差し、まるで大切なおもちゃをなくした子供のようだった。彼女は、こんな彼の姿を見たのは初めてだった。「翠、俺が悪かった、全部俺のせいだ。もう俺のそばを離れないでくれ」彼の手からは、かすかに温もりが伝わっていた。翠が何か言おうとしたそのとき、彼女のすぐ隣に一台の車が停まった。車からゆっくりと降りてきた人物が、二人を見てから、翠の手をそっと取り、自分のそばへと引き寄せた。その声はどこか呆れたようで、優しかった。「一緒に食事するって約束してたよね?どうして先に食べちゃったの?」翠はその顔を見るなり、目元を和らげ、明るい笑みを浮かべた。「お腹すいちゃって」「まったく、ほんとに食いしん坊なんだから」彼は手を伸ばし、彼女の鼻先を軽くつまんだ。「もうお腹いっぱい?」翠は力強くうなずいた。「じゃあ、行こっか」二人が立ち去ろうとしたその瞬間、湊が慌てて翠の腕を掴み、彼女の前に立ちはだかった。その声は鋭く、怒りに満ちていた。「誰だ!翠は俺の妻だ!彼女から手を離せ」相手は湊を見つめ、口元をゆるめた。「冨永直哉」その名前を聞いた瞬間、湊の表情が凍りついた。冨永直哉(とみえ なおや)は冨永家の次男、子供の頃から国外で育ち、ほとんど姿を見せない、冨永家が大切に隠し持っていた。彼はずっと海外で活躍していて、帰国もほとんどなかったと聞いていた。何度も会ったことなどなかったのに、なぜ、彼が翠と一緒にいる?湊の顔に怒気が広がった。「たとえお前が誰だろうと関係ない!翠は俺の妻だ!誰にも渡さない」「妻?」まるで冗談でも聞いたかのように、直哉は眉を上げ
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第19話

翠が沖田家と穂香を口にした瞬間、湊の心は何かに引き裂かれたように痛み、慌てて一歩前に踏み出した。「翠、俺は分かってる。沖田家も、俺自身も、君にたくさんのことを背負わせた。誓うよ。これからちゃんと償う、必ず返してみせる。君なしじゃ、生きていけないんだ」その声は震えていて、渇望のこもった目で翠を見つめる。彼の言葉を聞いた翠は、口元を冷たく持ち上げた。「湊、もしかしてその芝居、演じすぎて自分でも信じ込んだの?」あの頃、彼が言った言葉が、今もなお耳の奥で鳴り響いていた。一瞬だって忘れたことはない。彼女は皮肉な笑みを浮かべた。「あなたが愛してるのは穂香なの。過去の六年間、私が勝手に夢を見てた。本当に私を愛してるなんて、勘違いしてたのよ。今はちょうどいいじゃない、彼女は夫を失って、あなたは妻を失った。願った通りになったでしょ?」「違う、そんなつもりじゃない!」湊は手を伸ばし、彼女を引き留めようとしたが、彼女の拒絶する態度に気付き、そっと手を下ろした。途方に暮れたように口を開いた。「俺がバカだったんだ。自分の気持ちすら分からないほどバカで、でも今ははっきりしてる。俺が本当に愛してるのは、翠だ」その一言に、翠は堪えきれずに声を上げて笑った。彼女の目が彼を見据え、その眼差しはいつの間にか冷たく鋭く変わっていた。その笑みは、怒りと哀しみが交じり合う嘲りだった。「湊、その愛なんて、こっちから願い下げよ。愛してるからって、親の言うことを聞いて、堂々と別の女と子供を作るの?愛してるからって、体外受精するって嘘ついて、本当は穂香と寝たの?愛してるからって、私が彼女に船から突き落とされたとき、足がつっただけの彼女を助けて、私を海に沈めたの?愛してるからって、私が四ヶ月かけて彫った木彫りを、何の躊躇もなく彼女にプレゼントして、彼女を喜ばせたの?愛してるからって、妊娠中だった私を階段から突き落とした彼女と、その腹の子供を選んだの?」ひとつひとつの言葉が、心を裂くような痛みとなって吐き出される。最後の言葉を口にしたとき、翠の声はつかえて震えた。「湊、どれだけ酷いことしたか分かってる?あの子は私たちの子供だったのよ!あなたのおかげで、私はもう、一生、自分の子供を持てない」彼女の言葉のひとつひとつが、湊の体を崩していく。最後の一言が終
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第20話

翠は俯き、自分の手首を掴んでいるその手を見つめた。この手は、かつて何度も自分が握った手だった。そのたびに、胸は満ち足りた温かさでいっぱいになっていた。けれど今、胸にあるのは、ただ嫌悪だけだった。翠はためらいもせず、冷静にその手を振り払った。「沖田さん、いい加減にして」「沖田さん」その呼び方を耳にした瞬間、湊の体はますます力を失い、立っているのもやっとだった。それでも必死に声をあげた。 「翠、俺の病室にいてくれたのは、まだ俺を愛してるからだよな?俺が間違ってたんだ!絶対に変わるって誓う!本当にやり直したいんだ。穂香が嫌いなら、今すぐ彼女とは縁を切る!もう二度と君の前に現れさせないから!だからな?」彼の目は、かつてのように彼女の愛を乞い求めていた。だが、翠は静かに視線を落としながら口を開いた。「湊、いつになったら気づくの?私が本当に会いたくない相手はあなたよ」彼女は顔を上げた。「彼女を憎んでる。でもね、一番憎んでるのは、あなただよ」彼女は冷たい視線で彼を見つめた。「本当の元凶はあなただよね?誰かに強制されたわけじゃない、自分の意志で、全部自分で選んでやったことでしょ?きれいごとで逃げようなんて。もし、少しでも良心や罪悪感が残ってるなら、今すぐ、私を自由にして。あなたがキモい」そう言い残すと、翠は一切未練の色も見せず、その場を立ち去った。湊は、その背中を茫然と見送っていた。彼女が完全に視界から消えた瞬間、全身の力が抜け、彼はその場に崩れ落ちた。翠は、あれで全てが終わったと思っていた。もう二度と湊と関わることはないと。だが三日後、彼女のマンションの近くで、また彼の姿を見かけた。またしても付きまとう湊に、翠は立ち止まった。湊は不安げな顔で近づいてきた。「翠、追い出さないでくれ。何もしないから。俺がどれだけ君を傷つけたか、ちゃんと分かってる。だからせめて、償わせてくれないか」翠の表情がすぐに曇ったのを見て、湊は慌てて手を上げた。「約束する!絶対に邪魔したりしない」翠は何も言わず、そのまま立ち去った。スタジオでは、同僚が何度も翠に声をかけてきた。「ねえ、またイケメンが外からずっと君のこと見てるよ?」でも翠は、それを聞こえないふりをしていた。仕事を終えてふと顔を上げたとき、ドアの外に立っていた人物を見て
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