にぎやかな声が、壁に反響していた。焼き鳥の香ばしい煙と揚げ物の油の匂いが混ざり合い、テーブルの上には乾杯を終えたジョッキや箸袋が乱雑に転がっている。奥の席からはサラリーマンたちの笑い声が絶え間なく聞こえた。そんな雑多な喧騒の中、遥は湊の向かいに座っていた。ジョッキの表面には細かい水滴が浮かび、手のひらに冷たさがじんと伝わる。「……急に誘って、悪かったな」湊が低く言う。湯気の立つおしぼりで指先を拭きながら、どこか申し訳なさそうな表情をしていた。遥はふっと笑って、首を小さく横に振った。「大丈夫よ。私は独り身だから、気にしないで」その瞬間、耳元でふと声がした。《独り身、ねえ……》柔らかく、けれど皮肉めいた声音。聞こえるのは自分だけ。湊の表情は変わらず、ビールの泡をぼんやりと見ている。(……ごめん)心の中で静かに詫びて、遥は親指でジョッキの水滴をぬぐった。指先が冷たく濡れ、その感触が妙に現実味を帯びて胸を締めつける。「この年齢になるとね、女友達はだいたい家庭を持ってるのよ。子どもの世話で手一杯だったり、夫の機嫌を気にしたり。ゆっくりお酒を飲もうとしても、どこか気を使っちゃうの」「そうか」湊は穏やかに笑った。照明に照らされた横顔は、変わらず静かで、どこか安心できる。「だから、こうやって気楽に飲める相手って、幼なじみの湊ぐらいなのよ。ありがたい存在ってわけ」「そりゃ光栄だな」笑う湊の声はやわらかくて、耳に心地よかった。ちょうどそのとき、注文した枝豆と刺し身の盛り合わせが運ばれてきた。店員の「おまちどうさまです」という声と共に皿が置かれ、テーブルに小さな食卓の景色ができあがる。湊がジョッキを持ち上げた。「とりあえず、乾杯しようか」「うん」グラスが軽くぶつかる。小さな音が鳴った。透明な泡がふわりと揺れ、グラスの内側にそっと消えていく。《……見てると飲みたくなるな》耳の奥で悠真の声が響いた。幽霊の悠真は、そっと遥の手元に身を寄せ、ジョッキに口を近づけた。指先がグラスに触れる――はずもないのに、その仕草はまるで生きていたころのようで、遥は思わず目を丸くした。「どうした、遥?」「え?……あ、なんでもない。その……注文した焼き鳥が、まだ来ないなって思ってただけ」「お腹空いてるのか? もっと注文する?」「大丈夫よ!」
Last Updated : 2025-08-14 Read more