All Chapters of 《ほらな?俺は浮気なんかしてなかっただろ?》殺された夫が私の耳元で愛を囁く《今も愛している》: Chapter 11 - Chapter 20

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第十一話 居酒屋

にぎやかな声が、壁に反響していた。焼き鳥の香ばしい煙と揚げ物の油の匂いが混ざり合い、テーブルの上には乾杯を終えたジョッキや箸袋が乱雑に転がっている。奥の席からはサラリーマンたちの笑い声が絶え間なく聞こえた。そんな雑多な喧騒の中、遥は湊の向かいに座っていた。ジョッキの表面には細かい水滴が浮かび、手のひらに冷たさがじんと伝わる。「……急に誘って、悪かったな」湊が低く言う。湯気の立つおしぼりで指先を拭きながら、どこか申し訳なさそうな表情をしていた。遥はふっと笑って、首を小さく横に振った。「大丈夫よ。私は独り身だから、気にしないで」その瞬間、耳元でふと声がした。《独り身、ねえ……》柔らかく、けれど皮肉めいた声音。聞こえるのは自分だけ。湊の表情は変わらず、ビールの泡をぼんやりと見ている。(……ごめん)心の中で静かに詫びて、遥は親指でジョッキの水滴をぬぐった。指先が冷たく濡れ、その感触が妙に現実味を帯びて胸を締めつける。「この年齢になるとね、女友達はだいたい家庭を持ってるのよ。子どもの世話で手一杯だったり、夫の機嫌を気にしたり。ゆっくりお酒を飲もうとしても、どこか気を使っちゃうの」「そうか」湊は穏やかに笑った。照明に照らされた横顔は、変わらず静かで、どこか安心できる。「だから、こうやって気楽に飲める相手って、幼なじみの湊ぐらいなのよ。ありがたい存在ってわけ」「そりゃ光栄だな」笑う湊の声はやわらかくて、耳に心地よかった。ちょうどそのとき、注文した枝豆と刺し身の盛り合わせが運ばれてきた。店員の「おまちどうさまです」という声と共に皿が置かれ、テーブルに小さな食卓の景色ができあがる。湊がジョッキを持ち上げた。「とりあえず、乾杯しようか」「うん」グラスが軽くぶつかる。小さな音が鳴った。透明な泡がふわりと揺れ、グラスの内側にそっと消えていく。《……見てると飲みたくなるな》耳の奥で悠真の声が響いた。幽霊の悠真は、そっと遥の手元に身を寄せ、ジョッキに口を近づけた。指先がグラスに触れる――はずもないのに、その仕草はまるで生きていたころのようで、遥は思わず目を丸くした。「どうした、遥?」「え?……あ、なんでもない。その……注文した焼き鳥が、まだ来ないなって思ってただけ」「お腹空いてるのか? もっと注文する?」「大丈夫よ!」
last updateLast Updated : 2025-08-14
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第十二話 心の奥の灯

「……今日、店に来た男のことだけど」湊が切り出したとき、居酒屋の空気は少し落ち着いていた。店内のざわめきは続いていたが、遠くの出来事のように感じられ、テーブルの上だけが静かな島のように切り離されていた。「あれ……高校で同じ部活だった、如月大和っていうんだ」「え……」遥は驚いて、箸を止めた。「湊って、陸上部だったよね。……そっか、同じ部活の……」「うん。……俺が、初めて好きになった相手」湊はグラスの縁を指でなぞりながら続ける。「自分がゲイだって気づいたのは、たぶんあの頃だった。だから、あいつにはなるべく距離を取ってたんだ。勘違いしないように、自分でも線を引いて。でも……あいつ、優しくてさ。気さくで、人懐っこくて。俺にも分け隔てなく接してくれて……」「……うん」「それで、だんだん気になって、気がついたら好きになっててさ。馬鹿だよな。……で、ある日、思い切って告白したんだよ。言わなきゃ、前に進めない気がして」遥は言葉を挟まず、そっと湊の言葉を待った。「でも返ってきたのはさ……“やっぱりゲイだったか。気持ち悪い”って。しかも、“賭けに負けたし、最悪だ”って。あいつ、俺が自分に惚れるかどうか、友達と賭けてたんだよ」「……そんな……」「俺も、しばらくは何がなんだか分からなかった。恥ずかしいとか悲しいとか、それ以前に、全部が嘘だったみたいで。自分が信じたものが一瞬でひっくり返るって、ああいうことを言うんだなって思った」湊は苦笑いを浮かべながらビールを飲んだ。けれど、その笑みはどこか疲れていた。「それからだよ。恋人なんて作れなくなったのは。セフレはいたけど……ただ体を重ねてるだけで、心が動くことなんてなかった。……そんな生活に、ちょっと疲れてきてる」遥はそっとグラスを置いた。言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。「……話してくれて、ありがとう」「……ごめんな。こんな話、聞かせるつもりじゃなかった」「嬉しいよ。話してもらえて」遥は小さく微笑んだ。その目は潤んでいたけれど、まっすぐ湊を見ていた。「夫が亡くなってから、ずっと話を聞いてくれたのは湊だった。家族にも言えなかったことを、湊には言えた。“夫が浮気してるんじゃないか”って疑ってたことも……そんなの、実の両親にも言えないもの」「……そっか」「なのに、全部受け止めてくれた。私、感謝し
last updateLast Updated : 2025-08-15
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第十三話 寄っていく?

「……じゃあ、そろそろ帰ろうか」店を出た夜の街は、思ったよりも涼しくて、遥は軽く肩をすくめた。居酒屋の灯りが背後で小さく揺れ、ふたりの影を長く路面に落とす。「家まで送るよ。夜道だし」湊が自然な調子で言ってくれる。断る理由もなかった。家までは歩いて十分ほど。でもそれがありがたいと思う夜もある。「ありがとう。じゃあ、ちょっと寄り道していい?」「ん?どこか行きたいとこでも?」「コンビニ。……少しだけ」湊は頷いて歩調を合わせる。街灯の下を静かに歩く。誰もいない夜道。並んで歩いていると、昔のことを思い出す。学生の頃、塾の帰りにふたりでこうして歩いたこと。コンビニに寄って、アイスを買って、内緒話をした。その頃の湊と、今の湊はあまり変わらない。けれど、自分は――随分変わってしまった気がする。コンビニに入ると、遥はまっすぐ酒の棚へ向かう。缶ビールを一本手に取り、レジへと向かった。「……まだ飲むの?」湊が隣で苦笑気味に言うと、遥は少し笑って、答えた。「仏前に供えたくて」「……ああ、そっか。悠真さん、ビール好きだったもんね」「うん。……最初の一杯はいつもビールだった」そう言って笑う遥の目が、一瞬だけ遠くを見つめた。店内の照明に揺れるその瞳には、確かに誰かが映っているようだった。それが誰かは言わなくても分かる。遥のなかには、まだ悠真がいる。消えないまま、残っている。そのことを思い知らされるたびに、湊の胸の奥に、ざらりとした感情が沈む。(……嫉妬、か)自分でも驚くくらい、感情が動いていた。悠真はもう、この世にはいない。けれど――遥の中では、今も確かに生きている。そのことが、どうしようもなく胸に引っかかる。湊は、自分が男を恋愛対象として見ていることを、ずっと自然なものとして受け入れてきた。けれど。遥のことになると、なぜか心がざわつく。この気持ちに名前をつけてしまえば、何かが壊れそうで――怖い。これは“恋”ではない。……けれど、じゃあ何なのかと訊かれれば、うまく言葉にできない。気づかないふりをして、ずっと隣にいた。その距離に、甘えていた。レジでの支払いを終えた遥が、缶ビールの入ったビニール袋を手に戻ってくる。「ありがと、待たせた」「……うん。帰ろっか」湊は微笑んでみせたが、その胸の奥には、まだ名のない感情が静かに沈んでいく。今度はほ
last updateLast Updated : 2025-08-15
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第十四話 ただいまの温度

第十四話 ただいまの温度 玄関の扉を閉めたその瞬間、廊下の奥に見慣れた姿があった。 腕を組んで、少しむくれたような顔をして立っている。 「遅い」 そうつぶやいたあと、悠真はふっと笑って言った。 「……おかえり」 その声に、遥は自然と頬をゆるめた。ただいまとは言わなかったけれど、靴を脱ぎながら、心の中でそっとつぶやく。 ――ただいま。 リビングに入ると、こたつテーブルの端に悠真が座っていた。生前とまったく変わらない姿で、いつもの位置に。 それがなんだかおかしくて、遥は小さくくすりと笑った。 「……やっぱり、そこに座るのね」 「落ち着くんだよ、ここが」 悠真が、遥の手に下がっているビニール袋を見て、少し呆れたような顔をする。 「飲んできたのに、また飲むの?」 「違うわ。これは……あなたの分」 そう言って、遥は部屋の隅に置かれた小さな仏壇に歩み寄る。袋から缶ビールを取り出し、そっとお供えする。 手を合わせようとした瞬間、背後から、少し寂しげな声が降ってきた。 「……俺はそこにはいないぞ。手を合わせられると、なんか……成仏しそうで嫌なんだ」 思わず手を止めて、遥は振り返る。 いつもおどけた調子でからかってばかりの悠真が、そんなことを
last updateLast Updated : 2025-08-16
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第十五話 秋の花と記者の影

朝の空気に、かすかな冷たさが混じり始めていた。通りの向こう、花屋のガラス窓が陽を受けてきらきらと光っている。橙や深紅の花が並び、奥の花瓶には秋桜やケイトウが生けられていた。――もう、秋なのね。足を止めてガラス越しに花を見つめる。その色の移り変わりは、時間がどれだけ経ったかを容赦なく知らせてくる。冬の雪の日、悠真は刺されて死んだ。大手銀行に勤めていた彼と、加害者の女は同じ職場だった。事件は「美人銀行員による愛憎の末の殺人」として、何度もテレビや雑誌に取り上げられた。女が語った不倫話は、人々の好奇心をくすぐった。事実がねじ曲げられても、信じてくれる人はいなかった。六年が経ち、世間は興味を失った。判決は下され、記者も取材をやめた。けれど――夫は浮気していた、という色眼鏡は外れないままだ。悔しさはまだある。……でも、もう騒がれるのはうんざり。そんな思いに沈んでいたとき、不意に低い声が降りてきた。「職場に秋の花を飾ってみたら?」はっとして顔を上げると、悠真がそばに立っていた。柔らかな笑みは、事件の記憶で固まった胸を、ほんの少し緩めてくれる。「……そうね」返事をして、花屋の扉を押す。店内に満ちる花の香りが心を撫でていく。秋桜とススキ、白いリンドウを選んだ。――幽霊と並んで花を選んでいるなんて、この人はきっと想像もしない。そう考えると、少しだけおかしくなる。悠真は隣で、まるで生きていた頃と同じように花を眺めていた。もう、自分以外にその姿が見えないことにも、驚かなくなってしまった。花束を受け取り、店を出る。視線を上げた先、アンティークショップの扉が開いた。――あ。出てきた男を見た瞬間、呼吸が固まる。記憶の奥に沈んでいた顔が、冷たい水面から浮かび上がってくる。大手スキャンダル誌の記者。あの頃、事件を面白半分に書き立て、虚実を混ぜた記事で私を切り刻んだ男。執拗さは他の記者よりも際立っていて、嫌悪という言葉では足りないほどの影を残した。男は憮然とした顔で店を出て、通りを見回す。そして、花屋の前に立つ私を見つけた瞬間――唇が、卑しい笑みに変わった。「久しぶりですね」歩み寄りながら声を掛けてくる。「アンティークショップにお勤めと聞いて取材に来たら、店長に追い出されましてね。……けんもほろろ、というやつです」足
last updateLast Updated : 2025-08-17
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第十六話 割れた硝子

 男が歩み寄ってくる。その姿を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮まった。足を動かす気力が、すうっと抜けていく。 ――やめておこう。関わったら最後、また好き勝手に書き散らされるだけ。そうわかっているのに、胸の奥でざわめきが広がっていく。そのざわめきが、思わず足を止めさせた。 「朝比奈美月が、うちの出版社から手記を出すことになりましてね」 耳に冷たい音が落ちてきた。その名前が、心の奥の古傷を撫でるように疼かせる。 「……え?」 「いやぁ、原稿を読みましたが、彼女は文才がありますよ。獄中から“不倫の末の殺人”の真実を赤裸々に語る手記でね。獄中ものには一定の需要が見込まれますし、発行が決まりました」 何を言っているの、この人は。裁判で、あの女の言葉は全部嘘だと証明されたはずなのに。「不倫の末」なんて、どうしてまた――。 「……何を言ってるんですか? 裁判で全部嘘だとはっきりしたじゃないですか。『不倫の末』って、どういう意味ですか?」 「彼女は控訴を取り下げましたが、今も男女の関係はあったと主張していますよ」 「そんなの、嘘よ!」 声が震えた。記者は薄く舌で唇を湿らせ、にやりと笑う。 「世間は真実なんて求めてませんからね。私も必要としてません。本や雑誌が売れることが第一ですから」 胸の奥がきゅうっと締め付けられる。ようやく静かになったはずの日々が、また掻き乱されていく。夫の名誉も、自分の名誉も――無造作に踏みにじられていく。 「絶対にそんなこと、許しません!
last updateLast Updated : 2025-08-18
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第十七話 病室の囁き

 薄いカーテン越しの光が、白い壁にやわらかく滲んでいた。鼻先に漂う消毒液の匂い。静かな個室の中で、自分の呼吸だけがやけに大きく感じられる。 ――ここは、病院? 身じろぎした瞬間、脇の椅子が小さくきしんだ。顔を向けるより早く、湊が立ち上がり、こちらを覗き込む。 「……気がついてよかった、遥」 心の底から安堵した声。その響きに、胸の奥にじわりと温かなものが広がった。 けれど、次の瞬間――張り詰めた空気、震えるガラス、砕け散る音がよみがえる。 ――あれは、悠真が起こしたのだ。 記者が「死者に人権はない」と吐き捨てたときの、あの眼差し。冷たい怒りと、深く沈んだ悲しみが入り混じった視線。あの感情が、形を持って硝子を砕いた。 ビール缶すら持てないはずの幽霊が、怒りでガラスを割った。その思いの深さを想像すると、胸がつぶれそうになる。 「……悠真」 名を呼ぶと、すぐに答えがあった。 《ここにいる》 身を起こそうとすると視界が揺れ、湊が慌てて肩を支える。 「無理するな、遥」 頷き、息を整えながら上体を起こす。視線を巡らせると、ベッドから少し離れた壁際に悠真が立っていた。目が合う。彼は一歩、近づきかけて――そこで止まる。 《……ごめん》 その言葉に、喉がきゅっと締まった。
last updateLast Updated : 2025-08-19
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第十八話 抗議の場

 医師が病室を出ると、入れ替わるように湊が入ってきた。「問題はない」と告げられたはずなのに、その眉間の皺はすぐには消えない。 「……しばらく、実家に戻ったほうがいい。おじさんもおばさんも、心配してる」 「でも……」 《そうしろ、遥》 壁際に立つ悠真が、低く短く言った。その声音に押されるように、遥は頷いた。 実家の空気はやわらかく、静かだった。けれどそこに悠真の姿が現れることは、ほとんどなかった。夜、ひとりで目を閉じると、あの声も気配も、少しずつ遠ざかっていく気がした。  ◇◇◇  一週間後、遥は出版社に向かった。湊が隣を歩き、悠真は後ろに黙ってついてくる。 案内された応接室は、重いカーテンで昼の光を拒んでいた。湊が椅子に腰を下ろすと、編集長が姿を見せる。 「お話は伺っていますが……こちらとしては出版の予定に変更はありません」 その言葉に反論したのは湊だった。彼は淡々と経緯を語る。犯人、朝比奈美月が実刑判決を受けていること。その証言が妄想に基づく虚言であること。それを“事実”として書籍化するのは誤りだということ。 「誤りかどうかは、読む人間が判断します」 編集長は声の調子を変えずに答えた。 そのとき、扉が開き、包帯を巻いた男が入ってくる。あの記者だった。憮然としたまま椅子
last updateLast Updated : 2025-08-20
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第十九話 硝子越しの視線

 秋が深まり、空気が少し硬さを帯びてきた頃。弁護士を通じたやり取りの末、朝比奈美月との面会が許可された。 夫を殺した女と、目を合わせる――。その瞬間、自分がどう反応するのか、遥には分からなかった。怒りで声を荒げるのか、ただ沈黙するのか。どちらにせよ、取り乱す姿だけは見せたくない。 湊は、その迷いを言葉にせずとも分かっているようだった。面会の日が近づくにつれ、彼の声のかけ方は少しずつ柔らかくなっていた。 向かったのは、茨城県の関東女子刑務所。高い外壁の上に有刺鉄線が張り巡らされ、分厚い門が昼間の光を拒む。 受付で許可証を受け取り、荷物を預ける。金属探知機を通り抜けると、いくつもの重い扉が開閉され、そのたびに鍵の音が乾いた廊下に響いた。 その途中、湊が歩幅を少し落とした。 「……無理はするなよ」 声は低く抑えられていたが、響き方は温かかった。遥はうなずくふりをしながら、胸の奥で別の思いが揺れていた。 悠真が、この面会に立ち会うことをどう感じるだろう――。女と向かい合うのは、私だけではない。その事実が急に重たく感じられ、面会を求めた自分を責めそうになる。それでも、真実を確かめなければならない。そして、出版を止めるためにも。 面会室は、小部屋が並び、分厚いアクリル板で向こう側と隔てられていた。机の中央には金属網のはまった丸い通話口があり、声だけがそこを通る。 湊と並んで座ると、背後の壁際に悠真の姿があった。彼は硝子の向こうを見据えて動かない。 
last updateLast Updated : 2025-08-21
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第二十話 あなたは私の夫を殺した

 硝子越しに座った女を、遥はしばらく見つめていた。通話口の向こう、無表情のままのその顔。どんな言葉から切り出すべきか、一瞬だけ迷いが胸をよぎる。けれど、すぐに押し込められた。 「……あなたは、私の夫を殺した」 静かに、しかし濁らない声。 「それだけでは足りず、嘘ばかりの手記まで出そうとしている。それをやめてほしい。もう、悠真に関わらないで」 隣の湊が、わずかに横目で彼女を見やる。その視線には言葉よりも深い気遣いがあった。背後の壁際では、悠真が唇を噛み、目を逸らすことなく女――朝比奈美月を見据えていた。 「……嘘?」 美月の唇がわずかに動く。 「そうよ。すべてが嘘」 間を置かず、遥の声が通話口を越える。 「悠真はあなたと不倫なんてしてない。一方的に執着して、つきまとって……そして刺し殺した。残酷に、何度も何度も」 短く息を吸い、言葉を重ねた。 「最後まで認めなかったけれど、控訴を取り下げたのだから、本当は関係なんてなかったって分かってるはず。謝罪はいらない。でも、手記だけはやめて。これ以上、私たちを傷つけないで」 視界がわずかに滲む。頬を伝った涙を、湊が黙って差し出したハンカチが受け止めた。手渡すとき、彼の指先がほんの一瞬だけ、彼女の指に触れる。そのわずかな温もりが、胸の奥に滲む。背後から、悠真の手がそっと肩に置かれた。遥はその存在を感じ取り、自分の手を重ねた。 
last updateLast Updated : 2025-08-22
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